36 王妃の願い
舞踏会翌日の早朝——
昨夜は王宮へ滞在したシャロン伯爵とエマが、人気のない時間帯に、アレックスの執務室を訪ねてきた。
机に腰掛けていたアレックスは、羽根ペンを置いて立ち上がると、二人を部屋の中に招き入れた。
シャロン伯爵はアレックスに促されるままソファーに腰掛けると、すぐに話を切り出した。
「殿下、昨日はエリーを助けていただき、ありがとうございました。エリーも落ち着いているようなので、これからエリーを連れて屋敷へ戻ろうかと思っております。本当にありがとうございました」
シャロン伯爵は、伝えたいことだけを口にすると、ソファーから立ち上がりお辞儀をして、そそくさとその場を去ろうとした。
アレックスは、そんな彼を引き止めながら話しかけた。
「——御父上、エリーには、このまま王宮へ滞在してもらうつもりです。昨日、エリーとも話し合いました」
「お...ちち...うえ......、殿下、その呼び方は、時期尚早ではないでしょうか? しかも、このまま滞在って......」
「婚約期間中ではありますが、エリーには王宮へ滞在して、王太子妃教育を受けてもらうつもりです」
「王太子妃教育......、それは確かに必要だが......」
シャロン伯爵は、ソファーに座り直すと眉間に皺を寄せながら考え込んだ。そんな父親の顔をじっと見つめながら、隣に腰掛けるエマが「お父様」と呼びかけた。
「婚約のことで有耶無耶になっていたけど、エリーは領地に行きたいと言っていたわ」
アレックスとシャロン伯爵がエマの言葉に反応した。
「領地...」
「いや、しかし...、殿下の婚約者になったら、そう簡単に王都を離れるわけにはいかないだろう」
エマは何かを呟くと、不満顔で父親をじっと見つめた。
♢
婚約発表の舞踏会から半年が過ぎた。
エリーは王宮に居を移し、王妃や教師から毎日指導を受けている。
「今日はここまでにしましょう」
「はい、王妃様。本日もありがとうございました」
「ふふっ、慣れたらでいいんだけど、私のことは、おかあさまって呼んでね」
「はい——おかあさま」
「ありがとう。うれしいわ~」
王妃は嬉しそうに微笑むと、エリーの顔を覗き込んだ。
「エリー、きちんと休んでる? いつも休憩時間は手紙を書いているんでしょう?」
「はい」
「休憩時間は休まないとだめよ——それで、今日は誰に手紙を書く予定だったのかしら?」
「今日は、領地にいる祖母に手紙を書こうかと思っています」
「そう、近況報告だけではなさそうね。もしかして、薬草について聞くことがあるのかしら?」
エリーは、「はい」と答えると、引き出しからノートを取り出した。
「祖母に、薬草について確認してほしいことがたくさんあるんです」
王妃はそのノートを手にすると、急に黙り込み、何やら考え出した。そして、ノートのページをめくりながら話し出した。
「そう、手紙のやり取りだと時間が掛かるわね。それに、エリーもナタリー様のことは気がかりよね」
「はい。祖母が無理して動いていないか......それだけが気がかりです」
「そうよね」
王妃は「分かったわ」と頷き、「きちんと休憩は取るのよ」と告げると部屋を退出した。
王妃が部屋から去ると、マヤがテーブルに紅茶とお菓子を並べた。
「エリーお嬢様、休憩なさってください。このお菓子、王妃さまからいただいたんです。きちんと休憩を取るようにと何度も仰っていました」
エリーは頷くと、椅子から立ち上がりソファーに移動した。
「そうね、そうするわ。マヤも一緒にいただきましょう? ここに座って」
「はい、嬉しいです。では、お言葉に甘えて」
エリーに勧められるままに、マヤはエリーの向かいに腰掛けた。
二人は紅茶を飲みながら、他愛もない会話を楽しんでいたが、エリーがふっとした拍子にマヤへ問いかけた。
「——マヤは、領地に帰りたい?」
「懐かしくは感じますが、今すぐ帰りたいとは思っていません。今は、エリーお嬢様のお傍でお世話させていただいたり、王宮に仕える侍女の方から学べることが楽しいんです」
「それならいいんだけど......。ここへ残ってくれてありがとう、マヤ」
しんみりとした空気に包まれた部屋で、エリーとマヤは努めて明るく振る舞った。そして二人は、残るお菓子をきれいに食べ尽くした。
♢
その頃、アレックスの執務室では——
王妃がアレックスに相談という名のお願いをしていた。
「私、自分で言うのもなんだけど、これまでとても頑張ってきたと思うの。だから、自分にご褒美をあげても良いんじゃないかしら。ねえ、どう思う? アレックス」
「そうですね。母上は陛下の分も頑張ってこられたと思います。ご褒美?ですか。 いいのではないでしょうか......」
アレックスは、王妃の物言いに眉をひそめ、訝しげな視線を向けた。
「そうよね、良いわよね?」
王妃は首を傾け微笑んでいる。
「......はい」
アレックスは、肯定以外の言葉が見つからず、恐る恐る頷くと、褒美について訊ねた。
「ところで、ご褒美とは宝飾品やドレスなどでしょうか? それでしたら、すぐに商会の者へ連絡を取らせますが......」
「違うわ。シャロン家の領地に行きたいの。その時は、エリーに案内をお願いしようと思うの」
「領地、観光ということですか? それなら、案内は他の者でもよろしいのではないでしょうか?」
「私、まだ完治してないの。——ああ、毒の後遺症ね。だから、症状を理解してくれる人に傍にいてほしいのよ」
「それは、エリーではなく、医師の仕事ではないでしょうか?」
「仕事ではないのよ、アレックス。私はプライベートを楽しみたいの」
「............」
「ということで、陛下のことよろしくね。旅行について詳しいことが決まったら報告するわ。お仕事中にごめんなさいね」
アレックスが固まる中、王妃はソファーから立ち上がると満足そうな表情で部屋を退出した。
その光景を見ていたセルジュがアレックスに声を掛けた。
「アレックス殿下、お気を確かに」
「セルジュ、母上は本気なんだろうか?」
「申し訳ございません。私にはわかりかねます」
アレックスは執務机に肘をつくと、額に手を当てて考え込んだ。




