第一章 剣の目覚め(一)
この地が森に覆われて、いったいどれほどの時が流れたのだろう。
トウマは、視野一杯に群がるように並び立つ木々を見やりながら考えていた。やや長めの黒髪に、どこか挑発的な青い瞳を持つ少年。年のころは十代後半といったところか。簡素な、しかし動きやすい衣服を身に纏っている。引き締まった体は、日頃の鍛錬によって培われたものに違いない。
家の裏に根を張る大木、その根元に腰かけて、狭い裏庭を眺めるのが彼の日課だった。
裏庭には、わずかばかりだが日の光が差し込んできており、その日差しの恩恵を逃すまいと、彼の曾祖父が開拓した小さいながらも大切な畑がある。
その畑を森の動物や、村の悪童たちに荒らされないように、日がな一日、こうして監視しているのだ。もっとも、この村外れの畑を荒らそうなどという物好きな子供はそうそういないし、獣が人前に姿を見せることも滅多にない。
そんな次第、見張っているだけではあまりにも退屈なのだ。くだらない考え事をしたり、軽い運動や鍛錬でもしていなければ、暇すぎて眠りに落ちかねない。それはそれで有意義なのかもしれないが。
昼食は、毎日母が運んできてくれた。握り飯くらいのものだが、それだけで十分だった。手作りの握り飯には、愛情がたっぷり篭もっていた。
「考えるだけ無駄かもな」
ため息混じりにつぶやいて、彼は、大木の幹に背を預けてもたれかかった。
森。
トウマが生まれる遥か前にこの大地を覆い尽くした木々の群れは、いつの間にか、その鬱蒼たる闇の中に狂気を孕み、悪意と死臭を撒き散らす化物・妖夷の住処となっていた。それは人間に仇なし、人間を襲い、人間を喰らう――まさしく、人間の天敵のような存在だった。
自然の実りをもたらすはずの森は、いまや人間にとって恐怖の対象に過ぎないのだ。
が、森は大地のほとんどを埋め尽くしているという。いくら切り開いても増殖する木々を、この大地から完全に消し去ることなどできるわけがなかった。
人間に残された道は、森と共存することなのだが、それすらも妖夷の存在が許さない。森の闇に蠢く殺意の化身たちがいなければ、たとえどのような劣悪な環境でも、どうにかしてでも生きていくことはできただろう。
なんとはなしにトウマは立ち上がり、頭上を仰いだ。大木の幹から天に向かって伸びる枝葉には、隙間すら見つからない。例え、この木の枝と枝の間隙があったとしても、それよりも遥か高みを傘のように覆うものがある。
日差しすら妨げられ、村の隅々までが影に覆われているのだ。トウマの家の裏庭に日の光が差し込んでいるのは、村の中では数少ない例外であり、その太陽の恵みを独り占めすることが許されているのは、トウマの曽祖父がこの村に重大な功績を残したかららしい。
(あんたもでかいけど、これ以上なんだよなあ、あれ)
トウマは、大木の幹に手を触れた。表皮の感触とともに、なにか暖かな脈動を感じる。生きている、というだけではない。それ以上のなにか。
「っ!?」
不意に、鋭い痛みとともにトウマの脳裏を一条の光が走った。鮮烈で激しい閃光は、断片的な情景となって、頭の中を駆け巡った。
燃え落ちる大樹。
逃げ惑う人々。
妖夷の群れ。
蹂躙される村。
閃く剣光。
緋い瞳――。
(なんだ!?)
微かに痛む頭を押さえながら、トウマは、目をぱちくりさせた。幻視は失せ、小さな畑とその周囲の見慣れた景色が眼前に広がっていた。
なにが起きたのかはさっぱりわからなかったが、漠然とした不安や焦燥感といったものが、彼に日課のことなど忘れさせた。
その村は紅土という名で呼ばれている。紅い土の村、だ。
村は、ひとつの大樹に寄り添うことで、呆れるほどの安寧を勝ち得ていた。地を覆う森の支配を寄せ付けず、獰猛な獣や、凶悪な妖夷の脅威からも隔絶された平穏。
それは、村の中心に聳え立つ、霊樹と呼ばれる大樹の力のおかげだと信じられている。
実際、天を衝くほど巨大で雄大な霊樹から伸びる無数の枝葉は、村の頭上にまるで緑の天蓋を形成しているかのようであり、その影の下に妖夷が出現したことは一度も無かった。
霊樹を中心として南北に大きな通りがあり、トウマの家は南の通りの果て――村と森の境界付近にある。トウマが目指す霊樹までは、まっすぐ北進するだけでよかった。
村は広くはないが、千人に満たない人々が暮らすには十分だろう。霊樹の傘の下では、猛威を震う木々の数も少ないものだ。元々乱立していた木のほとんどは、村を作るに当たって切り倒され、家屋の建築などに使われたという。
赤い土がむき出しの通りを急ぐ。影の中、時折ほんのわずかばかりの木漏れ日が、申し訳程度に暗い道のりを彩った。
なぜこんなにも焦るのだろう。
トウマは、自分でも不思議に思うのだ。刹那の幻視。いつもなら気のせいにして、すぐに忘れてしまうというのに。
(今日に限って、なんで……)
嫌な感じだった。なにか言い知れぬ焦燥感が、先を急げと駆り立てている、そんな感覚。
(なんだってんだ……!)
苛立ちを隠せぬまま、トウマは、前方を睨んだ。
霊樹は、遥か前方に悠然と聳えている。何百年、何千年も前からそこにあるかのように。
巨大な霊樹、その外周をトウマの身長よりも高さのある柵が、ぐるりと取り囲んでいた。霊樹自体とてつもなく巨大なのだ。その遥か周縁部に柵を作るだけでも、かなりの労力が必要だったはずだ。
柵とは、境界である。
現世と神域を別つ、楔。
安息という何事にも変えがたい恩恵をもたらすこの大樹を、村人たちはいつしか、神として崇め奉るようになったのだ。
神を祭るためには、社が要る。
そうして、霊樹を祭神とした神社が作られた。霊樹の強大な結界の中に、人の手による小さな結界が築かれたわけだ。
神社の鳥居は、南北両方の通りに面した場所に設けられている。当然、その朱塗りの門をくぐるのは自由であり、毎日のように、暇をもてあました子供たちや、霊樹を拝みにきた老人、物好きな若者が訪れている。
鳥居の先に広がる境内はそれなりに広く、赤土の上に敷かれた石の参道が霊樹の根元まで続いているようだった。トウマにとっては見慣れた風景だったが、天地を支えるように聳え立つ霊樹の巨大さには、毎度圧倒されてしまう。
この村に生まれ育ったものにとっては、霊樹がどれほど偉大で神聖な存在であるか、幼いころから嫌というほど教えられているため、どうしたところで、霊樹を見ると畏れ敬ってしまうのだろう。そして、この“村”という小さな世界で生きていくには、それが正しかった。
参道の東側には社務所があり、西側には祭具などを保管した蔵がひっそりと佇んでいた。節目ごとの祭事に用いられる様々な祭具は、当然村人の手作りであり、最初こそ貧弱だったものの、年々立派なものになってきているという評判だった。
参道の前方には質素な拝殿があり、その奥に神を祭る本殿がある。神を祭らずとも、霊樹はそこに厳然として存在しているのだが、これにはわけがあった。
「なんだ、今日はトウマだけか」
残念そうな男の声に眼を向けると、作務衣姿の老人が、ひとりで境内の掃除を始めようとしていたところだった。
その老人は、箒を杖代わりに、こちらを見ていた。見事なまでの白髪だ。しわの少ない顔に刻まれたいくつかの傷痕と、双眸に宿る鋭い輝きが、この老人が只者ではないことを如実に表していた。身の丈はトウマより少し高いのかもしれないが、腰を折り曲げているため、はっきりとはわからなかった。
「なんだよ、それ」
トウマは、ふてくされるようにつぶやいて、周囲を見やった。確かに境内には二人のほか、人っ子ひとりいない。閑散とした境内は、霊樹の社本来の姿を取り戻したかのようにも見えたが。
冷厳たる静寂こそが、神域には相応しいのだ。
「なに、めずらしいこともあるもんだと思ってな」
「むしろじっちゃんには、このほうが静かでいいんじゃないの」
そう言って、トウマは、歯を見せて笑った。それはトウマ自身の感想でもあったからだ。
老人の名は、ソウマといった。トウマの祖父なのだ。
「そうだな。あとはおまえが問題さえ起こさなければ、なにも言うことはないんだが」
ソウマが、トウマの笑みに釣られるようにして笑った。彼が笑顔を見せると、その歴戦の猛者といった顔が、途端に好々爺そのものになった。
「じゃ、そういうことで」
言うが早いか、トウマは、拝殿に向かって駆け出した。なにが「そういうこと」なのかは、言った本人にもわからなかったが、どうでもいいことではある。
「こら、待て――」
後方から祖父の怒ったような、それでいて苦笑しているような声が聞こえたが、トウマは、足を止めなかった。いつものことなのだ。
拝殿は、村人が祭神たる霊樹に参拝するための建物だ。極めて質素な作りであり、きらびやかな装飾や、仰々しい付属物などもない。
それが、霊樹の望みだからだ。
そもそも霊樹は、祭神として奉られることを望んではいなかったが、村人たちの健気で儚い訴えに応じる形で、神社の建築を許したという。
霊樹は、人間との共存を望みこそすれ、みずから神となって人間を支配しようなどとは考えていない、というらしいのだが。
詳しいことなど、ただの村人であるトウマが理解しているはずも無かった。
「ま、なんでもいいさ」
ひとりつぶやいて、トウマは、拝殿の中を抜けた。本殿の前に立つと、ふいに寒気がした。霊樹の周囲は、常に冷ややかな空気が漂っており、夏場になると、暑さをしのぐ為だけに神社を訪れるというものも多い。
本来は御神体を収めるべき本殿の作りもまた、簡素なものだ。無駄な装飾をほとんど排したその姿は、見ようによっては、ただ床の高い人家に見えなくもない。
本来、余人の立ち入りを禁止された本殿の戸の前に立って、トウマは、静かに深く呼吸した。肺の中の空気を入れ替えるように、ゆっくりと。
トウマは、胸に手を当てた。なぜか動悸している。以前はこんなことはなかったのに、最近はいつもこうだった。体がおかしくなったのではないのかと疑うこともあるのだが、ここ以外では変わらないのだ。
きっと、戸を隔てた向こうにいるひとの所為だろう――彼は、いつもそう結論付けた。そしてそれに間違いは無いはずだった。
「だれか、いるのですか?」
本殿の中から聞こえてきたのは、少女の声だった。聞きなれた美しい声音に、トウマは、胸の鼓動が静まるのを感じた。声だけで、安らぎを覚えている。
「来たよ、今日も」
「トウマ!」
本殿の戸が開いて、中から伸びてきた白くて細い腕が、トウマの手を引っ張った。思った以上に強い力で引き寄せられ、トウマは、驚きながらも本殿の中に入るしかなかった。
「よかった、無事で」
そう言って、彼女は、トウマの胸に顔をうずめてきた。強い力で抱き締められて、悪い気はしなかったが、同時に釈然としないものを覚えていた。
漠然とした不安が、トウマの胸の内で生まれた。わずかな綻び。ほんの小さな亀裂
「チハヤ……?」
トウマは、彼女の黒く艶やかな長髪を優しく撫でるしかなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
遥か頭上を埋め尽くす霊樹の枝葉によって形成された緑の天井は、森の中のわずかばかりの楽園として急造された村の歪さを、その影で覆い隠しているかのようだ。
霊樹の力に寄りかかって作られた村など、どこも似たようなものだが。
男は、視線を頭上から前方に戻した。真っ直ぐに伸びる通りの果てに、傲然と聳え立つ霊樹が見える。その下に社があるのだろう。
男。長身痩躯、長すぎる白髪を後ろで結び、漆黒の装束で身を包んでいる。明らかな旅装だったが、武器などは見えない。
緋色の眼が、ただひたすらに霊樹を見据えていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「夢を見たわ」
深い碧を湛えた瞳は、一切の不純物が見当たらないほど美しく、トウマは、いつまでも彼女の眼を見つめていたいと想った。そのささやかな願いが叶うのならば、なんだってできるような気がした。
それはきっと勘違いには違いないのだが、それでもトウマは、みずからの想いを信じることになんの躊躇いもなかった。
「夢?」
本殿の中で、ふたりは対座していた。広い空間には霊樹の放つ神妙な霊気が漂い、意識が研ぎ澄まされていくような錯覚さえ覚える。
「そう、夢。とても怖い夢」
と、チハヤ。膝の上に置いた自らの手に視線を落としたその様は、なにから言うべきか迷っているように見えた。
チハヤ。長い黒髪が美しい少女。傷ひとつ見当たらない白い肌には、無垢という言葉がよく似合った。抱き締めただけで折れてしまいそうなほど華奢な身体は、白を基調とした装束に包まれている。その姿は、さながら幼い女神のようだ、というのはトウマの祖父の言葉だったか。
彼女はトウマの幼馴染であり、妹のような存在であり、またある種の憧れでもあった。
「トウマが遠ざかっていく夢」
チハヤが、意を決したように言ってきた。その声は、わずかに揺れているように聞こえた。そしてその揺らぎは、聞いているものの心さえも震わせる力があった。いや、それはトウマだから、なのかもしれない。
「トウマがわたしを置いて、どこかに行ってしまう夢。トウマがいなくなる夢」
チハヤの気配が急激に弱く儚くなっていくような気がして、トウマは、それがまるでみずからの身に起きていることのように感じた。なぜだろう。胸が痛む。締め付けられるような痛みだった。
トウマは、その痛みを振り切るようにして、わざとらしく笑ってみせた。
「俺はどこにも行かないぜ?」
まして、チハヤを置いてだなんてありえない。それはどうしようもなく紛れもない事実なのだ。誰がなんと言おうと、どれだけ否定されようとも、覆しようのない真実なのだ。
無論、それはトウマの心の中での話だ。現実は違うのかもしれない。無残にも打ち砕かれるのかもしれない。しかし、いまのトウマには、その想いに嘘をつくことなどできなかった。
が、チハヤは、かぶりを振った。
「違うのよ、トウマ。そうじゃないの。そういうことじゃない……」
チハヤの物憂げな表情がより深く染まっていくのを認めて、トウマは、悪い予感がした。とてつもなく嫌な感覚が、心をざわめかせた。
「じゃあ、どういう――」
「あなたが死ぬということよ、トウマ」
トウマの言葉を遮って、チハヤ。それは今までにないくらいに厳然とした口調だった。嘘や冗談などではない、本当の言葉。
「でも、それは必ずしも決定された事柄じゃないの。予言は覆される。予想は外れる。そういうものでしょう?」
チハヤのどこか神秘的な声を聞きながら、トウマは、一瞬、目の前がぐにゃりとゆがんだような気がした。
「わたしは霊樹の神子。霊樹は時折、神子の夢に明日を映すわ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
森とは、なんなのだろうか。
ひとひとりいない境内を黒く染め上げる巨大な木の影の中で、ソウマは独り静かに考えていた。
年季の入った箒で、境内の隅から隅まで掃きながら考えるのは、いつもこのことだった。この六十有余年の人生の中で、もっとも多く考えてきた疑問であり、いまだに答えの見えない問題でもある。
森の出現は、彼が生まれる以前だといわれている。ソウマの父リョウマが子供のころ、それは、地の底から競うように飛び出し、瞬く間に大地を蹂躙し、都市を破壊し、数多の命を奪い去った。
なんらかの意志を持っているかのように増殖と領土の拡大を図り、人の世に混乱と絶望を蔓延させた。
それから百年以上が立っているという。
答えは出ていない。
「永遠にわからぬのかな」
「それは、自身の命の行方か? ご老体」
ソウマの思考を遮ったのは、若い男の声だった。涼やかな風のようでありながら、どこかに嵐の凶暴性を秘めた、そんな声音。
ソウマは、はっと顔を上げた。すぐ目の前に、長身の男が立っている。声の主だろう。見慣れぬ顔だった。中性的で形の整った顔立ちは、美しいとさえいえた。かすかに狂気を孕ませたその眼だけが、彼の美貌を歪めている。
緋色の瞳は、燃えるように輝いていた。
(気づかなかった……? この俺が?)
ソウマは、表情には出さなかったものの、胸中愕然としていた。考え事をしていたものの、没頭していたわけではない。境内の掃除をしながら、長々と考えるなどいつものことなのだ。その間も周囲には気を配っている。でなければ、孫のトウマにすら出し抜かれるのだ。
つまり、目の前の黒衣の男は、ソウマにさえ気づかれないように気配を消して、近づいてきたのだろう。それは、彼がただものではないということに他ならない。
「あんた、どこから来なさった?」
ソウマは、気を取り直すように訊ねた。即座に意識を切り替えられなければ、森の中では生きてはいけないものだ。が、箒を掴む手に、いつの間にか嫌な汗が滲んでいた。
「問いに問いで返すのは頂けないが、まあいい」
男が、ソウマの心の底まで見透かすようなまなざしで、続けてくる。
「青河の村からさ。あんたもよく知っているだろう?」
「ふむ……知らぬこともないが」
ソウマは男の言葉を肯定しながら、清流の中州に仁王立ちする霊樹の勇姿を思い出していた。その霊樹の元でも、ここと同じように村が形成されていたのだ。
そう、村などと呼ばれる霊樹を守護とする人間の集落は、この紅土だけではない。いくつもの村が、この森の中に点在しているのだ。もっとも、いまは村同士の交流もなくなり、話題に上ることすら少なくなったが。
「何十年も昔の話。百斬衆などと名乗る連中が、青河や黄葉といったこの近隣の村々を荒らし回ったという。そういうおとぎ話を、子供のころに何度も何度も聞かされたよ」
男の言葉には、脈絡などありはしなかった。その語り口調は、静かで、淡々としたものだった。事務的な、とでもいうべきかも知れない。
「百斬衆の白髪鬼は、赤い土を運んでくるぞ。赤い土に触れれば死ぬぞ。赤い土に触れれば死ぬぞ――そんな話さ」
ソウマは、笑った。笑うしかないように思えた。村の外からの来訪者が、まさかそのような話をしてくるとは思っても見なかったのだ。
「最初はただ、妖夷を叩きのめして名を上げたかったそうだよ。彼ら」
懐かしい話だったのだ。
それは彼にある種の覚悟を決めさせるものだった。