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桃魔剣風録  作者: 雷星
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第三章 青き河の畔で(二)

「いまは違う。あんたにはなんの感情も浮かばない」

 トウマは、冷徹に言い放つ。視界の端に横たわる母の姿があった。切り口から流れる血が、ただ痛い。まだ息はあった。しかし、どうしたところで助からないことは、誰の眼にも明らかだった。

 モモは死ぬ。

 トウマが、その一因となった。

「はっ、戯言だ……!」

 男の声は、トウマにはほとんど聞こえなかった。薄明るい絶望の中で、足掻くことすら許されなかった。もっとも雑念は、つぎの瞬間には消し飛んでいたが。

 男が、剣を地面に突き立てた。己の影へ。

「往け!」

 男の影が揺らめいたかと思うと、大きく形を変えた。無数の触手のように分かれて伸びた影が、怒涛となってトウマに押し寄せる。

(なんだ!?)

 それがなんなのか、いったいなにが起きたのかは、トウマにはまったくわからなかった。すべて、理解の外の出来事だった。ただ、おびただしい数の殺意が迫ってくるのを座して待っている場合ではない。後方へ飛び退きながら、刀を投げ放つ。

 男が、口の端を歪めた。

「それは駄目だろう、トウマ」

 大気を貫いて飛翔していた刀が、突然、止まった。蠢く影の直上に差し掛かった瞬間だった。まるで見えない手で掴まれたかのように静止し、引っ張られるようにして影の中に落下する。

 刀は見事に地面に突き刺さると、その刀身に禍々しい影が絡み付いていく。

「得体の知れない攻撃にはうかつな手段を取らないことだ、トウマ」

 影に突き立てた剣を杖に見立てたように体重をかけながら、男。それはまるで、師匠が弟子に諭すような口調だった。厳しくも優しさの滲み出た声音。

 だが、トウマの心には響かない。敵の言葉に耳を傾けるような状況ではなかった。剣への命令が届かなかった。どれだけ強く帰還を念じても、影に絡みつかれた刀が反応することはなかった。

「おまえは弱い。あまりにも弱い」

 男の舌が滑らかに言葉を紡ぎだしたのを聞きながら、トウマは、意を決した。迫り来る影に向かって、飛ぶ。

「本殿で数多の妖夷を殺した? ここでソウマ殿を斬り殺した? それは確かに凄まじい所業だ。修羅の名を語るに相応しい」

 飛躍するトウマの肉体が、地面を走る影の真上を越えようとする。しかし、彼の身体もまた、さきほどの刀と同じく、なにか見えない巨大な手に掴まれたかのように、空中で停止した。

「だが、足りない」

 トウマは、ただ手を伸ばす。前方へ。影の海に沈む己の剣に向かって。だが、身体は思うように動かないうえ、影の待つ地上へと落下していく。

「まだ、足りない」

 トウマの足が地面につくと同時に、漆黒の影が、無数に形を変えながら螺旋を描いて殺到してきた。トウマの足の爪先から、不気味なざわめきを発しながら這うように上ってくる。数多の痛みを引き連れて。

「全然、まったく、圧倒的に!」

 影の触手が、トウマの膝から太腿へと至り、そのまま腰から背中、胴体に胸部を覆っていく。それでもトウマは諦めない。剣を見据え、ただ手を伸ばす。

「ゆえに、死ぬ!」

 そして、暗黒の影が、トウマの全身を覆い尽くし、あらゆる情報が彼の頭に入ってこなくなった。

 無音にして無明。

 何もわからない。

 一時の沈黙。

 影が、ゆっくりと体を縛り上げていく痛みだけが、トウマに現実感を与えていた。



「俺を手離すから、そんな目に遭うのさ」



 トウマの脳裏を駆け抜けたのは嘲笑うような、戒めるような、そして呆れたような、囁き。

 トウマは、全身に力が漲るのを感じた。苛烈な炎のような衝動が、胸の内から込み上げてくる。トウマは目を見開いた。闇は晴れない。だが、目の前で蠢く影の向こうに、たったひとつの光明があることは明白なのだ。

 不意に、敵の声が聞こえた。

「半端な力も!」

 さっきまで、物音ひとつ聞こえなかったのに。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 トウマは、我知らず咆哮していた。開いた口の内側に影の触手が入り込んでくることも構わず、喉が張り裂けるくらいに大声を上げ続ける。

「甘い覚悟も!」

 トウマの視界を覆っていた影が、一瞬、ぼやけた。狭い視界の先で、男がみずからの剣を影から引き抜くのが見える。そしてそのまま、トウマに向かって突っ込んできた。

「ひとつの命すら!」

 トウマの肉体を束縛していた影の支配が、緩んだ。相手が、剣を影から抜いたからだろう。原理はわからないが、そうとしか考えられなかった。

 直前まで締め上げられていたトウマの身体は、突然の解放によって支えを失って、前のめりに倒れかけた。トウマは、咄嗟に足を踏み出して身体を支えると、敵の顔が目前にあることに気づいた。

「露と消える!」

 男の息吹が聞こえた。男が繰り出したのは、刺突。トウマの心臓に狙いを定めた高速の一撃。

「くっ!」

 トウマは、左手に生じた激痛に顔を歪ませた。男の突きを左手で受け止め、急所への一撃を全力で阻止したのだ。男の剣は、トウマの左掌を貫いていた。男の顔に笑みが刻まれる。顔の皴すらくっきりと見えるほどの至近距離。

「手を犠牲にしたか!」

「悪手かな」

 トウマは、男が次の攻撃と繰り出すために剣を抜こうとするのを、貫かれた左手で刀身を掴むことで阻止しようとしたが、それは徒労に終わる。引き抜かれた剣が、血潮を飛ばしながら振り上げられる。

 トウマは、視線の先の地面に剣が突き刺さっていないことを確認した。空を泳いでいた右手に、心地よい重量が生まれる。


「もう、手離すなよ?」


 そのまま、振り抜く。

 剣光一閃。

 トウマの刀が、男の腹を真一文字に切り裂き、鮮血が溢れた。剣を大上段から振り下ろそうとしていた男が、愕然と、両目を見開いて崩れ落ちる。

「あんたのそれも、悪手じゃないか」

 つぶやきながら、トウマは、背筋が冷や汗でびっしょりと濡れていることに気づいていた。相手が、もっと動作の短い攻撃を放ってきていたら、地に横たわっていたのは自分のほうではないか。その事実が、トウマの肝を冷えさせた。

「トウマ……やるじゃないか……!」

 男が、血反吐を吐きながら、トウマを見上げてきた。その苦悶に満ちた表情には、やはりどこか喜びのようなものが混じっていた。それは、強者と戦い、敗れたことによる愉悦なのかもしれない。

 修羅としての悦び。

 もっとも、トウマは、凍てついた視線を返すだけなのだ。

「そうだ! その眼だよ、トウマ。ひとならざる化け物のまなざし。おまえは、俺の死を踏み越えていく。修羅として……!」

 熱に浮かされたように必死に言葉を繋げていく男の形相は、それこそひとならざる化け物のようなものかもしれなかった。

「もう、黙れ」

 冷ややかに告げて、トウマは、刀を刺し出した。男の胸に。刀の切っ先が、男の心臓を突き破る音が、トウマの耳元に響いた。そんなものが聞こえるはずなどないのに。

「レンジロウ……?」

 脳裏に浮かび上がったものを言葉に出して、それが、トウマがたったいま生命を断った男の名であることを理解する。レンジロウは、紅土の村たったひとつの剣術道場の主であり、かつてはソウマに師事していたらしい。百斬衆の末期に参加したこともあるようだ――

 そんなことがわかったところで、トウマには、なんの感慨も沸いてこなかった。

 彼は、死んでしまった。殺したのは、トウマだ。止むに止まれぬ事情があったとはいえ、事実は永遠に覆らない。

「母さんは……!?」

 はっと気づいて、トウマは視線を巡らせ、モモを見つけるとすぐさま駆け寄った。周囲には、妖夷の気配が渦巻いている。いつ飛び出してくるかわかったものじゃない。といって、妖夷の乱入を未然に防ぐ術など、あるはずもなかったが。

 一刀の下に斬り裂かれた背中の切り口は、直視できないほどに深く、いまや彼女の命が尽きようとしていることは、その流れ落ちた血の量からも明らかだった。真紅の池のような血溜まりが出来ていた。

 トウマは、血の中に跪いて、そっと母の体を抱えた。その瞬間にモモの口から漏れたうめきに、心音が跳ね上がる。

 血の気が引いて青ざめた顔は、トウマの想像を絶する苦痛に歪み、わずかに漏れる息が、トウマの鼓動を早めていく。感じる体温も、あまりにも低かった。

「母さん……!」

 トウマには、己の視界が滲んでいくのを止められなかった。堰を切ってあふれ出した感情を止める手立てはない。

「トウマ……? ああ、無事だったのね? よかった……」

 開かれたモモの眼は、トウマを見ていなかった。その眼には、もはや何も映っていないのかもしれない。手が、虚空を泳ぐ。

「母さん……俺、俺っ!」

 トウマは、赤子のように泣きじゃくりながら、右手で、モモの手を握り締めた。ごくわずかに、モモの細い手が反応する。だが。

「本当に良かった――」

 モモの全身から力が消え失せ、なぜか、トウマの左腕にかかる体重が軽くなった。瞳孔の開ききった眼には、もう二度とトウマの姿は映らない。体温が急速に失われていく。生命の残り香すらも消えていく。

 母が、死んだ。

 唐突に訪れた静寂の中で、トウマは、すべてを喪失した事実を思い知っていた。握り締めていた母の手を解いて胸元に置き、モモの目蓋を下ろす。亡骸を優しく抱き締めるも、去来した虚無感の前に、トウマは、沈黙せざるを得なかった。

 慟哭など、許されない。

「なんだこりゃ」

 素っ頓狂な男の声が聞こえて、トウマは、茫然自失のままそちらに眼をやった。

「いったいなにがどうなって、こんな有様になったんだ?」

 灰色の外套を纏った、若い男だった。鋭い目つきで、辺りを見回している。

「おい、あんた、教えてくれねぇか?」

 その眼が、トウマを見据えた。鈍色の瞳。

「なんなんだよ、あんたこそ」

 トウマは、力なく問い返した。頭が回らない。なにも考えられない。

 男が、にやりと笑う。

「あんたを殺しに来たんだよ」

 男が差し出した左手に光が集まり、一振りの剣を形成する。くねくねとうねるような波形の刀身が、眩いばかりに美しい。

「もう、勝手にしてくれ……」

 投げやりに答えると、トウマは、全身から急激に力が抜けていくのを認めた。そういえば、左手に重傷を負っていたのだ。血を流しすぎたのだろうか。

 意識が、遠のいていく――。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「やれやれ」

 シグレは、血まみれの女の亡骸を抱いたまま意識を失った少年を見やりながら、ため息を浮かべた。

 少年は、満身創痍だった。激しい戦いがあったのだろう。見たこともない妖夷の大量の死骸と、ふたりの男の死体から、推測する。それほど間違ってもいないはずだ。

 その死闘の果て、その少年だけが生き残った。もし、ふたりの男が剣印に選ばれたものだったのなら、いま気絶している少年には、三人分の剣印の力が宿っているはずだ。

 それは、シグレにとってはまたとない好機だったが。

「これが件のトウマ……か?」

 ミナが必ず探し出して保護しろといった少年。理由は、彼は助けなければならないから、などというシグレには理解できないものだった。

 が、シグレは、ミナの言うことには一も二もなく従うつもりだった。

 みずからを語ることすら許されない哀れな少女の小さな願いくらい、全力でもって叶えてやりたい。それが彼の小さな望みだった。

「にしても、遅いな」

 シグレは、みずからの剣を印の内へと納めながら、来た道を振り返った。トウマの身の安全を優先しろ、というミナの望み通り全力で駆けてきたのが悪かったのか、彼女の姿はまったく見えなかった。

 といって、シグレは、彼女はここまで無傷で辿り着くことを理解していた。妖夷相手なら、何の心配もないだろう。

 彼女は、剣の使い手などではないが、妖夷如きが触れられるような存在でもない。

「ま、気長に待つか」

 ミナが到着するまでに出来ることもある。

 死者を葬ることくらいなら。



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