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弓兵と自称勇者

 男子寮の一角が崩壊する少し前、ティナは白絹で仕立てた寝巻きを纏い、窓から顔を出していた。


 彼女が森で暮らしていた頃からの日課の一つとして、夜空を眺めるというものがある。森には魔力灯がないので、夜間にする暇潰しが少ない。それ故に夜更かしをするとなると、空を見上げて家族と話すぐらいしかないのである。

 その時に星に魅せられたのを切っ掛けに、彼女は毎晩空を眺める。今では何となくではあるが、翌日の天気予測や虫の知らせに近いモノの感知もできるようになったのが、密かな自慢でもある。

 そして何故か、今晩の彼女は嫌な予感をヒシヒシと感じ取っていた。それが一体何なのかは分からなかったが、そのせいで寝台に体を預けることもできず、かれこれ四半刻ほど窓から顔を出している。


「妙に疲れたわね、今日」


 ぐでっと頭を垂らすと、黄金色の髪が甘い香りと共に広がった。側面からは長い耳の先端が飛び出している。

 それだけ見れば、かなりの恐ろしい場面である。頭が垂れ下がった四角い窓枠。学生寮であるからまだマシだが、そこらの暗闇で見せられれば、断頭台か何かの絵に見間違えてもおかしくない。


「サクラは変な子だし、キキは相変わらずだし……」


 妙な響きの名前を名乗り、自身の想い人と一緒にいた少女。

 時々現れるキキの知名度やら何やらを利用しようとする悪女なのかと思えば、全然そんなことはなく、単純に頭のおかしい少女なのかと思えば、別に気が狂っているとも思えなかった。

 ただ自分が勇者だと信じて疑わない、酔狂な同年代の黒髪の少女。


「キキが勇者なら、アタシも信じるけど」


 煌びやかな衣装と、輝かしい剣。それらを携えたキキの姿を思い浮かべ、ティナはすぐに吹き出した。


「いや、信じられないわね。アイツは杖持ってる方が似合ってるし」


 いつも通りの姿を想像し直し、頷く。

 そのまま段々と口元が緩んでいき、端から涎が少し垂れたのを拭った。みっともない姿ではあるが、誰かに見られているわけでもないので少女は堂々としている。

 そして暫く頭の中で少年の姿を思い浮かべた後、とあることが頭の中を埋め尽くした。


「そういえばアイツ、弁当食べたのかしら」


 すっかり忘れていた今朝のことを思い出し、ティナは唸り始める。


「試食の時は問題なかったし、アイツの良く食べてる肉料理じゃなくて焼き魚にしたから、多分大丈夫。文句はあまりつけられないはず……」


 眉間に皺を寄せた難しそうな顔でも、ティナの容姿なら十二分に映える姿である。だからこそ、アルベルトを筆頭に入学早々面倒な事態に巻き込まれたのだ。

 それを意図せず助けてくれたのが、今も交流のある二人の男子生徒。キキとピノという、ハミルトン魔術学校の誇るべき二人組だ。

 それでキキに惚れたというわけでもないが、少なくともそれが切っ掛けだったことは間違いない。


「ま、まあ?アタシなら料理ぐらい簡単よ!」


 その結果として、想像上のキリレンコ少年の前で自慢げにすることになっているのだが、少女自身は特に気にすることなく毎日を過ごしている。

 度々その姿をピノに目撃されて揶揄われるのを除けば、そんなに悪い日々ではないのだ。


「もしかしてサクラにあげたとか?いや、キキはそんなこと……するわね。サクラがお腹空いてたりしたら、確実にあげるわ。アイツならやりかねない」


 段々と大きくなり始めた独り言を遮るように、ティナの長い耳が聞き慣れない声の聞き慣れた単語を拾い上げた。

 それは奇しくも先ほどから彼女の頭の中を支配している、一人の少年の名前。


「キリレンコ君がダチョウと戦ってるらしいよ」


 それを耳にした瞬間、ティナはすっ転びそうになった。

 キキが何かをやらかすだけなら、それは比較的良くあることだ。学校の実験室を爆破してしまったのも、記憶に新しい出来ごとの一つである。

 そんなキキでも、当たり前のことではあるが、寮内でダチョウと戦ったことはなかった。ダチョウに限らず、人間とも口論を時々するぐらいで、戦闘を自ら行うような人間ではない。

 ただ少し目立ちたくないだけで、基本的にはかなりの平和主義者だというのがティナの持つキキへの印象である。


「どういうこと?キリレンコ君が変なことするのは分かるけど、ダチョウと戦う?どうして?」


 自分の抱いている感想と全く同じことを返す少女の声を頭に入れながら、少女は考える。

 加勢に行くべきか、もう少し正確な情報が入ってくるまで静観しておくべきか。ダチョウが暴れれば死者が簡単に出ることはティナも知っているが、キキがそう簡単に動物如きにやられるとも思えなかったからだ。

 そもそもダチョウが寮の中に現れるということ自体、信憑性に欠ける話でもある。桜が勇者であるというのと同等とまでは行かずとも、かなり嘘の匂いがするモノだ。


「でもまあ、準備ぐらいはしといても」


 そこまで口に出した瞬間、ティナの長い耳が異音を拾い上げた。

 発生源は男子寮の方面。何かの崩れるような音と、それと一緒に大きな何かの落下する音。


「アイツ、魔術で虫も殺せないのに何してんのよ!」


 大急ぎで頭を引っ込め、机の上に放り出していた紐で髪をいつものように括り、新調したばかりの弓を手に取る。

 矢筒に矢が入っていることを確認し、ティナは寝巻き姿であることも気にせず、部屋の扉を壊しそうな勢いで飛び出した。階段の用途など知らないとばかりに大跳躍を見せ、そのまま韋駄天の如く女子寮を出る。


「キキ!」


 少年の名を叫び、駆ける。

 目的地はすぐそこ。男性より多少劣る女の脚力でも、瞬く間に辿り着ける距離だ。

 土煙でも上がりそうな勢いで駆け、肩からずり落ちそうになる矢筒を勢いだけで背負い直し、雑な結びのせいで少し解けそうな髪を適当に整え、少女は目的地を目の前にして急停止した。


 まだ大した時間は経っていないらしく、何かが起こったであろう現場では未だに土煙が舞っている。そのような状況でも、ティナの目はいくつかの要素を捉えることができた。

 薄らと見えるのは、瓦礫。山と呼べるほどではないが、かなりの量が積み重なっている。それ以上に目立つのが、奇声を発している巨大な何かだ。

 足が三本あるのか、それとも手足のどれかが取れてしまったのか。そんなことはティナには分からなかったが、少なくとも人ではないことは影だけでも理解することはできた。


「ダチョウ、かしら」


 確信はなかった。ただ、鳴き声が良く聞くソレと酷似していたから、そう言っただけ。

 そうなってくると、ティナの脳内を埋め尽くすのは、目の前のソレと戦っていたという少年のことだ。ダチョウが寮の敷地内にいるだとか、眼前でそれがのたうち回っているとか、そういう余計なことは頭の中から弾き出され、少女は咄嗟に少年の名を口にした。


「キキ!」


 もう一度、名を呼ぶ。彼女の甲高い悲鳴にも似た声が響いた瞬間、上の方から馴染み深くない声が降ってきた。


「キリレンコならダチョウに蹴っ飛ばされてそこら辺に落ちた!」


 ティナが咄嗟に声の方へ顔を向けると、そこには大きな穴があった。

 正確には、怒り狂ったダチョウによって破壊され、大穴の開けられた寮の一角。そこから複数の男子生徒が顔を覗かせ、ティナとその近くの土煙の中を見つめていた。

 声の主はその中の一人、大柄な少年だった。いつもの二人以外の男子生徒と大して交流のないティナには、それが誰なのかは分からない。校内で見掛けたことがあるかどうかというぐらいで、名前は一文字たりとも浮かばなかった。

 それでも感謝をしない理由にはならないので、ティナは大穴に向けて軽く会釈をし、矢を片手に煙の中へ突っ込んだ。


「キキ!返事しなさい!」


 近距離戦において弓使いは不利か。

 そんな問いを投げ掛けられれば、ティナは迷わずに首を縦に振るだろう。しかし、できないとは言わない。そもそもキキがまともに戦闘することができない性質上、ピノという壁を掻い潜ってきた敵は彼女が捌く必要があるのだ。

 その際に良く用いるのが、番えていない状態の矢だ。短刀を利用することもあるが、手に持つ機会が多いこともあり、結局矢を使うことが多くなってしまっている。弦を利用して標的に捩じ込むのが本来の用途ではあるが、思い切り振りかぶれば深手を負わせることはできる。


「とりあえず、アンタは黙っときなさい!」


 だから、今回もそうした。

 地面で釣り上げられた魚のようにのたうち回っているダチョウの、最も危険な部位である脚部。意識だけでなく、最悪の場合はその命すら一瞬で刈り取れる死神の鎌と大差ないそれに、必要最低限の動きと時間を以てして、彼女は勢い良く矢尻を突き刺した。


「ギィィ!」


 普通の少女の膂力なら不可能だったかもしれないが、ティナは森人。幼い頃から森で生活し、木登りや小動物を狩るぐらいなら二桁にならない頃から行っていた人間だ。

 股の付近に深々と突き刺さったそれは、確実にダチョウの動きを阻害している。


「こっちはこれで良し。後は」


 ティナの言う通りにはならなかったものの、暫くは立ち上がることすら儘ならないであろう巨鳥から視線を外し、少女は瓦礫の方へ目を向けた。

探すモノは決まっている。自分のとは違う、明るい金髪。もしくは見慣れた黒い外套か、少年の愛用している短杖。

 そのどれかが見つかれば良い。そう思いながら、彼女は目を凝らした。


「どこ、どこなの」


 大柄な少年の言葉を信用し、ティナは一歩一歩慎重に足を進める。

 単に土煙だけなら良かったが、時間帯が最悪だった。目が多少慣れてきたとしても、見づらいことに変わりはないのだから。


「いた!」


 そんな中でも、彼女は想い人の姿を見つけ出した。

 正確には、その腕と頭がうつ伏せの状態で瓦礫の下からはみ出していたのだが、そんな細かいことは関係ない。痛みで絶叫しているダチョウのことなど気にも留めず、ティナは瓦礫と地面の間にある空間に手を突っ込む。

 石材なら流石のティナでも持ち上げられなかったが、幸いなことに瓦礫のほとんどは木材だった。そのまま力任せに押し除け、更に手を突っ込み、押し除ける。

 そんな作業を数回繰り返し、漸く少年の体の大部分が見え始めた。いつもの外套に見慣れた金髪。彼女の良く知るキキの姿である。


「起きてるなら返事して、お願いだから!」


 もし悪ふざけでもしているなら、いつものように小突いてやろう。そう思いながら、なるべくゆっくりとキキの体を引き摺り出そうとした時、ティナの手にベチャリと水分が張り付いた。


「え」


 水よりもやや粘性が強く、固まる直前の糊のような感触のする液体。

僅かな光で照らされたソレを目にした瞬間、少女は息を飲んだ。


「キキ?」


 物言わぬ骸になっているわけではない。けれど、少年の呼吸は浅かった。

 その顔は良く見えないし、どのような怪我を負っているのかも即座には判別できない。

 ただ、瓦礫の下敷きになっていたことを考えれば、何かが刺さっていた可能性もある。それを考慮せずに瓦礫の除去を最優先に考えた自分の愚かしさを呪いながら、ティナは細心の注意を払ってその体をペタペタと触る。

 触診の結果、どうやら腹部に浅い傷があるらしいことを理解し、寝巻きの裾をギュッと握り込んだ。


 好きな人の体に触らなければならない。そんな小娘のようなことは考えなかった。

 とにかく止血しなければ。そう考えて寝巻きの裾を引き裂き、出血箇所に処置をしていく。ティナが知っている方法は半ば森人間の民間療法のようなモノではあったが、生傷の多い森人のソレは処置としては十分だった。

 完全に出血を抑えることこそできなかったものの、薄明かりの中で行ったにしては上出来とも言える処置を終えると、今度はその体を仰向けにする。

 そのせいで、キキの痛々しい傷を負った顔が露わになった。それを不快そうな顔で見つめ、息を吐きながら目を閉じる。

 そして少女は、幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。


「キキ、ちょっと待ってなさい」


 解けかけていた髪を括り直し、晴れてきた土煙の奥で暴れるダチョウをキッと睨みつけた。

 そして長弓に矢を番え、宣言する。


「アタシはコイツみたいに、変な約束なんかしてないから、容赦なく殺すわよ」


 殺気に反応したらしく、のたうち回っていたはずのダチョウは、その巨体からは想像できないほど俊敏な動きで飛び起きた。

 刹那、矢が闇の中を駆ける。


「覚悟できてんでしょうね、デカブツ」


 言い終わるや否や、巨鳥の胸のあたりから羽毛が飛び散った。


「アイツの痛み、思い知りなさい」


 体の中で迸る激情を律し、冷静に急所を射抜いていく。耳には響く絶叫など入れず、ただ風の動きだけを捉える感覚器官として扱うのみ。


「ギィ!ギィィ!」

「うるさいわね。時間考えなさいよ」


 先に突き刺した一手、そしてキキの放った閃光によって身動きもろくに取れないダチョウは、彼女には良い的である。

 避けた先に矢を捩じ込まれ、倒れた先で射抜かれ、野獣は綯い交ぜになった感情を奇声に乗せた。羽毛を全部毟れば、穴だらけの惨たらしい姿が露わになるだろう。

 それでも、怪鳥は止まらなかった。何かに突き動かされるように、声しか聞こえない少女へ決死の特攻を仕掛ける。


「トドメ」


 ゾッとするような声色で呟かれた言葉は、放たれた矢と共に無慈悲に突き刺さった。

 もう機能していないにも関わらず、未だに血走っている両目の間。即ち眉間。そこを穿たれた生命体は、心臓と同様に重要な器官である脳を破壊される為、基本的には死亡する。

 そして彼女の眼前まで迫ってきていた生物も、当然例外ではない。


「アンタに何があったかは分からないけど、そういう難しいのはアイツが起きてから考えるでしょ」


 残心。

 決して相手から視線は外さずに、ティナは骸と化したであろうダチョウへそう言った。怒り狂った鳥はその恐ろしい表情を崩しもしないまま、それに応えるようにズンと地面へ倒れ伏す。

 完全に生き絶えたのかを確かめる為に、少女は内心で酷いとは思いながら、爪先で舌をダラリと垂らす怪鳥の胸元を突いた。それを何度か繰り返し、おそらく大丈夫だろうと判断したティナはすぐさま体を反転させ、酷い状態の少年の側へ駆け寄った。


「キキ、もう少し頑張って。すぐ医者のところ連れて行くから」


 血で汚れてしまった金の髪を優しく撫で、キキの体を持ち上げようと体勢を低くする。

 その時、後方から何かを蹴るような音がしたのを、彼女の耳は捉えた。


「フレッチャー!後ろ!」


 まだ寮の中に留まっている男子生徒の一人が、異常とも思える大きさで声を張り上げたのも束の間、間髪入れずに聞き覚えしかない奇怪な鳴き声が、周囲に響き渡る。


「プゴォォ!」


 即座にティナが振り返れば、そこには死骸となったダチョウ。つまり鳴き声の主はそちらではない。

 寮内の男子生徒達が気を利かせ、キキのそれには及ばないものの、今の状況においてはかなり有用な明かりを、ティナの元へ降り注がせる。


「そこね」


 少女は低い姿勢のまま、矢筒から一本矢を取り出し、暗闇の中で蠢く何かに向けて番えた。鳴き声自体は一回切りだったが、確実に足音はその方向から発生していた。

 そこへ向け、容赦なく放つ。


「ギッ!?」


 新手が現れたこと自体、かなり不可解ではある。

 ダチョウが街中にいることは特に気にすることでもないのだが、個人の所有物や宿に泊まる旅人のモノであれば、小屋か敷地内にでも繋がれるのが普通だ。貸し出しされる類のダチョウであれば、貸し出し中以外は基本的に牧場の中で暮らしている。

 それは彼らが温厚な生き物であるという、純然たる事実が存在しているからだ。


 しかし、ティナの前に現れた一羽目は明らかに温厚とはかけ離れていた。今では声一つ上げられない姿だが、先ほどまでは凶暴以外の言葉が当てはまりそうにないぐらい、異常な様子を見せていた。

 それが一回だけならば、まだ理解できる。そういう個体もいるだろうと、半ば無理矢理納得することは可能だ。


「ギィィ!」


 だが、それが二羽連続となると話が変わってくる。

 本来は温厚である生き物が、目を血走らせて暴れ回る。暴れ回るだけならまだしも、ハミルトン魔術学校の寮を狙っているのだ。

 何らかの意図を勘繰らずにはいられなかったが、やはりそこはティナの領分ではない。いつもの面々での頭脳労働担当は、キール・キリレンコしかいない。

 彼女はそう考えていた。


「アンタ達も加勢しなさいよ!女にいつまでも任せんな!」


 明かりを用意しているわけでも、何か行動をしているわけでもない単なる野次馬に怒声を飛ばし、ティナは再び薄暗い空間へ目を向けた。


「プゴ」


 それは相手も同じようで、結果として一人と一羽は真っ直ぐ睨み合うことになっていた。

 矢が刺さっている場所は胸元。急所からは外れたのか、それとも刺さっているが何らかの使命に突き動かされているのか。何れにしても、戦意は一切減衰していない様子である。

 その証拠に、ダチョウは再度その豪脚を地面に叩きつけて走り出した。


 再び長弓に矢を番え、ティナは狙いを定める。目標は迫り来る怪鳥。

射って避けるのを繰り返せば、何とかなるだろう。とにかく早くキキを治療してあげたい。

 そんなことを考えながら、矢を放とうとした瞬間、横合いから何かの駆ける音がした。それは昼過ぎから散々聞かされた人の声を伴い、ティナが目を向けるよりも先に地面を蹴った。


「ティナちゃんに」


 その人物が着ているのは、白を基調とした服と黒い袴のような何か。首には赤と黒の飾り布をつけている。


「手ぇ」


 髪の色は真っ黒。夜の闇に溶け込めるぐらいの黒さには、薄明かりの中でも分かる艶があった。

 けれど、その髪のある位置はティナの知る場所よりも、かなり高い位置にある。つまるところ、その人物は空中にいた。


「出すなぁ!」


 それは非常に美しい、飛び膝蹴りだった。

 もし避けられたり、普通に距離感を掴み損ねて外したりした場合は、かなりの傷を自分自身が負うことになってしまう。そんな捨て身とも思える技を、自称勇者の少女はダチョウに繰り出していた。


「プギッ!?」


 突如現れた少女に横っ面を膝蹴りされたダチョウは、何が起こったのか分からない様子で地面を転がされ、何度か頭と足の位置を入れ替えながら、最終的に土煙を上げながら停止した。

 その場面だけ切り取れば頭から転んだようにも見えるが、実際には顔を蹴り飛ばされたのだから、かなりの衝撃があったらしい。息は未だにあるようだったが、少なくともすぐさま起き上がるような気配を、ティナは感じ取れなかった。


「えっと、何?」


 ティナが咄嗟に口から出したのは、そんな間の抜けた言葉。

 見事顔面に直撃したから良かったものの、一歩間違えれば負傷者が二人に増えていただろう。

 彼女は目の前で起こった一部始終に目を白黒させながら、とりあえず構えていた弓をゆっくりと下へ向けた。


「サクラ?」

「そうです、桜です!」


 薄い胸をドンと叩き、自慢げに立っている少女は確かに桜である。

 ティナの記憶では、医者に暫くは眠っているだろうと言われていた人物でもある。最後に見たのも診療所の寝台の上。

 なぜここにいるのか。どうやって寮までやって来たのか。色々と聞きたいことはあったが、金の髪の少女は言葉を出すこともできず、ポカンとその姿を眺めていた。


「ティナちゃん、平気?」


 優しげに微笑むその姿は正しく救世主なのだが、吹き飛ばしたのは単なる家畜である。

 これがクマやオオカミならまだ勇者らしかったのだが、あくまでもダチョウ。格好良さは半減していた。


「アタシは平気だけど、キキが」


 あまりにも突然のことでオロオロとしていたものの、一番大事なことは忘れていない。

 すぐに足元の少年を指し示し、ティナは緊張感が薄れたせいで漏れ出した涙声でそう言った。


「キリレンコ君?」


 見えていなかったのか、桜はティナの示す方へ顔を向け、一瞬でその顔を青く染め上げた。


「ヤバくない?」

「ヤバいって何よ」


 いつもキキにするようにティナの右手が唸り、ベチと桜の臀部を引っ叩く。


「あ、でもそういう時の為にって神様がくれたのがあったような。ちょっと待ってて!」


 手でポンと鼓のような音を打ち鳴らし、桜は指を空中に突き出した。

その状態のまま、指を動かしていく。その様子を喫茶店で何度か見ているティナではあったが、相変わらず何をしているのかは分からなかった。

 何かの魔術なのだという曖昧な推測だけ立てて、桜の手元から視線を外し、意識が飛んだらしい新手のダチョウの方を見据える。


「……気味悪いわね」


 依然として地面の上に転がったままの巨体は、体が僅かに上下しているだけで、他に目立った動きはない。ほんの少し前まで暴れ回っていたとは思えないほど静かなのは、逆に安心しづらい状況だった。

 二度あることは三度あるという、現状においては最悪な諺をティナは知っている。それが実現するかはともかくとして、警戒をしておくに越したことはないと判断し、長弓を握り直す。

 そして視線を戻してみれば、まだ桜は空中に絵を描くように指を動かしていた。


「アンタは何してんのよ。そんなタラタラしてる暇あるなら、あの医者のところに走って行った方が早いじゃない」


 夜遅い時間。想い人の怪我。非常に神経を擦り減らされる戦闘。

どれか一つだけでも、かなりの気疲れを引き起こすのに、救援に訪れたのは勇者を名乗る胡散臭い異国の少女。

 正直なところ、ティナはダチョウなどさっさと押し付けて、街にある診療所の扉を殴りつけたかったのだが、何か策がありそうなので待っているだけなのだ。

 なのに、肝心の桜は未だに良く分からないことをしている。額に青筋が立つ寸前の状態で、ティナは少女に声を掛けた。


「もう行って良いかし」


 半ば怒声のようになってしまっていたが、既に声を出してしまった以上取り返しはつかない。ティナは仕方なくそのままの調子で続けようとしたのだが、すぐに桜の声によって遮られることになった。


「あった!」


 それまでのティナの言葉など聞こえてなかったのか、聞こえていた上でにこやかにしているのか。

 桜は笑顔を浮かべたまま、右手に握っている小瓶をティナの眼前に突き出した。


「神様が初回限定サービスだって言ってたやつ!次からは一本三十万円って言ってたけど、ここは使っとくべきだと思うし!」


 桜の良く分からない単語は一旦無視し、ティナはジトっとした視線を小瓶へと向ける。


「つまり、薬?」

「そう!」


 受け取れとばかりに突き出されるそれを渋々受け取り、飲み口の部分を摘んで小瓶に貼られている紙を見つめる。

 いくつか分からない単語があったので、ティナはとりあえずそれらを省いて読んでみることにした。


「徳用三本せっと。神様印の回復薬。飲んでも良し、振り掛けても良し。重症者には迷わず使いましょう……」


 どう見ても詐欺である。もし神様の下りが詐欺でなかったとしても、実際にどれだけの効果があるのか分かったものではない。


「信用して良いんでしょうね」


 当然の言葉だ。

 使用する対象はキキ。もし薬を使った結果、何か想像したくない類のことが起こったとして、助けることができるかどうかは分からない。


「して……良いと思うよ?悪い人、じゃなくて悪い神様じゃなかったし」


 嘘を吐くような人間ではない。それはティナも理解している。

 キキも同様の判断を下していることを知っているし、何より嘘を吐けるような人間ではないのは、その言動を見ていれば分かる。

 基本的には正直で、貴族であるアルベルトに対しても物怖じすることなく、ズケズケと本当のことを言うような人間だ。もし言動を虚言で飾り立てようものなら、すぐさま墓穴を掘る羽目になるのは目に見えている。


 体感時間は一刻ほど。実際には一瞬。少女は悩んだ末にその封を切った。


「……分かったわ」


 ボロボロのキキを二人掛かりで、男子生徒達の光が良く当たる場所に運んだ後、包帯の代わりに使っていた寝巻きの布を解き、そこに少量の薬を垂らす。

 たったそれだけのことしかしていないのに、二人の目には信じられない光景が映り込むことになった。


「嘘でしょ?」

「うわ、すご」


 流石に血痕が消え去ることはないものの、瓦礫が刺さっていたであろう惨い傷口が忽ち塞がっていくのである。

 高名な医者であったとしても、消毒して縫い合わせるぐらいの作業しかできないであろう傷口が、ほんの少しの薬で消え失せた。

 もはや怪奇現象にも思える治癒に目を丸くしたティナだったが、すぐに気を取り直して、同じように傷だらけになってしまっているキキの顔に残りの薬を振り掛けた、

 結果は同様。折れていたと思われる鼻も、青くなっていた打撲痕も見見うちに修復されていく。まるで時間が巻き戻されるように、元々そこには何もなかったとでも言うように、キキの顔は元の端正な顔立ちを取り戻していた。


「仕方ないから、アンタのこと、ちょっとは信用してあげるわ」

「ちょっとなの!?」


 泣きそうな顔をした桜は、納得していなさそうな顔をするティナの肩を掴み、揺さぶる。

 それでもティナは一切表情を崩すことなく、ブスッとした顔のまま至極当然のことを諭すように言った。


「考えてみなさいよ。こんなおかしな効能の薬を無償で渡されて、信用できると思う?」


 ピタッと揺さぶりが止んだ。


「確かに。ウチも突然そんなの渡されたら、逮捕されるようなヤツだと思っちゃうかも」


 目の前の少女が不機嫌そうな顔を隠そうともしない理由を理解し、桜は何度も頷いた。


「でしょ?だから、ちょっと」


 僅かに頬を赤く染め、ティナはそっぽを向く。

 その姿が無性に愛らしく、桜は肩を掴んでいた手を離し、更に距離を詰めた。


「でもちょっとは信用してくれるんだ!ありがとう!」


 そして腕をティナの背中へ回した。つまるところ、抱きついたのである。

 桜よりやや小柄であるせいで、若干されるがままになりつつあったものの、彼女は抱きついている少女の背を遠慮なく叩いた。


「まだ敵はいるんだから、緊張感持ちなさい!」

「そうだった」


 よほど苦しかったのか、解放されたティナは肩で息をしながら、まだ生きているはずのダチョウの方へ目を向ける。


「やっぱり、生きてるわよね」


 その美しい顔を歪め、少女は得物を再び手に取った。矢の残りは心許なかったが、まだ目を覚さないキキを置いて逃げるという選択肢は、彼女の中に存在していない。

 故に、決して背中は向けない。真っ直ぐ見据えるのみ。


「サクラ、前衛できる?」

「授業で柔道ぐらいはしたことあるけど、それで何とかなると思う?」

「知らないわよ」


 そこにいたのは、先ほどまで寝ていたはずの怪鳥。

 それまでと違っていたのは、今までのが遊戯か何かだったのかと勘違いしてしまうほどの、明確な敵意。

 それが向けられていた先は、死に絶えたダチョウが執拗に狙っていた少年でも、矢を胸元に捩じ込んだ少女でもなかった。


「プギョォォ!」

「え、ウチなの?」


 自分自身を指差し、首を傾げる黒髪の少女。

 桜という名の自称勇者へ向け、ソレは鳥とは思えない怪物のような咆哮を上げていたのだった。

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