第1話 すべてを失って
僕は、ついに幸福を手にしたのかもしれない。
そう思っていたんだ。
今日、この日が来るまでは。
よく晴れた日の、通っている大学内にあるカフェテラスでのことだった。
「お前が露崎律か。ははっ、ずいぶんナヨっとしたヤツだな。それでも本当に男かよ?」
いかにもチャラくて軽薄そうな男が僕を嘲ってきた。
実際、この先輩は女癖が悪いことで有名だった。
本当は他大学の学生なんだけど、色んな大学を巻き込んだイベントサークルを主催しているせいか、うちの大学にもよく出没して、僕も名前は知っていた。
「まあいいや。お前のカノジョの愛李ちゃんは、オレがもらってやることになったから」
「ど、どういうこと!?」
チャラい先輩こと真坂洸太郎の隣にいる女の子に視線を向ける僕。
「……ごめんね、律くん。真坂先輩が言った通りなの」
申し訳無さそうな顔の愛李ちゃんだけど、真坂のそばから離れる気はないみたいだ。
織井愛李ちゃんは、僕の恋人だ。
大学一年の春に、サークルの飲み会が縁で連絡先を交換し、その後ふとしたキッカケで仲良くなって、僕の一世一代の告白で長い夏休み中を迎える前に交際を始めることができた。
夏休みが終わる頃には、一人暮らしの僕の部屋で、それまで実家暮らしだった愛李ちゃんとルームシェアするようになり、同棲生活を始めるくらい上手く付き合えていたはずなのに……。
「いいか、露崎。よく覚えとけよ」
ニヤニヤ笑いを続けながら、真坂は愛李ちゃんの肩を強引に抱き寄せる。
「女は強い男に惹かれるんだよ。このオレみたいに強引な男の方が好きなんだ。お前は男として弱くて情けなくて失格だから、愛李はオレのもとへ来たってわけさ」
「あ、愛李ちゃん、ウソだよね!?」
相変わらず愛李ちゃんは俯いたままだ。
「私、律くんと一緒にいていいのか、本当に必要とされてるのか、わからなくなっちゃったから……でも、真坂先輩は私を必要としてくれるの」
「僕だって愛李ちゃんにいてほしいよ! どうしてそんな……必要とされてないなんて思っちゃったの……?」
愛李ちゃんとずっと一緒にいたいと思ってたし、誰よりも大事にしてたはずなのに……。
「おいおい、これ以上オレの女に近づくなよ。ストーカーだって訴えちまうぞ?」
真坂が、僕を突き飛ばしてくる。
相手は、スポーツも大の得意だって話だ。
ひ弱な僕じゃ、まともに抵抗できず、尻餅をつくことしかできない。
「行くぞ、愛李。こんな雑魚の負け犬にこれ以上構うことねえよ」
真坂は愛李ちゃんを抱き寄せたまま、僕に背中を向ける。
「愛李ちゃん!」
愛李ちゃんは、もう僕の方を見てくれなかった。
きっと、愛李ちゃんにだって後ろめたさがあるから、僕を見ることができないんだ。
そう思い込んで傷を浅くしようとしたところで、愛李ちゃんが去ってしまうことに変わりはない。
僕は立ち上がれないくらい落ち込んでいたんだけど、立ち止まって振り向いた真坂の追い打ちを食らうことになる。
「そうそう。言い忘れてた。お前の元カノ、おもしれぇよな。股の内側にハートみたいなかたちのホクロあるんだから。エロい女ですって生まれながらに決められてるようなもんだ。遠慮なく、たっぷり味わわせてもらったぜ」
その言葉を聞いたとき、僕は心臓を押しつぶされたような感覚があった。
背中から変な汗が吹き出して、頭が割れそうに痛くなる。
だって、それって――
「露崎、悔しいか?」
勝ち誇った顔で、真坂が僕のそばにしゃがみ込む。
「オレのことを酷いヤツだと思うか? 違うんだよ、オレみたいにモテると、一人ひとり丁重に扱ってたら体も心も保たねぇんだ。お前もオレみたいにモテまくりな立場にいたら、絶対わかるだろうよ。いや、悪い、お前に言っても無駄だったな。お前は惨めな負け犬なんだから。じゃあな、一生愛されないまま生きていけよ」
そんな言葉を吐き捨て、今度こそ真坂が去っていく。
愛李ちゃんを連れて。
愛李ちゃんが振り返ることを期待するばかりで、愛李ちゃんを取り戻そうとしない僕は、やっぱり真坂の言う通り惨めな負け犬なのかもしれない。
★
まだ講義は残っているっていうのに、僕はこれ以上愛李ちゃんと真坂に会いたくなくて、逃げるように大学をあとにした。
だからといって、住んでるアパートに戻りたくもない。
あのアパートには、愛李ちゃんとの思い出が残っている。
もう僕のもとへ帰って来ることのない人を思い浮かべながら、部屋で一人で過ごすなんて耐えられそうもない。
行く宛のない僕は、ただ足が動くに任せてふらふら歩いていた。
愛李ちゃんの存在は、やっと手にした幸せそのものだったんだ。
僕は小学5年生の頃、両親を交通事故でいっぺんに失ってしまった。
僕は一人っ子だったから、親を失っても協力する兄弟すらいなくて、僕を保護して家に置いてくれた親戚たちも、表向きは親切でも腫れ物扱いしてるってすぐわかってしまった。
だから、大学入学と同時に、僕は親戚の家を出て一人暮らしを始めた。
一応、今も親戚からの援助はあるけれど、できるだけお世話になりたくなくて、一年生の頃からバイトを掛け持ちして頑張った。
その代償として、ゼミやサークルの人付き合いはどうしても手薄になってしまったけれど、そんな僕に優しく接してくれたのが、愛李ちゃんだった。
愛李ちゃんが一緒に住むって言ってくれたとき、僕は一度失ってしまった大事な人との関わりを取り戻せる予感がしたんだ。
愛李ちゃんのことは、何が何でも大事にしなければ。
傷つくようなことや、嫌がることをしちゃダメだ。
愛李ちゃんの意思を尊重して、最新の注意を払って少しずつ距離を縮めていこう。
きっと、そんな思いが強くて慎重になりすぎてしまったのだろう。
その結果、「一切手出ししてこない消極的で臆病な男」って愛李ちゃんに思われてしまったのだ。
僕の気持ちは、愛李ちゃんには全然伝わってなんかいなかった。
そんなことをぐるぐると考えながら気も漫ろで歩いていたのが悪かったのだろう。
「えっ……?」
目の前にトラックが突っ込んできた。
轢かれる!
僕の体は恐怖に竦んで止まってしまっていて、どうすることもできなかった。
不思議なことが起こったのは、そのあと。
どれだけ待っても、死の衝撃は訪れなかった。
恐る恐る目を開けてみると、僕が立っているのは横断歩道の手前。
すぐ目の前の車道では、何事もなかったかのように車が行き交いしている。
自分で自分の体に触れてみても、トラックに衝突された痛みも傷も何も無い。
「……やっぱり疲れてるのかな」
幻覚を見るほど疲労を感じているのなら、無理にでも帰って休んだ方が良さそうだ。
いつもは帰宅ラッシュの時間帯で賑わっている駅の周辺の様子が妙だった。
この辺は昔ながらのオフィス街で、歩いているスーツ姿の人は女性より男性の方が多いなって印象だったんだけど。
この日は、女性の姿しか見かけない。
心なしか、道行く女の人達の視線が僕に向かっているような……。
まるで女子更衣室に紛れ込んじゃったみたいな気まずさで、文字通り肩身を狭くして歩いていたら、交差点に差し掛かって、そこには巨大なオーロラビジョンがあった。
でも、なんか変なんだ。
報道番組が流れているらしくて、女性キャスターが女性学者を迎え、女性学者はこんなことを語っていた。
『男性は希少種とされ、男性と女性の人口比は1:10とされています。子を生み育てたい女性にとっては、これまで以上に苦難の時代がやってくるでしょう。男性を見つけたら、あらゆる手段でアピールをして、見初めてもらわないといけません。ちょうど私もスタジオに来るまでに、男性を一人仕留めてきましたから』
学者は大真面目な顔で語っていた。
「男性と女性の人口比が1:10? どういうこと……?」
世界的に男性不足が深刻化って……そんな話、僕は聞いたことがなかった。
「ああ、そういうことか」
ニュース映像じゃなくて、放送予定のドラマか映画のワンシーンに違いない。
そんなにも深刻な男性不足だったら、僕みたいな普通の男子だって、歩いてるだけで珍しくて注目されちゃうもんね。
「えっ……?」
気づいたら僕は、仕事帰りやどこかへ出かける途中っぽいお姉さんたちに取り囲まれていた。
「やっぱり! 近くで見たら、辛うじて男ってわかるわ……!」
「こんな可愛い男の子、そうそういないわよ!」
「誰かに取られないうちに、今のうちに収穫ッ!」
取り囲んでいる女の人たちが、飢えた獣みたいなオーラを放って突然飛びかかってくる。
「う、うわぁぁ!」
その迫力を前にして、僕は恐怖に足をもつれさせながら逃げることしかできなかった。
「逃げた!」
「追え、逃がすな!」
「骨までしゃぶり尽くしてやる! 骨だけじゃない! 他にも色々とだ!」
「子種を寄越せ!」
全速力で走る僕を猛追してくる女の人たちは、もはや人間というよりトラとかライオンみたいな肉食獣だった。
「うわわ……!」
ひたすら逃げ回っていても、それでも追いかけてくるバーサクモードな女の人たち。
中にはスカートの人もいたんだけど、どれだけ捲れようがおかまいなしって勢いで思いっきり脚をストライドしている。
これじゃまるでゾンビ映画だ。
僕は走る系のゾンビには否定的なタイプなのに!
逃げる間もどんどん追っ手の女性たちは増えていって、僕が先頭を走っているマラソン大会みたいになってしまっていた。
繁華街から外れ、人気のない通りに入り込み、そのまま走って、走って、と続けていると、深い森に足を踏み入れてしまう。
この都会に、こんな自然豊かな森なんてあったかな?
とっぷり日が暮れて、夜になっていたから、周囲の雰囲気は不気味。
でも、鬱蒼と茂る木々が僕の身を隠してくれた。
「どこだ!?」
「なんとしても炙り出せ!」
「こっちだ! 子宮が強く反応してる!」
背後に迫るモンスター(ごめんね)が怖くて、僕は引き返すことなく森の奥へ奥へと走り続ける。
「ここは……どこ?」
息切れしまくって立ち止まった先には妙なものがそびえ立っていた。
不思議な雰囲気を持つ大きな洋館だ。
「中に入ったら、リアルなゾンビとかいそう……」
ワラマンション!なんて叫びたくなる雰囲気のめっちゃ妖しいお館だけど、このままじゃすぐ追手がやってくるに違いない。
「どうせ捕まったら色々な意味で食い殺されるんだ。それなら一か八か……!」
思い切って僕は、重そうな両開きの扉に手をかけてしまうのだった。
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