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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第四章 犬と村と再会と(七)

「母さん……?」

 クロウは、人外の化け物へと変貌していくそれを、戦慄とともに見つめていた。

 顔面に生まれた無数の眼は、緑色に輝き、長い黒髪がまるで生きているかのように揺らめいていた。

 口が、耳元まで大きく裂けた。口の中には、鋭い牙がいくつも並ぶ。長い舌が、クロウの鼻頭を舐めた。これから食べる獲物の味を確認するかのように。

 恐怖と絶望が、クロウの全身を凍りつかせていた。なにも考えられなかった。頭上から降り注ぐのは、死の囁き。

「あなたを生きたまま喰らえば、わたしは人間に戻れるのよ」

 それは、狂気に支配された声音だった。もはや愛情のかけらすら見当たらない、化け物の声。

 いや、むしろそれは愛の行き着く果てなのかもしれない。

「そうしたら、あの子をひとりにさせないで済むでしょ?」

 裂けた口から流れ出るアスカの言葉は矛盾に満ちていたが、クロウの凍りついた頭では理解できるはずもなかった。

「ああ、愛しいあの子はいまもひとりぼっち」

 アスカの背中が大きく隆起して、、着物を突き破った。現れたのは、巨大な八本の蜘蛛の脚に見えた。奇怪に蠢く、桃色の歩脚。

 八つの巨大な爪が、月光を反射した。

「わたしが死んでしまったから」

 そのうちの二本が、アスカの背後から前へと伸びて、クロウを背中から抱き締めるように包み込んだ。クロウは、反応すら出来なかった。

「でも、わたしはこうしてここにいる」

 アスカの両手が、クロウから離れた。だが、クロウは開放されない。蜘蛛の脚が、クロウを捕らえて離さないのだ。

「あなたを喰らえば、ふたりで暮らしていけるのよ」

 アスカの細い掌が、クロウの顔を包み込んだ。まるで慈しむように頬を撫でる。しかし、それはいまから食い殺そうという獲物を愛でているだけに過ぎない。

 クロウは、やっとの思いで言葉を発した。

「母……さん」

 そして、無数の眼に映る、自分の恐怖に引きつった顔を見た。身を捩った。早くこの状況から抜け出さなくてはならない。母の面影すら失った化け物から逃げ出さなくては。

 でなければ、捕食されるだけだ。

「クロウと、ふたりで」

 クロウは、咆哮した。手足の枷の如き刻印の力を解き放つ。

 手首と足首の霊印から噴き出した黄金の光が、クロウの全身を覆っていく。激痛が、クロウの意識を瞬く間に破壊していった――。


 

 遠く、遠く、呼び声がする。

 近く、近く、呼び声がする。

 だれかが呼んでいる。

 彼を。

 だれかが口にしている。

 彼を定義する名前を。

狗狼クロウ

 その声を聞いたのは、ずっと昔。

「あなたの名前よ」

 優しく、暖かな声音。その声を聞くだけで、胸が弾んだ。

「お父さんが考えてくれたのよ。もうすぐ生まれるあなたのために」

 母の声。

「そうよ」

 母の胎内で、聞いていた。

「もうすぐ、あなたは生まれるのよ」

 母の手が、お腹を撫でているのがわかった。その手には、深い愛情だけがあった。

 雑念は一切なくて、彼は、ただ安らぎを覚えていた。

「わたしとあのひとの、初めての子供」

 柔らかな光が、彼を包み込んでいた。

 希望に満ちた明日を感じた。

 なのに。

「ごめんね」

 苦痛が、彼を襲った。

「ごめんね、クロウ」

 声にならない声が聞こえた。

「あなたを産んであげられなくて」

 母の囁きは、絶叫にも似ていた。

 彼は、死を感じた。圧倒的な闇が、彼を包み込んでいく。覆しようのない結末が、一歩、また一歩と近づいてくる。

 抗う術など、あるわけがなかった。

 母が、死んだ。

 胎内に眠る、生まれてもいないものもまた、死ななければならない。

 それは、この世の掟。

《走りなさい》

 こえが聞こえて、彼は、自分の肉体が躍動するのを認めた。まだ形を成していない両手から、鋭利で強靭な爪が伸びた。

《駆け抜けなさい》

 彼は、声に突き動かされるがままに、両手の爪で胎を引き裂いた。

 降りかかる血の向こう、薄暗い天井の木目が見えた。

 そして彼は、産声を上げた。



「――ぎゃああああああっ!?」

 甲高い歪な悲鳴が、耳障りだった。

 中空に跳んだクロウは、きわめて鮮明な意識の中で、自分の肉体が変化を終えたことを認めた。少年の華奢な体は、印から溢れた金色の光が焼き尽くし、その光によって再構築されたのは、銀狼の巨躯。

 銀色の体毛に覆われたしなやかな筋肉は、人間を遥かに上回る身体能力を秘め、手足に備わる鋭利な爪は、研ぎ澄まされた刃物の如く輝いていた。

 突き出た口の中には獰猛な牙が控え、美しくも精悍な狼の顔つきは、化け物を前にひとつも怖じるところがない。

 白銀の尾が、まるで炎のように揺らめく。

 クロウは、空中で一回転すると、華麗な着地を決めた。後方からは、アスカとも化け物ともつかない悲鳴が、聞こえていた。

 クロウの体が急激に膨張したことで、捕縛していた蜘蛛の脚を吹き飛ばしたのだ。

「母さん……」

 クロウは、二本の蜘蛛の脚を失った痛みに悶える母の如き化け物を見て、目を細めた。

 髪を逆立て。顔には無数の眼と、耳元まで裂けた口を持ち、背中から八つの蜘蛛の脚を生やした存在。

 それはもはや、人間などではない。

 いや、そもそもクロウの母は、クロウが生まれる前に死んでいるはずなのだ。だから、クロウは母の胎を引き裂くしかなかった。

 でなければ、クロウは生まれる前に死んでいたのだ。

 では、クロウを育てたのはだれだというのだろう。

 数え切れない思い出が、クロウの頭の中を駆け抜けた。



 産声を上げた直後、クロウを背中から抱き締めたのは、女。

 幼き日、森の中を走り回るクロウを見て笑うのは、女。

 村を見渡す丘の上、飛び跳ねるクロウと、歌を口ずさむ女。

 別れの日、嘆き悲しむクロウに、女はさまざまな品を渡した。



 あざやかな色彩に彩られた場面の数々は、クロウの記憶が間違っていないことを証明しているようだった。

(母さんだ! 母さんなんだ!)

 クロウは、心の中で悲痛な叫びを上げながら、背後を振り返った。

「クロウ?」

 その母の面影をわずかに残す化け物は、怒りに体を震わせていた。それは、半ばから失われた二本の脚を両手で掴むと、背中から引っこ抜いて見せた。

「どうして邪魔をするの?」

 女の背中からどす黒い血が噴き出る。それはまるで、深紅の翼のように見えた。

「わたしはあなたの傍にいてあげたいだけなのよ?」

 やがて出血は収まり、代わりに生えてきたのは、新たな蜘蛛の歩脚。

「あなたも、お母さんが妖夷のままじゃ嫌でしょう?」

 クロウは、首を横に振ることは愚か、目を合わせることも出来なかった。

 理解したのだ。

 クロウが生まれたあの日からずっと、傍らで微笑んでくれていたのは、妖夷と化した母アスカそのものだったということを。

「人間になって、ずっとあなたの傍にいてあげるわ」

 不意に、アスカが、前のめりに姿勢を崩した。八本の歩脚が、地面にその爪を突き立てて、彼女の体を支えた。

「そのために」

 俯いていたアスカの顔が、クロウを見上げた。無数の眼が、禍々しく燃えるような光を放つ。

 それは、敵意。

「あなたを食べるのよ」

 アスカの下半身が、膨張した。

 着物が破れ、露になった下腹部から先が、蜘蛛の腹部へと作り変えられていく。桃色の外骨格に覆われた袋状の後体。

「わたしのクロウ」

 蜘蛛の化け物と成り果てたアスカを認めて、クロウは、すぐさま駆け出した。いまだ燃え続ける村に向かって。

 それは、疑いようもなく人外異形の化け物だった。妖夷と定義される、人間の敵。倒すべき存在。だが、同時に、クロウをここまで育ててくれた存在でもあるのだ。

 母。

 その愛に偽りはなかったはずだ。

 クロウに、戦う理由がない。

「わたしだけのクロウ!」

 夜の冷気を吹き飛ばすほどの大音声とともに、凄まじい殺気がクロウを背後から襲った。地面を破壊するような物音を立てながら、急速に接近してくる気配に、クロウは、後方を振り返らざるを得なかった。

「!」

 悪鬼のような形相のアスカが、物凄い勢いで追走してきていた。高速に動く八本の歩脚が、地面に突き刺さっては引き抜かれ、土煙を上げていく。

 クロウは、戦慄を覚えていた。彼自身、全力で疾走しているはずなのだ。にもかかわらず、アスカとの距離は広がるどころか、縮まるばかりだった。

 速度では、だれにも負けたことがない。それだけが、クロウの取り得と言えた。

 クロウは、さらに四肢に命令した。速く走れ、もっと速く、風より速く、なにより速く――

「クロウのために、わたしに食べられなさい!」

 しかし、既にアスカの息吹がクロウの尾にかかるほどに、ふたりの距離は縮まっていた。八つの爪が奏でる破壊音が、至極間近に聞こえた。

「クロウ!」

「!」

 先鋭的な殺気に、クロウは、右に跳んだ。蜘蛛の歩脚が、クロウの視界の片隅に走り、地面を大きく穿った。土埃が舞う。

(よし!)

 会心の回避動作に、クロウが喜んだのもつかの間、右からきた横殴りの一撃が、銀狼の脇腹を抉った。

「!?」

 目の前が真っ暗になるほどに重く、強烈な衝撃がクロウの肉体に突き刺さり、激痛となって全身に伝わる。そのまま、左方向へと吹き飛ばされていく。

 いままで感じたどんな痛みよりも、苛烈で鈍い痛みが、クロウの意識を奪っていく。少しずつ、確実に。

 中空――。

 着地体勢を整えることすらままならない。

「ぐ、う……!」

 地面に叩きつけられたクロウは、さらなる痛みの前に視界が狭くなったような気がした。

 暗く狭い視野を覆うのは、アスカの異形。

 それは、こちらがもはや逃げることも出来ないと踏んでいるのか、ゆっくりとした足取りで近づいてきていた。

 ようやく、獲物にありつけるのだ。舌なめずりもするだろう。

 クロウは、激痛に抗って、強引に体を起こした。脇腹に開いた穴から流れ出る血が、あざやかに彼の命を奪っていく。

(逃げなきゃ……)

 立ち向かう、などとは思わなかった。最初から、アスカを殺すという選択肢はないのだ。

 異形に成り果てたとはいえ、自分を愛し、ここまで育ててくれたのだ。それは決して虚像ではない。クロウが勝手に作り出した幻想ではない。

 夢ではない。

(全部、現実なんだ……!)

 そう、目の前の悪意の塊もまた、現実としてそこに存在するのだ。

「逃げ……なきゃ……」

 息も絶え絶えにつぶやきながら、クロウは、アスカに目を向けたまま、後退った。体は自由にならなかったが、それでも、この場から離れたいというクロウの一念だけが、銀狼の四肢を動かしていた。

「どこに逃げるの?」

 アスカの裂けた口が、笑った。いびつな笑み。見るものの神経に異常をきたすような、狂った笑顔。

 よく見ると、ひとつの歩脚が、高く掲げられた。

「あなたは、わたしの元にいればいいのよ」

 巨大な蜘蛛の脚が、クロウに向かって振り下ろされた。

 クロウは、覚悟した。するしかなかった。その一撃は、間違いなくクロウの力を奪い去り、化け物の餌とするだろう。

 だが。

 金属同士が激突したような音が響いて、クロウの意識を覚醒させた。そして、いまさらのように鼻腔をくすぐるのは、あの少年の匂い。

「もうだいじょうぶだ」

 クロウの目の前にあるのは、トウマの後姿だった。血にまみれた女物の着物が、あでやかに揺れた。

 クロウを庇うようにして立つ少年は、両手で握りしめた一振りの刀で、爪の一撃を受け止めていた。

「おまえは、俺が護る」

 トウマの眼が、クロウを一瞥した。



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