8 幼き日の思い出 ③
王宮の一角にある温室は、緑に囲まれ自然の中に溶け込んだように佇んでいる。
二人が温室に入ると、庭師と思われる男性が、アレックスに軽くお辞儀をしてから静かに外へ出ていった。
「すごい、緑の匂いがする」
「そうだね。気に入った?」
エリーが瞳を輝かせながら嬉しそうに頷くと、アレックスはエリーの頭を優しく撫でた。二人は温室の中を歩き、時には植物に触れながらゆっくりと会話を楽しんでいく。
「エリー、少し休もうか。向こうにベンチがあるんだ。行こう」
アレックスは、頷くエリーの手を引きガーデンセットのある場所に連れて行くと、エリーをベンチに座らせた。
「セルジュ、お茶の準備を頼む」
アレックスが護衛のセルジュに声をかけると、エリーはアレックスの袖を掴んだ。
「今日は私がお茶を淹れてもいい?」
「エリーが?」
笑顔で頷くエリーに「わかった、お願いするよ」と答えると、アレックスはベンチに腰掛けた。
その様子を見ていたララが、ティーセットの準備をすると、エリーも茶葉の確認をする。ティーポットに、紅茶の茶葉とレモンバームの葉を軽く揉んでから多めに入れると、湯を注ぎ数分待つ。カップに紅茶を注ぐとアレックスに差し出した。
「ハーブティーではないのかな? 紅茶だけど、とても爽やかな香りがするね」
「レモンバームの葉を紅茶に入れたの。大好きな香りなの」
「うん。何だか気持ちが落ち着くよ」
「良かった。お砂糖を入れても美味しいよ」
エリーは頷くアレックスを見ると、お砂糖をほんの少し入れてあげた。
「エリーはお茶を淹れられるんだね。誰から教わったの?」
「お祖母様とララに教えてもらったの」
「お祖母様とは…、シャロン家の領地にいらっしゃる前伯爵夫人かな?」
「うん。お祖母様一人だから、たまに領地に遊びに行くの」
「ご家族と一緒に行くの?」
「一人の時もあるし、エルちゃんとエマちゃんが一緒のときもあるの」
エリーの返事を聞いたアレックスは、目を細めると近くにいたララに視線を向けた。
アレックスは、「発言をお許しください」と言うララの言葉に頷いた。
「領地へは、年に一、二回ほど帰省いたしております。エリーお嬢様のおっしゃった通り、ご姉妹で向かわれるときと、御一人のときどちらの場合もございます。その際の護衛の人数は相当数おりますので、御心配には及びません。どうぞご安心くださいませ」
緊張しながら発言するララに、アレックスは「そう」と答えると、護衛のセルジュを見ながら頷いた。セルジュもアレックスからの視線を受けて頷き返した。
「エリー、できれば一人では行ってほしくないけど……、領地に帰るときは気をつけるんだよ」
「……うん。どうしたの? アレックス?」
「エリー、よく聞いて。しばらくエリーには会えないんだ。僕は勉強をしなくてはいけなくなってしまってね。君の姉上も勉強会に参加しているだろう?」
「……うん」
「だから、しばらくはエリーにも自分の屋敷にいてほしいんだ。約束してくれる?」
「……、もう会えないの?」
「いや、また会えるよ」
その言葉を聞いたエリーは、顔をくしゃくしゃにして静かに泣き出した。
「エリー、可愛い顔がくしゃくしゃだよ」
「お願い、エリーのこと忘れないで……」
「忘れないよ。それに、また会える」
「本当? ——お手紙書いてもいい?」
「うん。手紙を書いたら、君の姉上に渡してくれれば受け取れるよ」
アレックスはベストのポケットからハンカチを取り出すと、絶望した表情で涙を流すエリーの頬をそっと押さえた。
ようやく泣き止んだエリーは、アレックスに別れを告げると、エルのもとへ向かった。その途中、お手洗いに入ったエリーは、アレックスのご学友の少女に呼び止められた。
「貴女は、なぜここに来ているのかしら? 王宮は遊ぶところではないのですよ。もう少し、周りの迷惑も考えたらどうかしら——」
エリーは、見下すような表情で言葉を吐き出す少女に茫然とした。その後、少女の言葉は長々と続いたが、少女が口にした「迷惑」という言葉が、頭から離れなかった。
ララはそんなエリーを急いでエルのもとへと連れて行った。
エルに落ち合い、エリーは帰路についた。
馬車の中では、ララから事情を聞いたエルがエリーに向き合っていた。
「王宮を訪れた際に、恥ずかしい思いをしないためにも、淑女教育は受けましょうね」
「うん。わかった」
「エリー、『うん。わかった』ではないわ」
「——はい、お姉様」
エルは、「そうね」と頷きながら、エリーの頭を優しく撫でた。
その後、泣き疲れたエリーは、その日もエルとの会話中に眠りに引き込まれた。