心の迷宮
それは、目に見えない嵐だった。
真堂レンは、朝の教室で違和感を覚えていた。
生徒たちの会話がどこか上滑りしている。笑顔が、貼りつけたマスクのように見える。
「……感情がズレてる?」
教室全体を包む空気が、まるで誰かの感情に上書きされているようだった。
視界の端に、感情粒子の揺らぎが見える──それは、レンの能力が無意識に作動している証拠だった。
「おい、聞いたか? また感情暴走者が出たらしい」
「昨日のやつとは別だって。今度は、美術室のあの子──」
「やっぱエモクラウド、なんかおかしいんじゃないか……?」
囁かれる噂。生徒たちの不安。
EMOクラウドが感情を記録・可視化する仕組みは、本来は安心を提供するはずだった。
だが今、それは別のものになりつつあった。
「レン」
呼びかけに振り向けば、柊メイカがいた。制服の胸元に、小型端末をつけたまま。
「また、内部で精神汚染が起きてる。今回は《構造化タイプ》──感情構造そのものが迷宮化してる可能性がある」
「……それって、どういうことだ?」
「本人の感情が、迷路のように複雑化していて、外から介入しないと戻ってこれないってこと。しかも、外部の人間が中に入るには……」
「共鳴か」
レンは頷く。
自らの《エモフェイク》を使い、対象の感情構造と同調すれば、疑似的に相手の心の中へダイブすることができる。
だがそれは、危険な賭けでもある。
「今回の対象は?」
「2年A組──藤ヶ谷イオ。……あのツンケンした子」
「……また、面倒な相手を」
レンはため息をついた。
──
彼女の意識は、美術室の片隅にあった。
藤ヶ谷イオ。成績優秀、運動神経良好、しかし他者との関係は極めてドライ。
教師からの信頼は厚いが、同級生からは「完璧すぎて近寄りがたい」と評されている。
そんな彼女が、机に突っ伏し、ピクリとも動かない。
「感情フィルターが……反転してる」
メイカが端末で分析する。
「これ、軽度の人格乖離が起きてる。つまり、感情の一部が自我から切り離されてるの」
「……じゃあ、行くしかないな」
レンは彼女の手を取り、目を閉じた。
「《エモフェイク──共鳴接続》」
世界が反転した。
──
次の瞬間、レンは内側の世界にいた。
真っ白な回廊。無限に続く美術室の中に、彼女はいた。
藤ヶ谷イオ。だが、その表情は普段と違い、どこか幼さすら感じさせる不安な顔だった。
「あなた、誰?」
「真堂レン。君の外側から来た」
「……なんで、ここに?」
「君が戻れないから、迎えに来た」
イオは、困ったように笑った。
「私、ここが落ち着くの。誰も本当の私に触れないし、期待もしないし……安心できるの」
「だけど、それじゃ君は……」
レンは一歩踏み出す。
「本当の感情を、誰にも伝えられなくなる」
「そんなの、最初から求めてない。私は、完璧でいないと意味がない。誰にも迷惑をかけないで、ちゃんとしてないと……」
「誰に、そう言われた?」
沈黙。
レンは、空間全体を感知する。
周囲の壁に貼られた絵のひとつひとつが、言葉を描いていた。
「ちゃんとしてなさい」
「完璧でいなさい」
「人に甘えないで」──
……これは、自己暗示だ。
「イオ。君はずっと、自分の感情に嘘をつき続けてきた。笑いたいときに笑えず、泣きたいときに泣けない。そんな世界を、安心だと思い込んでる」
「……違う! 私は、それでいいの! それで、ずっとやってこれたの!」
叫びと共に、空間がひび割れる。
感情の迷路が、暴走を始める。
レンは、懐から一枚のスケッチを取り出した。
それは、以前彼が何気なく描いた藤ヶ谷イオの笑顔だった。
誰にも見せていない、ただ自分の記憶にあった笑顔を、感情で再構成したもの。
「……こんな顔、知らない」
イオが呆然とつぶやく。
「本当は、こうやって笑いたかったんじゃないか?」
レンの声に、イオの手が震える。
「こんなの、私じゃない……でも……」
彼女の目に、涙が浮かぶ。
「でも……こんなふうに、笑えたら……よかったなって……」
レンが手を差し伸べる。
「戻ろう。感情に、嘘をつかなくていい世界へ」
イオがその手を取った瞬間、空間がゆっくりと解けていく──
──
教室に戻ったとき、イオは静かに目を開けた。
「……あんた、何したのよ」
その声は、いつもの鋭さを取り戻していたが、どこか温度が違った。
「いや……ちょっと、夢を見ただけだ」
「ふーん……ま、ありがと」
小さくそう呟いて、イオは照れ隠しのように背を向ける。
メイカがぼそっと漏らす。
「……なんだか、ツンデレ属性が発動してる気がする」
「まあ、悪くはないだろ」
レンは苦笑した。
※エンディング演出:「感情メモ」
【真堂レン】
・表層感情:集中 45%、共感 30%、疲労 25%
・深層感情:寂しさ 35%、希望 40%、不安 25%
【藤ヶ谷イオ】
・表層感情:ツン 70%、照れ 30%
・深層感情:孤独 50%、認められたい 30%、安心 20%