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第49話 ずぶ濡れになる二人

 不思議な気分だった。


「どう? 歩いてるだけで気持ちが落ち着かない?」


 愛李ちゃんが言った。


「うん。水の中にいるみたいな不思議な気分だよ」

「気分転換したいとき、ここに来るんだよね。露崎くんは、こういうとこ来るの初めて?」

「水族館は何度か行ったことあるけど、こういう感じのデカくて綺麗な水槽がある場所は初めてだよ」

「それならよかった。露崎くんの初めて、もらっちゃったね」


 愛李ちゃんの言い方に、僕の方が恥ずかしくなっちゃう。


 僕は、愛李ちゃんに連れられて、水族館にいた。


 淡い青の光で包まれた、大きな水槽が広がっているトンネルみたいなところに立っていて、まるで海の中から水の生き物を眺めているような感じになっていた。

 どこか幻想的な雰囲気がある上に、隣には微笑みを向けてくれる愛李ちゃんがいるのだから、本当に夢の中にいるみたいだ。


 それでも、愛李ちゃんの手と繋がっている左手の感覚が、これが夢じゃないことの証明で、僕は何が何でも手放したくないと思ってしまった。


 その後、僕は愛李ちゃんに連れられて、名物だというイルカショーを観ることになった。


 カップルから家族連れまで何かと賑やかなその会場で、僕らもまた、もしかしたら周囲の人からはカップルに見えているかもしれない。


「せっかくだし、一番前の席で見ようよ!」


 愛李ちゃんが面白がって、僕を最前列まで引っ張ってきた。

 間近で体験するショーは迫力があったんだけど、最前列ならではの弊害も当然あって。


 イルカが豪快なジャンプを見せてくれたとき、大量の水しぶきが舞った。


 前列のお客には、スタッフが事前に水濡れ防止用の透明なシートを配ってくれていたから、それを使えばよかったんだけど。


 どういうわけか僕は、自分よりも先に愛李ちゃんが濡れないように防水シートを広げてしまった。

 隣の席の愛李ちゃんだってシートをもらっているんだから、僕がやる必要はなかったんだけど、自然と体が動いちゃってたんだ。


「露崎くん!? もう! 私のことなんかよかったのに!」


 びしょ濡れな僕を見て、愛李ちゃんが目を丸くする。


「ごめん、水しぶきが飛んでいくのを見て、つい」

「待って。私、ハンカチ持ってるから」

「お、織井おりいさん!?」


 愛李ちゃんが、僕の顔を拭いてくれていた。

 物凄く間近に、愛李ちゃんの顔がある。


 もう二度と、こんなに近くで愛李ちゃんの顔を見ることなんてないと思っていたのに。


 ほんの少しでも身を乗り出せば唇に触れてしまいかねない距離感だけど、今の愛李ちゃんは恋人でもなんでもないことがもどかしかった。


「露崎くん」


 僕の顔を拭き終えて、愛李ちゃんの顔が離れていく。


「イルカさんより、私を見てる時間の方が多くなっちゃったね」

「そ、そうかもしれないけど……」


 イルカさんには悪いけど、イルカショーよりずっと魅力的な光景が目の前に広がっていたんだから、どう頑張ったってそっち見ちゃうって話だよ。


「露崎くんは、他人想いの人なんだね。自分より人のことを優先しちゃうんだから」

「そんなことないよ。僕だってわがままなんだから」


 過剰に他人のことを考えてしまうことの心当たりはある。


 家族以外の人が住む家に預けられ続けてきた僕は、そうしないと生き延びられなかったから。

 常に他人の視線を気にして、他人の気持ちに応えることにばかり熱心だった。


 だから僕は……どうこうして欲しいって言ってくる我の強い人じゃないと、上手く付き合って来られなかったのかもしれない。


 僕が知っている愛李ちゃんも、自己主張はそう強くない子だった。

 優しくはあるけれど、常に誰かに流されかねない危うさがあって、だからこそ僕は好きになったのかもしれない。


 この子は僕がいないとダメなんだって、思い上がることができたから。


「そっか。じゃあ、あなたがわがまま言ってくれるときを楽しみにしてるね」

「楽しみなの?」

「もっと仲良くなったら、私にもわがまま言ってくれるってことでしょ? 私、露崎くんのこと、もっと知りたいんだから」


 愛李ちゃんが、これほどまでに僕に興味を持ってくれていることが嬉しかった。

 だって、もう二度とないと思っていたんだから。


「わっ!」


 うっかり僕は忘れていたけれど、まだイルカショーの途中だった。


 今度は愛李ちゃんを守る暇もなくて、僕らは二人揃ってびしょ濡れになってしまった。

 まだまだ暑さの残る季節でよかったと思う。


「これ終わったら、お土産屋さんでTシャツ買って着替えよっか?」

「そうだね」


 ずぶ濡れの僕と愛李ちゃんは、どちらからともなく笑みがこぼれてしまった。

 僕は、満たされた気分だった。


 もしかしたら、今。

 こっちの世界にやってきて、一番の幸福を感じてしまっているのかもしれない。


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