第三章 青き河の畔で(四)
トウマは、シグレが寝入ってからというもの、ただ焚き火を見つめていた。夜更けを越え、朝へと向かう最中ずっと、である。ほかにすることがなかったといえばそれまでだが。
妖夷の襲撃に備えて心構えだけはしていたものの、そういった事態にはならなかった。焚き火に照らされた小空間の外からは、おびただしい数の悪意がこちらの様子を伺っているのであろうことはわかる。しかし、一切手を出してきたりはしなかった。
トウマはまるで、霊樹の結界の内側にいるような安心感さえ覚えていた。
その原因は皆目見当もつかないが、しかし、このささやかな安堵感は、トウマの疲れ果てた心を少しばかり癒してくれていた。それには、闇の中で輝く焚き火の炎も一役買っていたのかもしれない。
なんにせよトウマは、シグレたちが起きるまではこの場から動けなかった。現在地がわからないのだ。迂闊に動いて、森の中で迷子になるなんて笑い話にもならない。
ここは、シグレたちを当てにするのが最善だろう。
(確かミナの願いで保護とかなんとか言ってたしな)
どういう理由かは知らないが、シグレと少女(彼女がミナかもしれない)のふたりは、トウマを保護してくれていたようだ。
少し前に気づいたのだが、トウマの傷だらけの体には、丁寧に包帯が巻かれていた。その上、気を失う前とは別の装束を着せられている。以前身につけていた服が、度重なる戦闘でぼろぼろになっていたからだろう。
その衣服はトウマには見慣れたものだった。おそらく、トウマの実家を漁ってきたのだろう。だからといって、トウマには彼らの行為を糾弾する気も起きなかった。
当然の話ではある。
もはや住む人間もいない家だ。その財物も、ほとんど不要だろう。なにより、彼らはトウマを助けてくれたのだ。命の恩人の厚意をとやかく言うようなことほど、浅ましく愚かしいことはない。
ふと、少女が身じろぐような物音が聞こえた。小さな音だったが、静まり返った森の中では必要以上に大きく聴こえた。トウマの意識と、森の悪意が、その物音へと向かう。
「う……うん?」
トウマには、少女がゆっくりと起き上がるのが、気配だけでありありとわかった。
「あー……よく寝ましたー」
少女は、そんな言葉を浮かべると、軽く伸びをした。
その白ずくめの少女は、こちらのことなど気にも留めずに立ち上がり、掛け布団のように被っていた外套を纏うと、辺りを見回した。と。
「あ」
当たり前のように、トウマと眼が合った。少女の長い睫に縁取られた瞳に、少しばかりの驚きとあざやかなほどの喜びが生じたことに、トウマは怪訝な表情になった。
「よかった! 気が付かれたんですね!」
そして、なにを想ったのか、少女は、大声を発しながらトウマに駆け寄ってきたのだった。
トウマは、彼女の尋常ではない反応を不思議に感じる反面、そういう心根の優しい少女なのだろうと納得もする。
「ふぁ!?」
少女が、素っ頓狂な声を上げた。トウマが目を向けると、彼女がごく手前で小石に躓いたのがわかった。その事実を把握したところで、現実は変わらない。彼女の未来は変わらない。そう、運命は非情だ。
少女が、勢いよく、こける。
トウマに向かって。
「ちょっ――」
トウマが反応するのは、あまりも遅かった。空中に投げ出された少女の小柄な体は、こけた勢いそのままトウマに激突した。額と額がぶつかり合い、物凄い音とともにトウマの眼の裏に火花が散った。
予想だにしない痛みが襲う中、トウマは、なすすべもなく少女の華奢な体に押し潰された。地面に激突した背中に痛みが走る。一瞬、呼吸が止まった。
「ぐえ」
トウマの喉から漏れたのは、踏み潰された蛙の悲鳴のようなものだった。
しばしの沈黙があった。
その沈黙を破ったのは、トウマのうめき声だ
「うー……」
「だ、だいじょうぶですか?」
心配そうにしながらも額をさする少女の顔は、思った以上にトウマの顔の近くにあった。どういう拍子か、彼女はトウマに馬乗りになっていた。
「そう思うんなら、退いてくれないかな?」
別に彼女の体が重いからではなかったが。
「あっ! ごっ、ごめんなさいっ!」
と、慌てて離れようとした彼女の顔は、恥ずかしさのあまり真っ赤になっていた。焚き火の炎に照らされていてもわかるくらいに。
「本当にごめんなさい!」
「いや、いいよ。だいじょうぶ」
トウマは、立ち上がると衣服についた砂を払い落とした。それから、疑問を口にする。
「ところで、君は? ああ、俺はトウマ」
「わたしはミナ。青河の神子」
少女の周囲に漂う冷気が、不意にきらきらと輝いて見えた。
「この青河流域のすべてを司るもの」
青河。
水龍山の頂にその源流を見出す大河であり、青河の村のみならず、紅土の村もまた、その流域に含まれていた。透き通った青さが、この世のものとは思えないほど美しいというその大河を、トウマは、生まれてこの方、一度も見たことがなかった。
村の外に出たこともなかったのだ。当たり前の話ではある。
頭上からは、陽光が差し込んできていた。森の中、頭上を覆う無数の樹枝が折り重なってできた天蓋の隙間からは、まるで光の雨のように降り注いでいる。
そう、既にトウマは、かなりの時間、シグレとミナのあとに続いて道なき道を歩いていた。いや、走っているといっても過言ではない。
先頭を行くシグレが進路を阻む潅木や長い木の枝を切り払い、ミナが息を切らせながら後に続く。トウマは、そのふたりの後をやっとの思いで追従していた。眠ったからといって、全身の疲れが完全に取れるわけもない。激闘に次ぐ激闘で、トウマの身も心も限界に近かった。
それでも、文句など口にするトウマではない。黙って、ふたりを追いかける。
「青河にゆくぞ、さっさとしろよ?」
シグレの起き抜けの一言には、トウマも唖然とせざるを得なかったが。
トウマはあの後、ミナから大した話を聞いたわけではなかった。ただ、トウマの身柄を保護した後、すぐ近くにあった民家(トウマの実家だろう)から衣類を盗み出したということや、生き残った村人を探し回ったこと、それに、発見した生存者を剣術道場に集めたということは聞かされている。
ミナが剣術道場に施した簡易結界により、村人の身の安全は守られているらしく、その間に青河の村へ救援の要請を行うのだそうだ。
そのための強行軍、である。
簡易とはいえ、妖夷が踏み込めない結界を作り出すほどの神子の力には、トウマも驚嘆を禁じえなかった。チハヤとミズキの戦いを思い出すに、それくらいのことは出来て当然といえるのだろうが。
しかし、神子とは霊樹とひとの仲立ちであり、霊樹の意思を伝えるための存在であり、霊樹の支配する領域からは離れえないはずである。神子として仕える霊樹の領域でなければ、その強大な力を振るうことなどできないはずだった。
もっとも、トウマがそのことを訊ねても、はぐらかされるだけだったが。
と、前々から聴こえていた水の流れる音が、強くなってきた。大きな河に近づいているのがわかる。
「ようやく、だな」
シグレが、うんざりとしたような声とともに、その速度を落としていった。そのすぐ後ろを行くミナは、まさに息も絶え絶えといった様子である。
「だいじょうぶかい?」
かく言うトウマも肩で息をしていたが。
「ええ、まあ、シグレの、やり、方には、慣れて、ますから」
どう見てもだいじょうぶじゃないミナの様子に、トウマは、ただ同情することしかできなかった。
「ったく、道に迷ったから時間ばかりかかってしまったぜ」
『え?』
トウマはミナと異口同音にシグレを見やった。ふたりの冷たい視線を知ってか知らずか、シグレが明後日の方向に顔を向ける。
「いや、なんでもない。気にすんな」
「でも、いま――」
「そんな細かいことばっかり気にしてると、将来はげちゃうぞ」
勢いで押し通そうとする彼にかける言葉も見当たらず、トウマはミナと顔を見合わせた。
「……細かいことかな?」
「さあ?」
ミナは、困ったように小首を傾げるだけだったが。
そしてトウマは、遂に森を抜けた。
辿り着いたのは、青き河の畔。
頭上を覆っていたはずの樹枝の天蓋が途絶え、だだっ広い空間が広がっていた。霊樹を中心とする村特有の、霊樹の枝葉が作る巨大な傘がなかったのだ。そう、それは滅びゆく紅土の村に見た光景に似ていた。
遥か頭上の淡い青は、正午過ぎの空を描き出していた。中天の太陽はあまりにも激しく輝いていて、その炎の強さに、トウマは軽い眩暈すら覚えた。目に痛いばかりの白さを誇る雲が、風に押されて流れていく。
その空の下にあるのは、無残に焼き尽くされた霊樹の亡骸であり、その哀れな残骸を真ん中に築かれた青河の村だった。そして、その村の周囲を青く美しい大河が、緩やかで穏やかに流れている。つまり、青河の広大な中州に聳える霊樹の根元に、その村は作られたらしい。
神秘的な情景だった。
森を引き裂いて流れる大河は、透き通った清らかさを湛えており、澄み渡る空気とともに霊妙な世界を演出していた。その川幅は、中洲に村を抱くほどに広く、対岸ははっきりと見えないほどだった。
陽光を反射して輝く水面の神々しさに、トウマは、ただ呼吸を忘れて見入っていた。
村の外へ出るのは、初めてなのだ。
見るものすべてが新鮮で、驚嘆を禁じえなかった。
「いつまでぼーっとしてんだ?」
シグレの大声に、トウマははっと我に返った。気づくと、シグレとミナのふたりは、延々と続く川縁を先へ先へと進んでいた。進行方向に、中州に渡るための石橋が見える。
トウマは、慌ててふたりを追いかけた。
石材で作られた橋は、大人五人が並んで渡れるほどの幅があり、結構な長さがあった。橋の上とはいえ、大河の上を歩くというのは奇妙な感覚だと、トウマは思った。
大河の流れに抱かれた中州の村は、河の水が氾濫すれば容易く飲み込まれそうなくらいに危うく見えた。最も、それはきっと杞憂なのだろう。でなければ、村を作ってまで多くのひとが住もうなどとは思わないはずだ。
とはいえ、霊樹の加護は失われたはずで、どうやって妖夷の脅威から身を護っているのか、トウマには不思議でならなかった。
ミナの作り出す結界によって護られているのなら、その力はあまりにも強大だし、そもそも霊樹が死ねば神子など存在し得ない。
神子とは、霊樹の使いである。
「じゃあ、わたしはここで」
ミナが足を止めたのは、トウマたちが橋の中程まで歩いたときだった。
「シグレ、あとのことはよろしくね」
「ああ、任せな。おまえのほうこそ、よろしく頼む」
「うん。わかってる」
ふたりのやり取りに取り残された気分になりながらも、トウマは、彼らの雰囲気を壊さないように見守るだけだった。それもすぐに終わったが。
ミナをその場に残して歩き出したシグレに、トウマは、なにも言わずついていく。
「ミナは青河の神子だからな。報告しなきゃならん」
シグレの言葉に含まれた真意など、トウマには理解できなかった。
「青河の神子って、霊樹は――」
シグレが、トウマの言葉を遮る。
「言ったろ? 青河の神子だと。霊樹の神子じゃあねえってことだぜ」
トウマは、シグレのその一言で理解した。青河そのものの神子ということだろう。驚きとともに、青河に感じた神秘性の正体をおぼろげに悟る。
「そう。この青き大河こそ、この村の新たな守護にして我らが神であり、この長大な青河流域のすべての人間を救いうる光明」
シグレが、どこか皮肉げにつぶやいた。。
「結局、なんだっていいのさ。我が身を護ってさえくれりゃあな」