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桃魔剣風録  作者: 雷星
11/42

第三章 青き河の畔で(三)

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 闇があった。

 光明なき漆黒の闇。

 渦巻くように増殖し、うねりながら拡大する。ぶつかっては食らいあい、貪りあっては四散する。散乱してもまた集まり、さらに爆発的に増大していく。

 闇は怨嗟。

 生への執着という名の毒。

 闇は呪詛。

 生への憎悪という名の毒。

 闇は憤怒。

 生への絶望という名の毒。

 悪意を具体化したような闇の中で、トウマは、ただひたすらに走っていた。走らなければならないのだ。でたらめに曲がりくねった下り坂を急ぐのもそのためだ。

 早く!

 焦燥感が彼を突き動かしていた

 速く!

 不意に、流動する闇が無数の手となって、トウマの手足を掴み、首筋や腰にも絡みついて進行を妨げた。全身の骨が悲鳴を上げるほどに強い握力だった。

 はやく!

 しかし、闇の手を振り解くことはできない。力をいくら振り絞ってみても、漆黒の指先が肌に食い込むだけだった。皮膚が裂け、血が噴き出す。

 それでも、トウマは抵抗をやめない。

 前進しなければ。

 なぜか、それだけがいまのトウマの心を埋め尽くしていた。

「いいのよ、もう」

 慈しみに満ちた母の声に、トウマは、ようやく動きを止めた。

 坂道の遥か下方に、淡い光が点っているのが見えた。

 無明の闇の中、わずかばかりの輝きが異常なまでに眩しく感じられた。

 それは、穢れひとつない白装束を身につけた母の後姿だった。だれかに手を引かれて、この延々と続く坂道を下りているように見えた。

 手を引くものの姿はおろか、母の顔すら見えなかったが。

「あなたはそれ以上進んではいけないわ」

 母がこちらに背を向けたまま紡ぐ言葉を、トウマは黙って聞いていた。言葉を挟んではならない、そんな気がした。ただ、疑問は浮かぶ。

 どうして?

「だって、あなたは生きているのでしょう? これより先は、生者が行くべき場所ではないの」

 言葉の中に、小さな棘が隠されていた。

「わたしは死んだの。殺されたのよ」

 その棘に含まれた毒は、トウマの心に入り込むと、瞬く間に増殖していった。

「あなたが災厄を連れてきたから」

 その言葉は、トウマの心を抉るには十分すぎたし、トウマの精神を密かに蝕んでいた負の情念を呼び起こすのにも一役買った。心の奥底から這い上がってきた暗い想いが、トウマの心を圧迫していく。

「破滅を」

 ふと、視線を感じて、トウマは目蓋を開けた。いつの間にか、眼を閉じていたらしい。目の前の現実から逃れようとしていたのかもしれない。目を閉じたところで、すべてが夢幻と消えるはずもないのに。

「死を」

 母が、こちらに向き直っていた。白装束のまばゆさに、頭がくらくらする。もっともそれは、毒が全身に回ったせいもあるだろう。負の意識に囚われているせいもあるだろう。いつもと勝手が違った。

 沈んでいく意識を押し留められない。

「だから、わたしは死んだの。殺されたのよ」

 母は、顔をうつむけたまま、こちらに向かって近づいてきた。乱れ髪は闇に融けるようであり、むしろこの流動する闇そのもののようですらあった。

「お義父様もあなたに殺され、わたしを殺した男も、あなたの手によって殺された」

 母の足音が、重く濁ったような腐臭を引き連れてくる。

 闇よりも深い瘴気が、辺りに充満した。

 トウマは、顔を背けた。凄まじいまでの頭痛が神経をいたぶる。強烈な吐き気が、胃の内容物を押し上げてくる。

 足元を映すトウマの視界に、母の白装束の裾が入り込んできた。足は見えなかった。裾の隙間から足が覗く前に、母の両手がトウマの頬を包み込んで、無理やりに動かしたからだ。冷ややかな痛みが、あった。

「あなたはその死を呑み喰らったのでしょう?」

 腐敗しきった母の顔は、もはや原型を留めていなかった。落ち窪んだ眼窩に眼球はなく、ところどころの皮膚が腐って剥がれ落ち、骨が剥き出しになっていた。全身から漂うのは死臭であり、重苦しい瘴気が纏わりついていた。輝いていたのは、身につける白装束だけだったのだ。

 もはやそれは、死、そのものであるといえた。

 トウマは、しかし、泣くことも、叫ぶこともしなかった。胸の内を埋め尽くす毒に含まれた事実という刃から、逃げ出すことは出来ない。ここで、その事実に眼を背け、耳を塞ぎ、いま逃げおおせたところで、現実はなにひとつ覆らないのだ。

 トウマは、母の亡骸の成れの果てとでも言うべきそれを、ただ優しく抱き締めた。そうすることしか出来なかった。母の死の一因となったのは紛れもない事実であり、その怨嗟も呪詛も満身で受け止めなければならない。

 たとえ、その憎悪がこの身を引き裂き、その憤怒がこの魂を焼き尽くしたとしても。

「俺は、あなたの息子だから」

 そのすべてを受け止めよう。

 唐突に、拍手が聞こえてきた。人を小ばかにしたような音色。どうしようもないほどに神経を逆撫で、怒りを呼び起こす旋律。

「いい覚悟だよ、本当に。だが、それをいつまで続けられる?」

 聞き知った声が耳に届くのとともに、周囲の闇が晴れた。

「おまえは幾多の死を喰らうことで、生きている」

 そして気づくと、いつかの浜辺にいた。透き通る空の彼方に燃え上がる朝焼けが、眼に痛いくらいに眩しい。天に漂う雲は渦を巻いているようであり、波飛沫が朝日を受けて輝いていた。

「おまえが生き続けるためには、もっと多くの死を積み重ねるしかない」

 抱き締めていたはずの母の亡骸は見当たらず、痛みもまた消え失せていた。なにもかも幻だったのか。安堵とともに、行き場のない怒りがふつふつと湧き上がってくる。

「でなければ、俺たちの飢えは満たされない」

 波間に佇む真紅の男の顔は、またも見えない。

「だのにおまえときたら、亡者のすべてを受け入れるなどという」

 トウマは、怒りをぶつけるべき相手を見出して、歓喜に打ち震えている自分に驚きを隠せなかった。といって、その喜びを抑えるつもりもない。

「山のように積み上げられるべき死者の、その数多の悪意や妄執――」

 ひとの傷心を弄ぶような相手の言葉など、理解する必要はない。そのように確信する。トウマは、男に向かって駆け出していた。

「おまえの器に入りきるかな?」

 真紅の男の口元が笑ったように見えた。

 その右手にトウマが具現するつもりの刀が握られていた。いつの間にか。

「もっと、強くなれ」

 剣閃が、トウマの意識を真っ二つに切り裂く。

「おまえには期待しているんだ。これでもな」



「!」

 トウマは、全身を両断された感覚に叩き起こされるようにして、両目を見開いた。陰鬱とした暗闇が前方を覆っているが、わずかばかりの火明かりが視界の外から入り込んできていた。

 凍てつくような夜の冷気と、肌に突き刺さる無数の敵意が、ここは守護の外だと告げている。村の中なのか、外なのかはわからない。

あのときはすでに村の内外に違いはなくなっていたのだ。霊樹の守護が失われた村は、悪意に満ちた森の中と大差ない。

 トウマは、自分の体の無事と、冷たい土の上に横たわっていることを確認すると、顔だけを明かりのほうに向けた。肉体的な疲労と精神的な痛みが、全身を動かすのを億劫にさせる。

 光源は、焚き火だった。拾い集められたのであろう枯れ木や落ち葉が積み重ねられ、どうやったのか火がつけられている。暗闇を引き裂く炎の鮮烈さは、ずっと忘れないのかもしれない。

 ぱちぱちという爆ぜる音が、どこか小気味よかった。

 あまり暖かさを感じないのは、トウマの居場所がその熱源から少し離れていたからだが。

「起きたか」

 声をかけられて、トウマは、ようやく焚き火の向こうの人物に気づいた。火の明るさに気を取られすぎていたらしい。

 揺らめく炎の向こう、痩せ細った木の根元にその男はいた。眼が、焚き火の炎を受けて輝いているように見えた。

 気を失う前に出会った男だった。

 トウマは、すぐさま体を起こした。意識が少しばかりの緊張を抱く。とはいえ、警戒心をむき出しにするほどでもない。いまこうして無事でいるということは、なにもされなかったということなのだ。

 相手に敵意はないのだろう。

「おまえ、寝相悪すぎ」

 男の突然の言葉に、トウマは、間の抜けた反応をした。

「えっ?」

「そのせいだからな、おまえをそんなところに寝かせたの」

 暗に他意はない、といいたいのだろう。意図は伝わったものの、トウマは、変な顔にならざるを得なかった。話が、あまりにも唐突すぎた。

「おまえがごろごろ寝転がるから、いつか焚き火ん中に突っ込むんじゃないかって冷や冷やして、寝るに寝らんなかったぜ」

 男は、本当に眠たそうな表情だった。いまにも眠りに落ちそうなほどに気だるそうな。

「ごっ、ごめんなさい」

 トウマが慌てて謝ると、男は、片手で制止してきた。

「ああ、いいっていいって。気にすんな」

 だったら最初から眠れなかったなどと言ってくるなとは思ったものの、トウマは、口に出すなどという愚かしい真似はしなかった。相手に他意はない。恩を着せるつもりもないのだろう。ただ、適当に言葉を繋いでいるだけかもしれない。

「ところで、まだ名前を教えてなかったな。俺はシグレ。剣士さ」

 と、男はあくびを漏らしながら名乗ってきた。紅土の人間でないことは、あのときからわかっている。では、どこから来たのだろう。もっとも、それはあとでいい。

「俺は、トウマ。あんたと同じく、剣を使う――」

「煉獄の修羅、とでも言うつもりか?」

 シグレは、トウマの言葉を遮ると、呆れたように頭を振った。

「やめとけやめとけ。馬鹿馬鹿しい。俺たちゃ人間だぜ。殸なんて聞いたがために剣を使えるようになった、ちっぽけで救いようのないただの人間なんだよ」

 こちらの胸の内を見透かすかのようなシグレの言いように、トウマは反論の言葉さえ思いつかなかった。

 シグレのまなざしが、鋭くなる。

「俺も、おまえもな」

 剣の切っ先を突きつけられたような感覚が、トウマの全身に走った。そして、その一瞬の気配の変化に、肉体が反応できなかったことに愕然となる。

 シグレは、こちらの様子など気にせずに言葉を続けた。もう、その眼は眠たげに揺れている。

「そこんとこを忘れちゃいけない。剣を手にして、鬼や悪魔にでもなったつもりでいるのなら、それは飛んだ勘違いさ」

 トウマに対してではなく、自分自身に向かって戒めているような口調ではあったが。

「剣を持つ鬼なんて、いまのところひとりしか知らんぜ、俺は」

 そして、小さくその名を口にした。

「あいつ――ミズキなら、鬼というに相応しいな」

「!」

 トウマは、その忌々しい名を耳にした瞬間、頭の中が真っ白になった。全身の筋肉が、無意識のうちに全力を発揮する。焚き火を飛び越えて、シグレの下へと放物線を描いて飛び掛る。

 トウマは、シグレに掴みかかっていた。彼の驚いた顔は、滑稽なほどに間の抜けたものだった。

「ミズキを知っているのか!」

「おまえこそ、知っていたとはな。こりゃあ驚いた」

 すぐに驚きを消し、冷ややかな視線を向けてきた男に、トウマは、冷静さを失っていた。忌むべき敵の姿が、脳裏でゆらゆらと揺らめいていた。無数の色彩の剣閃が、おびただしい数の木の根や枝を斬り捨てていく――。

「はぐらかすな!」

「おっと、剣は抜くなよ?」

 シグレの警告に、トウマは、無意識のうちに右手を空にしていたことに気づいた。シグレの言葉がなければ、剣を具現していたかもしれない。それほどに危うい精神状態だった、

「剣を抜いたら、俺はおまえを殺さなきゃならなくなる。いくらミナの願いでも、刃を向ける相手を保護することなんて出来ない」

 シグレのまなざしが、凍てついているように感じられた。トウマ程度ならいつでも殺せる、そんな確信めいた視線。

 まるで冷水でも浴びせられたような感覚とともに、トウマは、冷静さを取り戻すとともに自分の愚かな振る舞いを恥じた。シグレから手を離す。

「すみません」

「いや、気にすんな。自分なんてままならないもんだ」

 優しい声音だった。

 トウマは、ますます自分の失態を恥じ入るしかなく、この場に穴があれば埋めてもらいたかった。

「俺たちの素性はおいおい話すさ。ミズキのこともな」

(俺……たち?)

 トウマが、シグレの言葉に引っかかりを覚えて周囲を見回すと、焚き火に程近い木の根元にひとりの少女が眠っているのが見えた。

 白い頭巾に白い装束という、白ずくめの少女。

 彼女はなにものなのだろう。

「いまは、ゆっくり寝かせてくれや」

 と、シグレは、こちらの返答も待たずに寝息を立て始めたのだった。

「え?」

 トウマは、またしても間抜けな返事を浮かべるしかなかった。

 森の夜は静かに更けていく。


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