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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第五章 猿神楽(一)

 青河せいがは、その大地の南部を東西に分かつ大河だ。

 森に覆われた大地。

 その名が失われて久しい。

 だれもが忘れ去ってしまった。

 もっとも、大地の形も、自然の在り方も、ひとの生きる術も変わり果てたのだ。忘れてしまっても、致し方ない。

「水龍山……ねえ」

 トウマは、地面に広げた焼け焦げた地図と睨み合いながら、ひとりうめいていた。地図上に記された文字は読める。大地を覆う森のそこかしこに村の名前が記されていた。

 が、現在地がよくわからないのだ。

 青河の畔。

 昼下がりである。わずかに傾きかけた太陽の光が、青河の水面に跳ね返って、眩しいくらいに輝いていた。

 風は、穏やかだった。緩やかな微風が、トウマの頬を撫で、淡い水色の装束を揺らした。女物ではない。

「どうしたの?」

 そう言いながらトウマの背後から覗き込んできたのは、クロウだった。トウマの視界の隅に映る少年の着物の袖は桃色で、彼がまだ女物の着物を身につけていることを示していた。

 ただ、髪は切った。今朝のことである。それだけでさっぱりしたような印象があった。

「いや、ここがどこら辺りなのかわからなくってさ」

 トウマは、クロウに答えながら、地図を指でなぞった。この地図は、黒火の村の焼け跡で見つけたものであり、地図のほとんどが焼け焦げているのだ。青河周辺だけでも辛うじて理解できたのは、奇跡とでも言うべきなのかもしれない。

「ここは、黒火の村の近くだよ」

 クロウが、呆れたように笑った。

「知ってる」

 トウマは、憮然として言った。

 その黒火の村が記載されていないから、トウマは、頭を抱えているのだ。黒火の村の位置がわかれば、そこから現在地を割り出すことも難しくはないのだが。

「仕方がない」

 とは言ったものの、元よりそのつもりではあったのだが。

「どうするの?」

「青河を辿って水龍山まで行く」

 トウマは、地図を丸めると、それでクロウの頭を軽く叩いた。特に意味はない。ただ、なんとなく、クロウの頭が叩きやすかったからだ。

「水龍山?」

 叩かれた頭を撫でながら、クロウ。別に怒りもしない。むしろどこか嬉しそうな表情に見えた。

「青河の源流だよ」

 青河は水龍山を源とする大河だ。地図上では、南部最大の山である水龍山から、大蛇のようにうねりながら海へと伸びている。

 その中流に青河の村が記載されており、青河を辿っていけば、あのあと、村がどうなったのかも確認できるだろう。

 もっとも、すべて激流に飲まれ、なにも残っていないという可能性もあるのだが。

「山登り?」

 クロウが、小首を傾げる。

 トウマは、衣服についた砂塵を払いながら立ち上がると、背後のクロウを振り返った。少年の心配そうなまなざしは、美しい金色だ。

「ミズキを追うために、な」

 それは、昨夜の記憶。



 闇夜を照らすのは白銀の月だけであり、数多の星々は雲隠れでもしたように鳴りを潜めていた。

 村もまた、冷ややかな夜風に包まれていた。

 村を焼き尽くした炎は消え失せており、生きている妖夷よういの姿も見当たらなかった。

 あるのは、消し炭の如き村の残骸と、累々と積み上げられた幾多の屍。焼けた木材や、焦げ付いた肉の臭い、そして、むせ返るほどの死臭が漂っていた。

「終わった……のか?」

 トウマは、村の中を歩きながら呆然とつぶやいた。そのすぐ後ろを、クロウがついてきている。

「そうだ。妖夷どもは殲滅した」

 低い声音は、風上からだった。トウマは、はっとそちらを見やった。

 膨大な月光を背負った男の長い白髪が、素っ気なく吹き抜ける風に靡いていた。剣は手にしておらず、こちらを見てもいない。

 悠然と。

 ミズキは、夜空を仰いでいた。

「ミズキ……」

 トウマは、相手の名前を口にしながら、静かに、意識を深めていった。呼吸が荒くならないように。心が乱れないように。

「どうやらそちらも、うまく行ったようだな」

 ミズキが、やっとこちらを見た。しかし表情は、陰になってわからなかった。どうせ仮面のような無表情なのだろうが。

「ああ……!」

 トウマが地を蹴ったのは、うなずくのと同時だった。低空を滑るように飛び、ミズキに殺到する。背後から、クロウの驚きに満ちた声が聞こえた。

「トウマ!」

 だが、止まらない。

 肉体の躍動は、トウマの意識の尖鋭化を導き、ミズキの些細な反応さえも見逃さない。それだけではない。拡大した視覚は、影に覆われた顔の輪郭を鮮明にし、目鼻立ちまでも明らかにして脳裏に投影していく。

 間合いは瞬く間に縮まった。

 凍てついた中性的な顔が、微笑する。

「さて、君は剣士を何人、殺した?」

 瞬間、トウマの脳裏を駆け抜けたのは、三人の男の顔。妖夷化した祖父――母を殺した男――青河の守護剣士――!

 トウマは、目を見開いた。叫ぶ。

「おまえで四人目!」

 トウマは、低い弾道を維持したまま、ミズキの懐に突っ込むと、相手の胸元に向かって右手を突き出しながら剣を具現した。

 刀の重みが、トウマの手によく馴染んだ。

「この短期間でよくぞ」

 ミズキが、トウマの渾身の突きを難なくかわす。笑いもしない。

「とでも言うべきかな?」

 トウマは、目標を見失った剣が虚空に泳ぐのを嫌って、すぐさま脚を伸ばして着地すると、ミズキに向き直った。きっ、と睨みつける。

 ふたりの間合いは、無に等しい。

「だが、このわずかな間合いを埋めることすら、君には出来ない」

「!」

 トウマは、目を見開いた。ミズキの手の甲から光が溢れ、剣が具現する。すらりと伸びた刀身が美しい長剣。

「俺の剣印はひとつ。この意味がわかるか?」

 その剣を夜空に掲げて、ミズキ。刀身が月光を浴びて、あざやかにきらめく。

「わかるか!」

 叫ぶなりトウマは、ミズキ目掛けて刀を振るった。距離はないのだ。動かずともよかった。ただ、全力で剣を振ればいい。

 だが。

「体力には自信がある?」

 トウマが繰り出した横薙ぎの一閃は、ミズキの体に到達する直前で、弾かれた。

「!」

 ミズキが手放した剣が、流れ落ちるように降り注ぎ、剣先を地面に突き刺すと、トウマの斬撃を跳ね返したのだ。

「技の冴えは?」

 トウマは、弾かれた剣を翻して、斬撃を撃ち込んだ。が、ミズキが右足で蹴り上げた剣に、またしても防がれる。

「っ!」

 トウマの剣が、わずかに流れる。

「心根はどうだ?」

 ミズキが、その隙を見逃すはずもなかった。剣を中空で回転させたまま、繰り出したのは高速の蹴り。

「くっ!?」

 痛烈な一撃は、トウマの右手の甲に直撃する。トウマは、手の骨が砕けるかのような痛みに、刀を手放してしまう。

 体勢が崩れた。

 トウマの刀も、ミズキの長剣も、空中。

(だが……!)

 トウマは、剣に帰還を命じた。即座に具現すれば、先手を取ることも可能――

 しかし、現実にトウマが剣を握ることはなかった。

 ミズキが中空の剣を握るほうが、わずかに速い。その紙一重の差が、トウマに剣を掴ませなかった。

目にも留まらぬ速度で振り下ろされた長剣が、トウマの胴を逆袈裟に斬り裂いたのだ。

「トウマっ!?」

 クロウの絶叫を、トウマは、凄絶な痛みの中で聞いた。あざやかな切り口から噴き出す血の量だけは、多い。

 それでも意識があるのは、トウマの肉体が即座に反応して、その場から飛び退こうとしたからだ。

本能が、致命傷を避けた。

 だからといって、すぐに動けるような状態でもなかった。

 飛び退こうとしたものの結局は斬り付けられたトウマは、地面に尻餅をついた姿勢のまま、どこかつまらなそうなミズキの表情を見ていた。

 血はいずれ止まるだろう。死ぬほどの切り口ではない。加減された一撃でもないが、渾身の斬撃でもなかった。なにより、無意識の回避行動が、傷をより浅くしていた。

 それでも、ミズキが本気なら、トウマの胴体は真っ二つになっていたはずだ。

 トウマは、その事実を冷静に認めていた。しかし、心も体も震えない。恐怖はあるはずだ。絶対的強者への畏怖も。だが、胸の内で燃え盛る漆黒の炎が、トウマの意識が揺れることを許さなかった。

「そのどれもがおまえの負けだよ、トウマ」

 ミズキの宣告は、当然の帰結だろう。トウマ自身、そう思うのだ。

 一部の無駄もない――いや、むしろ無駄だらけにも見える一連の動作に付け入る隙を見出せなかったことに、トウマは、実力差をまざまざと見せ付けられたのだ。

 いまは、勝てない。

 冷ややかに、認める。

 覆しようのない力の差。

 隔絶された技量の壁。

(心は……?)

 いまのトウマには、推し量れないものかもしれない。相手の力量こそ身を以て思い知ったものの、その心の強さについては理解する方法がなかった。

 不意に、ミズキが、剣先をトウマに向けてきた。トウマの血液が、刀身から流れ落ちていく。

「おまえがどれだけ剣印を奪い、修羅の限りを尽くそうとも、この差は埋まらない。決してな」

 間合いは、わずかに広がっていた。トウマが飛び退こうとしたからだろう。しかし、その程度の距離など、無いのとほとんど変わらないだろう。

 トウマは、右手を掲げた。手の甲から噴出した光が、一振りの刀へと収斂していく。

「いつか越えるさ」

 ミズキの眼が、光を発したように見えた。

「なら、いま死ね」

 ミズキが、純然たる殺気を発した刹那だった。

「待って!」

 クロウの背中が、トウマの視界を遮った。

 クロウは、言い知れぬ恐怖に震える体を、精一杯に広げていた。

 トウマに向けて発せられたミズキの殺気が、瞬く間に消え失せる。

「邪魔をするな、少年」

 それは、呆れたような口調だった。

 しかし、それの束の間、次の瞬間には鋭いまなざしになっていた。クロウの体が、大きく震えた。

「彼は剣を抜いた。それは闘争の契約に同意したということにほかならない」

 ミズキが、剣を掲げた。月光が、血塗られた長剣を祝福する。

「剣を以て敵を殺すというのならば、剣を以て敵に殺されることも了解しなければならない、それが剣士のさだめ。修羅の道理。闘争の契約」

 剣先が、再び、トウマに向けられる。

「そうだろう? トウマ」

 ミズキの言葉は、月夜に響いた。冷ややかに、重々しく。

「ああ……!」

 トウマは、仇敵の言葉を肯定すると、ゆっくりと体を起こそうとした。まだ、血は止まっていない。かなりの量の血液を流してしまった。頭がくらくらしていた。が、それでも、トウマは立ち上がった。

 修羅の道理に従うために。

 闘争の契約を履行するために。

 復讐を遂げるために。

(勝てないってわかってるくせに、な)

 トウマは、心の内で自嘲した。

(理屈じゃないんだよ)

 トウマは、ひとりうなずくと、いまにも壊れそうなほどに震えるクロウの体を押し退けて、前へ進もうとした。しかし。

「駄目だよ!」

 それは、絶叫だった。

「トウマ!」

 魂の悲鳴とも言えた。

「死んじゃ駄目だ!」

 クロウの叫びは、トウマの心を激しく揺さぶった。胸が痛む。涙を流している。クロウの泣き声に、トウマの魂までもが共鳴している。

 それでもトウマは、前進を試みる。

「退いてくれよ、クロウ」

「嫌だ! 絶対に動かない!」

 クロウがかぶりを振る。

 なんとしても、トウマを前に行かせようとはしないのだろう――クロウは、微動だにしなかった。

ミズキが、嘆息した。

「そこを退くんだ。君には借りがある。殺せない」

 クロウが、怒声を張り上げる。

「トウマを殺せるなら、ぼくだって殺せるでしょ!?」

 柔らかな風が吹いた。それは、睨み合ったまま硬直した三人の頬を分け隔てなく撫でたようだった。

 不意に、ミズキが、剣を帰還させた。

「……やめだ」

 外套を翻して、こちらに背を向ける。

「なんで!?」

 クロウが素っ頓狂な声を上げる後ろで、トウマは、ミズキのあざやかな変化に呆然とした。一瞬、復讐の炎すらも消えかける。

「言っただろう。君には借りがある、と」

 こともなげに、ミズキ。

「そんなの――」

「関係あるさ」

 クロウの反論を封じて、ミズキ。彼なりの論理なのだろうが、トウマには、さっぱり理解できなかった。チハヤを殺し、霊樹を殺し、あまつさえ村を滅ぼした男の言葉ではない。

 が、いまは、その論理が、トウマの命を取りとめようとしている。それは喜ぶべきか、憤るべきか。

 どちらにせよ、トウマには、選択する権利などはないのだ。愕然と、認める。

 生殺与奪は、ミズキの意志に委ねられた。

「命拾いしたな、トウマ。その少年に感謝しておくといい」

 それは、トウマの命を保障するということ。少なくとも、この場では。

「ミズキ……!」

 とはいえ、トウマの魂の奥底から燃え上がる漆黒の炎は、仇敵の情けなど、感受できるはずもなかった。

 が、体は動かない。

(こんな時に……!)

 これではまるで、ミズキの情けを喜んで受け入れるみたいではないか。

 いや、事実、その通りなのかもしれない。心は、魂はそれを認めようとはしないだろう。闘争の中で果てることを望んでいる。しかし、肉体は、生き延びたがっている。

 生への渇望。

 トウマは、歯噛みして、叫びだしたい衝動を抑えていた。ここは、仇敵の提案を受け入れるべきだ。いまは、破綻した論理でもなんでも利用して、生き延びることを第一に行動するべきだ。

 生きてこそ、復讐を果たせる。

 いま、この状況で立ち向かったところで、返り討ちに遭うのは目に見えている。次は、間違いなく容赦しないだろう。

 つまり、真っ二つ。

「俺を追うか?」

 ミズキが、問いかけてきた理由は、トウマにはわからない。仇敵の心理など、どうでもいいことではある。

 とはいえ、トウマは叫ぶように肯定した。

「当たり前だ!」

「つぎは、殺す」

 ミズキが、こちらを一瞥した。そのまなざしには、絶対者の揺るぎない意志が宿っているように見えた。

 トウマは、呼吸を忘れた。

「どこへ……!」

 トウマの声が掠れていたのは、ミズキの視線に射竦められたからかもしれない。

「北へ……」

 そうぽつりと言い残して、この場から立ち去るミズキの背中を、トウマは、目に映らなくなるまで見据えていた。

 それから、どれくらいの時間が流れたのだろう。

 クロウが、トウマに背を見せたまま、つぶやいてきた。

「……行っちゃったね」

「ああ」

「いますぐ追うの?」

 クロウの心配そうな問いかけに、トウマは、自嘲気味に笑った。首を横に振る。

「この状態じゃあ返り討ちに遭うだけさ」

「さっきだってそうだよ」

 クロウの声音に、トウマを責めるような響きは見受けられない。

「うん」

 トウマは、素直にうなずくと、どっと押し寄せてきた疲労感に倒れかけた。トウマの意識に張り詰めていた緊張が、一気に途切れたのだろう。

 激痛が復活し、全身が震えた。恐怖が、いまさらのようにトウマの心を埋め尽くしていく。

 生きているというこの現実は、夢か幻なのではないか、という感覚さえ抱く。

 それもこれも、目の前の少年のおかげだということを、トウマは、全身で理解していた。

「ありがとう、クロウ」

 トウマは、心からの感謝を述べたつもりだったが。

「別に、たいしたことじゃないよ」

 クロウの反応は、薄い。こちらに向き直ることもなく、小さな肩を震わせている。

「そんなことはないだろう」

 トウマは、脱力感とともにうめいた。クロウのあれは、命を張った行動だった。トウマごと斬り殺されても、なんらおかしくはなかったのだ。

 ミズキの狂ったような論理がなければ、間違いなくそうなっていたはずだ。

 ふたり仲良く、この村の跡に転がっていたはずだ。

 死体となって。

「ううん。ぼくはトウマに死んで欲しくなかっただけ」

 クロウが、嗚咽を漏らす。

「死んじゃ……嫌だよ」

 それは、クロウの本心なのだろう。魂の叫びなのだろう。儚く、弱々しい声音は、しかし、トウマの心に深く刻まれていく。

 クロウの痛みが、理解できた。

「トウマまで死んじゃったら、ぼくはまたひとりぼっちだ……」

 クロウは、村を追い出されてから、ずっとひとりだったのだ。いや、村の中であっても、ひとりぼっちだったのではないか。

 あの妖夷の村で、人間は、クロウだけだった――

 その事実を思い出して、トウマは、彼の小さな背中を見た。あのとき、いまにも壊れそうなほどに震えていた体は、いまは、孤独という絶望を思い出して震えていた。

 トウマは、クロウの頭に手を置いた。嗚咽のような囁きが、トウマの鼓膜に刻みつけられた。

「もう……ひとりは嫌だ」


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