出戻り妃は紅を刷く
「だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ」
ばくばくする心臓の音をなるべく聞かないようにしながら、呉 宇春は赤い朱塗りの門をくぐった。
後宮の門前。その左右にある、獅子と龍の彫刻ににらまれながら、そろそろと足を進める。
「どうしよう、妹妹。私また戻ってきちゃった。本当に、私なんかがここに来てよかったのかな」
「もう、その話何回目ですか! ほんっとにびびりーなんだからっ。それでも戻るって決めたのは宇春様ですよ!」
「うっ、そう、そうなんだけど」
何度目とも知れない問答を繰り広げながら、妃嬪やそれに仕える女官たちの住まう儲秀宮へと向かう。
かつては見慣れていた景色を眺めながら歩いていると、ここで過ごした思い出がどんどん蘇ってくる。
心の中で、燻ってしまって消えない思いが押し寄せてきて、涙が出そうになる。
(そうよ。もう逃げないって決めたの。だって、今のままじゃ私は前に進めないもの)
「ごめん。妹妹。私、がんばるね」
「それでこそ宇春様です!」
「あの──でもでも、なるべく減らすから、一日に三回ぐらいは弱音を吐いても……見捨てないでくれる?」
「……はあ」
こちらを見上げる妹分の、呆れたようなため息は耳に痛かった。
儲秀宮の裏の回廊を背を丸めながら歩いていくと、向かいから華やかな妃嬪の一団が歩いて来た。
宇春と妹妹が脇に避けて頭を下げると、その一団が足を止める。
「顔をお上げなさいな」
涼やかな、凛とした声には覚えがあった。
「岑貴妃様のお声がかかったのよ。さっさと顔を上げなさい」
お付きの侍女の声にそろそろと顔を上げると、岑貴妃と目が合った。
きらきらとまぶしい勝気な瞳が魅力的な、内閣首輔を務める岑家の姫君だ。
「まあ、この子たち、ひょっとして例の」
「いやだわ。妃を首になった身なのに、女官になってまで戻ってくるなんて、プライドというものがないのかしら」
「しょせん平民の娘ですもの」
「身分も外見もぱっとしない方だったけれど、市井に降りて、さらに地味になったわね」
遠慮のない侍女たちの言葉に、宇春は再び下を向いて、両手をぎゅっと握りしめた。
彼女たちの言葉は悪意に満ちているが、全部事実なのだ。
宇春は、妃を一年間で首になって実家に帰されたのに、女官になって出戻った。
こじんまりとした目鼻立ちの宇春は、一生懸命化粧をしても、それなりにしかなれなかった。
そもそも平民なのに妃になったのが間違いだったのだ。
「怯える子栗鼠をそんなに追いつめるものではないわ。そっとしておいておあげなさいな」
助け船を出してくれたのは岑貴妃だった。
「お優しい貴妃様に感謝するのね!」
先に歩き出した貴妃の後に続いて、侍女たちもくるりと踵を返して去っていった。
「なあっによ。宇春様は、この儲秀宮の女官たちに頭を下げられたから、仕方なく戻ってきてやったのに!」
「ごめんね、妹妹。私がこんなだから」
五つ年下の妹妹は、宇春の乳兄妹だ。前回、妃としてこの宮にいた時も侍女として一緒にいてくれた。今回は、宇春は女官なので、下級宮女の地位しかあげられなかった。
「もう、宇春様は、本気出せばすごいのに!」
「やめて。妹妹。はずかしい。あれは私じゃないもの」
「もう、そんなだから、宇春様はなめられるんです!」
「なめられてもなぶられてもいいの! 私は静かに密やかにこのお仕事を務め上げて、ひっそりこっそりこの後宮を去るのっ」
「はー、もういいです。そんなことにならないこと、一番知っているのは宇春様でしょ? だって、今回女官長様に頼まれたお仕事は、宇春様が本気をださないと、手に負えないでしょうから」
都でも裕福な商家の末娘である宇春は、一年と半年前、伯父の勧めで儲秀宮の女官登用試験を受けた。
あまりにも引っ込み思案すぎる宇春を心配した伯父が、社会に出ることで自信をつけて欲しいという意図で受けさせたのだ。
勉強は得意だったので、試験の出来はそれなりに良かったと思う。
いや、良すぎたのだ。
その結果を見た誰かが、宇春のことを妃の座に押し上げてしまうくらいには。
皇帝陛下は、政敵を容赦なく断罪する政治的手腕と、周囲を圧する威厳とで冷血皇帝との二つ名を持つお方だ。
しかし、お若いのに女性に興味がないらしい。
宮殿の美姫では効果がなかったため、様々なタイプの妃を揃えることになったのだとか。
宇春は、その変わり種の──多分「学問」枠にいれられてしまったのだ。
結論から言うと、この試みは完全なる失敗に終わった。皇帝陛下は当時選ばれた妃の誰の元へもやってくることはなかったのだ。
そして宇春は、一年後、宮を出されて実家に帰ることになった。
最近では、皇帝陛下は男性にしか興味がないのでは、と市井の間でもささやかれている。
「来たわ! 宇春様、待ってたわ」
「きゃあ、本当に戻ってきてくれたのね。うれしい」
「妹妹も一緒ね。これからまた一緒に働けるのね」
儲秀宮の裏手には、女官や下級宮女たちの寝泊まりする建屋がある。そこに入ると、女官たちが、我先にと声をかけてきた。
「あ、あああの、私もう妃じゃないんで、様をつけないでください」
「いいのよ。私たちがそう呼びたいの」
そんな風に歓迎されると心がほっこりしてくる。
妃嬪の侍女たちは、妃だった宇春に冷たいけれど、女官たちの様子は正反対だ。
彼女たちの後ろから、女官長も現れる。
「よく来てくれたわね。宇春。これで、次の詩吟の会も皇帝陛下のご期待に添えるわ」
「あの、わ、私なんかでお力になれるかわからないのですが」
「何を言ってるの。あなたがいてくれれば百人力よ」
「そうですっ。宇春様は、本気出せばすごいんですから!」
「そうね。妹妹がおまじないすればさらにばっちりよね」
そんな風に喜んでくれるのが、本当は少し後ろめたい。
宇春がここにやって来たのは、実は、女官たちの手伝いのためだけではなかったからだ。
翌日、宇春は、数カ月前までよく訪れていた旧隆文楼にやって来た。
一度は去った後宮に、宇春が再び戻って来た理由は、実はこの場所にやってくるためだったのだ。
皇帝が詩や書を書くために建てられた隆文楼は、新旧二か所ある。宇春が訪れたのは、すでに取り壊しが決まっている旧館の方だ。
取り壊し前とは言え、隆文楼の中には鍵がかかっていて入れない。だから、彼と会うのはいつも、隆文楼をぐるりととりまく回廊の裏手だった。
建物の周りを回りながら、彼との出会いを思い出す。
彼との出会いは、いなくなってしまった岑貴妃の猫探しがきっかけだった。猫の足取りを追っているうちにこの隆文楼にたどり着いたのだ。
猫は、座って昼寝をする彼の膝の上に行儀よく丸くなって寝そべっていた。
──そう、今、この瞬間のように。
古ぼけた赤い壁にもたれかかり、腕を組んで目を閉じている彼の姿があった。胡坐をかいた膝の上にはいつかのように岑貴妃の白猫が丸くなっている。
きゅっと心臓がしめつけられるようにきしみ、久しぶりに見たその姿が視界の先で歪む。
軽く結った黒髪に、通った鼻筋。目を開ければ、意思の強さを示す黒い深い眼差しが自分を貫くのを宇春は知っている。
そして、目を覚ますと、彼は、宇春の名を呼ぶのだ。
「宇春?」
こんな風に優しい声で。
(でも、こんな風に呼んでもらうのは最後かもしれない)
「劉さん」
「夢じゃなくて、本当に?」
「はい、夢じゃありません。宇春です」
宇春がこの後宮に戻ってきたのは、彼に会うためだった。
なけなしの勇気を振り絞って、宇春は、ここにやってきたのだ。
──そう、彼に、振られるために。
劉との付き合いは、岑貴妃の猫探しから始まった。
以来、猫がいなくなるたびに、宇春は、この隆文楼までやって来る。
最初は冷たい雰囲気の劉に怯えながら頭を下げるだけだったが、顔を会わせる機会も多くなると少しずつ話をするようになった。
冷たい雰囲気の劉だが、猫の前では柔らかくほほ笑むのを知って、怖い人だとは思えなくなった。
その内にお互いの悩みを話すようになり、強く見える彼も色々なことに悩んでいるのを知った。
宇春は助けてあげたいと思って真剣に話を聞いたし、劉も宇春の悩みに誠実にアドバイスをしてくれた。
そして、劉は、いつしか猫に向けるような笑みを宇春にも向けてくれるようになった。
その時から、宇春の彼に対しての気持ちは、特別なものになってしまった。
「劉さん。お、お久しぶりです」
宇春は、彼に気づかれる前に涙をぬぐった。
「久しぶりだな。実家にでも帰っていたのか」
「……はい。里帰りしていて、昨日、ここに戻ってきたんです」
「すぐにここに来てくれたということは、俺はうぬぼれてもいいのか?」
くったくなく笑うその様子に、宇春の心臓が大きな音を立てる。
(この人はこういう勘違いしそうになることをさらっと言うから)
体は正直だ。
頭の中では必死に勘違いするなと言い聞かせているのに、体と感情はついていかない。
理由もわかっている。
いつまでも、二人の関係がはっきりしていないからだ。
数か月前、実家に戻ると、宇春にはすぐに結婚の話があった。
出戻りの宇春をもらってくれるなんてありがたい話なのだが、宇春は、どうしてもうなずくことができなかった。
ずっと劉のことが気になっていたからだ。
(ちゃんとはっきりさせないと、私は一生この気持ちを引きずってしまいそう。それは、新しく旦那様になる方にも失礼だわ)
劉にそんなつもりがないことはわかっている。
劉は、後宮に勤務する近衛武官である。近衛武官は、宮廷で代々地位を得ている由緒ある旧家の者しかなれない。要するに、実家が商人である宇春とは比べ物にならないぐらいいい家の出身なのだ。
多分、婚約者ぐらいいても不思議はない。
「は、はい。ずっと劉さんとお話ししたくて」
「俺も話したかった」
なけなしの勇気を振り絞って、劉の言う「うぬぼれ」に「はい」と返事をしたつもりだったが、伝わっていないらしい。さらりと返された一言には、きっとなんの含みもない。
宇春は、呼吸を整えた。
失敗しないように、伝えたいことが全部伝わるように、鏡の前でずっと練習してきたのだ。
でも、話を始める前に、宇春はまず、自分が嘘をついていたことを謝らなければならない。
「あの、ただ、その前に私、劉さんに謝らなければならないことがあるんです」
首をかしげる劉を見て、宇春は、大きく息を吸って、ばくばくいう心臓を押さえつける。
「私、実家に一時的に帰っていたんじゃなくて、お務めが終わって家に帰されたんです」
「お務め?」
「はい。劉さんも聞いたことがあると思うのですが、一年ほど前、何人か変わり種の妃が後宮に入りました。結局、皇帝陛下に呼ばれることもなかったので、彼女たちは一年で実家に戻されました」
「その件は知っている……」
宇春はひっそりと後宮を出たつもりだったが、近衛武官なら知っていてもおかしくない。
劉がどんな顔をしているか見るのが怖くて、宇春は、そのまま下を向いた。
「実は、私はその一人だったんです。あの、もちろん、私が陛下のお気に召すなんて大それたことを思っていたわけじゃないです。妃にもなりたくてなったわけじゃなくて、女官の試験を受けたはずなのに、気が付いたらお妃様になっていたとか、そういう感じだったんでっ」
焦って何を言っているのかよくわからない。
ただ、気の多い女だとか不誠実な女だとか、そんな風に思われたくなくて必死に過去の自分を否定していた。
宇春は勢いよく頭を下げる。
「宮女だと嘘をついていました。すみませんっ」
「……顔を上げてくれないか?」
おそるおそる顔を上げると、劉は、何だかとても悲しそうな顔をしていた。
「誰とも知れない男に名乗るわけにはいかないからな。そうするしかなかったことはわかる」
「……はい」
怒ってはいないけれど、悲しいということなのだろう。
(がっかりさせちゃったよね。私だって、劉さんに嘘つかれてたら悲しいから)
本当は、こんな状態でこの後の話を続けたくなかった。
でも、劉とはこの先いつ会えるかわからない。そして、宇春が、この宮にいる期間は決まっているのだ。
言わなかった後悔は、この数か月いやというほど味わってきた。
それよりも、言った後の後悔の方が、将来自分を褒めてあげられる。
「あの、もう一つ、お話ししたいことがあるんです」
宇春は、再び大きく息を吸った。
心臓はさらに痛いほどばくばくし始める。
(大丈夫、言える)
「──私、劉さんのこと、ずっと好きでした」
劉の瞳が、驚きに見開かれる。
何かを言いかけては閉じる唇から、けれど、声が発せられることはない。
宇春は見ていられなくて再び目を伏せる。
(困らせちゃったなあ。でも、予想してたから)
「あの、だから、何かしてほしいとかそんなんじゃ全然ないんです。私、今は、詩吟の会が終わるまでの手伝いのためにここに来てるんです。実家に帰ったら多分結婚するだろうし、劉さんとは、もう会うことも多分ないだろうから、ちゃんとお別れを言いたかったんです」
劉からの答えはなかった。
「私、劉さんに会えてよかったです。これからも劉さんの幸せを祈ってます」
(答えがないこと、それが答えだ)
宇春は、それだけ言うと、彼に背を向けた。
一歩、二歩。三歩目からは、もう涙を抑えることはできなかった。
普通に歩こうと思ったけれど、それも難しくて、気づいた時には、全速力でその場を逃げ出していた。
妹妹は、目を泣きはらして戻って来た宇春を見ると、水で絞った冷たい手ぬぐいをくれた。
妹妹は「なんですか? そのくそ男」といいながら、宇春の話に一晩付き合ってくれた。
目の下におそろいの隈を作った二人は、翌朝お互いの顔を見ながら笑いあった。
でも、これで宇春が宮に戻って来た目的のうち、一つは果たせたのだ。
数か月間、言えなかった想いを抱えてもやもやしていたのに比べれば、段違いに気分がいい。
この後、失恋のことなんて考える暇もないくらい忙しくしていれば、自然に失恋の痛手は消えて行くのだろう。
宇春は、そう考えてますます、女官の仕事に邁進するのだった。
秋の詩吟の会。
後宮の妃嬪が主催者となり、皇帝陛下や位の高い文官、武官を招いて百花楼を借り切って行う催しだ。
昨年、宇春が手伝った詩吟の会はとても好評だった。女官長は、皇帝陛下直々に、昨年以上の内容を期待するとのお言葉を賜ったそうだ。
皇帝の過度な期待に頭を抱えた女官長が宇春に助けを求めた、というのが宇春の出戻りのいきさつだ。
失恋の翌日から、宇春は詩吟の会の今年の企画を文字に書き起こした。
そして今日からは、全員でそれを形にするために動き出す。
「今日は、女官へ指示をしなければいけない日です。だから」
「う、うん。お願い、妹妹」
「おまかせください!」
目を閉じる宇春を前に、妹妹は、袖をまくる。
眉を整えると、色白の宇春の頬に薄く粉をはたき、目の際に墨を入れる。
そして、紅壺に入った紅を筆でとり、宇春の唇に。
紅を、刷く──。
その日、儲秀宮の女官たちのほとんどが食堂に集められた。
時間になると、女官長は二人を少女を連れて檀上に立つ。
「皆も知っての通り、昨年の詩吟の会は大変好評でした。今年は、陛下からも昨年以上の出来を期待する、とのお言葉を頂いています。そのため、今年は、昨年の成功の立役者である宇春に、臨時で宮に来てもらいました。皆一丸となってがんばりましょう──宇春、お願いね」
女官長の振り向く先の宇春に、女官たち全員の視線が集まる。
そこには、下を向き、ちょっとしたことにも怯える、気の弱い少女の姿はなかった。
真っ赤な紅と品の良い化粧で彩られた、自身に満ち溢れた凛とした女性の姿だ。
「宇春です。女官として──みんなの同僚として戻って来たわ。今更挨拶はいらないわね。これから、今年の詩吟の会について説明するわ! 今年の詩吟の会は、今までと一味違うわよ。私から皆にお願いすることはただ一つ! 皆、私についてきて! この後宮史上、さいっこうの詩吟の会にしてやりましょう!」
「宇春様! 待ってたわ!」
「かあっこいい」
「ついてくわー」
女官たちの歓声を受けて、宇春は、片手をあげる。
「まずは、今年の詩吟の会の構想を聞いてちょうだい!」
妹妹がちょこちょこと駆け回って、女官たちのいる机に百花楼の見取り図を広げる。
一瞬にして女官たちをまとめあげた宇春は、不敵な笑みで、今年の詩吟の会の構想を語るのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
皇帝が政務を執り行う中和殿で机に突っ伏していたのは「劉」こと、皇帝の詹 劉帆だった。
「俺はどうすればいいんだ。このままでは宇春が他の男と結婚してしまう」
「どうもこうもないでしょう。さっさと自分が皇帝だってばらして、もう一度妃に戻れって命令すればいいだけでしょうに」
親友でもある内閣学士の申 梓朗の返答はにべもない。
「でも、宇春は、それを望んでいない。妃になりたくなかったと言っている」
「そんなのあなたが皇帝だって知らなかったからでしょう。好きな相手に好きと言われたら、もう、身分などどうでもよくなるものです」
「でも、それで戻ってきてもらっても、宇春に無理をさせることになる。彼女の嫌がることはしたくないんだ」
「じゃあ、グダグダ言ってないで、さっさと諦めて下さい。そして、他の方とさっさと世継ぎを作って下さい。万事解決です」
「俺は宇春じゃなきゃ嫌だ」
「あー、めんどくさい。何であなたは、恋愛だけこんなにヘタレなんですか!? さっさとばらしてきなさい!! というか、あなたが言わないなら私が言ってきてあげます」
「待て! それだけは絶対にダメだ」
「……分かりました。こうしましょう。今日、ここにある書類を全て片付けられなかったら、私は、あなたが皇帝だと彼女にばらしに行きます」
「こんの腹黒クソ学士っ」
「お褒めに預かり光栄です。陛下。さて、そろそろ朝議が始まります。しゃんとなさい。冷血皇帝の時間です」
「ああ」
呼吸を整え、前を向く。
答えを見出せぬまま、劉帆は今日もまた、冷血の名にふさわしく、周りを圧する威をまとうのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
詩吟の会の準備は着々と進んでいた。
今年の会の主題は「風花雪月」
これに沿った内容の詩吟を皇帝陛下の前で披露し、一番の作品を皇帝陛下が選ぶのが催しの目玉だ。
これは非常に名誉なことなので、著名な吟詠家や、詩吟の得意な貴妃、文官なども参加する。
会には事前に多くの詩吟が集められるが、宇春たち女官のところに届くことになっているのは、事前に選び抜かれたものだけだ。
今年は岑貴妃も作品を応募したのだと聞いている。
「ああ、忙しい忙しい」
「め、妹妹には、たくさん苦労をかけちゃって、ご、ごめんね」
両手いっぱいの荷物を抱えた妹妹のつぶやきを聞きとめて、作業場で小刀を手に格闘をしていた宇春は顔を上げる。
「宇春様。違うんですよ! 岑貴妃の侍女ったら、私が大事な材料を運んでいる最中だってのに、わざと足をかけて転ばせたんです。おかげで、材料が汚れちゃって、もう一度取りに行く羽目になって」
「こ、困ったわね。ど、どうしよう。今は儲秀宮のみんなが一丸となって進めてほしいのに」
「きっと、岑貴妃の出したっていう詩吟が落とされたんですよ。それでイライラしてたのに違いありません。っていうより、宇春様、また紅が取れてます。引き直しますから」
「え、で、でででも今日は作業だけだから」
「そんなこと言わずに!」
「宇春、妹妹」
「女官長様」
現れた女官長に連れられて作業場の外に出た宇春は、女官長から告げられた内容に驚きの声を上げた。
「え? 私が詩吟の会の女主人役を務めるのですか?」
「やりましたね! 宇春様」
「ええ。陛下のたってのご希望なの。今回の会を仕切っているのが宇春だということをお知りになったのね。あなたは昨年の成功の立役者でもあるし。その方がよりよい会になるだろうとのお言葉よ」
詩吟の会の女主人役は、会の説明をし、次の進行に進める、司会役のようなものだ。
人を惹きつける話し方や見た目、途中のトラブルに対応する臨機応変さが必要になってくる。
「そ、そんな私無理です。昨年は岑貴妃が女主人役をされました。私なんかじゃ皆さん、ご満足されないかと思います」
「妹妹、紅を」
「はい、ただいま!」
「え? えええ??」
側にいた妹妹に紅をひかれると、宇春の気持ちがすっと静まった。
目を閉じて、開くと、心が決まる。
「受けてくれるわね。宇春」
「ええ、もちろんです。皆の役に立つと決めてここに来たのですもの。ご期待に添えるよう、全力を尽くしますわ」
「それでこそ宇春様です!」
女官長と妹妹の喜ぶ顔に、自然と宇春の笑みが漏れる。
妹妹が、最近やたらと紅を引きたがるのは、元の宇春のままだと劉のことを思い出して落ち込んでしまうのを知っているからだ。
(優しい子)
この優しくて愛らしい妹分の為にも、宇春は会を成功させようと心に決める。
この時、誰かがこの会話を聞いていたのだと、知ることもないままに。
詩吟の会の前日。
──妹妹が池に突き落とされた。
詩吟の会の前日のことだった。
宇春は、妹妹と一緒に、会場となる百花楼を最後の下見に訪れていた。会場内は、準備に追われる女官たちで人通りも多い。今日は皇帝陛下も下見に訪れる日なので、女官長も朝からそわそわと落ち着かない様子だ。
百花楼には美しい庭園もあり、池をまたぐようにかけられた橋の上からの景色は素晴らしい。宇春と妹妹は橋の上に置く予定の仕掛けの確認をしているところだった。
「ねえ、妹妹、そこにある台を取って……」
突然宇春の背後で、きゃ、という小さな声のあと、ぼちゃん、と何かが水に落ちる大きな音がしたのだ。
「かっ、はっ」
「誰か人が、池にっ」
「妹妹!!」
振り返った宇春の視線の先には、池の中で、頭を出したり沈んだりしている妹妹が見えた。
脇を走り抜ける誰かがぶつかってきたが、それどころではない。
慌てて池に飛び込もうとする宇春を、周りの女官たちが必死に止める。
「待ちなさい、宇春!」
「だって、妹妹がっ」
(妹妹は泳げない。ここの池は、妹妹の背じゃ足がつかないのに!)
「放して、だって、妹妹が、誰か、誰か助けて!!」
妹妹の頭が水面から沈んでいく。
その時、池の対岸で、お待ちください、という声と共に大きな水音がした。
誰かが妹妹の沈んだ位置まで抜き手を切って泳いでくる。
その人影が水に潜る。
人々が見守る中、その人は、腕の中に妹妹を抱えて水面へと浮かび上がった。
両岸から、わっと歓声が上がる。
妹妹を抱えて岸に上がってくるその人は、水を吸った重い衣をものともせずに、かけよった宇春の前に妹妹をそっと下ろした。
結った黒髪はほどけ顔は隠れていたが、宇春には、それが誰だかすぐに分かった。
「劉……さん。ありがとう、ありがとう」
「お前の大事な人を守れてよかった。……急いで水を吐かせろ。やり方はわかるな」
「はい」
宇春は、胸がいっぱいになりながらも、すぐに妹妹の応急処置を始める。
女官はこのような処置時の処置も習っている。
妹妹が水を吐き、呼吸を取り戻した時にはもう、劉の姿はなかった。
(劉さんが、私の大事な妹妹を助けてくれた)
宇春と同じ温度ではないけれど、劉は、宇春を大切に思ってくれている。その事が心の奥をほんのりと暖めてくれた。
もう二度とは会えないと思った劉に会えて、最後にこんな素敵な贈り物をくれるなんて。
もう彼との関係に思い残すことはなかった。
宇春は、幸せな気持ちで翌日を迎えるはずだった。
──けれど、それは叶わなかった。
妹妹が高熱で寝込んでしまい、宇春の紅をひく役目を果たせなくなってしまったのだ。
詩吟の会当日。
妹妹は、高熱を出して寝込んでしまった。
意識がまだ戻らない妹妹が心配で仕方ないが「宇春様、成功させて」といううわ言を聞くと、立ち上がらないわけにはいかなかった。
支度をして、化粧をして、震える手で紅をひく。
けれど、あの宇春にはなれない。
女官長にお願いして紅をひいてもらっても、変わらなかった。
(どうしよう。妹妹のためにも成功させたいのに。今のままの私じゃ、きっと無理)
詩吟の会は夜からだ。
昨年まで昼に行われていた詩吟の会は、今年、宇春の出した企画により、夜に行うことになっていた。
まだ時間はある。
でも、紅の力のない、小さなことにも緊張して怯えてしまう今の宇春では、成功できる姿が全く想像できなかった。
思い悩むうちにいつの間にか、宇春は劉帆と出会った隆文楼へと足を運んでいた。
劉に告白をして振られた場所ではあったけれど、ここで過ごした時間は、悲しい思い出ばかりではなかった。
妃時代も、落ち込んだり悩んだりすると、ここにやってきて劉によく話を聞いてもらっていた。
彼に助言をもらえることも、そうでないこともあった。しかし、ここに来て彼と話した後は、いろいろなことが不思議なほどうまくいった。
(そっか。私は劉さんに会うだけで力をもらってたんだ)
その事実に今更ながらに気づいてしまって悲しくなる。
もう会うことはないのだという思いが、心の奥をきゅっと締め付ける。
──それなのに。
「きれいだな」
ずっと焦がれていた、優しい、深い眼差しが、宇春を見つめていた。
(なんでここにいるの?)
「お、女主人の役を任されたのです。……美しい衣でしょう?」
(なんで私が助けを必要としている時に、こんなに都合よく現れるの?)
「衣じゃなく、お前がきれいだと言ったんだ」
(なんでそうやって、私の心を揺らすようなことを言うの?)
どう受け止めていいのかわからなくて、宇春は、下を向く。
「あ、ありがとうございます。──昨日も、妹妹を助けてくださってありがとうございました。私の大切な、本当に大切な子なんです」
「ああ、お前のだいじな子だと思ったから、体が動いてしまった。お前を悲しませたくなかったから」
劉の言葉は、弱り切った宇春の心に、砂に落ちた水のように深く染み込んでくる。
それは愛情ではなく、思いやりとか慈しみとかそんな類のものだろうけれど、宇春には、それで十分だった。
「……どうして、ここにいるんですか?」
「お前が、心配だったんだ」
その言葉に、どくんと心臓が跳ねる。
(もう、無理だ)
ただ、振られさえすれば、その後は忘れられると思っていた。
彼の幸せを祈って、そのまま立ち去れると思っていた。
でも、もう、ごまかし続けるのは無理だった。
(私、やっぱりこの人が好き)
きっとこの気持ちがなくなることなんてない。
なんだかもう、家に帰って他の人と結婚するとか、無理な気がする。
縁談は断ろう。一生一人で生きていく。
この気持ちを捨てなくても、忘れなくてもいい。そう考えると少し気持ちが楽になった。
「あの子は、大丈夫なのか?」
「は、はい。今は高熱で苦しんでいますが、熱が下がれば大丈夫だとお医者様がおっしゃっていました」
「その割には浮かない顔だ。あの子が心配なのはわかるが、それだけではないな」
劉は、簡単に宇春の心のうちを見抜いてくる。
「妹妹が言うんです。うわ言で、今日の会を成功させて、と」
「ああ」
「でも、私、だめなんです」
「どうして?」
「あの子の引いてくれる紅がないと、私、怖くて。怖くて、自信がなくて。絶対、無理です。みんなの前で失敗して、呆れられて、女官のみんなに迷惑かけてっ」
言葉に出すと、もう、それは確定された未来のように思えてきた。
「宇春、俺を見ろ」
気づくと、劉が目の前にいた。
「その役目、俺に任せてくれないか」
隆文楼をぐるりと取り巻く回廊の裏。
誰もいない廊下に敷かれた劉の上着の上に、宇春は、正座をして目を閉じた。
劉の武骨な手が、宇春の顎を持ち上げた。
ことりと床におかれた紅壺から、ぬぐうように紅をとった劉の手が、宇春の唇に触れた。
わずかに震える宇春の体に気づき、劉は手を止める。
宇春は、止まった手に気付き、おそるおそる目を開けて劉の顔を見上げた。
劉は、ふっとほほ笑むと、宇春の目を見つめ返した。
「お前ならできる」
そして、その手で。その指で。
紅を、刷く──。
詩吟の会が夜に開かれるのは、初めてのことだった。
「今年はいったいどんな出し物で楽しませてくれるのかしら?」
「昨年は演劇風で眠くなる間もなかった」
「ああ、毎年眠気と戦うので大変な行事だったからな」
出席者達は、期待で胸を膨らませながら、続々と会場である百花楼に集まってくる。
「考えたわね。宇春。詩吟の会を夜に行うなんて、今まで誰も思いつかなかったわ」
「演出のために、夜である必要があったのです。でも、夜の利点は実はそれだけではありません。睡魔に負けても、誰にも気づかれませんから、安心感が段違いです」
開始前、舞台の袖で客席を見守る女官長に、宇春はちゃめっけたっぷりにほほ笑む。
「あなたが自信を取り戻してくれてよかったわ。ただ、ちょっと直させてちょうだい……あの方ももっとうまくなさればいいのに」
「はい?」
女官長はそう言うと、首をかしげる宇春の紅を直してくれた。
「きれいになったわ。さっきまで、まるで口づけした後みたいだったから」
「な、ななっ。してませんっ」
「ええ、そういうことにしておいてあげるわ」
「だ、だから、違いますってば!」
「ふふっ。わかっているわ。あなたに紅を引いてくださった方は、もう少し、練習をした方がいいわね。いろいろと」
宵闇の中、百花楼の会場は、人で溢れていた。
昨年の詩吟の会の評判を聞き、参加者が格段に増えたのだ。
あちこちに建てられた灯籠の灯りが、ぼんやりと会場を照らしている。
やがて、皇帝の訪れを告げる先ぶれの声に、人々は膝をつく。
皇帝の玉座は御簾越しの高い位置にあり、その顔を垣間見ることはできない。
玉座に就いた皇帝に向かい、宇春は、声を上げた。
ここからは、会を取り仕切る女主人としての腕の見せ所だ。
「深まりゆくこの秋の宵。本日の詩吟の会は『風花雪月』を題材にいたしました。春の花、夏の風、秋の月、冬の雪。季節ごとに織りなす詩吟の調べと、光と闇の競演を皆様存分にお楽しみください」
「楽しませてもらおう」
皇帝からの言葉に、会場がわっと湧く。
宴の始まりだ。
第一幕は「風」
著名な吟詠家の詩吟が、良く伸びる声で会場を沸かせる。
ちょうど風の美しさを詠みあげた時だった。
会場の灯籠の光がふと消えた。
急に真っ暗になった会場にざわざわと人々の驚きと戸惑いの声が上がる。
その瞬間。
会場に、風が舞った。
──光の風が。
会場を流れるように舞ったのは、宇春が用意した「影」による光の風だった。
宇春が準備したのは、影絵を利用した、光と影の投影の出し物だった。
会場中の視線を虜にした光の風が舞い終わり、灯籠が再び灯されると、人々の歓声があがる。
(風は、表現するのが大変だったのよね。水を使って光を歪めて見せたり)
影絵の中でも一番表現が難しいと思われた風がこれだけ好評だったのだ。もう後は、成功が約束されたも同然だった。
会場のいたるところに影絵の装置を作り、女官たちが音楽に合わせて影を投影する。
宇春は、舞台に近い装置のそばで、全体の指示を行っていた。
第二幕「花」、第三幕「雪」は大歓声と共に終えることができた。
そして、最後の第四幕「月」が始まった時だった。
影絵の装置の側でひざまずく宇春のそばへ足音を立てずに歩み寄る者がいた。
人の出入りが多いため、宇春や周りの女官たちも、その者を気にとめなかった。
その者は、宇春の背後に回り込むと、風の演出で使った水甕に手をかける。
異変を感じた時には遅かった。
宇春が顔を上げた先には、甕を振り上げた岑貴妃の侍女の姿があった。
彼女は、にっと笑いながら、水甕を逆さまにした──。
逆さになった水甕からの水が、宇春の顔に降り注ぐ。
ぼたぼたと顔から水をしたたらせ、呆然とする宇春を、侍女はにやりと笑って見下ろした。
「あ、紅、が……」
勢いよくかけられた水で、宇春の万能感は、紅と共に洗い流されてしまった。
(どうしようどうしようどうしよう)
さあっと血の気が引き、心臓が早鐘のように脈打ち、手ががたがたと震え出す。
付近の近衛武官が水をかけた侍女を取り押さえた。
『お前なんか、紅がなければ、何もできないくせに』
侍女の唇が悪意に満ちた言葉をかたどり、宇春の心臓を突き刺す。
折り悪く、詩吟の声が途切れた。
本来であれば、ここで宇春が指示をだし、会場は真っ暗になるのだ。
けれど、恐慌状態の宇春には、声を出すことも、合図を行うこともできなかった。
女官たちが宇春の指示を待ち、どうしたらよいかとこちらを見る。
視線が痛い。
頭の中が真っ白になってどうしていいかわからない。
声をだそうとしても喉がひりついて何も出ない。
(誰か助けて。誰か──劉さん)
その時だった。
「灯りを落とせ」
御簾の奥から、威厳を湛えた静かな声が響いた。
皇帝の声だった。
辺りは即座に灯りが落とされ真っ暗になる。
御簾がするりと上がる音がして、その奥から、ひな壇を降りてくる足音がした。
(皇帝……陛下だ)
冷血皇帝と評される皇帝が、詩吟の会を台無しにした宇春に、罰を与えに降りてきたのだろうか。
心臓が、しゅっと縮こまり、もう、何をどうしていいか全くわからない。
暗闇の中、宇春の目の前で皇帝は立ち止まった。
「も、もうしわけ」
「ここまでよく頑張った」
「え?」
伸ばされた手が宇春の背に伸び、体がふわりと浮き上がった。
自分の状況が信じられず、宇春は凍り付く。
皇帝が、宇春を抱き上げたのだ。
そのまま、ゆっくりとひな壇を上がり、御簾の奥へと宇春を抱いたまま入っていった。
「再開だ」
御簾の奥からの皇帝の声に、詩吟の声と、影絵の投影が再開された。
御簾の奥は、わずかに灯りが灯っている。
下ろされた宇春は、あわてて叩頭する。
「顔を上げてくれないか?」
その言葉を聞いて、宇春の心臓は、先ほどまでとは違う感情で凍り付いた。
(嘘。だって。だって、絶対ちがう)
それは、以前、宇春があの場所で聞いたことのある言葉と同じだった。
必死に否定しようとするのに、声も、抑揚も、優しい響きも、全てがあの時のままで。
確かめるのが怖くて顔を上げられない宇春の頬に、皇帝の手が伸ばされた。
その手に導かれるように、宇春は、その顔を見上げた。
「劉、さん?」
劉はただほほ笑む。
そのほほ笑みに、宇春の中の怯えも、恐れも、全てが溶けて消えていくようだった。
「今はまだ、考えるな。この会を成功させるたいんだろう?」
「はい」
「ならば、目をつぶれ。これは、俺の役目だ」
宇春はその声に促されて目を閉じる。
「お前なら、できる」
そして、皇帝詹 劉帆は、出戻り妃呉 宇春の唇に。
──紅を、刷く。
御簾には、中からの光で男女二人の影が、映し出されていた。
むつまじく頬に手を寄せる二人の姿が。
二人の姿が近づき、人々の視線が御簾に釘付けになったその瞬間。
月の影絵が、御簾に投影され、御簾の奥の二人の姿は消えていった。
皇帝が誰を見初めたのか、誰の目にも明らかだった。
「うーん……あれ、宇春様?」
「妹妹! よかった、気がついた!」
「おはようございます。そうだっ、詩吟の会は!?」
翌朝、熱の下がった妹妹は、がばっと布団から起き上がった。
宇春は、妹分の元気な様子にほっと胸をなでおろす。
「どうにか終わったよ。ちょっといろいろあったけど、影絵の舞台が素敵だったって、お褒めの言葉をたくさんもらったよ」
あの後、紅の力で自信を取り戻したユーチェンは、無事女主人の役割を果たし終えたのだ。
しかし、妹分は目ざとい。
「『ちょっといろいろ』で目が泳いでました! そこ詳しく!」
「え、えええっと、それはその」
妹妹の追求を回避するのは難しく、結局全部吐かされてしまった。
「ええっ!? 宇春様を振ったあのくそ男がこうてっもごっ」
あわてて妹妹の口をふさぐが、すぐにその手はおしのけられる。
「で、宇春様はどうするつもりですか!?」
「え? どうって、何も」
「何を言ってるんですっ。抱きかかえられたんですよ? 紅まで引いてもらったんですよ? これが何を意味するか分かりますよねっ」
「ど、どうしよう妹妹。私、陛下にそんなことまでさせて不敬罪でつかまっちゃう?」
「……はあぁ。まあ、不敬罪にはならないと思いますよー。別の罪で捕まるかもしれませんが」
「妹妹ー」
陛下にとんでもないことをさせてしまったユーチェンに、妹分の答えは冷たかった。
それから、妹妹の体調が戻るまでの数日間は、いろいろなことがあった。
岑貴妃からは、侍女のしでかしたことについての謝罪があった。彼女を宮から追い出すので、許してくれないかと手をついての謝罪だった。
妹妹に対しても丁寧に謝ってくれて、妹妹も許すことになった。
貴妃の座を退き、妃に降りるという。
「唯一の貴妃様がいなくなると、後宮中が騒がしくなりますねえ」
「そうね。大変かもしれないわね」
「宇春様。なんですか。他人事みたいに!」
何を言っても妹妹に怒られそうで、宇春は曖昧にほほ笑むことにした。
宇春は、妹妹の体調に問題がなくなったのを確認した後、当初の予定通り、すぐに後宮をたつことにした。
女官たちに別れの挨拶をして、最後に女官長を探していると、同僚だった女官から声をかけられた。
「宇春様。女官長様は、門の所で待ってらっしゃるって」
「ありがとう」
けれど、後宮の出入り口である赤い朱塗りの門で、二人を待っていたのは──。
劉こと──皇帝、詹 劉帆だった。
彼は、隆文楼で猫を膝にのせていた時と同じく、近衛武官の衣服に身を包んでいた。記憶にある優しい眼差しが宇春に向かう。
「宇春」
(どうして、ここにいるの?)
宇春の名を呼ぶ声は、あの時と変わらず、とても優しい。
宇春は、ぐっと唇をかんで、すぐに膝をつく。
彼が皇帝だと知ってしまった今、以前と同じように振舞うわけにはいかなかった。
一歩ずつ近づいてくる劉は、宇春の元までたどり着くと、宇春と目線を合わせるように、腰を落とした。
「俺は、お前に謝らなければならないことがある──近衛武官だと、身分を偽っていた」
許しを乞うような彼の瞳が、宇春の目をまっすぐに見つめる。
宇春は、こみ上げそうになる感情を押し殺して、笑みを浮かべて見せた。
「当然のことです。陛下の尊き御身を、どこの誰ともわからぬ女に知らせることはできません」
「劉と、呼んではくれないのか」
「お呼びできません」
宇春は、ゆっくりと首を振った。
もう、二人の関係は違うのだ。
あれから宇春は、劉が皇帝陛下だったという事実を何度も繰り返し考えてみた。
劉の事を忘れることはできないし、多分ずっと好きだと思う。
それは変わらない。
でも、皇帝陛下へ同じ気持ちを向けるわけにはいかない。
だから、あのあと起きた全てに目をつぶって、この後宮を抜け出そうとしていたのに。
それなのに。
「あの日のやり直しをさせて欲しい」
この人は、ずかずかと蓋をした宇春の中に踏み込んでくる。
伸ばされた彼の手が、宇春の頬に触れ、その視線を絡めとる。
「宇春──俺も、お前が好きだ」
想像もしていなかった言葉に、頭の中が真っ白になる。
そんな言葉が返ってくると思わなかった。
そんな言葉が返ってくると期待してはいけないと思っていた。
嬉しさで胸がいっぱいになる。
でも、それは、今の宇春には、過ぎたる思いだ。
「わ、私が好きなのは、近衛武官の劉さんでした」
「俺は、今の子栗鼠のようなお前も、紅を引いた猫のようなお前も好きだ。どちらもお前だからな。お前は、違うのか?」
「……っ、そ、それは」
「お前が好きだといってくれたのは誰だ? 言葉に出してほしい」
まっすぐすぎる視線が再び宇春を貫く。
「わた、しはいつも、怖くて、自分に自信がなくて」
「ああ」
「妃に選ばれた時も、そんなお役目、無理だと思って、逃げ出したくてしかたなくて」
「ああ」
「妃を首になって、とてもほっとしました」
「そう……か」
(そう、私には妃なんて無理だった──この人のそばにいる資格なんてなかった)
宇春は、ぎゅっと目を閉じる。
──でも。
(でも、今の私なら──この役目を立派に果たした私なら、本心を口に出しても許される?)
答えたら後戻りできなくなる。
それは分かっている。
けれど、その問いに答えない、という選択肢は既に宇春の中になかった。
覚悟を決めてゆっくりと目を開けると、不安そうな劉の顔が目に飛び込んできた。
自身に満ち溢れたこの人のこんな顔を見るのは初めてで、胸がしめつけられる。
「私は、劉さんも、皇帝陛下も、好き、です」
安堵にほころぶような笑みを浮かべる劉に、今度は胸が震えた。
(馬鹿な宇春。逃げ出そうなんてとっくに無理だったのに)
「宇春、お前に、ここに残ってほしい」
もう、降参だった。
力が抜けると、同時にこらえていたものがあふれ出してくる。
「うっ、ふっ」
劉の手が、宇春の目からあふれ出した涙をぬぐう。
皇帝陛下だとわかったからって、諦められるわけなんてなかったのだ。
ただ、大好きなこの人のそばにいたい。
それだけだった。
「おそばにいても、いいのですか?」
「ああ。実家に帰って結婚するなどと言わず、ずっと俺のそばにいてくれないか」
もう、迷う必要などなかった。
近づいてくる劉の顔に、宇春は言葉を返す。
「はい。ずっとおそばでお仕えいたします」
それに、思うのだ。
一年前、妃時代の宇春は役立たずだった。
けれど、今の宇春なら、皇帝陛下のお役に立つことができる。
「妃としては役立たずでしたが、女官としてならば、陛下のおそばでお役に立てると思うのです」
宇春の目の前まで近づいた劉の顔が、ぴたりと動きを止めた。
戸惑うようななんともいえない表情に、宇春は首をかしげる。
「陛下?」
それに、視界の端にいる妹妹ががっくり膝をついているのはなぜだろう。
しかし、劉の戸惑うような表情は一瞬で、すぐに彼は、ふっと力を抜いた笑みを浮かべた。
「今はそれでよしとしよう。けれど、忘れるな。女官といえども、俺の女だ。他に目をむけることは許さない」
「はい、陛下だけを、ずっとお慕いしております」
「うっ、俺も……だ」
「はい。ずっとここでお仕えいたします」
「……まあいい、宇春、覚悟しておけ」
「はい、どんなお務めでもこなして見せます」
「……いや、絶対分かっていないだろう」
皇帝と女官の恋の舞台は、始まったばかり。
◇◇◇◇◇◇◇
劉が、覚悟を決めるのは早かった。
あの日、宮女が池に落ち、宇春が取り乱し、池に飛び込もうとすらしている姿を見たら、何もせずにいることなどできなかった。
飛び込み、宮女を宇春の前に横たえた時、宇春の安堵に緩む顔を見た時には、もう心を決めていた。
「梓朗。俺は、宇春を手放せない」
「始めからそう言えばいいんです」
「貴妃の部屋を空けるように指示を」
「え? 妃を通り越していきなりですか? うーん、周りを納得させるために、彼女の存在を印象づける必要がありますね。何がいいでしょうか……」
「詩吟の会を使う」
そして、あの日、水に濡れて震える宇春に紅を引いた──。
「で、貴妃にするって言えなかったんですね?」
「仕方ないだろうっ」
「……ヘタレ」
「うるさいっ。あの子栗鼠のような顔に浮かぶ涙を見たら、これ以上何も言えるわけないだろうっ」
「はいはい。一年。それ以上は待てませんよ。これ以上皇后の座を空席にしておくことはできませんからね」
◇◇◇◇◇◇◇
それから一年後だった。
平民出の少女が皇后へとのぼりつめたのは。
出戻り妃であった彼女は、後宮に戻り、女官となって、数々の功績を立てた。
彼女は、皇帝に見初められ、貴妃になり、そして皇后への道を歩んだ。
皇后、呉 宇春── その口にひかれた鮮やかな紅が印象的な美しい女性だったという。
了
初中華ファンタジーです。
皆様が少しでも明るい気持ちになれたら嬉しいです。
普段は、西洋風の異世界恋愛作品が多いです。
お時間ありましたら他の作品もぜひ読んでいってください。
また、漫画アプリ「ピッコマ」で「いらっしゃいませ さようなら 旦那様」を連載中です。