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桃魔剣風録  作者: 雷星
14/42

第三章 青き河の畔で(六)

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ミナにとって、トウマは、なんなのだろう。

 川底から浮上して橋に辿り着いたミナは、急いで神子装束を身につけると、青河の村の中を走っていた。不安が、彼女の思考を狂わせている。

 トウマとは、いったいなにものなのだろう。

 いまさらになって考えることの馬鹿馬鹿しさには、一向に気づかない。彼女がトウマを助けたのは、ただ、紅土の社で見た少女の幻視があまりにも切実で、ミナの魂を震わせたからにほかならなかった。

 トウマを助けたいと思ってしまった。

 理由なんてそれだけでよかったのだろう。後先なんて考えずに、シグレに頼んでしまった。シグレが嫌とは言わないことを知っていて、利用した。

 シグレだけが、彼女の我儘に喜んで付き合ってくれる。

 それは、彼女にとって数少ない幸せであり、シグレが隣にいてくれるのなら、どんなに辛い状況にだって耐えられた。五長老の嫌味と皮肉に満ちた言葉だって受け止められたし、村人たちの冷ややかな反応にだって動じずにいられた。

 シグレ。

 彼との出会いは、いつだっけ?

「あれ……?」

 彼女は、五長老の屋敷の前で、足を止めた。濡れた髪を振り乱して走ってきた少女の体に、激しく降りしきる陽光はどこか優しく、暖かい。

 眩暈がした。

 記憶を覗くと、多くのひとの顔が、黒く塗り潰されていた。父も母も兄も弟も、隣家の人々も、霊樹の神子はおろか、ミズキの顔すらも、影の中に沈んでいる。

 ただ、シグレの優しいまなざしは、鮮明に輝いていた。

 シグレを失えば、きっと、自分には何も残らないのだ。

 漠然とした確信が、彼女の心を寂しさで埋め尽くした。

 それが、神子になったことの代償なのかもしれない。青河の意思を代弁し、強大な力を代行する――その代価。

 ミナは、頭を振って考えを消した。

 いまは、あのふたりを探さなくてはならない。

 話は、それからだ。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 霊樹の亡骸が、陽光の元に無残な姿を曝している。かつては、天を衝くほどの威容を見せ付けていたはずの大樹は、その肥大した幹の半ばまでしか存在しておらず、残った部分も猛火によって焼かれた痕が痛々しい。

 霊樹は、青河の村の中心よりやや北側にあった。

 村の中でもっとも開けた空間だった。紅土とは違って、霊樹を祭神とする社はなく、現世と神域を分かつための境界もなかった。

 霊樹の周辺は窪地になっているらしく、雨水などが溜まって大きな池が出来ていた。いや、それは湖といって差し支えないだろう。中州に湖とはこれまた奇異な光景だったが。

 その湖の中心にたたずむ霊樹の無数の根が、複雑にうねりながら水中に沈んでいる。霊樹が顕在なら、さぞや美しくも神秘的な光景を目の当たりに出来たのだろう。

 トウマは、湖岸に屈むと、水面に手を伸ばした。ひんやりとした水の感触が、彼の心の深遠で狂おしく暴れ回っていた激情を少なからず癒してくれる。

「すまねえ」

 不意に背後からかけられた言葉に、トウマは、不思議な顔になった。

「ん……?」

「おまえを連れて行くことで、まさか老人たちがあそこまで怒り狂うとは考えもしなかったんだ。本当にすまん」

 シグレの声音は、深く重く沈んでいくようだった。

 トウマは、水面を見つめたまま、首を横に振った。湖というほどの広さはあるものの、底は浅いのだろう。湖底が、はっきりと見えた。

「いや、シグレさんのせいじゃないよ、俺が黙っていればよかったんだ」

 それがトウマの実感だった。あのとき口を挟まなければ、あそこまで激昂しなかったのでないのか。自分のうかつさを呪いたくなる。

「それはねえよ」

 シグレが、苦笑した。

 水面が風に揺れて、陽光がきらめいた。

「老人たちは紅土のことになると、目の色を変えるからな。そうなるともうどうしようもねえ。頭を冷やしてくれるのを待つしかねえんだ」

 それは、トウマにも理解できることではあった。トウマがミズキのことになると見境なくなるのと同じだろう。一瞬にして視野が狭くなり、思考停止に陥ってしまう。確かに、そうなったらどうしようもない。

「それまで、紅土のみんなは?」

「ミナの結界なら二、三日は持つ。その間に、必ず救ってみせるさ」

 シグレの言葉は力強い。力強いのだが。

「どうしてそこまで……?」

 トウマは、シグレを振り返って仰ぎ見た。彼の怜悧なまなざしは、霊樹の亡骸を見据えているようだった。その視線を追うと、霊樹の上を駆け回る小動物たちの姿が見えた。巣でもあるのだろうか。

「それが青河の意思だからだ」

 シグレの言葉は、さっぱりとしたものだ。聞いているトウマにしても不快感はない。当然の道理をのべているのだから、彼の言いように憤るほうがどうかしているのだろうが。

「それ以外の理由はない。青河が望まなければ、紅土だろうとだれだろうと見捨てるさ。それが青河の神子の守護剣士たる俺の使命――」

 気配の変化は、一瞬。

「だから、死ね」

「!?」

 鋭利な言葉とともに振り下ろされた刃を、トウマは、前方に身を投げ出すことでかわした。いや、完全には回避できなかったらしい。湖に飛び込んだトウマの腰に痛みが生じていた。

 斬られたのだ。

「いい反応じゃねえか!」

 湖は浅い。

「いきなりなんなんだよ、いったい!」

 トウマは、水飛沫を上げて転がりながら、シグレに向き直って立ち上がった。腰の傷口の痛みがごくわずかだったことへの安堵は、刹那のうちに掻き消えた。

 シグレが、波形の剣を構えていた。切っ先に血がついていた。彼のまなざしは敵を射貫かんがばかりに鋭く、全身から迸る指向性の殺意がトウマを捉えて離さない。

 トウマは、シグレの殺意が、紛れもなく彼の本心だと悟った。期待を裏切られたことの衝撃が、トウマの胸の内で雷光のように駆け抜ける。渦巻くのはそれだけではない。自嘲的な笑い声が、脳裏を錯綜する。

 出逢ったばかりの相手に、いったいなにを期待していたというのだろう。

「おまえが悪いんだよ。なにもかも、おまえが悪い……!」

 シグレが、飛ぶ。トウマに向かって、一直線に。

「それじゃあわからねえよ!」

 我知らず声を張り上げながら、トウマは、左に跳躍した。低い軌道を描く合間に、剣印を発動する。右手の甲の紋章から爆発的に光が溢れ、あっという間に右手の内へと収斂していく。一振りの刀が具現した。

「おまえが俺と同じ道を歩むなら良かった!」

 湖底に着地したシグレが、トウマに向かって剣を翳した。舞い上がる無数の水滴がトウマの視界を彩る中、シグレの告白は続く。

「ミナの守護剣士となるならよかった! それならよかったんだ!」

 一方的な言い分に、トウマは、むしろ冷静さを取り戻していた。周囲の状況を鮮明に把握できる。霊樹を囲む湖の中。人気はなく、トウマとシグレだけが睨み合っている。さっきまで霊樹を駆け回っていた動物たちは、突然の事態に驚いたのか、鳴りを潜めてしまった。

 激しさを増すシグレとは対照的だと、トウマは他人事のように思った。

「だが、おまえはミズキを追う選択をした! 造作もなく殺されにゆく選択を!」

 それは間違いなくその通りであり、トウマには、反論の余地すらなかった。いまの実力では、ミズキに一矢報いることすら出来ないだろう。記憶の中のミズキが、トウマの中で異常なほどに肥大していた。

 が、冷静に見ても、ミズキの力は桁違いなのだ。

「おまえ如き、ミズキに叶うわけがねえ!」

 シグレの足が、水底を離れた。ふたりの間合いが一気に縮まる。横薙ぎの一撃が、トウマを襲った。

「それでも俺は!」

 虚空を薙ぎ払う斬撃を飛び退すさってかわして、トウマは叫んだ。ミズキがどれだけ強くても、真に鬼というべき存在であっても、トウマは立ち向かわなければならなかった。

 復讐。

 それだけが、トウマのすべてだった。

「ああ! おまえの道はおまえのものだ!」

 トウマは、こちらの叫びを肯定するシグレの胸元へと飛び込むように猛進し、両手で握った刀を縦一文字に振り下ろした。

「それは否定しねえ。だがな、おまえの力をミズキの糧にするわけにはいかねえんだ!」

 トウマの全力の斬撃は、シグレの剣に軽く弾き返された。金属音が、静寂の湖に響く。

「ミナを護るために!」

 不意に、トウマの視界が流転する。剣を弾かれて生まれた隙に、足を払われたのだ。横倒しになるトウマの胸部を、シグレの足の爪先が抉るように強打する。激痛の中でトウマは、シグレのなすがままに湖底で仰向けになった。湖の浅さが幸いしたのか、呼吸だけは許された。腹が、シグレの片足で踏みつけられている。

「俺がおまえを喰らってやる」

 トウマの目の前で、シグレの剣の切っ先が揺れていた。その向こうで、シグレの双眸が暗く燃えている。獲物を捕食しようとする獰猛な獣のまなざし。

 トウマは、左手を思い切り振り上げた。無数の水飛沫が、シグレに襲い掛かる。それは目眩ましにもならないだろう。が、わずかでも動揺してくれればよかった。

 それだけでいい。

「あんたなんかに喰われてたまるかよ!」

 トウマは、叫びながら全力で体を起こした。水飛沫に動じてくれれば、シグレの足を押し退けて起き上がることくらい簡単だった。それぐらいの力は、トウマにだってあるのだ。

「俺は俺の道を往く!」

 起き上がったトウマが目撃したのは、体勢を崩したシグレの姿だった。腹を踏みつけていた足を押し退けられたからだろう。トウマは、その好機を逃さない。背後に向かって崩れゆくシグレに殺到し、そのまま湖面に押し倒した。

「だれにも邪魔はさせない!」

 トウマは、左手でシグレの体を抑えると、右手の刀の切っ先を相手の首筋に当てた。手が震えた。シグレの殺意は本物だ。研ぎ澄まされた漆黒の刃。しかし、トウマには、シグレへの敵意も殺意も抱けずにいた。

 成り行きで応戦したとはいえ、シグレには感謝だけしかないのだ。命の恩人であり、村の生存者を救うといったのだ。そして、彼はただ一途に彼女のことを想っている。そんな相手を、トウマに殺せるはずがなかった。

「はっ……」

 こちらの考えを見透かしたように、シグレが嘲笑った。冷たいまなざし。左手でトウマの剣を掴む。トウマが逃げないように、だろう。

「お優しいことだな」

 そう、シグレがトウマと同じように考えているはずもない。

「くっ……!?」

 トウマは、脇腹を貫く熱い痛みに身を捩ろうとしたが、それは許されなかった。ミズキの波形の刀身が、トウマの腹部を貫いていた。そのまま、蹴り飛ばされる。凄まじい脚力だった。

 が、トウマは、蹴られた痛みよりも、剣が抜けたことで噴き出した血液の多さに驚いていた。思ったよりも長い滞空時間の後、背中から湖面に叩きつけられる。しかし、腹部の激痛のせいか、背中が湖底に激突した痛みなど微々たる物に過ぎなかった。

「俺には力が要るんだ」

 シグレが自分に言い聞かせるように紡ぐ言葉を、トウマは、上の空で聴いていた。いや、聞き流していたというべきか。脇腹から全身を駆け巡る痛みに、意識が囚われすぎていた。

「ミナを護りたいんだ」

 勝手にしろ、と思いながら、トウマは、激痛を無視して上体を起こした。強烈な痛みが全身を苛むが、それは仕方ないと諦める。痛みに抗わなければ、このまま殺されるのだ。そんな結末だけは、なんとしても阻止しなければならない。

 ふと気づくと、周囲の湖面が、紅く染まっていた。トウマの出血によるものだろう。あまりにも夥しい血が流れている。どうあがいても、最悪の結末は免れ得ないのかもしれない。

 だが、それでも。

「老人たちの暴威から」

 シグレが、足取りも悠然とこちらに迫ってくる。トウマの状態から、勝利を確信しているのだろう。それは否定しようのない現実ではあるが。

「村人の悪意から」

 トウマは、歯噛みして、その場に立ち上がった。シグレとの間合いはまだまだあった。それはシグレの蹴りの強さを物語っていた。

「ミズキの脅威から!」

 トウマは、体中を廻る痛みに顔を歪めた。汗が止まらない。出血もひどいのだが、いまさらそんなことに構っている余裕はなかった。両手で握った剣を正眼に構え、シグレの出方を待つ。飛び掛るほどの余力はない。

「そのためなら俺は……!」

 シグレが、こちらへと駆け出す。水飛沫が上がった。ただ一直線に迫り来る殺意の塊に、トウマは、微動だにしない。好機を待った。ほんの刹那でいい。斬撃を叩き込む好機が欲しい。

 そして、それは訪れた。

「シグレ……!?」

 少女の叫び声は、霊樹の湖に響き渡った。なにが起きているのかわからないといった、少女の絶叫。

「ミナ!?」

 シグレの顔が驚愕に歪んだのが、トウマにもはっきりとわかった。彼の注意が、彼女に向かう。

 シグレは、既にトウマの目前だった。

 トウマの斬撃が届く距離にいた。

 好機。

 トウマは、無心に剣を振るった。

「あ――」

 それはだれの声だったのか。

 トウマが振り抜いた刀は、見事にシグレを捉え、袈裟懸けに斬り裂いていた。肉を裂き、骨をも断つ感触が、刀身からトウマの全神経を揺さぶっていく。脳裏でなにかが囁いている。

 それでいい、と。

「ちっ……俺としたことが」

 愕然と、シグレ。信じられないといった様子だった。それもそのはずだろう。彼は、約束された勝利の道を前進していたはずだった。

 致命傷を負った敵に接近し、剣を突き刺すだけでよかったのだ。

 だが、彼は、意識を逸らしてしまった。

 それは、トウマにとって思いがけない好機であり、それを見す見す手放すような愚かな振る舞いを、トウマはしなかった。ただ、それだけのことだ。

「いや、これが俺か……」

 シグレが、湖に崩れ落ちていく。その間際のつぶやきには、ある種の満足感があった。それはトウマには理解しがたい感情だった。

 シグレの体が湖底に落ちて、ふたりの血が混じった水飛沫が、舞う。

「シグレ!」

 そのとき、トウマは、ようやく彼女の存在に気づいた。呆然と、そちらを見やる。

 白衣の少女が、力なく湖岸に立ち尽くしていた。

「ミナ……?」

 トウマは、彼女の瞳が絶望に堕ちていくのをただ見つめていた。かける言葉などあるはずがない。シグレを殺したという事実がある。どんな言葉も言い訳に過ぎない。そもそも、いまの彼女になにを言ったところで、届きはしないのだろうが。

 ミナの眼には、もはやなにも映ってはいなかった。

「どうして?」

 ミナの問いかけとともに、トウマは、遠方から鳴動が迫ってくるのを感じていた。大気が震え、大地が揺れる。なにか巨大なものが急速に近づいてきている。

「シグレがなにをしたというの?」

 トウマには、ミナの問いに答える気力も残っていなかった。傷口から流れ出た血液は、彼の生命力そのものでもある。

 剣を支えに、ふらつく体をなんとか固定していた。

「ねえ?」

 トウマは、轟音がすぐそこまで来ていることに驚き、そちらに目を向けた。霊樹の亡骸の向こうから、膨大な青が殺到してきていた。

 すべてを飲み込む青河の奔流。

「トウマさん――」

 彼女の呼び声が聞こえたときには、トウマは、莫大な青の激流に包まれていた。破滅的な水流の暴圧が、トウマの意識を粉々に打ち砕いていく。

 なにもかもすべてが、青河に飲み込まれた。


 青河の慟哭が、すべてを覆った。

 破壊の奔流が、すべてを包んだ。


 流れ着いた先で、トウマは運命の邂逅を果たす。

 少年クロウとの出逢いは、トウマになにをもたらすのか。

 そして、黒火の村の秘密とは?


 第四章 犬と村と再会と


 愛よりはやく、犬は駆ける。

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