放課後ログイン
教室の空気は、夕暮れの赤に溶けかかっていた。
誰もいない放課後。窓から射すオレンジの光が、真堂レンの黒髪を静かに染める。
「……静かすぎるな」
独りごちた声が空しく跳ね返る。取り残された教室に、彼の存在だけが異物のように浮かんでいた。
放課後に残った理由は、ただひとつ。
最近、学校で流行っている謎のアプリ《エモクラウド》のことが気になったからだ。
生徒たちの間でささやかれる都市伝説──裏モードに入った者は、自分の感情の本当の姿を見ることになるという話。
レンは、そういう噂を信じるタイプではない。
だが、感情という目に見えないものが、もし操作できるのなら──それは、彼にとって無視できないテーマだった。
彼は自分のスマホを取り出し、《エモクラウド》を起動する。
そのとき。
「……ん?」
画面が一瞬、赤黒くノイズを走らせた。
「アクセスコード:S-D-E7……確認。裏モードへのログインを開始します」
無機質な音声が、唐突に響く。
画面が暗転し、代わりに無数の感情グラフが浮かび上がった。
喜び、怒り、哀しみ、恐怖、驚き、愛情、嫌悪──無数の線と色が交錯し、仮想空間の教室が目の前に再構築される。
そして、もうひとつの存在が──そこにいた。
「……誰?」
レンが警戒心を隠さず問いかける。
「こっちのセリフよ。まさかこのモードに、自力で入ってくる人がいるなんて」
少女の声だった。
制服姿のその少女は、どこか整いすぎた笑顔を浮かべていた。
「私は柊メイカ。あなたは……真堂レンで合ってる?」
「なんで俺の名前を……?」
「観察対象リストに入ってるから。あなた、感情波がちょっと特殊なのよ」
メイカと名乗った少女の背後には、無数の感情データが浮かんでいた。まるで、人の心を数式で読もうとしているかのように。
「ここは、いわば感情の裏側。本音と本能が剥き出しになる世界」
「そんなもの、どうして俺に見せる?」
「あなたが、覚醒者だからよ」
その言葉を聞いた瞬間、レンの視界が一変した。
目の前のメイカの感情データが、突如として急変する。
警戒、好奇心、わずかな期待──色と波形が、レンの意識にダイレクトに流れ込んできた。
「なっ……これは……」
「あなたの能力、エモフェイクが発現したのね。偽りの感情を、他者に植えつける力」
その言葉に、レンは眉をひそめた。
「偽り……か。皮肉な名前だな。俺は、本当の感情なんて信じちゃいないのに」
「それでも、誰かの心に触れてしまったら──無視はできないでしょ?」
メイカの目は、まっすぐにレンを見つめていた。
レンはその視線から、ほんのわずかに目を逸らす。
「……お前、本当に何者なんだ?」
「私はウォッチャー。EMOの監視官よ」
その単語に、レンの脳裏でなにかがざわつく。
EMO──エモーション・モニタリング・オーガニゼーション。
かつて、感情を可視化しコントロールするための国家主導プロジェクトだったと聞いたことがある。だが、それは十年以上前に廃止されたはずだ。
「まだ続いてるってのか、その組織……」
「そう。あなたも、たぶん関係してる。……子供の頃、EMOの実験に関わっていたかもしれない」
レンの頭に、唐突にフラッシュバックが走る。
白い部屋。
冷たい目をした大人たち。
感情のない子供の泣き声。
──わからない。だが、確かに何かを見た気がした。
「今は思い出さなくていい。いずれ感情が引き出すから」
「それって脅しか?」
「予告よ。あなたがこの裏モードに入った時点で、もう引き返せないから」
メイカは言いながら、小さく笑った。
そのとき、空間が揺れる。
「……暴走反応? この近くで誰か、感情を乱してる」
メイカが一瞬で表情を引き締める。
「レン、行くわよ」
「は? なんで俺が──」
「だって、もう覚醒者なんでしょ?」
そう言って彼女は駆け出した。
レンはため息をひとつつく。
──巻き込まれた。いや、足を踏み入れたのは自分だ。
だったら、確かめてやる。
自分の感情に、何が潜んでいるのかを。
彼はスマホを握り直し、彼女のあとを追った。
仮想の教室が、仮想の廊下へと変わる。
現実と虚構の境界は、今や意味を持たない。
真堂レンの感情の旅は、ここから始まる。
※エンディング演出:「感情メモ」
【真堂レン】
・表層感情:冷静 65%、皮肉 20%、困惑 15%
・深層感情:優しさ(仮)34%、不信 40%、覚醒の兆し 26%
【柊メイカ】
・表層感情:観察 40%、好奇心 30%、余裕 30%
・深層感情:警戒 25%、共感(芽生え)15%、哀しみ(潜在)60%