第四章 犬と村と再会と(五)
村が、燃えている。
赤々と、誰が見ても明らかな炎に包まれている。
点在する小さな家屋も、樹木の数々も、雑草も、全部、すべて、なにもかも。
燃え盛る紅蓮の炎は、渦を巻いて天に届き、夜空を真っ赤に染め上げようとしている。
トウマは、脳裏を過る既視感に、吐き気すら覚えて立ち止まった。どす黒い感情が逆巻き、さまざまな映像が断片的に閃いた。
「ミズキ!」
トウマは、絶叫した。村に地獄をもたらすのは、いつだってあの男だ。
「トウマ……!」
先行していたクロウの悲鳴が聞こえた。
「どうした?……!?」
クロウに駆け寄ったトウマは、その周囲に散乱した死体を見た。一刀の元に切り捨てられたそれらは、しかし、人間の姿をしていなかった。
いや、それは必ずしも正しくはない。
燃える小屋の軒先にある死体は、頭頂部から真っ二つに断ち割られた老人のものだった。それならば、ただの人間の死体に過ぎない。しかし、違う。
その死体の両腕の肘から先が、黒々とした体毛に覆われており、指先からは鋭い爪が生えていた。
別の女の死体は、両腕から白い羽毛が生えており、まるで翼のようになっていた。
ほかにも、下半身が鋼の体毛に覆われたものや、背中からいくつもの手を生やしたもの、虎の頭を持つ死体もあった。
「なんなの!?」
クロウが錯乱したように声をあらげる。無理もない。こんな惨状を見せられれば、だれだって狂いたくなる。
「わかるかよ!」
叫び返しながらも、トウマの脳裏には、ひとつの可能性が過っていた。
『妖夷に成り果てたよ。俺は』
トウマは、咆哮した。
驚くクロウに眼もくれず、村の中を疾走する。狂乱した敵意が蠢く炎の中、悲鳴は聞こえない。代わりに響くのは、化け物の奇声だ。
数えきれないほどの妖夷が、小さな村をところ狭しと飛び回っている。いや、それだけではない。村を囲む森の闇からも、無数の殺意が集まってくるのがわかる。
不快な気配。
人間への敵意のみで構成された憎悪、嫉妬、憤怒。
やがて、トウマの前方に、村の広場が見えてきた。小さな霊樹を中心とする、広い空間。
(霊樹は……)
それは、遠目にも健在だった。枝葉ひとつ欠けることなく、そこに存在していた。
結界に護られているはずの村の広場には、おびただしい数の死体がそこかしこに転がり、大量の血液が地面を塗り潰している。
その死体の数を上回る量の妖夷が、広場を取り囲んでいた。
その真ん中に、ひとりの男が立っていた。長剣を手にした男は、平然としている。いやむしろ、数多の敵意に対して、まるで涼風でも感じているかのようですらあった。
男は、間断なく飛びかかって来る妖夷に対し、最少の動作で迎え撃つ。
一閃。
それだけで、人間じみた妖夷の体が両断され、血や内蔵をばら蒔いた。
長い白髪がわずかに揺れ、女のような顔に、皴ひとつ刻まれない。
緋色の眼だけが、輝いている。
「ミズキ!」
トウマの叫びに、前方の妖夷が一斉にこちらを振り返った。禍々しくも醜悪な、半ば人間の姿をした化け物たち。狂暴なまでの殺意を顕にしながらも、トウマを値踏みするように視線を巡らせる。
トウマは、右手に剣を具現した。冷ややかな感触が、わずかでも冷静さを思い出させてくれた。
半人半妖の化け物が一体、トウマに向かって足を踏み出した。頭部が牛とも人とも付かないものであり、逞しい肉体は体毛に覆われかけている。なにもかも半端で、哀れな化け物。
その鈍重な速度に、トウマは、ひどく冷酷な気持ちになった。
「邪魔だ」
踏み込むと同時に斬り倒す。噴き出す血を浴びながら、倒れいく化け物の体を踏み越えて、空中に躍り上がった。眼下に群がる妖夷どもも、化け物の包囲陣も飛び越えていく。
トウマは、広場の地面に着地すると、眼前の敵を睨み据えた。剣を携えながら、逸る心を抑えつける。
ミズキが、妖夷の体を切り飛ばしながら、こちらを見た。表情にわずかな驚きが広がる。
「君は……だれだ?」
「トウマぁ……」
凄まじい殺気を発して駆け出していった少年の背中が、人間とも妖夷ともつかない異形のものどもの影に隠れていく。
クロウは、その様を呆然と見ていた。
黒火の村という小さな集落の、入り口から霊樹の元へと続く通り。その両側に建っていたいくつかの家屋は、燃え盛る炎に包まれて、まるで火柱のように聳えていた。
猛烈な熱風が吹き荒れ、クロウの顔をなぶった。
彼は、ただ立ち尽くしていた。
クロウの生まれ育った故郷が、地獄の様相と化したのだ。追い出されたとはいえ、コノ村を愛する気持ちに変わりはなかった。
だから、あの丘にいたのだ。
あの丘からなら、村を見渡せる――
クロウは、一部の化け物たちがこちらを注視していることに気づくと、すぐに移動を開始した。行き先などは決めていない。とにかく、一箇所に留まるのは危険だった。
悪意と敵意の入り混じって濁ったようなまなざしを浴びながら、全力で駆け抜けていく。
脚力には自信があった。
子供のころから、誰にも負けなかった。
クロウが、鈍重な化け物どもの間を擦り抜けると、突然、横合いから鳥頭の男が飛び出してきた。
「うわっ!」
驚いたものの、反応は極めて正確だった。その男が、こちらを捕まえようとして両腕を広げた瞬間に、クロウは、その化け物の足元に滑り込んだ。
「ごめんなさい!」
クロウは、鳥男の足を払って転倒させると、立ち上がって走り出しながら、なぜか謝ってしまった。すぐに謝らなければあとで怒られる、そんな気がしたのだ。
なぜ?
クロウの脳裏に浮かんだ疑問は、つぎつぎと迫り来る化け物の群れの前に消し飛んでいた。
妖夷と人間の中間に位置するような化け物たち。その顔には見覚えがあるような気がしたが、いまは、そんなことを考えている場合ではなかった。
化け物どもは、背後から追いすがってくるだけではない。前方はおろか、左右からも幾多の殺意が近づいてくる。
しかし、その速度は極めて緩慢で、それだけが救いのように想えた。
いや、救いなどこの村のどこを探しても見当たらないのかもしれない。
それでも、クロウは、救いを求めた。この地獄の業火に焼かれ、滅び去ろうとする村の中で、必死になって走っていた。
村人はだれひとり見つからない。どこをさがしても、燃え上がる家屋の中を覗いても、人外異形のものしか見当たらないのだ。
そんなとき。
「……?」
不意に懐かしい匂いを見つけて、クロウは、鼻をひくつかせた。焼け焦げた肉や血の臭いに混じって、わずかにだが、花の匂いがした。
クロウの母が、いつも漂わせていた花の匂い。なんという花かは知らなかったが、クロウは、子供のころからその香りが好きだった。
「母さん!」
クロウは、一声叫ぶと、地面を蹴って駆け出した。
もはや、化け物の群れに遠慮は要らなかった。母がいる。生きている。それだけでよかった。その事実さえ確認できれば、ほかのことはどうでもいい。
いや。
(トウマは?)
クロウは、村の中心を一瞥した。高く聳える霊樹の元、無数の化け物が群れ集い、トウマの姿はまったく見えない。
だが、クロウの嗅覚は、トウマの無事を認識していた。血を流してもいないのだろう。
クロウは、ほっとすると、視線を前方に戻した。
村の外れ。
森との境界。
村を焼き尽くす炎からは遠ざかり、夜の闇が、わずかばかりにその存在を主張するかのようにうずくまっている。
その闇の中に、だれかがいた。黒髪の長い、女性。淡い桃色の着物を身に付け、夜空を仰いでいる。
「!」
クロウには、目を凝らさずとも、その人物がだれか認識できた。研ぎ澄まされた嗅覚が、教えてくれる。夜風に運ばれる森の匂いの中に漂うのは、母の香りだった。
「母さん!」
クロウは、歓喜と興奮に涙すら浮かべながら、その女性の人影に駆け寄っていった。疲れていたはずの体が、異様に軽かった。
いくつもの夜空が、クロウの脳裏を駆け抜けた。独りで過ごしてきた無数の夜。どうしようもなく寂しくて、眠ることすらままならなかった日々。
ずっと。
村を追い出されてから、ずっと、このときを待ち望んでいたのだ。
母と再び巡り合えるこの時を。
「クロウ!」
こちらを振り返った女性の顔は、思い描いた母――アスカの顔そのものだった。常に優しい微笑を湛えた顔。
その眉も眼も、鼻も唇も、母のそれだった。
クロウは、嬉しさのあまり、泣き叫びたくなった。
「よかったわ、生きていて」
その声音は、いつものように柔らかく、暖かい。少しだけ、以前と違うような気がしたけれど、そんな些細な違いなど、クロウには、どうでもいいことに違いなく――
「母さん!」
クロウは、母の胸の中へ飛び込んでいた。
「よかったわ、本当に」
彼の小柄な体を抱きとめたアスカが、両腕でクロウを包み込んでいく。
クロウは、久しぶりの母の感触に、胸がいっぱいになった。嗅ぎ慣れた母の匂いが、鼻腔を満たし、クロウの思考を弛緩させていく。
「あなたがほかの連中に食い殺されなくて、本当によかった」
頭のすぐ上から降ってきたアスカの囁きに、クロウは、耳を疑った。なにか、奇怪な言葉を発しなかったか?
アスカの細い手が、クロウの頭を撫でた。心の底から我が子を慈しむように。
「母さん……」
クロウは、母の手の温もりに目を閉じた。母の愛情の前には、さっきの違和感など忘れてしまう。このまま眠りに付きたい誘惑に負けそうになるが、それはかぶりを振って阻止した。
眠り落ちれば、このひとときがすべて、夢幻と消え失せてしまうのではないかという恐怖が、クロウの意識を覚醒させた。
いまは、刹那でも長く、母の愛を実感していたかった。
「?」
不意にクロウは、圧迫感を覚えた。クロウを抱き締めるアスカの左腕に、強い力が込められたのだ。
まるで獲物を逃さないように。
「あなたを喰らうのは、わたし」
小さな囁きには、毒があった。その毒は、瞬く間にクロウの思考を停滞させ、肉体の反応を著しく低下させた。
クロウは、ぼんやりと、アスカの顔を見上げた。母の言葉の意味が、理解できなかった。
「あなたの生き血を啜り、あなたの肉を喰らい、あなたの骨を貪り、あなたの魂すらも飲み込むのは、わたしなのよ」
甘く優しい声音だった。聞き分けのない子供に言い聞かせるような、慈母のような囁き。
「そのために育ててきたのよ?」
クロウは、ようやく、アスカの言っていることの意味を理解したが、それは、この夢のひとときの終わりを示していた。
見上げていたアスカの顔面に無数の亀裂が入った。瞼のような亀裂。そのすべての亀裂が、上下に開く。
「あなたを喰らう、ただそのためだけに!」
無数の緑の眼が、クロウを見て、笑った。
クロウは、絶望した。