第五章 猿神楽(二)
トウマとクロウの道行きは順調そのものだった。
青河の河岸に沿って、ただ北へと向かうだけなのだ。特にこれといった問題もなかった。妖夷と出くわさないのは、青河の守護が健在だという証明に違いない。
強固で広大な結界。その中を進むのは極めて安全だったが、しかし、青河の美しい水面がトウマの心に暗い影を落とすのだ。
(ミナ……)
最後に見た少女の表情と、荒れ狂う激流の間に見た少女のまなざしを思い出しながら、トウマは、ただ額の汗を拭った。どれだけ彼女のことを考えたところで、事実は何も変わらないし、気分が晴れることもなかった。
いまは、目の前の現実に対応しなければならない。日は既に傾きかけていた。どれほどの時間を歩き続けてきたのか、時を計る道具ひとつ持たない彼にわかるはずもなかった。
体力だけを消耗し続けている。
「どしたの?」
と、クロウが、大きな岩に飛び乗りながら、こちらを振り返ってきた。彼が背負う小さな布袋には、わずかばかり残った火吹き石が詰められている。
その火吹き石もそうだが、トウマの着ている装束や、彼が背負った荷物のほとんどは、黒火の村の焼け跡ではなく、村はずれの蔵から拝借したものであった。
他人の蔵を漁ることには多少なりとも後ろめたさを感じたのだが、背に腹は変えられないのが現実だ。せめて、必要なものだけ拝借することにしたのだが。
火吹き石と着物以外には、刀や槍などの武器が大事そうに置かれていたが、それには手をつけることもなかった。トウマには剣があったし、クロウだって銀狼の爪牙がある。なにより、クロウは刀剣の扱い方を知らないのだ。使えない武器など、ただの荷物に過ぎない。
「ちょっと、疲れたかな」
「じゃあ、休む?」
「いや、もう少し行こう」
トウマは、即座に返答すると、いつの間にか岩の上で胡坐をかいていたクロウの目の前を通り抜けた。
時間が惜しい。
ミズキは、すぐに村を発ったのだ。
一方のトウマたちは、村の後始末に時間を取られた。かなりの距離が開いていると考えざるを得ない。
(とりあえず、青河の村辺りまでは今日中に……)
それは、物凄まじい強行軍で進むしかない、ということなのだが。
「トウマ、無理してない?」
「ん……」
トウマは、クロウを振り返った。少年は、岩の上に座ったまま、小難しい顔でこちらを見ていた。そのまなざしは真剣そのものであり、曖昧な態度ではぐらかすようなことはできそうにない。
「ああ、無理はしていないよ」
それは本心だった。なにも無理などしていない。肉体の疲労はごくわずかだし、精神的に追い詰められているわけでもない。
ただ、ミズキに追いつくには、もっと速度が欲しいだけだった。前進する速度を上げるためには、休憩の時間と頻度を減らすしかない。食事や睡眠は二の次だ。
トウマは、微笑した。
「でも、ありがとう」
心配してくれるひとがすぐ近くにいるだけで、こうも心が弾むものなのだろうか。自分の心が多少なりとも上向きなるのを認めて、トウマは、前方に向き直った。進もう。
「ぼくはなにもしてないよ?」
クロウが首を傾げながらも、岩から飛び降りるのが気配でわかった。
「いいさ。それで」
トウマは、ふたたび微笑むと、歩き出した。当然、クロウにはわからないことなのだ。すべて、トウマの内面の問題なのだから。
と、一陣の風がトウマの脇を擦り抜けた。
「よくないよ!」
一瞬にしてトウマの目の前に移動したクロウが、少しばかり怒ったような顔をした。
「隠し事なんて駄目だよ!」
ともかくも、トウマとクロウの道のりは、きわめて安全且つ速やかなものだった。
青河の守護領域に妖夷が出現することはなく、時折、森の中からの恨みがましい視線やけたたましい奇声が聞こえたものの、恐れるようなものでもなかった。
青河の結界は、想像以上に広く、強力なのだろう。
その中にいれば、安全そのものだ。青河の大いなる守護に身も心も委ねていれば、なにも恐れずに日々を送ることが出来るはずだ。
もっとも、その安寧を神子が許すのなら、の話だが。
鬱蒼たる緑と、莫大な青、太陽の光が織りなす大自然の光景は、やはり、トウマにあのときのことを思い出させた。
シグレとの戦い、ミナの慟哭。
命を賭した戦いは、トウマの勝利に終わった。それというのも、シグレが隙を見せたからだ。
ミナ――あの神子装束の少女が現れ、シグレがそちらに気を取られた。
その一瞬が、ふたりの生死を分けた。
トウマは生き残り、シグレは死んだ。
トウマが、殺した。
湖面に崩れ落ちる男の満足げな表情は、すぐにでも鮮明に蘇らせることができた。死の間際、いったい、彼はなにに満足したというのだろう。それは、トウマには永遠に理解できない感情なのかもしれなかった。
そして、ミナが絶望して、青河は荒れ狂った――
「遅いよトウマ!」
クロウの呼び声は、前方からだった。トウマがはっと顔を上げると、クロウの小さな体が余計に小さく見えるくらいに距離が開いていた。
「元気だなあ」
こちらに手を振りながら飛び跳ねる少年に対し、トウマは、眩しいものでも見るように目を細めた。実際、彼にとってあの少年は、太陽に等しい存在なのかもしれない。
黒火の村を発って二日。結局、一日で青河の村に辿り着くことはできなかった。
が。
トウマは、青河の中流に近づいているという事実を認識するたびに、自分の心が密やかに沈んでいくのを感じていた。
否が応にも脳裏を過ぎるのだ。
シグレの死、ミナの絶望、天を覆い尽くさんがばかりの青河の激流――
数多の死があった。
それらはすべて、トウマが生きるための糧となった。
きっと、そうに違いない。
(俺も同じだ)
ミズキとなんら変わらないのではないか。行く先々で死を撒き散らし、ひとり、生きていく。その過程や方法などは関係ない。
結果が、すべてを物語る。
トウマの道程を振り返れば、幾多の死が山のように積み上げられていることだろう。その多くが、トウマへの怨念や呪詛を口にしているはずだ。
痛い。
覚悟を決めたはずなのに。
修羅の道を進むと、決心したはずなのに。
そのために剣を握り、祖父も斬り殺したのに。
いまさらのように襲い掛かってくるのは、柔らかな痛みだ。真綿で首を絞められるようにゆっくりと、しかし確実に進行する痛み。
孤独――
「でもトウマは、ひとりじゃないよ?」
またしても俯いていたトウマの視界に、クロウの愛らしい顔が飛び込んできた。くりっとした大きな眼が、相変わらず宝石のように輝いて見えた。
「クロウ……」
まるでこちらの頭の中を覗きこんだかの言いように、トウマは、苦笑しかけた。無論、そんなことはできなかったが。
クロウが、笑うでもなく言ってきたからだ。
「ぼくがずっと、トウマの傍にいるから」
トウマの視界を埋め尽くしたのは、クロウの太陽のような笑顔だった。純粋無垢そのものの光の前に、心に淀んでいた闇が消え失せていく。
トウマは慌てて、空を仰いだ。爽やかな青空が、滲んで見えた。
(あれ……?)
一筋の涙が、トウマの瞳から零れ落ちた。それは哀しいからではない。嬉しいのだ。心の底から喜びが溢れ、それが涙となって流れ落ちただけだ。
(また、だ)
トウマは、涙を拭いながら、笑った。さっきからずっと、クロウに励まされてばかりいる気がする。こんな年端もいかない少年に、である。普通、立場は逆だろう。
いや、それはそれで構わない。トウマ自身、世間知らずの子供に過ぎないのだ。地獄を見たとはいえ、子供は子供だ、クロウと大した差はない。いや、むしろクロウのほうが悲惨な目に遭ってきたのだ。
(でも、駄目だ)
トウマは、ひとり納得すると、不思議そうにこちらを見ていたクロウの頭に手を乗せた。
「俺の傍に居たって、なにもいいことなんてないよ」
トウマは、クロウの頭を軽く撫でると、彼を置き去りにするように歩き出した。少年が慌てたようについてくるのは、わかっている。が、それでも止まらない。
「むしろ、辛いことばかりさ」
それは間違いないだろう。
霊樹を殺し、村を滅ぼす男を追うのだ。
鬼を追うのだ。
みずから、約束された破滅に向かって突き進むようなものだ。だれが喜んで道を共にするというのだろう。
トウマは、自嘲気味に笑った。そんな物好きがどこにいるのか。
「そんなのわかってるよ!」
クロウの叫び声の強さに、トウマは、笑うのをやめた。
「でもぼくは、トウマが心配なんだよ!」
「心配……? 俺が?」
トウマは、自分の両手を見下ろした。数多の妖夷を斬り殺し、剣士たちと斬り結んできた剣を握る手は、一瞬、傷だらけに見えた。
それは幻視。
束の間の幻想。
剣士の肉体は、常人に比べて異常なほどの治癒力を持ち、傷痕さえも消し去っていくことは、これまでの経験で実証済みだった。
傷ひとつない掌を、握り締める。心配されるいわれなど無いように思えてならなかった。
「だってトウマ、危なっかしいんだもん」
クロウのある種の正論を聞きながら、トウマは、今度こそ苦笑いを浮かべるしかなかった。脳裏を過ぎる戦いの数々は、どれも辛勝もいいところで、シグレに至っては、ミナの介入がなければ間違いなく殺されていたのだ。
「だから、俺の傍にいるって?」
「うん。ぼくの脚なら、トウマを護ってあげられるよ」
「はっ……」
クロウの得意げな軽口に、トウマが腹立ちを覚えることなどあるはずもなかった。むしろ、クロウの軽い声音は、耳朶に心地よい。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
クロウの弾んだ声を聞いて、トウマは、ひそかに微笑した。クロウの明るさ、いつだって、トウマの心をも弾ませてくれる。
トウマは、無明の荒野を見据える視界に、わずかな光明が差し込んできたような気がした。
それは勘違いかもしれない。
いや、きっと気のせいなのだ。
ミズキへと繋がっているこの無明の闇に、光が差すことなどありえない。希望などはない。絶望だけが、横たわっている。漆黒の炎だけが、その絶望の荒野を照らすに違いない。復讐という暗い情熱には、それこそが相応しい。
(それでも構わないさ)
クロウが傍にいてくれるのなら、それでもいい。クロウの存在は、間違いなくトウマの心を照らしてくれるはずだ。
「これは……」
トウマが立ち尽くさざるを得なかったのは、夕日が青河の水面に大量の輝きを落としていたからではなかった。
青河と呼ばれる大河の中流辺りに、それはあった。
かつて――ー数日前まで、確かにそれは存在していた。青河流域で最大の集落として知られ、青河の村と呼ばれていた。
青河中流の広大な中洲の上に築かれた村である。
霊樹を頭上に戴くように構築されたその村には、無数の人家があり、数え切れないほどの人々が暮らしていた。
整備された通りは、もはや道路と呼んで差し支えなく、行き交う人々の顔には張りがあり、だれもが平穏な毎日を謳歌していた。
霊樹の神子と、その守護剣士は、そんな村の喧騒から隔絶されてはいたが、だからといって無視されているわけでもなく、当時健在だった霊樹の社には毎日のように参拝者が訪れていた。
村を治める五長老といえど、数日に一度の参拝は欠かさなかった。
だれもが、この楽園のような日常が、霊樹の元にあることを知っていた――
「なん……だ?」
トウマは、目をしばたたかせて、もう一度周囲を見やった。
トウマが立っているのは、青河の河岸である。周囲には、下流とさほど変わらない景色が広がっている。いわゆる、悪意に満ちた森と、淀みなく流れ続ける青河だ。空は茜色に染まり、川面はその光を反射して紅く輝いていた。
青河の中洲は、トウマの目の前に広がっていた。
あまりにも広すぎる中州の上には、もはや視界を妨げるものはなく、霊樹の亡骸すらも遠めに見えるほどだった。中州の上に築き上げられた村の建物などは、ほとんど押し流されてしまったらしい。
流しきれずに残ったわずかばかりの残骸や、整備された道路の跡だけが、中洲の上に村が在ったという痕跡だった。
中州へと至る石橋も、流されている。
(あれは……だれかの記憶?)
だとすれば、剣印に宿ったシグレの記憶だろうか。それが、村の名残りを見て、喚起されたのかもしれない。
「どうしたの? 早く行かないと日が暮れちゃうよ?」
クロウが、急かすようにトウマの手を引っ張った。
「ああ。わかってる」
トウマは特に抗いもせず、されるがままに歩くのを再開した。どこで夜を過ごそうとも変わらないのだが、敢えて口に出すこともない。
「さっきから様子が変だよ?」
「……」
トウマは、ほんの少し、クロウに話すべきかどうか迷った。逡巡は一瞬――
「ここに、村が在ったんだ」
トウマは、クロウの視線を促すように中州を見た。もはやそれは廃墟とすら呼べないのだろう。激流に飲まれたものはすべて、青河の川底に没したのか、あるいは下流のどこかに打ち上げられたのか。
「村? 河の中に?」
クロウが、信じられないといった表情を浮かべる。当たり前の反応だろう。いくら中洲が広大だとはいえ、その上に集落を作ろうなどと普通は考えない。
普通ならば。
「そう。あの広い中州の上にさ。大きな村だったよ。あの地図に載るほどには」
その中州は、普通ではなかった。
霊樹が聳えていた。
青河の川底から、天を衝くほどに伸び上がった大樹は、ひとびとに安寧と平穏を約束した。
そこに、村が築き上げられるのは、あるいは道理だったのかもしれない。
そして、中洲が青河の増水によって沈むことなど、一顧だにしなかったのだろう。
霊樹が、護ってくれるのだから。
森を駆け回る獰猛な獣から。森の悪意そのものたる妖夷から。あらゆる外敵から。
自然災害から。
「いまはないよ?」
難しそうな顔をして、クロウ。彼にとってその中州は、村の廃墟としても認識できないのだろう。わずかな残骸や道路の跡などでは、村の痕跡にすらならないのかもしれない。
「なにもかも流されたんだ」
トウマは、我が身を包み込んだ青き奔流を思い出していた。それは暴威そのものであり、すべてを引き裂き、打ち砕き、押し潰し、飲み込んでいった。
破壊の意志。
なにものであろうと関係なく飲み込み、徹底的な破滅を突きつける力の暴走。
しかし、トウマが生きているのは、決して奇跡や偶然などではない。
「俺のせいで」
「トウマのせい?」
クロウが、トウマを見上げてきた。その金色の瞳が、夕日にきらめく。
「それ、前も言ってたよね? どういうこと?」
「簡単な話さ」
トウマは、勤めて平静に言った。
「俺があの村の神子を絶望させてしまった。それだけのことなんだよ」
胸の内は、荒れ狂っていた。あのとき、トウマの世界を塗り潰した青河の激流のように。
「きっと――」
ふたりの道行きは、続く。
北へ、北へ。
青河の村の痕跡を後にして、とにかく前進を続けた。
もちろん、夜になれば立ち止まり、火吹き石で暖を取って体を休めた。青河の畔。妖夷の襲撃を心配する必要はなかった。
空腹を満たすための食事は、基本的に森の中から採ってきた果物か、川魚である。
青河の清らさは、魚にとっても住みよい環境らしく、場合によって面白いほど捕まえることができた。
もっとも、魚を捕まえるのはもっぱらクロウの仕事だった。彼は銀狼と化すと、その驚異的な速度と絶妙な技で、見事に大量の魚を河岸に打ち上げて見せた。
ふたりは、そうして生け捕った川魚を火吹き石で焼いて食料としたのだ。
青河の清流に抱かれて育った川魚はとても美味で、連日の焼き魚にもふたりが飽きることはなかった。
そもそも森の奥の村で育ったトウマにとっては、魚を食べること自体が稀だった。それこそ、なにかめでたいことでもないと食べさせてもらえなかったのだ。といっても、魚を食べたいなどと口に出したこともなかったが。
夜空は、いつだって満天の星々に彩られていた。
そうして幾度目かの夜を迎えるころに、トウマたちはようやく水龍山の麓に到達したのだった。
水龍山。
青河の源であり、霊樹など比較できないほどに巨大で、それこそ天を衝くという表現が似合った。
その雄大な威容は、麓へと至る道中に何度となく見せ付けられ、トウマは、そのたびに圧倒された。
トウマは、山、という存在自体に親しみがなかった。村の結界から飛び出したこともなければ、実物を目にするのも初めてなのだ。
そして、トウマを圧倒したのは、山の巨躯だけではなかった。
滝だ。
「凄い……」
クロウが、息を飲んだのも当然の反応だった。
青河を辿った先には水龍山が聳えていて、青河という膨大な水の流れは、すべてその峻険から流れ落ちているのだ。
遥か頭上から凄まじい落差を集中豪雨のように降り注ぐ大量の水は、トウマの常識では考えられないほどに激しく、美しい。
水龍山から瀑布となって広く深い滝壺へと降り注いだ後、青河と呼ばれる大河に沿って流れ、河口へと至るのだろう。
滝壺付近には常に冷気が漂い、神秘的な空気すらも纏っていた。
莫大な水量が水面を叩く音は凄まじく、それでいて耳朶に心地いいのは、それが自然の齎す旋律だからかもしれない。
「どうするの?」
「ん?」
「河岸を辿るの、もう無理だよ?」
「なら、山道を進むしかないだろう」
当たり前のように答えながらも、トウマは、多少の不安を抱いていた。見るからに峻険な山である。人間が通れるような道が、あるのだろうか。
この際獣道でもいいのだが、なんにせよ、山の中を迷走したせいでミズキに追いつけなくなるのはあまりにも馬鹿馬鹿しかった。
日は、既に暮れかけている。
滝壺に背を向けて歩き出したふたりは、しばらくして小さな村に足を踏み入れていた。
「村……だよな?」
「村、だよね?」
ふたりが、自信なさげにつぶやいたのにはわけがあった。
それは確かに、村としか形容のしようのない集落だった。
山麓の村。
村の中心には小さな霊樹があり、その庇護下に築かれた集落には、いくつもの家屋が無残な姿を曝していた。
「なにがあったんだ……?」
トウマは、村中を見回して、呆然とした。村にある家屋や建物は、粗方破壊し尽くされており、圧倒的な暴力で踏み躙られた痕跡が生々しく刻み付けられていた。
なにが起きたのか。
霊樹は無事であり、トウマも、紅土の村にいたときと同じような安心感を覚えていた。妖夷の仕業ではない。
そして、ミズキのやったことでもないのは、その霊樹の姿で一目瞭然だった。
ミズキならば、霊樹を殺しているはずだ。ミズキの目的が、ただ霊樹を殺すことならば。
「ひとも、いないよ?」
きょろきょろと視線を巡らせながら、クロウ。
彼の言葉通り村人はひとりも見当たらず、その気配すらもなかった。
「どういうことだ?」
村人全員が、どこかへ逃げたというわけでもないだろう。村の中以上に安全な場所など、森の中には存在しないように思えた。
いや、青河の河岸ならば、妖夷に襲われる心配はない。だが、もし、この村を襲った存在が、青河へ行くことを許さなかったなら――道を塞いでいたなら、森の中へと逃げるしかない。
(いや……)
トウマは、村の中を歩きながら、なにものかに破壊され、いまにも崩れ落ちそうな人家の壁一面が、赤黒く染まっていることに気づいた。
血痕だ。
血の跡は、村の至るところに残っていた。村人のものだろう。
(殺されたのか……?)
夥しい血が流れたのだろう。逃げ惑う村人が、理不尽な暴威によって為す術もなく殺されていく――
トウマは、軽く眩暈を覚えて、その場に座り込んだ。霊樹の根元だった。
小さな霊樹だ。
紅土の霊樹に比べると、十分の一の大きさもない。それでも、この村を守護するには十分なのだろう。
もっとも、妖夷以外の敵意を排除することは出来なかったようだが。
「トウマ!?」
こちらの様子に驚いたのか、クロウが、悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきた。物凄い速度だった。
「どうしたの!? だいじょうぶ!?」
いまにも泣き出しそうな表情のクロウに、トウマは、危うく噴き出しかけた。クロウは心配しすぎだろう。
「だいじょうぶ。ちょっと、思い出しただけなんだ」
そう答えて、トウマは、空を見やった。霊樹の枝葉が作り上げた天蓋の向こうに広がる空は、既に夕闇に覆われており、じきに夜の帳が落ちてくるだろう。
「今日は、ここで休もう」
つぶやくように告げて、トウマは、さっそく目を閉じた。肉体的な疲れはあまりなかった。だが、急激に押し寄せてきた感傷は、想った以上に根深く、トウマの心をかき乱した。
「うん……」
クロウが、心配そうにうなずくのを気配だけで認める。
トウマは、あまりにも脆弱な自身に失望しながらも、睡眠の誘惑に抗う手段を持たなかった。
眠り落ちる間際、脳裏に揺らめいたのは、紅蓮の炎に包まれた故郷の姿だった。
「おまえは弱い。本当に弱い」
そこは、どこかの草原。見渡す限りの原っぱであり、空の青と草の緑が、地平の果てまで続いていた。
「どうしようもなく、ただひたすらに」
頭上の空は晴れ渡り、雲ひとつ見当たらない。いや、太陽さえも見つからなかった。
「弱い」
男は、前方に立っていた。いつものように真紅の装束を身に纏い、顔は影に包まれていてわからない。
「だれひとり護れない」
男が、口の端を歪ませたような気がした。
「そうだな」
トウマは、静かに深く呼吸した。認めるしかないだろう。なにひとつ否定できない事実だ。
自分は弱い。
「己の命ひとつ、だれかに護ってもらうしかない」
真紅の男の嘲笑を、トウマは、まっすぐに受け止めていた。怒りなど沸くはずもない。ただの事実の列挙に過ぎないのだ。クロウがいなければ死んでいたのだ。間違いなく。
「では、どうする? 強くなるか? どうやって?」
強くなるには、自身を鍛えるべきなのだが、それには膨大な時間が必要だ。肉体を強化するにしても、剣の技量を高めるにしても、一朝一夕とはいかない。
「おまえは修羅だ。他者を糧とし、喰らうことで強くなる化け物だ。ならば、迷うことはないだろう?」
男の言葉を否定することは、トウマにできるはずもなかった。実際、他者を殺し、その力を取り込んできたのだ。ソウマ、レンジロウ、シグレ――三人の剣士の力が、トウマの根幹に流れている。
「喰らえ」
それは殺せといっているのと同じだ。敵を殺せ、と。
いや、男の言葉に含まれるのは、どうやら敵だけではないらしい。
「おまえは生きてゆかねばならないのだろう? 生きて、往かねば。奴の元へ。ミズキの元へ。復讐のために。漆黒の炎で焼き尽くすために」
トウマは、いつの間にか歯噛みしている自分に気づいた。ミズキの顔が、脳裏に浮かんでいた。怒りや痛みや悔しさや、それらを遥かに凌駕する畏れが、トウマの全身を震わせていた。
「あの男だ。修羅の中の修羅。鬼と呼ぶに相応しい人間のひとり。あんな化け物を越えようというのだ。殺そうというのだ。並大抵の犠牲では足りない。これまでの死を積み上げても、まだ届かない」
風が吹いた。
それは最初、ただのそよ風だった。トウマの頬を優しく撫でるような、春風にも似た大気の流れ。
「もっと! もっとだ!」
男の言葉が激しさを増すに連れて、風の勢いもまた、強くなっていく。まるで、大気が男の意志に同調しているかのように。
「もっと死を! もっと多くの死を! もっと夥しい死を! 数え切れないくらいの死を積み重ねろ! それがおまえの糧だ! 脆弱で、惰弱で、貧弱なおまえが生きて往くためには、それしか方法がない!」
風は、既に暴風となっていた。荒れ狂って渦を巻き、トウマの周囲の地面を抉って、無数の草葉を空へと巻き上げていく。
しかし、トウマは不思議と飛ばされなかった。暴風の凄まじい勢いだけは理解できたが、しかし、トウマの体は微動だにしない。
「殺せ! もっと多くの敵を殺せ! 妖夷だろうが人間だろうが気にするな! 男だろうが女だろうが関係ない! 子供だろうが老人だろうが知ったことか! 殺せ! 殺し尽くせ!」
空はいつの間にか荒れ模様になり、どす黒い雨雲が天を覆い、稲光が走り、雷鳴が轟いていた。
雨が、降り出した。
「屍でこの森を埋め尽くせ!」
瀑布の如き豪雨がトウマの全身を叩いたが、痛みはまるで生まれなかった。ただ、他人事のような暴風雨の中で、トウマは、茫然と男の姿を見ていた。降りしきる雨が、視界を染めていく。
男は、一振りの剣を手にしていた。
「この剣で!」
それは見紛うことなくトウマの刀だった――