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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第四章 犬と村と再会と(一)

 冷ややかな夜気の中に入り混じる無数の悪意を感じて、トウマは、意識を取り戻した。完全な状態ではなかったが、文句も言っていられない。

 激痛が、全身の至るところに残っていた。しかし、それはまた自分が生きている証でもあった。

 そして空腹。ここ何日もまともに食事をしていないような気がする。

(こんな状況で……)

 トウマは、苦笑を漏らしながらも、その瞬間に生じた小さな痛みに顔を引きつらせた。いや、彼が表情を歪めたのは、痛みだけが原因ではなかった。

 生きている。

 まだ、性懲りもなく。

 目を閉じたままでも、水辺であることはわかる。まるで小川のせせらぎのような、水が静かに流れる音が聞こえていた。頬に感じる冷たい土の感触は、どこか心地よかった。下半身が水に浸かっている状態は、速くなんとかしたほうがいいのだろうが。

 目を開いて、視界に飛び込んできたのは、穏やかな月明かりを受けてきらきらと輝く、膨大な青河の流れだった。その水量は想像を絶するほどであり、トウマの常識など粉微塵に打ち砕かれていた。

 青河の村があった中州を抱いていた場所よりも川幅が広いのは、下流にいるからに違いないが、それにしても莫大な量の水が流れていく。

 その大量の水が流れる音が、まるで小川のせせらぎのように聞こえていたのは、なにが原因なのか、水勢が弱くなっていたからに他ならない。

 トウマは、頬の土を払うと、河に浸かっていた足を引き上げ、ゆっくりと伸びをした。体の節々に痛みが走ると、それはまるで合唱でもするかのように彼の全身を暴れ回った。

 トウマは、苦悶の声を漏らしながら、しかし、脇腹の傷口が完全になくなっていることに気づき、自嘲するようにつぶやいた。

「化け物め」

 河岸を見回すと、おびただしい数の溺死体が打ち上げられていた。青河の激流に飲まれていった青河の村人たちだろう。上流から、天を覆うほどに押し寄せてきた洪水から逃れる術など、あるわけがない。

 わけもわからぬまま飲み込まれ、死んでいくしかないのだ。

「じゃあなんで俺は、生きてる!」

 トウマの叫び声は、慟哭そのものだった。魂から湧き上がる暗い嘆きは、破壊的な奔流となって肉体を突き抜けていく。が、ただの叫びが世界にもたらすものなどなにもない。ふたたび、ささやかな水の音色が静寂を彩るだけだ。

 それでも、トウマは考えざるを得ないのだ。

 シグレは人間だといった。

 しかし、実際はどうだろう?

 人間ならば死ぬしかない激流に飲まれても平然と生き延び、瀕死の重傷を負ったとしても、いつの間にか完治している。

 これを化け物と呼ばずして、なにを化け物というのだろう。

「俺は……なんなんだよ」

 叫ぶだけの力すら失って、トウマは、空を仰いだ。晴れ渡った夜空に雲は見当たらない。月の凍てつくような青白い輝きと、黒き空を彩る数え切れないほどの星々の明かりが、トウマの行き場のない感情のすべてを吸い上げていくようだった。

 夜空。

 霊樹の天蓋に覆われた村で生まれ育った彼にとって、それは、必ずしも慣れ親しんだ存在ではなかった。いまは頭上から降り注ぐ月の光も星明りも、村の中では、霊樹の枝葉に遮られてしまうのだ。

 トウマにとって、夜空の美しさは、息を呑むほどに素晴らしいものだった。

「……?」

 トウマは、不意に視線を感じた。背後の森から感じるどす黒い悪意や狂気染みた殺意とは異なる、悲しげなまなざし。

 トウマは、訝しげにそちらを見やり、それを認めた瞬間、ただ呼吸を忘れた。

「!」

 河岸の岩場に、それはいた。

 金眼の銀狼。

 月光を浴びて眩いばかりに輝くのは、穢れひとつ見当たらない白銀の体毛であり、まるで獰猛という言葉の化身であるかのような巨躯を覆っていた。巨体を支えるのは隆々たる四肢であり、足場にしている巨岩すらも打ち砕いてしまいそうな力強さがあった。特徴的な狼の顔は、英雄豪傑というよりは美丈夫の趣があり、あざやかな黄金を湛えた双眸は、さながらふたつの太陽のように想えた。

 しかし、その表情はどこか寂しげで、岩場に立ち尽くして動く気配もない。

 そしてなぜか、懐かしい愛しさが、トウマの胸に満ちた。

「おまえはいつまでたっても、泣き虫のままなんだな」

 みずからの口から零れ落ちた言葉の意味も理解できず、トウマは、ただ狼の瞳を見つめながら気を失っていった。




「おまえがなんで生きているのか?」

 軽薄な声が聴こえた。聞き知った男の声。どうせ、あの男なのだ。嘆息とともに、トウマは目を開く。

 やはり、いつもの波打ち際だった。

「簡単なことさ。俺が助けてやったんだ」

 頭上は薄暗いが、水平線の彼方から、鮮烈で莫大な光が差し込んできていた。それはきっと夜明けというものに違いない。

 眼前には、男。真紅の装束を纏う、謎めいた存在。

「当たり前だろう? こんなところで死んでもらっては、俺が困るじゃないか」

 波風の音が耳に心地よく、水飛沫が、疲れきった身も心も癒していくような錯覚を覚える。そんなことはありえないのだが。

 トウマは、ようやく口を開いた。

「どうして?」

 わずかな間があった。別に男が答えを探したわけでもないのだろう。最初から用意していた回答を伝えるべきかどうか、迷っていただけなのかもしれない。

「俺の存在が消えてしまうだろう?」

 その言葉には、わずかな自嘲が宿っていた。




 咆哮が聞こえていた。

 怒涛となって押し寄せ、すべてを飲み喰らっていった青河の激流の中で。

《トウマ!》

 なにものとも知れぬ声が、激流に翻弄されるトウマの脳裏に反響していた。死に瀕した肉体では、絶望的な憤怒のままに荒れ狂う水流になぶられるだけだ。

 抗うことも、もがくことも許されない。

彼奴キャツノ手駒ヨ!》

 荒ぶる怒りだけが、トウマの頭の中を埋めていく。きっとそれは、青河の声なのだ。青河に宿る、強大な意思の。

《煉獄ノ修羅ヨ!》

 トウマは、自身をいたぶる濁流の中で、強引に目を開いた。激流に飲まれた数多の存在が、凄まじい速度で視界を横切っていった。

《汝ハ死ナネバナラヌ》

 老若男女を問わずに流されていくのは、青河の村人たち。村を形作っていた建物の建材も、激流に破壊され、ばらばらになりながら押し流されていく。

 それを見つめるトウマだけが、緩慢な速度で流されていた。もちろんそれは、この洪水を操る意思に、なんらかの目的があるからだろう。

《コノ地ノ平穏ノ為ニ》

 水圧が脇腹の傷口を抉り、内蔵を引きずり出そうとでもしているかのようだった。激しい痛みは、トウマの意識を掻き乱していく。視界が霞んだ。

《ワタシノ哀レナ神子ノ為ニ》

 強い視線を感じて、トウマは、頭上に視線を向けた。瞬間、鈍い痛みが胸の奥に生まれた。

(ミナ……!)

 淡い光の紋様に包まれた少女が、激流の中、微動だにせずこちらを見据えていた。見開かれた双眸から漏れる緋い光は、ただ虚ろに揺らめいている。彼女に表情というものは無く、ただ、青河の為すがままにこちらを見ている、そんな感じがした。

 それはトウマの勝手な憶測かもしれなかったが。

 ふと、どこかから、遠吠えが聞こえた。

《滅ビヨ!》

 青河の叫び声なんてどうでも良くなるくらいに儚く、懐かしい泣き声。早く、いますぐにでも手を差し伸べなくては、いつまでも泣き続けているだろう。確信があるのだ。

 トウマは、右手に剣を具現させた――。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 朝焼けが空を染めていくのが見えて、トウマは、自分が、やはり生きている事実を理解した。

 痛みは、気を失う前よりはましになっている。尋常ではない回復速度についてとやかく考えるのはもう止めて、彼は、状況の把握を優先した。化け物云々を考え出すと、どうにも止まらなくなるような気がしたのだ。

 それでは、なにも進まない。

 視界を埋め尽くす河岸の風景が気を失う前に見たのとまったく違うように感じるのは、単に朝と夜の違いだろう。月や星の光があったとはいえ、夜の闇に覆われた世界は、そうにもおどろおどろしく感じるものだ。そればかりはどうしようもない、

 青河の唖然とするばかりに広大で、呆然とせざるを得ないほどに莫大な水の流れもまた、夜に見たときよりも遥かに鮮烈であり、強烈な衝撃となってトウマの意識に飛び込んできていた。

 その圧倒的としか言いようがない大河の激流に飲まれ、無事で要られるはずなどないのだ。トウマは、確信とともにため息を浮かべた。どう結論付けたところで、自身が生き延びた事実は覆らないし、そもそもトウマとて死にたいわけでもない。

 生きていることに感謝こそすれ、否定するいわれなどないのだ。

 青河は、大地を覆う森を分断する一筋の青い光だと言われている。とてつもなく広い河の両側には、当然のように狂気に満ちた森が広がっていた。川向こうの森の様子はあまりにも遠すぎてよくはわからないが、背後に横たわる森からは、相も変わらぬ悪意と敵意に満ちた視線が集まってきていた。

 しかし、それら悪意の発信者が直接手を出してこないのは、きっと青河の川辺にいるからだろう。青河の結界が、流域全体に及んでいるのならば、だが。

 森は、トウマの少し後方に広がっていた。

 どうやらトウマは、河岸からかなり離れた場所に寝ていたらしい。自分で歩いた覚えはない。激流に包まれて濡れそぼっていた衣服は脱がされ、代わりに見たこともない衣を着せられていた。

「なんで?」

 トウマは疑問符を浮かべながらも、自分が身につけているものが女物の着物だということに気づき、少し肩を落とした。もっとも、わがままなど言える立場ではない。濡れた服のまま寝ているより遥かにましである。だれが着替えさせてくれたのかはわからないが、感謝するしかないだろう。

 それから、昨夜銀毛の狼が立っていた岩場を見ると、数え切れないほどの人間の亡骸が一箇所に集められていることに気づく。一夜のうちに集められるだけ集めたのだろうが、それにしても大変な労力だった。

 だれが、そんなことをしたのだろう。トウマに衣服を与えてくれた人物と同じなのだろうか。もちろん、ひとりではないはずだ。たったひとりでは、例え大人でも、一夜のうちにあれだけの亡骸を集めるなんて出来るはずがなかった。

 ふと、強い視線を感じて、トウマは、後方に向き直った。朝日に曝されてもなお鬱蒼とした森の近くに一本だけ、群れを外れるようにして生えた木がある。その木に隠れながら、ひとりの少年が、こちらの様子を伺っていた。華奢な体のほとんどが木に隠れていて見えないが、意志の強そうな瞳は印象に残る。

 金色の瞳。

 トウマは、その力強くもどこか哀しそうな瞳を、どこかで見たような気がした。

 ごく最近――あるいは遥か昔。

(まさかな)

 トウマは、自分の脳裏に過ぎった何かを思い過ごしと断じて、立ち上がった。その際、少しふらついたものの、特に支障はないように思えた。

 が、それも一瞬のことに過ぎなかった。

 唐突に強烈な眩暈に襲われて、トウマは、二の足が踏み出せなかった。血を流し過ぎたせいかもしれない。

 視界がぐらぐらと揺れる。とても立っていられるような状態ではなかった。

(やれやれ)

 トウマは、嘆息した。重力に手を引かれるようにして、地面に倒れこんでいく。と――

「え?」

 一陣の風が吹いたような感覚とともに、トウマは、地面に口づけせずに済んだ。

「だいじょうぶ?」

 少年が、トウマの身体を支えてくれたからだ。ほんのさっきまで遠くの木陰に隠れていたはずの少年が、である。

 疾風の如き速度だった。

「あ、ありがとう」

 間近で見る少年の大きな眼は、まるで水晶のように美しく、金色の虹彩は見たこともないほどに澄み切っていて、トウマは、その瞳を見つめているだけで涙が溢れそうになって、慌てた。少年の元から逃れるようにして、後ろに倒れて尻餅を付く。

「あ、あれ……?」

 トウマは、すぐさま目を擦った。初体面の相手に潤んだ眼を見られるのは、なんだか恥ずかしかった。

 気づくと、少年が、困ったようにこちらを見ていた。

 トウマより三つ四つ年下だろうか。ぼさぼさに伸びた黒髪は、手入れなどしていないのは明らかだったが、嫌な臭いはしなかった。身の丈は、トウマより頭ひとつ分くらい低く、華奢で、いまトウマが身につけているものと同じような女物の着物を身につけていた。

「どうしたの?」

「い、いや、なんでもないんだ。ほんとになんでもない」

 問われても、トウマには、答えようがなかった。見知らぬ少年の眼を見て泣きたくなるなんて、自分でも理解の出来ない現象だった。

 澄んだ黄金の瞳。

 どこかで見たような気はするのだが、まったく思い出せない。それは、とても大事なことのような気もするし、たやすく忘れ去るほどどうでもいいことのようにも思える。

 トウマは、自分の着物を示しながら、少年に尋ねた。

「これ、君の?」

「ううん。ぼくのじゃないよ。母さんの」

 少年が、首を振りながら、トウマとの距離を取るように後退あとずさった。さっきは、急なことだから飛び出してきたのだろうか。

 だとしても、そこまで警戒するのなら、他人が倒れるのなんて放っておけばいいのに、と、トウマは苦笑した。

「君のも?」

 少年は、ある程度の距離まで離れると満足したのか、その場に屈みこんだ。自然、トウマと少年の目線がちょうど同じくらいになる。

「うん」

 うなずくと、少年は、その場でくるりと回って見せた。母の着物を自慢しているのだろうか。淡い桜色の着物の裾は、動きやすいようにたくし上げられてはいた。

 トウマは、そんな少年を見ながら、自然と笑みをこぼしていた。荒みきっていたはずの心が、少しずつ癒されていく気がする。それは必ずしも錯覚や勘違いとは言い切れないだろう。

「ありがとう」

 トウマは、心の底から感謝の言葉を浮かべた。すると、少年が、頬を紅潮させた。

「ううん。困ってるひとがいたら助けなさいって、母さんが言ってたから」

 少年の一挙手一投足が、トウマの心に優しく響く。ここのところ忘れていたなにかを取り戻せそうな気がした。もっとも、それはただの勘違いに過ぎないのだろうが。

「いいお母さんなんだ」

「うん!」

 少年が、満面の笑みを浮かべてうなずくのを見て、トウマも笑顔になっていた。太陽のような笑顔とは、現在の少年の表情のことを言うのだろう。

「俺はトウマ。君は?」

 トウマは、自分でも唐突だと思いながらも、みずからの名を告げた。名乗らなければならない気がした。

 少年はきょとんとしたものの、すぐに笑顔になった。

「ぼくはクロウ。黒火コクカの村のクロウだよ」


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