第31話 僕の幸せな時間
目を覚ましたとき、いまいち現実感がなかった。
目覚めているのに、ちっとも体が起きていない感覚だ。
けれど、漂う香りには妙な現実感があった。
匂いのもとは、キッチンの方から。
ワンルームのこの部屋は……見覚えがある。
風祭家のお世話になる前に暮らしていた、アパートの一室だったから。
「あ、起きた?」
そう声を掛けてきたのは、もはや懐かしさすら感じる愛李ちゃんだった。
控えめな微笑みは、僕が好きになった愛李ちゃんの姿そのまま。
でもこの時点で、ああこれは現実じゃないんだって思ったよ。
だって愛李ちゃんは、もう僕のもとから去ってしまったのだから。
「ちょうどご飯ができたところなんだ。律くん、起きたばかりでも食べれる?」
「もちろん。だって、せっかく愛李ちゃんがつくってくれたんだから、食べなかったらもったいなくて罰が当たるよ」
「それだと私が普段全然料理しない人みたいだね」
「そんなことないよ! 愛李ちゃんはいつもつくってくれるし。本当は僕だってやらないといけないのに」
「律くんが料理できるのは知ってるけど、勝手に部屋にお邪魔しちゃってるのは私の方だもん。料理くらい、私にさせて」
愛李ちゃんは、いわゆる家庭的な子だったんだと思う。
僕の方から何かを言い出す前に、世話を焼いてくれたくらいだから。
ときには、そこまでしてくれなくていいよって言いたくなるくらい。
「代わりに、私が欲しいものをくれればそれでいいから」
「え、何?」
一体何が欲しいのだろう、お金足りるかな、なんて一瞬でも考えた僕はバカだったみたい。
「私のこと、ちゃんと好きでいてね?」
過去の僕は、何の疑問もなく首を縦に振っていたはずだ。
僕はベッドを抜けて、愛李ちゃんとテーブルを囲んで一緒に朝食にする。
もちろん、味は格別だけど、おいしいかどうかなんてどうでもいいんだ。
こうして、大好きになった人と一緒に過ごしているだけで幸せだったから。
ああ、これが僕が欲しかった幸せなんだって思ったよ。
できれば、ずっとこんな日が続いて欲しかった。
『――私、律くんと一緒にいていいのか、必要とされてるのか、全然わからなくなっちゃったから……』
感覚が曖昧な状態だろうが、最後に愛李ちゃんから突きつけられた言葉は、何度だって鮮明に突き刺さる痛みだった。
痛みの刺激で脊髄反射したみたいに、僕はパチリと目を開けてしまう。
最近やっと見慣れてきた天井が見えた。
今度は、ちゃんと四肢にしっかりとした現実感があった。
「――あっ、目が覚めたみたい!」
誰かが言った。声からしてたぶん、瑠海奈さまなんだろうけど、瑠海奈さまは僕が目覚めた程度でこんなはしゃいだ声出すかな……?
僕のベッドの周りには、純礼さまに、瑠海奈さまに、実紅さまがいた。
みんな僕を心配そうに見つめている。
部屋の奥には、永森さんの姿も見えた。
「ここは……僕の部屋ですよね……?」
「うむ。無茶して久華姉の料理型兵器を口にしたせいで、きみは倒れてしまったんだ」
「ふふ、大変だったのよ、ここまで運ぶの。律くんって意外と無茶しちゃうわよね。この間だって――」
「それより、あんた大丈夫なの? どこも異常ない?」
「ほーん、瑠海奈姉、ずいぶん心配そうだな。瑠海奈姉もこっち側の仲間入りか?」
「だって! 露崎律が倒れたら茜の負担が増えるでしょ! もう! こいつはなんにも考えてないんだから!」
瑠海奈さまも、一応は僕のことを心配してくれたみたい。
「大丈夫ですよ。お陰様で体の不調は感じないですし……それより、僕は、久華さまの手料理を完食できたんでしょうか?」
「皿までピカピカになるくらい綺麗に食うやつ、初めて見たぜ」
久華さまの顔が見えて、僕は不思議と安心してしまった。
「よかった。すみません。ごちそうさまでしたも言えずにこんなことに」
「いーんだよ! お前は気色悪いほど変なところ気にするなー」
「でも、せっかくつくっていただいた料理ですし」
「悪かったな、あたしのせいで。でも、ありがとうな。お前は弱々の貧弱野郎だと思ってたけど……見直した」
「ありがとうございます。その言葉が聞けて嬉しいですよ」
「お前の言う通り、失敗したからって辞めることはしねぇよ。でも、本番までちゃんとした料理をつくる準備が足りねぇのは事実だから、その辺は妥協させてもらうぜ」
「よかったです。久華さまがその気になれば、なんだってできますよ」
「ふん。わかったような口を利くな」
ぺしん、と頭を叩かれるんだけど、全然痛くはなかった。
「じゃ、さっさと寝てろ。具合が良くなるまでは、あたしにくっついて回らなくていいぞ。ちゃんと休め」
久華さまから、投げ出さないって言葉を聞けただけで、体を張った意味があったというものだ。




