「大人になる」って
僕らが椿と出会ったのは、震災の一年前のことだった。
百日紅が咲き始める季節に、椿は桜門寺の本堂の階段に腰掛けて鼻歌を口ずさんでいた。
そして、君は木の影から遠巻きに見ていた僕らを見つけると、にっこり微笑んで「おいでおいで」と手招きをしたんだ。
椿はその頃から不思議な子だったな。
いつも制服を着ていたから学校には行っていたんだろうけど、毎日僕たちが幼稚園から帰るのとほぼ同じ時刻に、桜門寺に現れたから。
掴みどころのない笑顔。十二も歳が離れていたから当たり前か。でも、そんな年齢差を超えた椿の大人っぽさに、僕たちは甘えてばかりだった。
椿のポニーテールが揺らめく。透き通って響くその声は、今でも鮮明に覚えている。
いつしか僕と息吹は、幼稚園の放課後を椿のいる桜門寺で過ごすようになった。
僕と息吹は、椿のことが大好きだった。
★
陸前高田での夏が過ぎていく。ゆっくりとした時の流れのなか、実家のない僕らは、三泊四日のスケジュールの大半を桜門寺ですごした。
それは三日目の昼下がりのことだった。「受験生たるもの、こんなにだらだらしていていいのか」と唐突に息吹が言い出し、二人で勉強会をすることになった。
「私、桜門寺の中で本堂の内陣が一番好きなの」
そう言う彼女の言う通りに、荘厳たる金色の輝きを放つ内陣の前にちゃぶ台を用意し、見るのも嫌になるほど分厚い参考書を広げる。
エアコンのない本堂は、想像以上にサウナだった。
僕の情弱な集中力は十分も経たずに蒸発した。
暑い、とにかく。水分をとっても、喉元あたりで全部吸い取られている気がする。
「あちい……」
「まあまあ、夏っぽくていいじゃない?」
あはは、と乾いた笑いを浮かべる息吹だって、汗で前髪がおでこに張り付いている。
微風を振り撒く扇風機が彼女の方を照らすと、その前髪がぺろりと浮いた。
「ふぃーすずしー」
「変な顔」
「うるさいっ」
古い扇風機は、ときおり訪れる二人の沈黙を埋めるみたいに、カラカラと音を立て続けていた。
「……あーあ、帰りたくないなあ」
「お前毎年それ言ってんな」
「ずううっとここにいたい。永遠に」
「だらだらしてたいだけだろ」
「穂波と一緒にしないでよ」
のらりくらりと言葉を交わす。お察しの通り、勉強は全く捗っていない。
けれど僕は案外、息吹と過ごすこういう時間が好きだった。
流れゆく時間の中で立ち止まって無駄話をするみたいな、こんな時間が。
「なに、学校楽しくねえの?」
「……まあねー、だってずーっと受験受験ばっかなんだもん」
「あーそれはうちもだわ。だりいよな、なんか息が詰まるっていうか」
「わかるー」
息吹が笑う。息吹はいつも笑っている。きっと学校でもそうなんだろうけど、たまには笑顔以外の表情が見たくなることもある。
前はもっといろいろな表情を見せてくれていた気がする。よく泣く奴だったし、よく怒る奴だった。でもその分、笑顔は今よりももっと眩しかった。
「そういえば、今年花火やってないね」
そんな僕の心中いざ知らず、息吹が思い出したように言った。
「あー昨日の夜はババ抜き最弱王やってたしな。今夜でよくね」
「でも毎年最終日の夜は和寿さんとパーティーって決まってるじゃない。絶対やる暇ないよ」
別に花火なんていつでもできるだろ。僕がそう言うより、息吹が笑って語を継ぐほうが先だった。
「ま、来年また三人で集まった時にやればいっか」
「……なあ、ずっと言おうと思ってたんだけどさ」
「うん?」
また来年。その言葉がトリガーになり、僕はようやくこのことを口にすることができた。
ずっと、言わなきゃと思っていたこと。
「僕ら来年から大学生じゃん、まあ大学受かったらだけど。どうせまたお互い引っ越しとかして、今以上に会いづらくなるだろ。だから、こういうのは今年で最後にしないか」
きっかり数拍置いて、「えっと、」と息吹が言いづらそうに笑った。
「それはもう、夏に三人で会うのはやめようって、こと?」
違うよね?というニュアンスも含まれてそうな問に、僕は黙ってうなずく。
「こうやって三人集まるのはやめよう」とはっきり言えない僕は、やっぱり迷いが捨てきれていない。
「やだ」
ふと息吹の方に目をやれば、彼女は今にも泣きそうな顔で僕を見ていた。
その目にどくん、と僕の心臓が大きく跳ねる。
「やだよ。絶対やだ」
「いや、でもいつかは離れないとだから……」
「なんでっ」
息吹が立ち上がる。黒目がちで大きな目はゆらゆら揺らいで、僕の後ろあたりの壁を見つめていた。
「なんで?なんで急にそんなこと言うの?……もしかして穂波、ずっと嫌嫌で来てたの!?」
「いやちげーよ、そうじゃなくて」
「ちがくないでしょ!だって椿との大切な約束じゃない、夏にここで会おうって」
「だから椿がどうの、っていうのを終わりにする……終わらせる必要があるって話だ」
何を持って「終わり」というのか。自分で言っておきながら、何が本当の正解なのかいまだにわからない。
でも、ただ一つ確かなのは。
息吹がこれ以上椿のそばにいることは、いつか息吹自身を縛る呪いとなるということ。
「……椿と、“本当のお別れ“をすべきなんだよ」
絞りだした僕の答えに、息吹は泣き笑いみたいな表情を返した。
信じられない。信じたくない。そんな心の叫びが聞こえてくるみたいだった。
「本当の、ってなに?椿は本物だよ?」
椿がまるで本物みたいだから、僕の言葉を信じたくないこと。夢みたいな現実にすがって、何もかもに目を背けたまま生きていたいって願って。
でも今、息吹はおそらく無意識で「本物」という言葉を使った。裏を返せばそれは「偽物」の椿の存在を認めていることになる。
僕は浅く息を吸って、一息に言った。
「本物じゃない。
椿は亡くなってる。十二年前、あの震災の時に。
僕らが今見ているのは……椿の“幽霊“だ」
椿の目が見開かれる。ピンク色に潤んだ唇がかすかに、「つばき」と呟いた。
認めたくない現実。忘れたくない記憶。
それでも、帰ろう、と言いたかった。
帰ろう、息吹。僕らが生きる今日に。
例え、君の幸せが全部過去にあるとしても。
——ずっとここにはいられない。
漠然とそう感じたのはなぜだろう。
帰省一日目、やたらと透けた椿の姿を思い出す。
多分、もう「そういう時期」なのかなって、そう思った。
過去は辛い。けれどいつか、それらに別れを告げなくちゃいけない日も、来る。
いつまでも悲しんでばっかりじゃダメなんだ。
「僕らもいい加減、大人になるべきなんだ。過去に縋るのもいいけど、」
「……なにそれ。だから椿を忘れろって?」
息吹が僕を睨む。怒りとも、悲しみともつかない、初めて見る表情だった。
その目の淵に、みるみる涙がたまっていく。
ああ、傷つけてしまった。そう気づいた時には、もう遅かった。
「大人になるって、何?私は椿を忘れられれば、‘‘大人‘‘になれるの?大人になるために、椿を忘れるの?
いやだ、そんななら私、一生大人になんてなりたくない!!」
「もういい」彼女は踵を返す。そして足早に、本堂の出口に向かっていった。
「……忘れるなんて、できるわけない。穂波なんて、だいっきらいっ……!!」
ぴしゃり。鋭い音を立てて、ふすまが閉まる。
去り際に見えた、息吹の頬に伝った一筋の涙が、痛いほど脳に焼き付いた。
頭を抱えてしゃがみこむ。扇風機の生ぬるい風が、僕を嘲笑うように汗に濡れた髪を撫でて行った。
……なにをやってるんだ、僕は。
そんな顔をすると思わなかった。
いや、ちょっと考えればわかっただろ。だって息吹は、椿のことが大好きで……
でも、だからこそなんだ。
だからこそお前は、椿から離れる必要があるんだって。
「大丈夫?」
しばらくして聞こえたその声に、ゆっくり顔を上げる。
椿が、心配そうにこちらをのぞきこんでいた。
「……いつのまにいたのか」
「いつのまに、っていうかずっといたよ」
「は?嘘だろ」
全く気づかなかった。いや、気づけなかった。
また少し見えづらくなった椿が、困ったように笑う。
「ほんとよ。息吹は気づいてたと思う」