32 罠
エリーは王宮の侍女からお色直しの時間を告げられた。本来なら必要はないが、舞踏会はまだまだ続く。そのため、夜会用のドレスに着替える必要があるようだ。
大臣たちとの話は済んだが、アレックスと話したい貴族たちが様子を窺っている。エリーはアレックスに退席することを小声で告げるとその場を離れた。
エリーはにこやかな表情で貴族たちに挨拶をしながら扉へと向かう。その途中で、近くにいるメイドに声をかけると、マヤへの伝言を頼んだ。
舞踏会では、王宮に仕える侍女が身の回りのお世話をする。そのため、マヤには使用人部屋で待機をしてもらっているのだ。
初めてエリーの支度を手伝ってから、身支度を整えることにやりがいを感じているようだ。マヤは、お色直しの際は呼んでほしいとしきりに頼んできた。エリーはマヤのそんな様子が嬉しくて、すぐに了承をした。
『ルイス、久しぶりだな』
『——ああ......すまん、これから護衛なんだ』
扉の側に近づくと、わずかに話し声が聞こえてきた。エリーは一瞬眉をしかめると、聞こえてきた名前を心の中で呟いた。
侍女に案内されて会場を出ると、一人の騎士が扉の脇に立っていた。エリーは騎士の顔を見るなりマヤへの伝言を後悔した。名前は確かルイス。王宮の騎士だと聞いてはいたが、この場で会うとは思わなかった。
マヤのことだ、急いでエリーの元へ駆けつけるだろう。遭遇しても大丈夫だろうか、エリーはそんなことを考えながら彼の顔をじっと見つめた。
エリーがルイスに声をかけようとしたが、側にいた侍女が先に口を開いた。
侍女はエリーに、「さあ、参りましょう」と言った後、ルイスにも「騎士様、お願いしますね」と伝えた。
ルイスはエリーにお辞儀をした後、廊下を進み始めた。
しばらくすると、エリーは困惑した表情でルイスに「待って」と声をかけた。
「ここは貴族用の控室につながる廊下よね。何故、王族用の廊下を使わないのかしら」
「——陛下が、途中退席をされましたので、あちらの廊下は未だ落ち着かない様子です。どうかご理解いただきますようお願いいたします......申し訳、ございません」
恐縮しているのだろうか。エリーは頭を下げたルイスを見ると、それ以上何も言えなかった。
「......わかったわ」
(王宮医や使用人たちが動いているということかしら......)
三人は最後の部屋まで進んでいた。ここを抜ければ王族用の控室まであと少し。エリーはわずかな違和感を振り払うように前を向いた。その瞬間、右肩に強い衝撃を受けた。驚きと痛みに声を出せないエリーはバランスを崩すと前のめりに倒れた。
騎士は、倒れそうになったエリーを咄嗟に支えると、素早い動きでドアを開けて部屋の中へ押し入れた。
(…痛い......なにが…起こったの?)
あまりにも手荒な扱いに、エリーは抵抗する間もなく床へ倒れこんだ。全身の痛みをこらえて体を起こすと、痛む左腕をそっと押さえた。
(......大丈夫よ、大丈夫。落ち着いて......)
部屋の中は照明が消され、オイルランプの灯りが一つ。いやな予感に、手足は震え冷えていく。俯きながら周囲の様子を窺うと、視界の端に誰かの足が入った。
「騎士は乱暴だよね。痛かったでしょう? 大丈夫?」
頭上から聞こえる声は男性のようだ。エリーは顔を上げ、目の前に立つ相手を確認した。
「あなたは…誰?」
「酷いな、君の婚約者じゃないか」
「——何を…言っているの? 私の婚約者はアレックスよ。あなたじゃないわ......」
「君の方こそ、何を言っているの? 僕たちは婚約者だよ。来年には結婚式を挙げて一緒に住むんだ。今、屋敷に君の部屋も作ってる。君は花が好きだから、部屋から眺められる庭には、花をたくさん植えるつもりなんだ。楽しみにしてくれると嬉しいな」
「............」
エリーは男性の言葉にぞっとして、返す言葉が見つからない。会ったことはもちろん、話したこともない。エリーは速くなる鼓動を静めるように、そっと胸に手を添えた。
(......そうだわ。確か、マノン先生が言っていたわ。こんな感じの男性がいたら、冷静に...怒らせないように...だったかしら。名前聞いたら怒るかしら…さっき、婚約者って言ったわよね…もしかして)
エリーは恐る恐る顔を上げると、小声で名前を呟いた。
「——メルフィス侯爵令息様」
男性はエリーの言葉に笑顔を見せた。




