第一章 剣の目覚め(二)
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彼女の記憶には、影が多い。
「霊樹がおまえを選んだのだ。チハヤ――」
黒く塗り潰されたひとたち。声だけがおぼろ気ながら聞こえるのだ。いくつもの声。いくつもの言葉。
「霊樹があなたを選んだのよ。チハヤ――」
なぜか、思い出せないのだ。つい最近まで覚えていたはずなのに。いや、それすらも定かではない。
父と母の顔すらも、忘却の彼方に沈んでいるのには、愕然とせざるを得ない。
「霊樹。この村の根幹。我らが天地のすべて――」
それは違うような気がしたけれど、まだなにも知らなかった彼女には、なにがどう違うなんて説明できる筈もなかった。
確か、前任の神子の言葉。名前は、忘れた。
「神子とは、霊樹に選ばれた存在。霊樹と人間の間を取り成し、霊樹の威力をより強固に――」
やはり、顔が思い出せない。思い出そうとすると、痛みが生まれた。鈍い痛み。思い出す必要はないとでもいうのだろうか。
「あなたは、今日からここを寝所とするのよ」
本殿に祭られる御神体にでもなれ、と?
「神子に自由意思などはないのです。神子は霊樹とひとつの――」
わたしはいらない、そう言われた気がした。そしてそれはきっと正しいのだ。神子とは、人間ではないのだ。
「えっ!?」
漠たる闇を照らす光明は、ひとつだけ。いつだって、それだけなのだ。
「チハヤが神子に? あはは、冗談だろ?」
驚いて吹き出した少年の表情は、その睫毛の一つ一つの動きまで思い出せる気がする。見慣れているから、などではない。強く、強く思っているからだろうか。
「冗談……だよな?」
直前までとは打って変わった神妙な顔つきには、チハヤのほうが吹き出しそうになった。
「トウマ」
その名を口にするだけで、胸の内に光が溢れた。
彼女が物心ついたときには側にいたのだ。霊樹の神子としての役割を受け継いだあとも、彼だけは変わらぬ態度で接してくれた。
毎日のように本殿を覗きに来てくれた。余人が神子と逢うことなど許されないのに。
離れていても、いつも隣にいる、そんな気がした。
霊樹がこの村の人々にとって天地のすべてなら、彼女にとっては、彼こそがこの世のすべてだった。
そのチハヤのすべてが失われていく夢。
冷たい闇の中、こちらを見ているトウマが遠ざかっていく、そんな夢。
「遠ざかっていくだけじゃあ、なにもわからないじゃないか」
半ばあきれたようなトウマの言葉も、もっともなのだ。普通の人間にしてみれば、ただの夢だ。取るに足らない悪夢と言い捨ててしまえばいい。だが。
チハヤは、かぶりを振った。
「霊樹の見せる夢の中で、はっきりと顔のわかる人物が闇に溶けるように遠ざかっていく」
チハヤは、みずからの胸元に手で触れた。心がざわめいているのがわかる。言いたくもないことを口にするのは、辛い。だが、言わなければならない。でなければ、なにも始まらないのだ。変わらないのだ。
「それは、その人物と霊樹の関わりが断たれるということ」
霊樹がすべてのこの天地に於いて、霊樹との関わりが断たれるということは、つまり――
「この世から消えてなくなるってことか? 俺が」
トウマが、自分の両手を見下ろしながら、つぶやいた。チハヤのそれよりは大きな掌だ。よく怪我をして、その跡がそこかしこに残っているのが、傍目にもわかる。毎日、厳しい鍛錬を怠らないから生傷が絶えないらしい。
チハヤは、その手で頭を撫でられるのが、たまらなく好きだった。それだけで、子供のころの自由な自分に戻れる気がした。
それは錯覚に過ぎない。
子供の頃に戻ることなどできるはずがなかった。いや、そうでなくとも、役目から降りることなど許されない。神子になったものは、その最後のときを迎える直前まで、霊樹とともに在らねばならなかった。
「でも、その夢って絶対じゃないんだろ?」
トウマの問いかけに、彼女は、くだらない思索を断ち切った。そんなことを考えている場合ではない。
すべて、納得したことなのだから。
「うん。霊樹の見せる夢が、必ずしもその通りになることはないの。それに近いことは起きるでしょうけれど」
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「百斬衆。百もの妖夷をたったひとりで斬り殺した男を擁して結成された組織。野盗、山賊、悪鬼の類い――違うか?」
男のそれは、頭の中の古い記憶から掘り起した情報を言葉にしたような口振りだった。凍てついた緋色の眼が、ただ偏に鋭い光を発している。
「少し、違うな」
彼の見え透いた敵意に辟易しながら、ソウマは、ゆっくりと腰を伸ばした。目の前の男と対峙する上で、掃除係の老人のままではいられないだろう。意識のすべてを切り替える。ただの老人から、一介の剣士へ。
「そのとき俺が倒した妖夷の数は九十七さ」
刹那、ソウマは、箒を投げ捨てながら後方に飛び退いた。暗い剣閃がソウマの視界を両断した。断ち切られた箒が、地面に落下していくのが見えた。
「いい反応だな。さすがに腕は鈍っていない……か」
つぶやく男の右手には、いつの間にか漆黒の長剣が握られていた。すらりと伸びた刀身が美しい黒さを湛えた直剣。その柄を握る手の甲には、淡い輝きが点っている。複雑な剣の意匠。剣の霊印。
「どこがだ。危うく斬り殺されるところだったぞ」
軽口を叩いたわけではない。実際、ソウマは、背中に嫌な汗が流れるのを認めていた。わずかでも反応が遅れていたら、地面に転がっていたのは箒ではなく、真っ二つにされたソウマの体だっただろう。
見ず知らずの男に出遭って早々切り殺されるなど、歓迎できない結末に違いない。
「なんのつもりだ?」
意識が戦闘に向けて尖鋭化するのを感じながら、ソウマは、軽く半身に構えた。固くなってはならない。反応が鈍くなる。攻撃に対応できなくなる。
「試したのさ。あんたが本当に白髪鬼と恐れられた百斬衆の頭目なのか、な」
それがどうしたとでも言わんばかりに、男。
「ふん。物は試しで斬殺されては敵わんな」
「本物なら避けるだろう? あの程度の斬撃くらい」
やはり、悪びれることもない。当然のことをしたまで、とでも言いたいのだろう。もっとも、確信がなければ、抜き打ちに斬りつけてくるような真似はしなかったのだろうが。
「で、真贋を見極めてどうするつもりだ?」
訪ねながらもソウマには、男の目的を理解しつつあった。百斬衆の頭目を探す、青河からの来訪者――
「返してもらいたいだけだ。四十年前、我が青河より奪い去ったものを」
男の双眸に、強い光が灯ったように見えた。意識を射抜くような眼光は、歴戦の猛者でも持ち得ない力を秘めているように思えた。が、ソウマは、張り合わない。意志をぶつけ合うのではなく、相手の気を逸らすことでやり過ごそうとした。
「霊来文書かい」
「察しがいいな。さあ、いますぐ返してもらおう。あれは青河の民が、天より預かったものだ」
そうは言いながらも、男の口振りからは、その言葉を信じている様子はまるでなかった。霊来文書など、彼にとってはどうでもいいのかもしれない。
それでも、否定する。
「そりゃあ無理だ」
即答とともにソウマは、半歩、右に動いた。強烈な剣圧が、ソウマの左頬を撫でる。男が、黒き剣を振り下ろしたのだ。
「おまえさんのような男に渡せばどうなるかくらい、この老いぼれにだってわかるさ」
ソウマは告げながら、透かさず後ろに飛んだ。間合いを取りながら、力を解放する。
瞬間、ソウマの右手の甲に剣を示す印が浮かび上がり、その印から爆発的に光が溢れた。光は、瞬く間にソウマの手の中に収斂し、巨大な刀を形成した。
全長がソウマの身の丈ほどもある大刀は、まるで包丁のような形状をしていた。分厚く、巨大な刀身は、人間ひとりくらいならその腹に乗せても無事かもしれない。もっとも、人間の膂力では、その状態のまま持ち上げることなどできないだろうが。
剛刀・苦断。ソウマの愛刀であり、その刀身には長年に渡る戦いの記憶が刻まれていた。
着地とともに、ソウマは大刀を構えた。柄を握る両手にかかる重みが、彼の意識をより鋭くしていく。
「あれは元来、我らのもの。取り戻すのは道理だろう?」
対する男は、悠然としたものだった。余裕なのだろう。こちらの剣気など、微風ほどにも感じていないのかもしれない。ソウマの額に汗が浮かんだ。想像以上に厄介な事態だと、改めて認識したのだ。
「道理だけで世が収まるのならいいが、な」
「ふむ。どうやらよほど渡したくないようだな」
呆れたように、男。殺気は愚か、闘気の類いさえない。まるで道端で立ち話でもしているようだった。が、ソウマはむしろ怖れを抱いた。男に、得体の知れないものを感じたのだ。
「まあいい、大体の情報は――」
男が、みずからのこめかみを指で叩く。
「ここにある」
言うが早いか、男の足が地面を離れた。刹那、
「!」
ソウマの両手に重い衝撃が走り、眼前に火花が散った。男の強烈な斬撃を、ソウマの剣が防いだのだ。間一髪、だった。反応がわずかでも遅れれば、直撃を受けていた。
「渡さないのなら、それもいい」
ふたつの剣が重なっていたのは、ほんの一瞬だけ。即座に離れた剣は、再び刃をぶつけ合い、金属音を響かせた。高速の斬撃の応酬は、静寂に支配されていた境内に破壊的な旋律を轟かせる。
「結果はなにひとつ変わらないのだから」
剣をぶつけ合ううちに、男の剣速が劇的に向上していくのを目撃して、ソウマは、驚愕するしかなかった。男の実力は、彼がいままで出逢ったどの剣士よりも、狂暴で凶悪に違いなかった。圧倒されていく。
「結果?」
ソウマは、問い返しながらも、防戦一方の自分に不甲斐なさを感じていた。だが、それも仕方の無いことかもしれない。全盛期の半分の力もでないのだ。これでは、まともに戦えというほうが酷だろう。
(年を取りすぎたな)
それは、諦観などではない。事実に過ぎないのだが、その圧倒的な現実が、ソウマに敗北を直視させた。死を認識させた。
「まずはあんたを殺し、その剣印を頂くとしよう」
男の緋の眼が妖しく輝き、暗い剣気が爆発した。
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『!?』
トウマとチハヤは、ほとんど同時に立ち上がって、本殿の扉に目を向けた。閉ざされた扉の向こう側から、凄まじい爆音と振動が轟いてきたのだ。
「いまのはなんだ?」
トウマは、全身に突き刺さるような禍々しい気配に恐れを覚えた。初めて感じる種類の気配だった。体の震えが、なかなか収まらない。
「いますぐ教えて――」
唐突につぶやいて、チハヤが、そっと左腕を掲げた。神子のために誂えられた白を基調とした装束から覗く、煌めくほど白い肌に淡い光の線が走る。幾つもの光線が、少女の皮膚の上で複雑に絡み合い、神秘的な紋様を形成していく。
トウマには、彼女の身になにが起こっているのか理解できないが、それが神子の力と言うべきものだということは知っていた。
霊樹との同調。
(あの眼は――)
チハヤの瞳が、透き通って輝いていた。その眼のとてつもない美しさには、だれが見ても息を飲むだろう。が、トウマは、人間離れしたような感じがして、その輝きだけは、どうにも好きになれなかった。
「ええ……そう、わかった」
不意にチハヤの全身から光が失せ、瞳に生気が戻る。彼女は、いきなりトウマの手を掴むと、
「行きましょう」
「どこへ――」
「ソウマお祖父様が危ないのよ! 助けなくちゃ!」
いつになく強い口調で、チハヤ。まなざしにある種の決意のようなものが灯っているように見えた。またしても、トウマの胸の内がざわめいたが、そればかりに構ってもいられない。
「えっ――」
トウマは、彼女の言葉の意味を理解するまでに多少の時間を要した。さっきから調子がおかしい。歯車が噛み合っていない、そんな気がする。もっとも、
「ああっ!」
冷静に考えればわかることだ。トウマがここに来るまでで境内にいたのは彼の祖父くらいである。境内でなにかがあったなら、ソウマの身に危険が及んでいたとしても不思議ではない。
助けなくてはならない。
祖父はいつも、自分は強いと笑っているが、だからといって放って置くことはできないだろう。
トウマにとって、ソウマとは、ただの祖父というよりも育ての親であり、父のような存在だった。彼が、こうしてチハヤと逢えるのも、祖父の力が大きい。
チハヤにとっても、親しい人物に違いない。
ソウマは、毎日のように境内の掃除をしていて、たまにチハヤの話し相手にもなってもいたらしい。どんな話をしていたのかは、トウマには見当もつかないが。
「行こう!」
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例えばそれは突然の暴風のようなものだろうか。
(いや――)
全身を襲う激痛の中で、ソウマは、苦々しくかぶりを振った。視界がわずかにぶれる。拍子に左腕を見ると、肘から先がなくなっていた。いつの間にか斬り飛ばされていたらしい。傷口からは、とめどなく血が溢れていた。
(これは結果だ。俺が多くを奪ってきたことに対する――)
またしてもかぶりを振る。痛みはますますひどくなるが、既にどうでもよくなっていた。ただ、敵からは注意をそらしてはならない。
(これが数多の罪に対する罰なら、これほど馬鹿馬鹿しいことはないな)
ソウマは自嘲して、右手だけで剣を構えた。大剣を片手で扱うなど、この状態では荷が重すぎるが、もはや致し方ない。ありったけの力を込めて、敵を見据える。
「命乞いはなしか?」
つまらないとでも言いたげに、男。赤く輝く長剣を軽く肩に乗せて、こちらを見やっている。距離が遠い。
「当然!」
ソウマは、吼えるように答えて、地面を蹴った。元より、剣士の戦いに命乞いは意味をなさない。道理を覆すことなどできない。掟には、従うしかないのだ。
「いい声だな。だが――」
男が、飛んだ。一足飛びに間合いを詰めるソウマを嘲笑うかのように、その視界を飛び越えていく。反応できない。血を流しすぎたのかもしれない。もはや、肉体はソウマの我侭に付き合いきれなくなったようだった。
「あんたはとっくに死んでいるんだ。剣を振るう価値さえ、ない」
着地して振り返ったソウマが見たのは、拝殿の向こう――本殿に向かう男の背中だった。悠々とした足取りは、勝利を確信しているからだろう。結果は決まったのだ。
(待ってくれ! その先には、トウマとチハヤがいるのだ!)
手を伸ばすソウマの喉から迸ったのは、叫び声などではなかった。炎のように熱い液体。
血だ。