第四章 犬と村と再会と(六)
「ミズキおまえっ!」
トウマは、怒りのあまり、全身の血という血が沸騰するという錯覚すら感じていた。剣を手にした右手が震える。刀が、それ自身が、目の前の仇敵の血を欲しているかのように。
だが、駄目だ――
トウマは、頭を振って、冷静さを取り戻そうとした。
前方で、平然とした表情のまま、子供と戯れるように化け物どもを斬り殺していく男は、こちらのことなど覚えていないという。
その状態で相手を殺したところで、なんら意味がないということをトウマは知っていた。
復讐。
暗い情熱の結晶たる漆黒の炎は、相手がこちらの意図を理解してこそ、燃え上がる。
こちらのことを忘れたという男を殺したとしても、どうにもならない。いや、確かに復讐は果たされるだろう。第三者が見れば、立派な復讐となるはずだ。
だが、それではトウマの心が満たされない。
「どうやら君は、俺のことを多少なりとも知っているようだな」
ミズキの声音は、ひどく穏やかだ。狂気の炎が渦巻く戦場に於いて、まったく気負うところがない。
一方のトウマは、ミズキの温和な物腰に、気が狂いそうになっていた。胸の奥底の魂が、叫び続けている。殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ――
「うるさいっ!」
トウマは、絶叫とともに刀を振り回して、燃え上がる憤怒を抑え付けようとした。暴れだした激情を強引に支配する術など、トウマにはなかったが、それでも、わずかばかりの効果はあったらしい。
視野が、広がった。
さっきまでミズキしか捉えていなかったトウマの意識に、三体の化け物の断末魔が飛び込んできた。声の発信源は、背後。
「!」
トウマが、はっとなって振り返ると、牛頭人身の化け物と馬頭人身の化け物、狐の頭と翼を持つ化け物が、どす黒い血を噴き出しながら地面に沈んでいくのが見えた。
無意識の内に斬り殺していたのだろうか。
なんにせよ、トウマが隙だらけだったのは間違いなく、危うく妖夷に殺されるところだったかもしれない。
トウマは、その事実に肝を冷やし、意識が明瞭化していくのを認めた。脳裏に渦巻いていた雑念が吹き飛び、周囲の状況が明確に把握できる。
怒りは、消えない。
しかし、怒りに我を忘れては、元も子もないのだ。
それこそ、復讐の意味がなくなる。
「さて、そろそろ俺の問いに答えてはくれないかな?」
ミズキの言葉を、トウマは、ひどく涼やかな面持ちで聴いていた。
全周囲から注がれる殺意に対応する。たったそれだけで、冷静になることが出来た。
闘争への渇望が、暗黒の憤怒を抑え込んでいく。
「君は、だれだ?」
こちらに問いかけながらも、ミズキは、剣劇演舞を止めない。手を止め、足を止めれば、妖夷どもの的になるだけだが。
「俺は、トウマ」
間髪を入れず、トウマは、叫ぶように言った。
「紅土の村のトウマ!」
直後、数多の奇声がトウマの周辺に生まれた。大量の妖夷の一部が、トウマに狙いを定めたのだろう。
返り血ひとつ浴びないミズキよりも、トウマのほうが殺しやすいと判断したのだろう。
トウマは、口の端に笑みを浮かべた。その判断は、間違いではない。が。
「俺だって、弱くはないさ」
トウマは、自分を包囲するための布陣を構築していく妖夷たちを一瞥して、剣を振った。刀身についていた化け物の血が、地面に飛び散る。
「紅土? ああ、紅土か。ついこの間行った村じゃないか。君はそこで、俺に会ったのか」
ミズキの癪に障るような言い様に、トウマは、一瞬飛びかかろうとしたが、やめた。第一、奇襲するにしても距離が離れすぎているし、この状態で飛び掛っても切り倒されるだけだ。
好機は、今ではない。
「ふむ……霊樹の守護を失った村から生き延びるとは、よほどの強運か、それとも――」
「俺は!」
トウマは、今度こそミズキを睨んだ。その瞬間、右後方から妖夷が襲い掛かってきたが、感覚だけで対応する。刀を返して、切っ先を強烈な殺気に叩き込む。
手応えは十分。化け物の奇怪な悲鳴と、地面に崩れ落ちた物音だけで、結果を知る。
トウマは、前方の仇敵を見据えていた。それでも、広い視野に蠢く化け物たちの動向は把握できた。怒りに任せては、いない。
「霊樹の社でおまえに遭ったんだ!」
「?」
ミズキが、首をかしげる。突っ込んできた半人半妖の頭部を片手で掴み上げ、右手の剣を化け物の胸元に刺し通す。そのまま放り投げたのは、返り血を嫌ったからか。
「おまえがじっちゃんを倒すのも、チハヤを殺すのも、見ていることしかできなかった!」
トウマは、叫びながら、心がずたずたに切り裂かれていくような感覚を抱いていた。あのときの光景が、無数の断片的な映像となって脳裏を駆け巡る。
「……ああ、君か」
ミズキが、冷ややかにつぶやいた。
「忘れていたわけじゃない。不要な情報をここに残しておくと、記憶が圧迫されてね」
左手の指で額を軽く叩きながら、ミズキ。右手の長剣は、五体の妖夷を一瞬にして切り刻んでいた。噴出した血の一滴が、端正な男の顔にかかった。
「ちょっとした障害が起きてしまう」
ミズキは、頬についた血を手で拭いながら、言ってきた。
「不要……?」
トウマは、左右と後方から複数の気配が飛び掛ってくるのを意識しながらも、ミズキから眼を離せずにいた。叫ぶ。
「不要だと!?」
「ああ。君のようなただの村人のことを記憶していても、仕方がないだろう?」
やれやれ、とでも言いたげに、ミズキ。
「!」
トウマは、自分が鬼のような形相をしていることを自覚しながらも、それを押し留めようとは思わない。
左右と背後から殺到する妖夷に対しては、トウマは、前方に飛び出すことで対応した。
「いきり立つな。この地獄で殺気の拡散など、狂気の沙汰だ。妖夷どもに殺されるだけだぞ?」
ミズキのほぼ眼の前に到達したトウマは、彼が切り捨てた妖夷の血を浴びて紅く染まった。
「おまえが、おまえが言うことか!」
「この惨状、俺の仕業だと?」
ミズキの緋色の瞳が、冷厳な光を発する。
トウマは、その眼光に曝された途端に息が出来なくなり、空気を求めて喘いだ。それもほんのわずかの間の出来事に過ぎない。
「おまえ以外の誰が!」
声を荒げながらも、トウマは、ミズキの眼から眼を逸らしそうになる自分に激しく失望した。目を合わせるだけで射竦められる、そんな恐怖が、意識に刻まれた。
動けなくなるのは一瞬。ほんの刹那のことなのだが、妖夷に殺されるにせよ、ミズキに殺されるにせよ、その一瞬の隙が原因となるはずなのだ。
「だれがこんな――」
「生きるためなら!」
トウマの言葉を掻き消したのは、思いもよらぬミズキの叫び声だった。その言葉に込めた想いなど、トウマにわかるはずもなく、ただ驚いてミズキを見るだけだった。
「だれだってするさ。君だって、そうだろう?」
つぶやくように紡がれたその言葉は、トウマも肯定するしかなかった。否定しようのない事実がある。
いま、トウマがここにいるということ事態が、それなのだ。
生きるために。
生きて、果たすために。
トウマは、多くの死を積み上げてきた。
「もっとも、この地獄絵図を描いた村人たちは、とうの昔に死んでいたがな」
「なにを言って……?」
ミズキの言葉の意味を図りかねて、トウマは、呆然とした。その上で、襲いかかってきた妖夷を迎え撃つ。
「君は、この村に来たのは、いま初めてか?」
トウマは、牛頭人身の化け物の突進をかわしながら、首を横に振った。
「違う……」
「なら、おかしいと想わなかったのか? この村に入って、なにも感じなかったのか?」
どくん。
トウマは、自分の視界が歪むのを見ていた。燃え盛る炎の熱気が、大気の層を捻じ曲げているわけでもないだろう。ただの錯覚に違いない。
「なにも感じないことを、おかしいとは思わなかったのか?」
ミズキの言葉は、一々、鋭利な刃のようだった。トウマの耳から入って、臓腑を切り刻んでいくような――
「!?」
「君が霊樹の加護の元で生まれ育ったなら、知っているはずだ。村、などという霊樹に寄り添って存在する小さな世界に入れば、人間は、安らぎと平穏を感じずにはいられない」
トウマは、目を見開いていた。ミズキの言葉だけが、トウマの世界に響いていた。妖夷の奇声も悲鳴も聞こえない。
「それは、安寧を導く光。闘争を妨げる誘惑。堕落への呼び声。龍による精神支配。永遠に我に仕えよ――そんなものが、この村にあったか?」
ミズキの言葉を完全に理解することはできなかったものの、トウマは、この村に来た当初のことを思い出して、歯噛みした。
違和感は、あったのだ。森と村の境界を越えたはずなのに、なんら安堵を覚えなかったのだから、当然だろう。
「霊樹ならそこにあるじゃないか……」
トウマは、自分の殺した妖夷の死体を見て、それから、広場の中心に聳える大樹を見た。紅土の霊樹に比べれば、大人と子供くらいの差はあるだろうが、それでも立派な大きさだった。
ただの木では、ない。
「あれは……まがい物だ」
ミズキは、言うが早いか、一足飛びに大樹の根元に到達すると、長剣を木の幹に突き刺した。刀身から噴き出した真っ赤な爆炎が、あっという間に霊樹を包み込んだ。
人間の神経を逆撫でにする不快な悲鳴が、燃え上がる樹木より発せられた。炎に包まれた大樹が、まるで生き物のように身を捩る。
「妖夷……!?」
トウマは、炎に覆われた大樹の幹の表皮に、人の顔のようなものが浮かびあがり、それが苦悶の表情のまま絶叫しているのを見逃さなかった。
「話を続けよう。この霊樹の結界もない村で、だれが生きていけるというのか。戦う術も持たない惰弱な人間は、森の悪意の前に、座して死を待つよりほかはない」
ミズキが、長剣を幹から抜くと、大樹の人面を一刀両断した。断末魔の悲鳴が、村の中に響き渡る。
「でも!」
「村人たちに会ったのなら、それこそわかりそうなものだが」
呆れたように、ミズキ。さっきまで威勢よくつぎつぎと飛び掛っていたはずの妖夷たちは、なぜか急速にその意気を失っていた。
包囲陣は崩さぬまま、こちらの様子を見守っていた。
「彼らは、妖夷だ。厳密に言うと、妖夷が村人に成りすましていたのだ」
トウマは、一瞬脳裏を過ぎった祖父の面影を必死で振り払った。その可能性も、考慮はしていた。だが、信じたくなどない。
人間が、妖夷になるなど。
「いったいなんで!?」
「食うためさ」
ミズキが、笑う。狂ったような笑み。紅土の社で見た、狂気の微笑。
「妖夷とはなにか」
ミズキが、饒舌に語りだした。
「この“森”の出現後に妖夷は現れるようになった、という。妖夷とは生まれるものじゃない。成るものだ」
ミズキの眼が、妖しい光を帯び始めていた。
「人間が死ぬ。病、老い、災害、闘争――なんらかの理由によって」
トウマは、ミズキの言葉を聴くしかなかった。もちろん、周囲の妖夷たちの動向にも気を配る必要はあるが。
「その死が満ち足りたものならばいい。安らかに霊来へ還る。だが、この世に未練や後悔、執着を残した死ならば、そこに黒い影が忍び寄る」
ミズキが自然に口にしたレイライという言葉に、トウマは、不意に懐かしさを覚えた。それは、ソウマの剣印が齎した記憶にある言葉、ということだけでは考えられない感情だった。
「それは囁く。掌からこぼれ落ちたものを掬い上げよう。見果てぬ夢を成し遂げよう。もう一度、あの素晴らしい光の淵へ」
トウマは、胸の奥から込み上げてくる感情を抑えきれずにいた。ソウマの最後が、脳裏を埋め尽くしていく。
「だが、死者が蘇ることなど、この世の道理が許すはずがない」
トウマは、刀の柄を強く握った。そうでもしなければ、自分を保てそうになかった。
ソウマはあのとき、既に死んでいたのだ。ミズキに殺されたはずなのだ。なのに、トウマの前に現れた。
剣印を携えて。
「結局、それは、もはや人間とも呼べぬ妖しい存在とならざるを得ない。人間の面影を抱く人外異形の化物に」
ミズキが、不意に、長剣を真横に振り抜いた。
「妖異」
霊樹に擬態していた妖夷の燃え盛る体が、真っ二つに断ち切られた。
「妖威」
無数の火の粉を散らしながら、支えを失った幹が、妖夷の群れに向かって倒れていく。
「妖夷」
多くの妖夷は、倒れ落ちていく炎の塊から逃れたが、火の渦に巻き込まれて押し潰されたものもいた。哀れな悲鳴が、こだまする。
「人間の果てが死ならば、それは死の果てだ」
ミズキが、ふっ、と笑った。誰に対してだろうか。
もしかしたら、涙を流すトウマに対してかもしれない。
「そして、死の果てに逝きついたものたちは、思う。こんなはずじゃなかった、こんな醜い化け物になるはずじゃなかった、人間に戻りたいだけなのに――やがて、彼らはひとつの答えを導き出した」
と、広場に群れ集った妖夷たちが、一斉に吼え始めた。まるで破滅の到来を告げるような、不協和音による大合唱。
その絶望的な叫びの嵐の中で、ミズキの声だけが、トウマの耳に届いていた。
「生きた人間の血を啜り、肉を喰らい、骨を貪り、魂を飲み込めば、人間に戻れる、と」
その言葉を聴かなければならなかったからだろう。
そして、咆哮が聞こえた。
「クロウ!?」