第25話 久華さまと朝のトレーニング
「はあっ、はあっ」
その日、僕は早朝から心臓が爆発しそうになっていた。
「おらぁっ! お前の本気はそんなもんかよ!?」
「じゅ、十分本気ですよ~! 限界までやってますって!」
「ウソをつくな! 全力でやれって言ったよな? それがお前の全力か!? ぜーんぜん全力に見えねえんだよ!」
「ひ~」
とうとう僕は、その場に倒れ込んでしまう。
マズい。
死ぬ気で食らいついていかないと、久華さまから使用人失格扱いされてしまうかもしれないのに。
「おいおいお前、それでもあたしの使用人か? 軟弱者は、あたしの使用人には向いてないぞ」
汗一つかかず、平気な顔で立っている久華さまの足下で、僕は大の字になることしかできない。
僕は今、風祭のお館の裏にある山の中で、久華さまの早朝トレーニングに付き合っていた。
昨日から久華さまのお世話をしているんだけど、朝のルーチンからして実紅さまや純礼さまと比べて明らかに異質だった。
僕が起きるよりも早くトレーニングウェア姿で部屋に現れた久華さまに、「今日からお前はあたしの担当だろ? 付き合ってもらうぜー」と無理やりトレーニングウェアに着替えさせられ、ランニングに付き合わないといけなくなった。
今思えば、実紅さまや純礼さまのときは天国だったよ。
きっと僕は、心の深いところで使用人の仕事をナメていたんだ。
「まだ準備運動だぞ? これからトレーニングルームへ行って筋トレがあるのに、ランニングでへばってどうすんだよ」
「こんなに走りまくってるのに、まだ準備運動なんですか……?」
一体どれだけフィジカルモンスターなのだろう?
「いや、そうだな。せっかくお前がいることだし、あたしのスパーリングに付き合ってもらうか」
「す、スパーリング!?」
そんなわけで、ランニングのメニューをこなしたあと、僕はお館の中にある道場まで連れてこられてしまった。
久華さまは空手で使うような道着に着替えていて、久華さまの命令で僕まで道着姿だ。
サイズが合わないのか、それとも僕がひょろひょろだからか、道着がオーバーサイズ過ぎてとてもカッコ悪い……。
「よし、行くぞ!」
「えっ!?」
久華さまは目にも止まらぬスピードで僕へ急接近してくる。
腕を掴まれると、その腕に飛びついてきて脚を絡めてきた久華さまにわけのわからぬまま仰向けに転がされてしまい、右腕の肘を本来曲がらないはずの方向に曲げられそうになってしまっていた。
飛びつき式の腕ひしぎ十字固めを食らった僕だけど、未だ右腕の関節に痛みが走ることはなかった。
そのかわり、妙に柔らかい感触が僕の右腕を圧迫していた。
久華さまは両腿で僕の右腕を挟み込んでいるわけだから、その感触なんだけど、想像と違って鍛え抜かれたゴツゴツしたものじゃなくて、むしろ心地よさすら感じる。
「おらおら、このままあたしが腰を突き上げたら、関節がイッちゃうぞ? 抜け出してみろよ」
煽る久華さまだけど、格闘技素人の僕がこんな状況から抜け出せるわけがない。両手足をバタバタさせても逃げられそうな気がしないし……。
でも、おかしいな。
僕は柔道もMMAもちっとも知らないんだけど。
腕ひしぎ十字固めってここまで相手の腕を執拗に腿で挟み込むものなんだっけ?
痛みを与えるよりも、僕の腕を股に擦り付ける方を優先させてるんじゃないかってくらい、グイグイ引っ張りながらも関節を極める気配がない。
「はぁはぁ、ど、どうだぁ? そろそろイきそうだろ?」
「な、なんか声が妙に艶っぽくないですか!? 僕の腕で何してるんです!?」
「はぁ!? へ、変なこと考えてんじゃねぇよ! 破壊しようとしてるに決まってんじゃねーか!」
「僕より久華さまの方がずっと様子がおかしいと思いますけど……」
「もういい! 次だ! ほらほら、立てよ」
久華さまは技を解いてくれるんだけど、立ち上がったときの顔色はやたらと赤く、どこか満足そうというか悟りを開いたような表情にも見えた。
「あれ、なんか腕のところが湿って……」
「つーか露崎ぃ!」
「は、はい! なんですか?」
「お前、いくらあたしが強いからって、あっさり倒されすぎだ。そんな貧弱だったら他の女に押し倒されてサクッと抜かれちまうぞ?」
「それは……危機感を覚えたことはありますけど」
「それならちゃんと鍛えないとな! 次行くぞ!」
「わっ!」
久華さまは僕の背後に巧みに回り込んで僕を引き倒すと、胴締めのスリーパーホールドをしてきた。
「ギブアップしたけりゃしていいんだぜー。あたしは弱いやつを鍛えてやるのは好きだけど、弱者いじめは嫌いだからな」
どうやら久華さまは体力オバケなだけじゃなくて武術の達人みたいだし、ギブアップをしない理由なんてない。
でも早朝のランニングでは、耐えきれずにギブアップしちゃったわけだし、これ以上情けないところを見せてしまったら使用人失格の烙印を押されそうだ。
せっかく実紅さまに純礼さまと、二人にお仕えしてどうにか風祭家に留まっていられるのに、ここまで来て追い出されるわけにはいかないよ。
だから、どうにかして抜け出すために頑張ろうとしたんだけど。
妙だな……。
久華さまは、僕にスリーパーホールドをしている。
それなのに、全然苦しくないんだ。
これは弱い僕のために手加減をしているのかと思ったら……。
「また久華さまの息荒くなってますけど!? 本当に何が目的なんですか!?」
「う、うるせぇな、お前は黙ってろよ。天井のシミでも数えてろ。すぐ終わるから!」
「なんかそれ不穏な予感しかしないんですけど!?」
「すんすん……」
「なんか嗅いでないですか!?」
「嗅いでねぇよ、なんで男子のにおい嗅がなきゃいけねぇんだよ、普段こんな近距離で嗅ぐ機会ないからってあたしがそんなセコいマネするわけないだろ!」
「ていうか、さっきから久華さまの手が僕の体のあらゆるところに触れてるんですけど!?」
「それだとあたしが変態みたいだろ! 露崎の筋肉がどんなもんか調べてんだよ!」
「あっ、待ってくださいよ! そこだけは触っちゃダメですって!」
「お前な、スパーリングは素手同士でやるもんだ。こんなとこに固い武器隠してんじゃねぇよ。出せよ、オラァ! 反則だぞ!」
「ついさっきまでは柔らかかったんですよ! って何言わせるんですか!」
「あんたたち、何やってんの?」
冷たい表情で見下ろしてきたのは、瑠海奈さまだった。
久華さまがやたらと色んなところに触ってきたから、僕は道着の上着がほぼ脱げている状態だった。
そこに絡みついている久華さま。
事情を知らない瑠海奈さまから見たら、本当に何やってんのって言いたくなるよね。
「朝食はとっくにできてるわよ。茜が探してたから、ここに来てみれば……」
「すみません……」
僕は、久華さまにお仕えしないといけなかったのに、久華さまのペースに乗せられて、されるがままにされてしまった。
これは、反省しないと……。
「おい、なんで萎えさせてんだよ! もう一回根性で勃ち上がってみせろ!」
「久華、あんたもいい加減にしなさいよ。わかってんでしょ?」
「ちっ、しゃあぇな。あたしは義理堅いことが売りだからな」
間に入ってくれた瑠海奈さまに助けられて、僕の貞操はどうにか事なきを得た。




