第三章 青き河の畔で(五)
水気を多量に含んだ空気に包まれながら、トウマたちは、青河の村に足を踏み入れた。
中洲と言っても、そもそも広大な川の中である。その広さは、想像以上のものであり、トウマの生まれ育った紅土の村と比較しても、こちらのほうが大きな村のように感じられた。
ただ、人家の数は比較的少なかった。それはきっと、霊樹が滅ぼされた直後の災禍によって多くの家屋が破壊され、瓦礫だけは撤去したものの、家を再建する必要はなかったからだろう。
紅土の村同様に、数多の人命が失われたのだ。
「半年前だ」
村の通りを進みながら、シグレ。通りを行き交う村人たちは彼の姿を目に止めると、一様に足を止めて、恐る恐るといった様子で会釈していった。なにが恐ろしいのか、トウマには目もくれない。
「この青河の村が未曾有の惨禍に見舞われた」
シグレが、淡々と言葉を紡ぐ。
森の中での約束通り、説明してくれているのだろう。
「この村の守護である霊樹が殺されたからだ。ミズキの手によって、な」
トウマは、その名を聞くだけで意識が狂れてしまいそうになる自分の弱さを認めて、歯噛みした。この程度で狂っていては、ミズキへの復讐なんて口にすることもおこがましい。
「ミズキは、当時の神子ハヅキの実弟であり、守護剣士だった」
守護剣士などという言葉は初耳だったが、意味はなんとなく理解していた。神子の守護を司る剣士、というくらいの意味だろう。
「理由は知らない。が、奴が、実の姉を殺し、霊樹をも殺したのは事実だ。結果、村の結界が消え失せ、妖夷の群れが押し寄せた。そのあとのことはわかるな?」
「ああ」
トウマの脳裏に、阿鼻叫喚の地獄絵図が過ぎった。堰を切ってあふれ出した森の悪意が、凄まじい暴威を振るって、生きとし生けるものを食らっていく。逃げ場などは見当たらず、立ち向かう術を持たないひとびとには、絶望の中で発狂するか、逃げようとして殺されるという選択しか許されなかった。
たとえトウマが逃げ惑う村人を助けたとしても、次の瞬間にはどこからともなく現れた妖夷によって殺されてしまう。気を抜こうが抜くまいが、同じことだ。
そこに救いはなかった。
「救いようのない世界で、俺はただ絶望に暮れたよ。ミズキを止められなかったこともそうだが、圧倒的な数の前には、剣士もまた無力だと思い知らされたのさ」
シグレが、自嘲気味に笑う。その声音には多分に悲しみが含まれているように、トウマには感じられた。
「そんなとき、ミナに出逢ったんだ」
一転して、シグレのまなざしが優しげに輝くのを、トウマは、見逃さなかった。
「ミナは、死にゆく霊樹の声と、それとは別の声を聞いたらしい」
「それが青河の声?」
「ご名答。果たして彼女は青河の神子となり、この村全体を新たな結界で包み込んで妖夷を一掃したのさ。もっとも、それを為したのは大量の村人が死んだ後だったがな」
シグレの目つきが、次第に険しくなっていく。
「そのせいか知らねえが、生き残った連中は、自分の無事を喜ぶどころか、ミナを責め立てやがった」
と、彼が足を止めた。中州の真ん中を走る通りのちょうど中心辺りらしく、人家に比べて大きく、華美な飾り付けが施された門の前だった。門扉は開け放たれており、大きな建物の玄関が見えた。
「なんでもっと早く神子にならなかったんだ! もっと早く結界を作ってくれていれば、みんな死なずに済んだはずだ! ってな」
唾棄するように、シグレ。忌々しい情景でも思い出しているのか、その表情の険しさは度を越えていた。もっとも、それはトウマにも理解できたのだが。
「そんなのただの暴論じゃないか」
トウマは、そのときのミナの気持ちを考えると、込み上げてくる怒りを抑えられなかった。
「その通りさ。だから、俺はミナの守護剣士になったんだ。ミナが奴らの横暴に傷つかないように。みずからの使命に全力を注げるように。安らかに眠れるように」
ミナのこととなると急に優しくなるシグレの姿に、トウマは親近感を抱かずにはいられなかった。もしチハヤがミナの立場なら、トウマは、きっとシグレと同じ道を選んだだろう。
「なあ、トウマ。おまえも一緒にミナを護ってくれねえか?」
突然の申し出に、トウマは、目を丸くした。
「えっ――」
トウマが見るに、シグレのまなざしは真剣そのものだった。そもそも、冗談でこんな話を持ちかけてくるようなものもいないだろうが。
「村の連中だけが相手なら、俺ひとりで事足りる。だがな、奴がいるんだ。この森のどこかに。いまも新たな敵を探してさまよっているはずなんだ!」
力説するシグレに対して、トウマは、どういう反応をするべきか迷っていた。心は決まっているのだ。
同じ道は歩めない。
「奴がいる限り、ミナに安息は訪れない。いまの俺じゃあ奴には太刀打ちできねえ。半年前のあの日、思い知らされたよ。奴は、俺のことなど歯牙にもかけちゃあいなかったんだ」
トウマの脳裏に浮かぶのは、ミズキの修羅の如き戦いだった。無数の色彩を帯びた斬撃が、殺到する霊樹の梢を容易く蹴散らいていく。そして迫るのは、チハヤの死の瞬間――
心の奥底に眠っていた暗い炎が、次第に燃え広がっていくのがトウマ自身にもわかった。このどす黒い炎は、トウマがみずからの手でミズキを殺すまでは消えないような気がした。
「まるで地を這う虫でも見るような目だった」
シグレが思い出しているのであろうものは、トウマにも思い浮かべることができた。
緋い眼。
紅蓮の炎のように燃え盛り、深紅の血のように暗く輝く。
「どうだ? 俺と一緒に――」
手を差し出したシグレに、トウマは、頭を振って即答した。
「ごめん。それはできない。あんたには感謝しているし、あんたの気持ちもわかるけど、俺はミズキを追う」
いまは勝てない。それは分かっている。ごく当たり前のことだ。相手は鬼と呼べるほどの剣士であり、トウマは、つい昨日、この力に目覚めたばかりなのだ。それでも。トウマは、ミズキを追わなければならなかった。
復讐。
それは暗い情熱だ。
だが、魂より噴き出す漆黒の炎が、それを成し遂げよと咆哮している。
チハヤだけではなく、祖父と母は愚か、故郷を失ったトウマには、その暗い希望に縋るしか生きる道はなかった。
「そうか。そりゃあ残念だ」
本当に、心から無念そうに、シグレ。
そこまでしょんぼりされると、トウマだって、多少の罪悪感を覚えざるを得ない。
「ごめん……」
「いや、いいっていいって。気にすんな。全部俺が悪い」
シグレの態度は、極めてさっぱりしたものだったが。
「そもそも、おまえにゃあ関係なかったんだ」
棘が、トウマの心に刺さった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
《オカエリ》
優しげな声は、ミナの頭の中に直接響いた。
膨大な青の深遠。
《ただいま》
ミナもまた、脳内に言葉を浮かべて対応する。
莫大な青の奔流。
大河が、河口へと向かうその流れを変えて、ミナを取り囲むように渦を巻く。
青河の水底。
安息しかない清流の中、一糸纏わぬ姿の彼女は、膝を抱えて丸まった状態で浮かんでいた。
川面から降り注ぐ陽光が、まるで光の帳のように水中で揺らめいていた。水圧は感じない。水の流れも、彼女を包み込んで、押し流そうとはしない。呼吸すらも許された。
青河の何もかもが、彼女に味方した。
ミナは、紅土で見たこと、体験したことを脳裏に浮かべることで、青河への報告とした。神子とその神は、同調しているのだ。思い浮かべるだけで、すべて伝わる。
青河の流れが、さまざまな情報を彼女にもたらしてくれる。彼女の頭では処理しきれないほどの情報量だったが、それには苦笑を浮かべるしかない。
いつものことだ。
そして、ミナは、その情報の中にシグレとトウマのものを見つけて、詳細を求めた。水流とともに情報が更新される。
ふたりは、五長老の屋敷に入ろうとしていた。紅土への救援を要請するためだろう。
《トウマ?》
水の流れが変わった。
ミナの脳裏に無数の疑問符が浮かんでは消えた。青河が、怒りに震えるかのようにその流れを激しくする。
《彼ハイケナイ》
渦巻く憤怒が、ミナの思考を掻き乱していく。
《彼ハ彼奴ノ手駒》
彼奴?
彼奴とはだれを指しているのかなど、ミナにはまったくわからなかった。ただひとつ、青河にとって望まざる存在であることは確かなようだった。
《我ラノ敵》
ミナは、眼を見開くと、頭上を仰いだ。
浮上しなければ。
シグレの元へ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
五長老とは、五人の老人からなる青河の村の執行機関だと、トウマは聞かされていた。
かつて、青河流域で最大の規模を誇ったという青河の村を運営するため、村の有力者から数名の代表者を選出し、その合議によって村の意思を決定してきたのだそうだ。無論、霊樹の意思が最優先されるようだが。
「青河の村が、この大河の両岸をも支配していたころの話だがな」
いまでは無用の長物さ、と、シグレは吐き捨てた。
トウマがいるのは、村で一番大きな屋敷の廊下だった。屋敷の大きさに見合うほどに広く長い廊下だった。まだ建てられて真新しいのか、木の香りが廊下に満ちている。おそらく、ミズキの霊樹殺し以降に建築されたのだろう。
トウマは、ふと思い立って、隣を歩くシグレに訊ねた。
「ところで、ひとつ疑問があるんだけど」
「なんだ?」
トウマが口にしたのは、兼ねてからの疑問だった。
「なんで俺を助けたんだ?」
「知らん」
自信満々に、シグレ。
容赦なく切り捨てられて、トウマは、その場でこけかけた。
「知らんって、どういうことだ?」
「そのままの意味さ。ミナに言われたから助けただけだからな。理由ならミナに聞いてくれ」
シグレが言い終わったのは、ちょうど廊下の突き当たりに辿り着いた頃合だった。硬く閉ざされた扉の前。
トウマは、その扉の向こうからいびつな重圧を感じた。
「守護剣士シグレ、帰参致しました」
シグレが、扉の内側に向かって呼びかけた。シグレの様子が、さっきまでとはまるで違っている。非常に砕けたものから、畏まったものへ。それは当たり前の変化ではあるのだが、トウマには少し奇異に見えた。
返事は、思ったよりも速く返ってきた。
「おお、入れ。待っておったぞ」
しわがれた老人の声だった。
「それでは」
シグレが、厳かに扉を開いて、室内へと足を踏み入れた。トウマもそれに続く。
薄暗い部屋だった。高い天井に設けられた採光用の窓から差し込むわずかばかりの光だけが、この広い室内を照らす唯一の明かりのようだ。換気も悪く、幾重にも折り重なるように漂う紫煙が、トウマの呼吸を何度となく邪魔した。
「ん? 神子殿はどうした?」
老人の一人が、口を開いた。上座にいるのであろう老人たちの姿は、その輪郭がおぼろげながらわかるくらいで、顔立ちや表情などはまるで把握できなかった。ただ、五人いるというのは、その気配で認識できる。
「青河への報告に参られました」
「それはご苦労なことだ」
老人の言葉には、常に棘があるようにトウマには感じられた。気のせいならばいいのだが。
「さて、そちらは?」
別の老人の問いに、室内の全員の注意が自分に集中するのを、トウマは実感した。掌に嫌な汗がでる。
「こちらの方は、紅土の剣士様です。村の代表として同行して頂きました」
シグレの口からすらすらと滑り出た嘘に、トウマは、唖然としたものの、それが表情に出ないように懸命に堪えた。ありのままに報告できない理由は、なんとなくだが理解できた。
端的に言えば、そのほうが説明しやすいからだろう。
「ほう?」
「我々が紅土に着いたのは、ミズキが凶行に及んだ後でした」
空気が変わったのは、シグレが、彼の男の名を口にしたときだった。老人のひとりが、机に拳を強く叩きつける音が響く。
「ミズキ! あの男はどうしたっ!」
老人の怒声は、さっきまでの静粛とした雰囲気を吹き飛ばし、室内が瞬く間に張り詰めたのがトウマにもわかった。
「既に影も形もなく……」
「まったく! 頼りにならぬ神子殿もいたものだな!」
老人の叫びに、シグレの気配が一瞬だけ変容したことに気づいたのは、間近にるトウマだけだったのだろう。
トウマが悪寒を覚えるほどにどす黒い殺意が、シグレの体から噴き出しかけていた。
「……すみません。ですが、そもそも此度の紅土行きは、ミズキを追うためではなく――」
シグレの口から紡がれたのは、極めて冷静な言葉だったが。
「言い訳はよいっ!」
「まあまあ、ここはひとつ穏便に行きましょう」
別の老人がなだめるも、老人の怒りは収まる気配がなかった。
「わかっておる!」
「さ、続きを」
とは、なだめようとした老人の声。諦めたのかもしれない。
「はい。紅土の村はもはや地獄の有様で、我々が保護できた村人はわずか五十足らずでした。いまは結界を張った剣術道場に避難して、救援を待っているところです」
トウマは、シグレの報告を耳にして、ただ愕然とした。村の生き残りが五十人に満たないという事実に、である。
村が滅びたことは理解していた。頭の中では。
しかし、生存者の数を明確にされると、改めて衝撃を受けざるを得ない。顔見知りばかりの村人のほとんどが、昨日のうちに死んでいったのだ。
トウマは、足場などとっくに崩れ落ち、もはや何も残っていないことを思い知らされていた。
「救援?」
老人のその一言で、室内の空気が一変した。
「ふっ、くくく。馬鹿なことを」
だれかが笑った。嘲笑った。
「いい気味ではないか」
心の底から愉快そうに、老人が言う。
「紅土の盗賊風情がいくら死のうとも、世のためになりこそすれ、悲しむものなどおるまい」
「確かに。彼らがかつて、我ら青河の民にもたらした災厄を思えば、これは当然の報いといえよう」
「くくく。生き残ったものたちなど放っておけばよかろう。奴らを助けるいわれなど、我らにはないのだからな」
悪意に満ちた言葉の数々に、トウマは、怒りを覚えずにはいられなかったが、といってここで口を挟んで長老たちの感情を煽るわけにもいけない。震える気持ちをなんとか抑えて、沈黙を保つ。
「待ってください! 紅土の民を救うのは、神子の、青河の意思です!」
シグレの必死の諫言は、しかし、老人たちには届かなかった。どこからともなく失笑が漏れた。
「はっ! それがどうしたというのだ!」
「我らは青河の五長老」
「この村の在り方を定めるのは、我らの意思」
「青河も神子も、ただこの村を護っておればよい!」
トウマは、眼を見開いた。それは許されない言葉だと想った。
神子は、道具ではない。
「そんな横暴な!」
トウマは、ついに口を開いてしまった。何も言うべきではなかった。黙っていればよかったのだ。しかし、言わずにはいられなかった。彼らがたとえ青河の支配者であろうとも、口答えすべき相手ではなくても、その暴威を無視することは、トウマにはできなかった。
「横暴?」
老人のひとりが、冷笑する。
「横暴といったか? 紅土の剣士殿」
「横暴などという言葉が相応しいのは貴様ら紅土の民であろう?」
老人たちの低い笑い声が、室内に幾重にも響いた。複数のまなざしが、侮蔑するようにトウマを見据えている。
「忘れもせぬ三十年前!」
机を激しく殴打する音が轟く。
「百斬衆と名乗る紅土の盗賊どもが、この青河の村を襲ったのだ。当時、青河流域で最大の規模を誇る村であり、青河の都とすら謳われたこの村を」
(百斬衆……!)
トウマの脳裏に浮かんだのは、霊樹の境内でのソウマとミズキのやり取りだけではない。ソウマの記憶に垣間見た幾多の場面が、トウマに教えてくれるのだ。
若き日のソウマは、何十人もの若者を引き連れていた。百斬衆と名乗り、妖夷との激闘に飽きたころ、彼らは盗賊行為を生業とするようになった。
確かにそれは、許されざる罪悪だ。だが、だからといって――
「妖夷を寄せ付けぬ霊樹の守護も、悪意ある人間は排除できぬ。人間だというその一点を除けば、醜い化け物であるにも関わらず……!」
トウマは、小刻みに震える両手を見下ろした。おぞましい化け物の姿を思い出したのだ。祖父ソウマの成れの果てを。
ひとであることを止めたものの末路。
自分も、いつかああなるのだろうか?
そう考えるだけで身が竦んだ。
「奴らは、散々荒らしまわった後、我らが授かった霊来文書を奪ったのだよ」
「そして多くの人間が殺された! 夥しい量の血が流れたのだ!」
膨れ上がった怒気は、室内に充満する紫煙を震わせるほどだった。憤怒の激流が渦を巻いて、室内をのた打ち回っている――そんな感覚を抱くとともに、トウマは、老人たちの感情もわからなくはなかった。
きっと、ミズキを前にすれば、自分も前後を見失うのだ。もっとも、相手の気持ちの一端を理解したところで、胸の内で蠢くこの暗い炎を処理できそうにはないのだが。
「我らがなにをした? 我らが、貴様ら紅土になにをしたというのだ!」
「くくく、言ったろう? これは報い」
「貴様ら紅土が為した大罪への天罰!」
「貴様らなど、死の恐怖に怯えながら滅びてしまえばいいのだ!」
そう、室内の影に潜む五人の長老の怒りはもっともであろう。しかし、だからといって、祖父の過去の罪とはほとんど関係ないはずのひとたちに、死ね、などという彼らの言い分すべてを受け入れることなど、到底できるはずがなかった。
そもそもの発端は、ミズキではないのか?
「行こう、トウマ。紅土の民は、俺が必ず救ってやる」
シグレの穏やかな囁きだけが、トウマの感情を沈めてくれた。
「失礼致しました」
シグレは、トウマの腕を掴むと、さっさと退室した。背後から老人たちの罵詈雑言が聞こえた気がしたが、扉を閉める音にかき消された。
「あれが、この村に巣食う暴悪の正体さ」
シグレの声音は、トウマがぞくっとするほどに冷ややかで、痛みを感じるほどに研ぎ澄まされていた。