第四章 犬と村と再会と(二)
トウマが空腹を満たすことが出来たのは、クロウが持ってきた様々な果実のおかげだった。果物だけでもお腹が膨れたのは、ここのところなにも口にしていなかったせいかもしれない。
久々に生きた心地がして、トウマは、周囲に散乱した果物の残り粕を見回した。色とりどりの果実は、森の中を走り回って集めたのだというのだが。
「トウマ、おいしかった?」
森からはぐれるように立つ木の根元に、クロウは腰を下ろしていた。その屈託のない表情からは、とても、森の中を走り回っている姿は想像できなかった。
森の中には、妖夷が蠢いているのだ。人外異形の化け物であり、悪意と殺意の権化。人間の敵にして、死の同胞。
そんな化け物が、人間の到来をいまかいまかと待ち構えている森の中を、どうやって走り回るというのだろうか。
トウマが、シグレたちと青河の村に向かったとき、何事もなかったのは、間違いなくミナの力によるものであり、普通ならば、目的地に辿り着くまでに何度となく、妖夷の襲撃を受けていたはずだ。
「おいしくなかったの?」
クロウが、そのくりっとした瞳を哀しそうに潤ませたので、トウマは、かなり慌てた。考え込んでしまったのが不味かったのだ。
「あ、い、いやおいしかったよ。本当」
空腹のあまり、果物の味を噛み締める余裕なんて持ち合わせていなかったトウマにとって、その言葉は、間違いなく嘘ではあったが。
「よかった!」
クロウが、そのあどけない表情をぱっと明るくさせたので、トウマは、ほっと胸を撫で下ろした。そして、すぐに想うのだ、
どうして、こんな見知らぬ少年の機嫌ひとつに右往左往しているのだろう、と。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑い飛ばしたくなったものの、トウマは、目の前で赤い果物にかぶりついた少年のことが、どうしようもなく気になって仕方がないのだ。
なにかが、引っかかる。
「そうだ、クロウ」
トウマは、気力も充溢した身体を立ち上がらせると、残った果物の芯と睨めっこをしている少年に声をかけた。
「どしたの?」
「手伝って欲しいんだ」
トウマは、河岸の岩場付近に積み上げられた亡骸を指し示した。
「彼らを葬る」
痛みが、あった。
トウマの胸の深奥で疼くその痛みは、自分が、わずかばかりでも人間であることの証であるように思えた。が、そんなものは戯言に他ならない。
トウマは、その意思はどうあれ、結果的に青河の村の罪もない人々を巻き添えにしたのだ。
自分が生き抜くために。
「うん、わかった」
一も二もなく同意してくれたクロウに感謝しながらも、トウマは、大量の遺体をどう葬るか考えていた。
その死因のほとんどすべてが、青河の洪水に飲み込まれての溺死だろう。中には、激流に粉砕された建物の破片に当たって死んだものもいるかもしれないが、そんなことを考えていても仕方がない。
「土に埋めるの?」
クロウが、きょとんと訊ねてきた。こちらの考えを見透かすような言葉だった。
「ほかに方法がないだろ?」
とはいえ、あれだけの亡骸を埋葬できるほど広く開けた場所なんてそうそうないだろうし、あったとしても、遠ければ意味がない。
河岸に埋めるなんて、もっての外だった。
と、クロウがなにやら懐を探っているのが、トウマの目に入ってきた。しばらく見守っていると、
「ほら、これ」
クロウが、嬉しそうにトウマに差し出してきたのは、小さな巾着袋だった。
「なんだ?」
トウマは、その袋を受け取ると、包みを解いて中身を取り出してみた。中に入っていたのは、黒い小石だった。滑らかな表面が、陽光に輝いている。
「これは?」
トウマは、その小石をつまむと、空に翳してみた。見たこともない石だった。
「黒火の火吹き石だよ。聞いたことない?」
クロウの困ったような口ぶりに、トウマは、頭を振った。
「いや……」
「有名って話なんだけどなあ。村の名前になるくらいだし」
と、クロウは言ったものの、トウマは、黒火の村という名前すら知らなかった。
「俺が世間知らずなだけだよ」
トウマは、自嘲するように笑った。実際その通りなのだから仕方がない。紅土の村の外のことなど、ほとんどなにも知らずに育ってきたのだ。
祖父も父も母も、外界のことは何一つ教えてくれなかった。
もっとも、あのままならそれでよかった。霊樹の結界の中という小さな世界で生きていくための知識だけで、十分だったのだ。
「そうなの?」
クロウが、目を丸くした。
「ああ、なにも知らないんだ」
「じゃあぼくが教えてあげる!」
クロウが、嬉々としてトウマの手から小石を奪い取った。その手際のよさに、トウマは目を見張った。目にも留まらぬ早業とはこのことだろう。
倒れかけたトウマの元に駆け寄ってきたときも感じたことだが、クロウの身体能力は尋常ではないようだった。
人外に等しいトウマの眼ですら捉えきれない速度――それがあれば、森の中をひとりで走り回ることも可能かもしれない。
「火吹き石は、その名の通り火を吹くんだよ。石の表面を擦ると、ね」
そういうと、クロウは、小石を河岸に向けて掲げ、軽く擦って見せた。
刹那、漆黒の石の表面に淡い光の紋様が浮かび上がり、その中から真っ赤な炎が空中に吐き出された。炎は、わずかに周囲の気温を上昇させると、あっという間に霧散する。
「ね?」
クロウの自慢げな顔はむしろ愛らしいのだが、トウマは、火吹き石の表面に浮かんだ紋様に気を取られていた。
それは、トウマの右手の甲に刻まれた剣印にどこか似ていて、また、神子がその強大な力を行使する際に顕れる紋様にも少し似ていた。
「これがあればぼくにだって火が使えるからって、母さんがくれたんだ」
「?」
トウマは、クロウの言葉の意味がわからず、少年の顔を覗き込んだ。しかし、クロウが口にしたのは、トウマの疑問とは別の話だった。
重要な話ではあったが。
「ぼくの村じゃ、死んだ人は燃やすんだ。土に埋めた死体に悪い霊がつかないように。死体に残ってしまった死者の霊が、天に昇れるように」
「じゃあ、行くぞ?」
トウマは、河辺の岩場付近に積み上げられた死体の山の前に立つと、火吹き石を高く掲げた。
隣のクロウが、何も言わずにうなずく。
青河の激流に飲まれ、わけもわからず死んでいったひとびとの無残な姿を眼の前にして、トウマは、背筋が凍るような感覚を覚えていた。
大量の水を含み醜く膨張した数多の顔が、恨めしそうにトウマを睨んでいる――そんな錯覚すらあった。
それもそのはず。
あのとき――霊樹の湖の中で、シグレを斬り殺さなければ、こんな事態にはならなかったのだ。ミナが怒りに我を忘れることもなければ、きっと、青河の憤怒がすべてを押し流すこともなかった。
トウマが、シグレに斬り殺されていれば、青河の村のひとびとが死ぬことはなかった。
トウマひとりの死だけが、あの湖に沈むだけで済んだはずなのだ。
だが、トウマは、抗った。眼の前に突如として現れた好機に飛びつき、シグレを斬殺した。
その感触は、いまでもトウマの手の中で疼いていた。どこか満足げなシグレの表情も、放心してしまったミナの瞳も、忘れることが出来ない。
修羅の道理。
トウマは、歯噛みした。死体の山の前で思い返すのは、シグレとミナとの、わずかばかりの交流についてであり、結局のところ、彼らについてはなにも知らないのだという事実であった。
トウマは、火吹き石の表面を強く擦った。
(俺を恨むなら、恨んでくれて構わない)
漆黒の小石に紋様が浮かびあがると、死体の山に向かって、灼熱の炎が吐き出された。
(あなたたちの死は、全部俺のせいだから)
トウマが擦るたびに噴き出す炎は、やがて死体に引火すると、少しずつ、全体に燃え広がっていった。人間の肉が焼ける臭いが、周囲に漂っていた腐臭に混じる。
(でも、俺は往く)
トウマは、紅蓮の炎に包まれていく無数の亡骸を見据えていた。年齢性別を問わず、数え切れない人間の死体が炎と燃え、尽きていく。
またしても、夥しいほどの死を喰らった。
生きるために。
往くために。
(そう。往くと決めた)
どこへ?
目的地などはなかった。
ただ、往くのだ。
剣の向かう先へ。
トウマは、青河の村人の亡骸が燃え尽きるまで、火吹き石を擦っていた。何度も、何度も。
石から噴き出す炎の熱気に、指先が火傷を負い、どれだけの痛みを訴えようとも、構わなかった。
ただ、最後まで見届けなければならない、そんな気がした。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
クロウが、トウマに尋ねてきたのは、水死者たちの亡骸が燃え尽きてからだった。
トウマは、火吹き石を掲げたまま、呆然と、焼き尽くされて骸のみとなった亡骸の山が、吹き抜ける風になぶられるのを見ていた。
火吹き石の火力では、骨まで溶かすことなどできるはずもない。
うず高く積み上げられた人骨の山は、地獄の一風景のようですらあった。
一拍の間を置いて、うなずく。
「ああ」
それからトウマは、クロウに目を向けた。少年の大きな瞳には、涙が揺らめいていた。それも当然だろう。年端もいかない少年が耐えられるようなものではない。
「なんであんなにたくさんのひとが、死んでしまったの?」
クロウの当たり前の疑問に、トウマは、言葉を詰まらせた。
「それは――」
いくつもの声が聞こえた。青河の村のみを考える老人たち。ミナの無事のみを望む男。シグレの死に絶望した少女。
青河の慟哭。
「俺のせいさ」
トウマは、小さくつぶやくと、手の内に在った火を吹く小石をクロウに手渡した。
「?」
疑問符を浮かべるクロウの小さな頭を、トウマは、軽く撫でた。
「ありがとう」
トウマは、骸の山を一瞥した。そのまま放っておくことはできないだろう。どこかに埋葬するべきだと思った。
「トウマのせいって?」
トウマは、クロウの問いを背中で聞いていた。骸の山に向かっていた。
「どういうことなの?」
クロウは、知りたくて仕方ないのだろうが、トウマには、紡ぐべき言葉が見当たらなかった。
事実を告げてもいい。
だが、それをして、どうなるというのか。
見知らぬ地の見知らぬ少年にすべてを話して、なんになる?
どうにもならない。なにも変わらない。なにひとつ、きっと。
故に、トウマは黙っていた。
「トウマ……?」
クロウの哀しそうな声音は、トウマの心にちくりと刺さった。
「トウマは、これからどうするの?」
クロウがそう言ってきたのは、青河の村人の骸を、青河と森の境界辺りにあるわずかに開けた場所に埋葬してからだった。
大量の亡骸である。肉も臓腑も焼き尽くされて骨だけになったとはいえ、量が量だった。
お昼前に始めた埋葬作業は、夕刻過ぎになってようやく終わった。クロウが、森の中から見つけてきた大きな岩を墓標とした。
「往くさ」
トウマは、クロウに答えながら、その前に空腹をなんとかしたいと考えてもいた。長時間に及ぶ埋葬作業は、トウマの体力をほとんど奪っていった。
「どこに?」
「当てなんてあるわけないだろう?」
地面に座り込んでこちらを仰ぐクロウの純真なまなざしに、トウマは、笑ってしまった。彼の頭に手を置く。
「俺はなにも知らないんだ」
自嘲する。
本当に、村の外界については何も知らなかった。村の外には、森だけが広がっていると、半ば信じてすらいたのだ。
これはだれを恨めばいいのだろう。なにも教えてくれなかったひとたち? それとも、なにも知ろうとはしなかった自分自身だろうか。
(悪いのはいつだって、俺、だよな)
トウマは、諦めるように胸中でつぶやくと、クロウの嬉しそうな視線に気づいた。
「どうしたんだ?」
「えへへ」
照れたように笑う少年の顔は、いつも以上に幼く見えた。
「トウマに撫でられると、なんか心が暖かくなって、それで嬉しくって」
トウマは、微笑した。トウマもまた、クロウの笑顔を見ていると、暗い胸の奥に暖かい光が差し込んできたような感覚を抱いた。
チハヤの死から此の方、こんな気持ちになったことはなかった。安らぎなど、どこにも見当たらなかったのだ。
「当てがないんだったら、黒火の村まで案内してもいいよ?」
クロウは、トウマの手の中から逃れると、悪戯っぽく笑った。それは、願ってもない申し出だった。
「いいのか?」
「うん。今朝だって、トウマが起きるまでの間に案内してきたところだもん」
その言葉には、さすがにトウマも愕然とせざるを得なかった。
「俺以外にも生存者がいたのか!?」
衝撃のあまり声が大きくなったのは、仕方がないだろう。あの激流に飲まれて助かった人間が、自分以外にもいるという。それは、ありえないことのようにも思えた。
「うん」
クロウが、こちらの迫力に気圧されたかのように、こくりとうなずく。
「なんでそれを早く言ってくれなかったんだ!」
トウマは、叫んでから、しまった、と想った。つい取り乱してしまったが、クロウに悪気があるわけがないのだ。生存者の有無を隠す必要が、どこにあるというのか。
「だって、トウマが、トウマが……」
急に泣き顔になった少年に、トウマは、ただひたすらに慌てた。もとより、クロウを責める気はない。衝撃が強すぎて、動揺してしまっただけなのだ。
「いや、ごめんよ。怒ったわけじゃないいんだ」
トウマは、クロウをなだめるのに必死になった。元来トウマは、なだめ、すかし、持ち上げ、こき下ろす、といったことが得意ではない。
「本当?」
いまにも零れ落ちそうな涙を拭うクロウの姿は、どこか寒さに震える子犬のように見えた。
「ああ。本当だよ」
トウマは、クロウの頭に手を置いた。優しく撫でる。その一連の動作は、身に馴染んだものであり、自然と出来ていた。
(そう言や、チハヤも頭を撫でられるのが好きだったな)
トウマの感慨は、クロウの嬉々とした声に打ち破られる。
「よかった!」
その笑顔は、いつだって太陽のように眩しい。
トウマは、その笑顔に微笑を返すと、クロウにさっきの話の詳細を求めた。
「で、クロウが村まで案内したのは、どんなひとだったんだ?」
「ん、なんか長い男のひとだったよ」
「長いって、おい」
「髪の毛が真っ白で、女のひとみたいな顔をしてた」
「ん……?」
トウマの脳裏に過ぎったのは、霊樹の社の本殿に踏み込んできた鬼の姿。中性的な顔立ちは、女といっても通じるだろうか。確かに長身であり、白髪だった。
(まさかな)
紅土を滅ぼした男が、その道中に青河の激流に巻き込まれ、トウマと同じ河岸に流れ着く――そんな奇跡のような偶然が、あるのだろうか。
「名前は……そう、確かミズキ!」