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桃魔剣風録  作者: 雷星
22/42

第四章 犬と村と再会と(八)

「ぬるい」

 ミズキは、手にした長剣の刀身を伝う妖夷どものどす黒い血を見下ろしていた。

 なんの感慨もない。

 生者への憎悪のあまり、彼我の戦力差を理解しようともしない化け物のことなど、端から眼中にはないのだ。

 ミズキの脳裏を過ぎるのは、あの少年の後姿だ。


 紅蓮の炎が、いくつもの柱や壁となって、村を焼き尽くさんとしていた。。

 闇夜を紅く染める炎の中で、数多の妖夷が、遠吠えを上げている。なにかの到来を待ち侘びているかのようであり、恐れているかのようでもあった。

 それは、この村に巣食っていた妖夷たちにとって、支配者とでも言うべき存在への呼び声であり、畏怖。

 その無数の叫びを切り裂いたのは、一条の光にも似た、咆哮。

 そして、少年がミズキに無防備な背中を曝した。

「どうして、背を向ける?」

 問いかけながらも、ミズキは、少年との間合いを計る気にもなれなかった。

 少年の頭からは、もはやこちらのことなどすっぽりと抜け落ちてしまったのか、警戒もしてはいない。

「君は俺を殺したいんじゃないのか?」

 いつでも、殺せる。

「復讐を果たしたいんだろう?」

 一歩踏み込み、剣を振り抜けばいい。

 それだけで、少年は、死ぬ。造作もなく。

 だが、ミズキは、剣を手にしたまま、少年を見ていた。

「黙れ」

 少年の声は、きわめて力強かったものの、ミズキにとっては頬を撫でる微風にもならなかった。

 告げる。

「君の殺意は本物だ。金剛石すら粉砕する圧倒的な暴力で、俺の身体を、命を破壊したいと想っている」

 ミズキが思い出すのは、妖夷の群れを飛び越えて、広場に乱入してきた直後の少年の眼だ。

 純粋な殺意が、漆黒の炎となって燃え盛っていた。

「黙れ……!」

 少年の体が、震えていた。怒りや憎しみと、なにか別の感情が葛藤しているのが、ミズキにはわかった。だからといって、彼への認識を改めることもない。

「いまが、そのときではないのか?」

 ミズキは、笑わない。ただ、事実を突きつけるだけだ。その結果、相手がどのような行動を起こそうとも関係がない。

「黙れって言ってんだ!」

 少年が、こちらを一瞥した。その眼には、あのとき見た漆黒の炎が渦巻いていた。

 ミズキは、微笑した。その眼だ。その眼だけが、この世において至上の輝きを放つ。

「俺はおまえを殺す! いつか、必ず……!」

 少年は、血反吐を吐くような面持ちで、叫び続けていた。

「でも、でもあいつは……!」

 少年の声は、慟哭のようだった。だが、その声音には、目の前の復讐を諦めることにいささかの躊躇もなければ、微塵の後悔も見当たらない。

「クロウは“今”なんだ!」

 ミズキは、彼の言葉に、別の少年のことを思い出した。唐突に天地を覆った青河の激流に飲まれたミズキを救ったのは、金眼の銀狼――

「今、泣いてるんだ!」

 そして、目覚めたミズキを村まで案内してくれた黄金の瞳の少年、クロウ。

 ミズキには、一瞬で理解できた。銀狼とクロウの関係。霊印の力。

「助けなきゃ……!」

 少年――トウマの叫び声は、妖夷どもの合唱を掻き消すほどに強く、鮮烈な痛みを伴っていた。

「もうだれかを失うのはうんざりなんだよ!」


「――甘い」

 甘いのは、己。トウマを殺さなかったミズキ自身。

「甘過ぎる」

 甘すぎるのは、己。トウマを殺し、糧としなかったミズキ自身。

「だが、恩は返すべきだ」

 あのクロウという少年が助けを求めて泣き叫んだというのなら、救いの手を差し伸べるのもいいだろう。

 がらではない。そんなことは、わかっている。わかりすぎるくらいに理解している。

 だから、トウマを行かせたのだ。

「君が救え、トウマ」

 それが、いまのミズキに出来る、せめてもの恩返しだった。




「クロウを護る!?」

 嘲笑うように、化け物は、言った。

 化け物。

 まったくもってそれは、化け物としか形容しようのない姿をしていた。

 原型は、女だ。何もなければ、美人と呼べたかもしれない。しかしいまは、顔面に無数の眼を持ち、口が耳元まで裂け、口の中には牙が並んでいた。

 それだけでも、化け物には違いない。

 裸形の体は痩せ細ってはいるが、月光の中で白く燃えているようですらあった。

 それは、いい。

 問題はここからだ。背中から伸びているものがある。巨大な蜘蛛の歩脚、である。ひとつひとつが女の体躯ほどもある蜘蛛の脚が、八本も生えていた。

 それらのうち六本は、女の体を空中で固定するるめに、これまた大きな爪を地面に突き立てていた。

 そして、下腹部から先が蜘蛛の腹節となり、巨大な袋状の後体があった。女の背後に高く持ち上げられている。

 妖夷にしても、ここまで大きなものを、トウマは見たことがなかった。刀を握る手に、自然と力が篭る。歩脚の爪先を、刀身で受け止めているのだ。

 蜘蛛の脚に込められた力は、思った以上に強い。

「クロウを護るのはわたしよ!」

 女の甲高い叫び声は、トウマの耳に痛いくらい響いた。

「母さん……」

 トウマは、横目でクロウを見た。哀しげな金色の眼が、月光に輝いている。

 その銀狼の脇腹に穿たれた傷口は、致命傷と言えた。吐き捨てる。

「だったら、傷つけるなよ」

 トウマは、刀をわずかにずらして、蜘蛛の脚による一撃を誘った。

「クロウを食べるためじゃない!」

 悲鳴のような叫びとともに、蜘蛛女――クロウの母が、自由になった歩脚を、込めた力に任せて振り下ろしてくる。

「クロウを食べる?」

 トウマは、猛然と迫ってきた蜘蛛の爪を、右に飛んでかわした。目標を見失った脚は、すぐ近くの地面に突き刺さる。

 殺気。

「危ない!?」

 クロウの警告を、トウマは、中空で聞いていた。蜘蛛女の左の歩脚が、トウマのいない空間を貫く。トウマは、空振りしたまま動きを止めた歩脚の上に、容易く着地してみせた。

 女の顔が、極めて近い。すべての眼が、トウマを捕捉していた。

「そうよ! クロウを食べて、わたしは人間に戻るの!」

 女が、歩脚を揺らしてトウマを振り落とそうとした。トウマは、抗わない。再び、地面へ。

「クロウのために!」

 着地したトウマは、女の、クロウの母の絶叫を聞いていた。死の果てに妖夷へと成り果てた女の、執着。

「わたしが人間に戻れば、ずっとクロウの傍にいてあげられる……!」

 女が、態勢を変えた。体を支える脚を四本にして、残る四本を攻撃に回すつもりらしい。四本の爪が、月明かりを跳ね返して禍々しく光る。

「ずっと、ふたりで暮らしていけるの」

(……?)

 トウマは、女の顔を見上げた。巨大な歩脚が持ち上げた体は、トウマの遥か頭上に固定されている。故に、その表情までは、わからない。

「ずっと……!」

 トウマは、告げた。

「あんたがクロウを食べたら、あんたはずっとひとりじゃないか」

「!?」

 蠢動していた蜘蛛の脚が、ぴたりと動きを止める。

 女が、人間の手で、頭を抱えた。わずかな逡巡があった。ほんの一瞬だけ。

 トウマは、その隙を見逃さない。大地を蹴り、上空へ。

「クロウがいるじゃない!?」

 女が叫んだ。いままで以上に苛烈な叫び声とともに、四本の歩脚が攻撃に移る。

 中空のトウマに向かって繰り出されたのは、四っつの爪による猛烈な連続攻撃。

 トウマは、それらの攻撃をすべて、刀で受け止め、あるいは受け流し、あるいは叩き返した。強固な爪は、トウマの刀では傷つけることも出来なかった。

 それにはさすがのトウマも、舌打ちせざるを得なかった。これでは、埒が開かない。

 そして、死角から伸びてきた一撃が、トウマの腹を打ち据えた。地面に叩き落される。激痛が、腹部と背中を襲った。

「ぐっ!」

 痛みに歯噛みして、トウマは、蜘蛛の歩脚による追撃を逃れるため、地面を転がった。歩脚の爪先が、転がるトウマの周囲に降り注いで、地面を掘削していく。

「ほら、そこに!」

 女の無数の眼が見つめるのは、銀狼の姿なのだろう。いまにも死にそうなほどの重傷を負った少年の化身。

 トウマは、目を見開いた。空から降ってきた一本の歩脚を、刃で受け止める。

 刀身の文字が、あざやかに発光していた。

 強大な力で刃に押し付けられていた蜘蛛の爪が、瞬く間に裂けていく。爪が裂け、脚が裂け、どす黒い体液がトウマに降りかかった。

「そのクロウを喰う気なんだろ?」

 声を上げながら、トウマは、その場に飛び起きた。女が苦痛ひとつ感じていないところを見ると、歩脚を切り落としたところで、なんの意味もないのかもしれない。

「そうよ! だって、そうしないと……!」

 女の耳障りな叫び声を、トウマは、冷ややかな面持ちで聞いていた。残る三本の歩脚が、一斉に襲い掛かってくる。

 トウマは、飛んだ。

 女に向かって。

「そうしたら、クロウはいなくなるんだ!」

 歩脚のひとつは地面に刺さり、ひとつは空振りし、ひとつは、空中のトウマの頭上に到達した。

「俺は、クロウを護る!」

 トウマが、蜘蛛の爪を無造作に切り裂いたとき、彼の体は、女の人間の体の目前にあった。

 トウマに、迷いはなかった。クロウを護ることだけしか、頭の中にはなく――

「!?」

 トウマの剣が閃いて、女の首が飛んだ。





 クロウは、母の異形化した頭部が、胴体から切り離されるのを見ていた。目に焼き付けていた。

 一方、首の切り口からは血が噴き出していた。蜘蛛の脚が支える力を失い、急速に、その巨体が地面に吸い込まれるように落下した。

 トウマの体も、地に落ちる。

 そして、母の頭部が、血を撒き散らしながら、クロウに向かって飛んでくる――。



「――お母さんが、死ぬよ」

 クロウの耳に囁きかけたのは、子供の声だった。怒りと憎しみに満ちた、小さな声。

「ぼくにとってはふたり目の、おまえにとってはひとり目のお母さん」

 薄暗い部屋の中だった。わずかに開いた障子からは、凍てつくほどの月光と、冷ややかな夜風が入り込んでくる。

 冬。

「すまない……」

 男の声だった。喉の奥から絞り出したような声音は、懊悩に震えていた。

「ど、う、し、て!? ど、う、し、て、な、の……!?」

 女の声だった。無理やり吐き出した声は、もはや言葉にはならなかった。

「すまない……すまない……」

 男は、部屋の奥の壁際に立っていた。長身の男だ。その月光に曝された輪郭から、引き締まった体なのがわかる。

「わたし、は、この子を産、みたい……だけ、な、のに……!」

 女は、部屋の奥の壁に押し付けられていた。長い黒髪が寒風に揺れる。膨れたお腹が、出産が近いことを教えていた。

「すまない……アスカ……」

 男は、女に謝り続けていた。愛するひとに。いままさに殺そうとするものに。

「ク、ロ、ウ、を……! わ、た、し、の、子、を……!」

 女は、男を睨み続けていた。愛するものを。自分を殺すものを。

「あの子の……ロウキのためなんだ……」

 男は、ついに言った。口にしてはならない言葉を。絶望の宣告。

「ロウ、キ、も、クロ、ウ、も、あなた、の子供、じゃ、な、い……!」

 女は、叫びたかった。だが、首を締め上げられていては、絶叫することもままならない。

「クロウはロウキを殺す……から!」

 わけのわからない理由を告げる男に、女は。

「そ、ん、な!?」

「ロウキは俺とアヤノの子供なんだ!」

「わ、た、し、は!?」

 女は、絶望した。

 女の手に剣が具現して、その刃が男の腹を貫いた。

 女は、悪鬼のような形相で、男を見ていた。

「ゆ、る、さ、な、い」

「アスカ……!?」

「死、ね」

 女は、最後の力で、男を殺した。

 しかし男も、死ぬ間際に、女の首を絞めて、殺した。

 闇だ。

 それは闇に他ならない。

 光明など一片たりとも見当たらなかった。

 死んだ女の腹が、胎内から引き裂かれ、血まみれの赤子が産声を上げた。

 その赤子を抱え上げたのは、女。

 死んだはずの女。


「ああああああああああああああああああ!」

 クロウは、慟哭していた。脳裏を塗り潰した絶望的な光景に、発狂しかけていた。

 母の頭部が、目の前の地面に落ちて、ぐしゃりと潰れた。無数の眼を持つ異形の頭部は、原型を留めてなど居なかった。

「!?」

 クロウの中で、なにかが、音を立てて壊れた。

「クロウ……!」

 トウマの声に、クロウは、体を起こした。痛みは既になく、肉体は意のままだった。これなら、だいじょうぶ。

「大丈夫か?」

 こちらを気遣う少年の声音に、クロウは、牙を剥いた。

 視界の真ん中をふらふらと歩いてくる血まみれの少年に対し、殺意が生まれた。もはや、どうしようもない。

「トウマ!」

 気づけば、飛び掛っていた。

 戦いで体力を消耗したトウマに、銀狼の力を止められるはずもない。そのまま、地面に押し倒した。

「クロウ!?」

 トウマが驚愕したのが、クロウには無性に腹立たしいことだった。理屈では、ない。

「どうして! どうして!」

 仰向けのトウマに覆いかぶさるようにして、クロウは、ただ泣き叫んでいた。

「どうして母さんを……!」

 叫びながら、涙を流しながら、クロウは、トウマのまなざしが急速に澄み渡っていくのを見た。

「クロウ……そうだな」

 その表情には、悲しみがあった。

「俺を恨め」

 その声音には、失意があった。

「俺を憎め」

 そのまなざしには、優しさがあった。

「俺を呪え」

 トウマの手が、クロウの頭を撫でた。

 傷だらけの掌。

 大好きな掌。

「うああああああああああああああああ!」

 クロウは、喉が張り裂けるほどに声を張り上げた。銀狼の全身が光に包まれていく。少年の肉体へと戻るために。

 なにもかもわかっていたのだ。

 トウマを責める理由など、ない。

「ごめん、ごめんよ、トウマぁ!」

 クロウは、トウマに抱きついた。

「ぼく、ぼく!」

 トウマの左腕がクロウを抱き締め、右手が頭を撫でた。

「いいんだ」

 優しい声は、クロウの胸に痛いほど響く。

「でも!」

 食い下がろうとするクロウに、トウマが、微笑した。

「もういいんだよ、クロウ」

 闇夜。

 ふたりを照らすのは、白銀の月明かりだけだった。


 トウマはクロウを連れて、進む。

 北へ。

 青河を辿り、水龍山へ。

 それはミズキを追うために他ならなかった。

 水龍山でふたりを待ち受けていたのは、新たなる邂逅。

 そして――


 第五章 猿神楽


 なにより軽く、猿は踊る

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