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異変

 倒れた桜を運んだ病院にいたのは、長い白髪を頸のあたりで纏めた老医師。

 顔見知りでも、以前世話になったわけでもない医者なのだが、唐突にやって来た三人組にも邪険な扱いなどしなかった。逆に平時のそこらの医者よりも、キチンと応対してくれたことに二人が深く感謝したのは、言うまでもない。


「魔術を初めて使った子供に良く見られる症状じゃな」

「ああ、魔力酔いですか」


 魔力酔い。

 原因が本当に魔力なのかが分からない為、おそらくそうだろうという若干曖昧な理由から名付けられた通称である。それが広まってしまったので、医者達もそれを扱うようになってしまった。


「それ、アタシ達と同じぐらいの年でなるの?」

「普通はならないはず」


 二人が顔を見合わせ、コテンと首を傾げた。

 そう、普通はならないのだ。

 本来は魔術を初めて行使した幼児が、魔力を体内に循環させたことによる肉体の活性化のせいで、発熱等の体調不良を引き起こすという事象だと推測されているのが、魔力酔いと呼ばれる病だ。

 しかし、それは幼児特有のモノ。かなり甘く見積もっても、魔力酔いが起こるのは十歳前後までだ。桜が異国の少女とはいえ、そのような事態に陥るとは思えなかった。


「『色彩』の言う通りじゃ。基本的にはならん」

「ですよね」


 そしてそれは医者も共通の見解だったようで、彼ら二人と似たような顔をして同じように首を傾げる。


「じゃが、昼間に診察した子供とほとんど同じ症状じゃから、間違いないじゃろうよ」


 専門家である医者にそう言われれば、単なる魔術師の卵達には何も言えない。

 辛そうな様子ではないが、若干寝苦しそうに身体をモゾモゾと動かす桜を見遣り、少女は心配そうな表情を浮かべる。確かに寝台の上の少女に対して、キキ関連のことで多少の嫉妬心はある。

 あるにはあるのだが、だからといって心配をしない理由にはならない。根は優しい少女には、むしろ心配をしない方が難しい。相手がアルベルトならばともかく、相手は少しではあっても仲良く話した少女なのだから。


「大丈夫じゃよ。これぐらいなら、別に重症にはならん」


 そんな横顔を見て、老医師は少し意地悪そうに笑う。それだけならまだしも、キキにも分かるぐらいに揶揄うような声色だったせいで、やや短気かつ気の強いティナの導火線に火が点いた。


「知ってるわよ。医者だからって何なのよ」


 しかし、それで理性という枷から解き放たれるわけではない。暴力行為などに及ぶのではなく、単純に不満を露わにするだけだ。

 フンと鼻を鳴らし、腕を組み、そっぽを向く。ティナは流れるような動きでそれらを行い、横で見ていたキキは思わず口を手で抑えた。

 若干調子が落ちているものの、いつも通りのティナがいたからだ。


「何よ!」

「な、何でもないよ。うん、何でもない」


 どこかへ向いていたはずの顔がグルンと自分の方へ向いたのを確認すると、キキは咄嗟に両手を前に突き出した。

 ただ、それで先ほどまで浮かべていた笑みが完全に消えるはずもない。最終的にティナはムッとした表情のまま、キキの腕をペチリと叩いた。

 そんな様子を見て一頻り笑った後、医者は再び口を開く。声色はもちろん、揶揄うように。


「それにしても、『色彩』は女に人気みたいじゃの」

「別に人気じゃないですよ」


 その言葉を聞いた瞬間、元より若干不機嫌そうだった少女の顔が更に歪んだ。

 何を言っているんだ、頭がおかしいのか。言葉に表すなら、そのあたりになるだろう。決して口に出すことはせず、ティナは苦虫を噛み潰したような顔を両手で覆い隠し、唾液と共に喉元までやってきていた語群を飲み干した。


「一人は成り行き」


 そう言って、キキはピシッと揃えた四本指の先端を桜に向ける。

 それに反応するように身を捩るものの、すぐにクタリとなってしまい、やはり目が覚める様子はない。


「そしてもう一人は友人です」


 同じようにされ、ティナが体をビクリとさせる。そして瞬きを素早く三度繰り返し、頭の中でキキの言葉を反芻した。言葉自体に何か問題があるわけではない。

 貶されたわけでもなければ、友人ですらないと言われたわけでもないのだから、特に問題はないのだ。けれど、彼女が抱いている感情の大部分は友愛ではないことが、現状における若干の問題だ。

 残念ながら、それにキキのみが気づいていない。ピノも気づいているし、初対面の桜にも気づかれている。ついでに言えば、ティナの学友の大半にも気づかれている。


「ティナ?」


 眉間に皺を寄せるティナの顔を、キキが覗き込んだ。

 不機嫌とも違う、何とも言えない表情。ここ最近、少年が良く目にするティナの表情の一つだ。


「何でもないわよ……でも」


 寂しそうに笑いながら、ティナは続ける。


「そう、そうね。うん、ただの友達だから」


 そんなティナを見て、少年は焦った。


「いや、やっぱり友人じゃないですね」


 そして咄嗟に切り替える。

 友人だと特別感がないから、もう一つ上の段階に置こう。友人という括りではやはり普通過ぎるのだ。

 色々と多感な少女の気持ちを察したつもりで、キキは右手の人差し指をピンと天井へ向けた。


「親友です。掛け替えのない、大事な親友です」


 良いことを言った。

 そう言わんばかりに腕を組んで格好つけているキキの姿は、確かにその姿だけ見れば非常に絵になる。

 しかしながら、そうではない。ティナが欲しかった言葉は、まず友という範疇にないのだ。案の定、油断しているキキの背中に張り手が飛んできた。


「僕が何かしたかい!?」

「何もしてないのが問題なのよ!」


 更に不機嫌になった少女に対して、どう対処すべきか分からないキキは防戦一方。

 悪気がないのは分かっているティナも、上げて落とすのは流石に見過ごせなかった。怒髪天を衝くとまではいかないが、元々キリリとした目元が若干酷いことになっている。


「……ゴホン」


 二人の世界に雑音が交じった。

 音の発生源は、ずっと部屋の中にいた老医師。襟を掴まれて揺さぶられていたキキと、我に返ったティナがそちらの方へ視線を向ければ、医師は同じように二人へ視線を送っていた。

 無言で非難するような鋭い眼光を浴びせられ、二人は白い肌を赤く染める。


「一応、ここには病人がおるからな?」

「すみませんでした」


 声こそ出さなかったティナも、キキに合わせて腰を直角に曲げて頭を下げた。金色の頭が二つ垂れるのを視界に収めると、老医師は薄い頭に手を持っていき、ガシガシと痛めつけるように掻く。

 そして視線は再び病人の方へ。


「……それにしても成り行きのう。どういう経緯じゃ?ここらで黒髪なんぞ、ここ十年で見た記憶がないんじゃが」


 それは医者だけではない。キキとティナも全く同じ感想を抱いているし、野次馬達も異国の少女や奴隷などと勘違いしていたのだから、それはオーデマリ全体での共通の感想と言っても差し支えないだろう。

 それこそ、異国の人間と接することのある貴族や王族ぐらいの人間にでもならなければ、珍しいという感想がなくなることはないだろう。


「クマノミ遺跡の近くで迷子になってたので、仕方なく」

「クマノミ?あんな何もない場所で何しとったんじゃ、この子は」

「さぁ」


 嘘を交えながら、キキは態とらしく首を傾げた。

 それを医者は不審そうに見つめる。それでもキキの態度は一切変わらない。白い髪の目立つ頭から視線を外すことなく、必死に考え込むような素振りを見せ、何一つ知らないような振る舞いを続けている。

 それは自分の保身の為だけでなく、桜という素性の分からない少女のことを思っての行動だった。確かに第一はキキ自身の安全だが、常識すら知らない少女のことを信用できない人間になど喋らない。

 それぐらいの気遣いはできる男なのだ。


「……とりあえず、一晩は寝かせておいた方が良いと思うぞ」


 そんなキキの内心は当然分からなかったが、噂に聞く『色彩』が隠したいのであれば、深く聞くべきではないと判断した老人は、ため息を吐いた後にそう言った。


「ここで?」

「あまり移動させるのは良くないのう」


 確かに桜は目覚める気配はない。身を捩ったり、表情を僅かに歪ませたりするぐらいで、目が開くような兆候はない。

 単なる学生には分からないが、それなりの年季が入っていそうな医者がそう言うなら、おそらくそうなのだろう。そうキキが判断し、名前も知らない老医師に委ねようと思った矢先、ティナがとんでもないことを口走る。


「でも、ここに置いていくのもどうかって感じよね。体触ったり、無理矢理そういうことする可能性がないわけじゃないでしょ」


 相手が貴族の類であれば、ティナは既にこの世にいなかっただろう。

 最悪の場合、キキ諸共斬首されていた可能性もある。かなり無礼なことを言った相手が医者だったから、どうにか助かっているだけである。

 血の気が多い医者であれば、医療器具でどこかを刺されていてもおかしくない。


「お嬢ちゃん、ワシはそこまで盛ってはおらんよ」


 幸いなのは、同じ医者でも比較的穏やかな人間だったことだ。心の奥底でどう思っているかはともかく、顔全体は笑顔で取り繕ってくれていることに、キキは内心で深々と頭を下げた。


「ティナ、失礼だよ」

「医者の半分ぐらいはそういうの目的だって、父さんが言ってたもの」


 諌めようにも、幼い頃に刷り込まれたらしいことを上塗りすることは、一年以上の付き合いであるキキにもかなり難しい。

 そしてそれを助長させるかのような発言を、他ならない老医師がしてしまった。


「それは偏見じゃ。ワシの見立てだと七割は超えとる」

「余計酷いじゃない!」


 折角落ち着いていた炎が再び燃え上がっているのを理解し、キキは天井を眺めることにした。

 流石に取っ組み合いに発展することはないが、一瞬で信用をかなり失ってしまった老医師の横を通り抜けようと、ティナは体を左右に振って牽制している。

 桜の体に何らかの被害が出る前に、何とか回収しようとしているらしい。


「何やってんだか」


 呆れたように呟き、キキは懐に手を突っ込む。

 通りでやったように閃光を撒き散らせば、十中八九二人は大人しくなるだろう。あまりやるのは気が進まないが、自分で大人しくするように注意してきた老人が暴れている様を見せつけられるのは、妙に腹立たしかった。

 そのまま杖の柄を掴み、引き摺り出そうとした瞬間、今なお医者と睨み合っている少女の首がグルリとキキの方へ向いた。


「アタシが責任持って寮に連れて帰るわ。キキは帰って課題でもしてなさいよ」


 創作の類であれば、ティナがこのまま死ぬ場面である。

 流石に医者相手にそんなことになるとは思えなかったが、キキの思考回路が導き出したのは、お約束に近い文言だった。


「女の子二人っていうのも危ないし、僕が残るよ」


 得物を持っているならともかく、今のティナは丸腰である。矢の一本でもあれば、そこらの男など一瞬で息の根を止めることができるのはキキも知っているが、それすらない状態では少し腕の立つ少女であることに変わりはない。

 それに加えて、未だに彼女は外出用の洒落た袴姿だ。本当に医者に襲い掛かられたとして、絶対に勝てるという推測を立てるのは、少年にはかなり厳しかったのである。


「キキがいるならアタシも残るわ」


 だが、キキがティナを心配するのと同様、彼女も同じような心境にある。

 結局、それから二つ三つの言葉を交わすものの、議論は平行線を辿ることになった。互いに互いを心配するせいで、何一つ話が発展することがなかったのだ。


「なら僕はここで課題を」

「ワシの自宅で勝手に屯するでない」


 そんな二人の会話に割って入ったのは、またもや老医師だった。

 それに対してティナは不機嫌そうな態度を示しつつも、当然の対応でもあるので何も言えずに頬を軽く膨らませるだけに留まる。


「じゃあどうしろと」

「少しは医者を信用せい」


 呆れたように首を振る老人に対し、少女が再び牙を剥く。


「アンタが信用できないようなこと言い始めたんでしょ」

「冗談も通じんのかの?」


 アルベルトほどではないが、ティナと老人の相性がかなり悪いことを今更ながら理解した少年は、二人の間に物理的に割って入ることにした。

 脅しも兼ねて杖を片手にズイッと体を滑り込ませると、少女を背に隠すように老人に相対する。


「初対面の人間に冗談は通じないですよ」

「ワシはお前さんのことは良く知っとるぞ」

「不本意ながら、かなりの有名人ですからね」

「それは一方的に知ってるだけじゃない。しかもアタシのことは知らないみたいだし」


 それでも食って掛かろうとするティナに向け、キキは視線を飛ばす。

 鋭くなった緑色の瞳が語ろうとすることを何となく察し、少女は大人しく一歩引いた。


「流石にそんな医者の恥のようなことはせんから、早う出ていけ。遅くとも明日の昼には起きるじゃろうよ」


 火事の際に桶を手渡しするように、少年は医者からの言葉を目で少女に送った。

 既に少年の背から少し離れていたティナは、まだ言いたかったことを軒並み飲み込み、諦めと共に絞り出すように言葉を紡ぎ出す。


「……分かったわ」


 渋々。譲歩を重ねて漸く行なったであろう納得の言葉を聞き、キキはティナに向けて小さく笑みを浮かべる。

 それを皮切りに漂い始めていた剣呑な雰囲気は霧散し、病室には元の明るい空気が舞い戻った。


「じゃあ、任せますね」


 そう言って少年がさっさと部屋を出るのを、少女は慌てて手提げ鞄を引っ掴んだ。


「じゃあの」


 呑気に手を振る老人に、釘刺しも兼ねてキッと睨みつけ、もう姿の見えなくなっているキキの後を大急ぎで追いかける。

 身長差は大してないので歩幅も大きな差はないが、袴と穿袴ではそれなりに差が出てしまうのだ。ティナは膝の上あたりの布を握り、なるべく音は立てないように玄関へ向かう。

 そこでは既にキキが手に短杖を握っており、その先には小さな灯りが灯っていた。


「待ってくれても良いじゃない」


 そんな少年へティナがいつもの調子で声を掛ければ、返ってきたのはやや強張った彼の声だった。


「折角サクラのことを診てくれたのに、噛みつき過ぎだよ。その癖はどうにかしなきゃ」


 言っていることは至極真っ当である。

 自分の子供っぽい部分も、それを治さなければならない年齢に差し掛かっていることも、そしてキキがいるから甘えている部分もあるというのも、全て多かれ少なかれ自覚しているからこそ、ティナは反論することができなかったし、そもそもしようとすら思わなかった。


「……うん」


 だから大人しく頷き、いつもの勝ち気な反応は鳴りを潜め、しおらしく返事をした。


「頑張ろうね」

「頑張るわ」


 若干調子を戻し、破顔しながら行われた返答に満足げに頷き、キキは診療所の扉を開く。外は日の光をほとんど失っており、通りを照らしているのは店や屋敷から漏れ出る魔力灯の光のみ。

 少年は手の中の光量を増やし、まず足元を照らした。そして石畳に向けた目を凝らし、特に何もないことを確認すると、ティナの手首を優しく掴む。


「アンタも、そういうのやめ……いや、やめなくて良いわ。何でもない」

「何さ」

「何でもないってば」


 怒っているのか照れているのか、将又その両方か。

 何にせよ、顔を赤くしたティナに脇腹を突かれながら、キキは夜道を先導し始めた。


 カツカツと石畳を蹴る音が暫く響き、最終的に二人が辿り着いたのは学生寮。大きな建物が敷地内に二つ鎮座しており、西側が女子寮、東側が男子寮となっている。ティナもキキも寮生である為、オーデマリ内で帰る場所となると第一に挙げられるのは学生寮だ。ピノは実家から通っているので、度々説教から逃れる為に泊まることはあっても、寮生ではない。

 そこまで来れば、もう先導する必要もない。キキが手を離し、ティナが名残惜しそうに手を空中で泳がせる。

 そのまま別れようと少年が一歩踏み出すと同時に、背中に声が掛かった。


「大丈夫だと思う?」


 桜のことか。それとも医者のことか。

 質問に対する捉え方は二つある。正直なところ、キキは前者について心配自体はしていたが、後者に対する妙な信頼を統合した結果、心配が掻き消されてしまっていた。


「医師としての誇りがあるみたいだったし、大丈夫だよ。もし誇りがない医者なら、僕が名前を名乗った瞬間に媚び諂ってるさ。彼は少しふざけていたけど、医者としての立ち位置は崩さなかった。あの状況では明確に自分が上だって理解している、キチンとした医者だったよ」


 キョトンと首を傾げる少女に向けて薄く笑い、背中越しに少年は手を振った。

 そのまま二人は別れ、男女それぞれの寮への帰路に着く。

 短い道中で特に何か大きな問題が起こることはなく、明日はゆっくりと過ごそうとキキは思っていた。

 しかし、太陽が影も形もない深夜、その予定は完全に覆されることになる。







 人が寝静まる夜、寝巻き姿のキキは筆を片手に、机の前でボーッと虚空を眺めていた。

 他人には見えないものが見える等の特異な性質があるのではなく、本当にボーッとしている。だが、何も考えていないわけではない。ただ一つ、昨日から彼を悩ませていることに腐心していたのである。


「どうしよっかな」


 机の上に置かれているのは、数十枚の紙。そのうちの一枚だけデカデカと『クマノミ遺跡と魔術の関連性 著:キール・キリレンコ』と書かれているが、それ以外は落書きの一つも書かれていない状態である。

 それらが卓上用の小さな魔力灯で照らされており、その進行の遅さが余計に目立つことになっていた。


「予定通り引き伸ばし作戦を決行する?でも、バレたらティナに怒られそうだし……」


 ここで教員であるトンプソンより先に、親友の少女の名が出てくる時点で、彼の中の課題に対する優先度は伺い知れる。

 適当な報告書を書き、書き直しを命じられれば、再度適当な報告者を書き、また書き直し。それがキキの考えていた引き伸ばし作戦の概要だ。

 それが人としてどうかという点はさておき、課題を迅速に終わらせるという目標自体は達成できる。


「真面目に書くとしても、書くことないんだよね」


 未だに診療所の寝台で身を捩っているであろう桜との出会いを書けば、キキと桜は勇者を信仰する過激派集団に、容赦なく滅多刺しにされる可能性がある。

 それだけは避けるべきだ。キキ自身だけでなく、桜という右も左も分からない少女の為にも絶対にやるべきではない。


「そもそもティナは何をするなとも言ってないし、一回ぐらい引き伸ばしても……」


 喫茶店を出てすぐの会話を思い返しつつ、キキは手の中で筆をクルリと回した。


「よし、引き伸ばそう」


 学生として最悪級の決断をした瞬間、湯呑みの砕け散るような音がキキの部屋に響き渡った。

 あまりにも突然のことに驚き、キキは床に筆を放り投げた挙句、その上に転がり落ちる羽目になった。背中の変な部分に筆がめり込んだせいで変な声を上げながらも、キキは音の発生源を睨みつける。

 そこは食器棚ではなく、窓。不純物は多いが、それでも十分に高価な硝子を利用している部屋の明かり取りである。

 窓掛けによってどのようなことになっているのかは詳しく分からなかったが、その下を見れば硝子の欠片が大量に散らばっていた。キキの部屋は二階の端。そのような事態を発生させるとなると、飛び道具の類を使うか、魔術を行使するぐらいしか方法はない。


「アルベルトか!?」


 夕方の仕返しに石でも部屋に投げ込んだのか。キキの頭が導き出した原因はそんなところだったが、それは点で的外れな発想であることにすぐ気づかされた。


「……鳥の足?」


 それは卓上用の小さな魔力灯と、窓掛けの合わせ技で生じている影。

その黒い絵は、キキが実家で度々目にする鳥の脚部に良く似ていた。問題はその大きさが尋常ではないことだろう。

 何の前触れもなく、そんな異常事態に襲われる経験など大抵の人間にはない。それはキキも同様だ。

 少年は杖こそ咄嗟に手に取ったものの、どう対処すべきか頭が回らず、背中を湿らせたまま呆然としていた。そんな彼の耳に、聞き覚えのある鳴き声が突き刺さった。


「プゴォ!」


 奇声にも思えるそれが響くと共に、再度硝子が砕け散る。

 今度は容赦なく窓掛けも巻き込み、床に転がったままのキキの上に硝子が撒き散らされた。

 限界を留めていない窓枠から首を突っ込んできたのは、様子のおかしいダチョウだった。長い首に極彩色の羽毛、そして窓を簡単に蹴破るだけの脚力。間違ってもニワトリやカラスではない。

 狂ったように叫びながら窓を潜り抜けようとするその姿は、完全に常軌を逸していた。


「ダチョウがどうしてこんなとこにいるんだ」


 幸いなことに小さな切り傷ができる程度で済んだが、追撃がないとも限らない。

 キキは急いで外套だけ引っ掴み、内側が墨で汚れるのも気にせずに袖を通して部屋の扉を蹴り開ける。

 それと同時に盛大な破壊音が廊下にまで響き渡り、窓が完全にその役目を放棄させられたことは、後ろに目がついていないキキでも簡単に理解できた。


「プギィ!」

「殺意が高過ぎるんじゃないかな!」


 一瞬だけ少年が振り返ると、先ほどと同じように扉から長い首と頭だけを出しているダチョウの姿があった。それは見慣れた姿形ではあるものの、目が明らかにおかしくなっている。

 元々鳥の目というのは若干の不気味さを内包しているものだが、彼の部屋から頭を出しているダチョウのそれは、普段見掛けるダチョウのモノよりも数段狂っていた。

 ギョロギョロと飛び出しそうなほど動き回り、黒目は一体全体どこを見ているのか分からない状態。加えて充血しており、少しでも触れれば破裂しそうだった。


「……病気?いや、そんなものがあるなら、昔から知られてるはず……」


 体が引っ掛かって上手く動けないようだが、キキを追うことをやめるつまりはないらしく、ダチョウは部屋の内側の壁を蹴り飛ばしている。

 魔術師用の寮である為、それなりに堅牢な造りであることはキキも知っていたが、それが呑気に観察している理由にはならない。

 相手が通常のダチョウならともかく、キキの部屋にいるのは明らかに狂気に塗れた存在だ。

 壁ぐらいなら軽く破壊してしまう。キキは直感でそれを理解していた。


「おいキリレンコ!部屋にダチョウなんて連れ込んでんじゃねぇ!」

「連れ込んだわけじゃない!黙って部屋にいろ!死にたいのか!」


 騒ぎで何人か廊下に出てきていた人間を、普段は行わないような強い口調でどうにか部屋に戻しながら、キキは思考する。


「どこのダチョウが、どうして僕の部屋に?」


 キキは少しずつ距離を取っているが、ダチョウの顔は未だに彼の方を向いていた。視線自体は定まっていないが、顔は確実にキキの方を捉えている。

 ついでに言えば、既にキキの部屋の扉、そしてその周囲は罅が入り始めているのが遠目にも見えた。それ即ち人間と脚力特化型鳥類の追いかけっこが、もうすぐハミルトン魔術学校の男子寮内で始まるということだ。

 更に野暮なことを言えば、敗者は競技を見る前に理解できる。


「いや、まずは無力化だ。このままだとマズい」


 すぐさま襲ってきた理由を推測することを止め、キキは短杖を強く握り締める。

 ダチョウは本来そこまで危なくない生き物だが、本気を出せば人など軽く殺せる。それは周知の事実であり、キキの言うことを他の生徒が素直に聞いた要因の一つになっていた。


「色の魔術……いや、ダチョウに効くのか?」


 自分の切れる手札を整理しながら、『色彩』はとりあえず廊下に色を撒き散らし始める。

 赤、白、黄色、青、緑。思いつく限りの色で縞柄を通路に作り上げてみるものの、キキの顔色は良くなかった。魔力を使い過ぎて倒れそうだとか、背中を依然として湿らせている墨が気色悪いとか、そういう単純な話ではない。


「意味、あるのかな」


 相手は動物。しかも落ち着いている状態ならまだしも、明らかに狂ってしまっている。

 理性のある人間相手ならば、多少見慣れない色を見せるだけでも怖気づく。理性のない獣でも、本能で何かおかしなことが起こっていることを理解できる。

 しかし、本能すら機能しているかどうか怪しい状態の、脚力に特化したダチョウを相手にキキの十八番が通用するかどうかは非常に曖昧だった。


「やってみるしかないよね……」


 諦めて悪足掻きを続けていると、先ほどのモノとは比べものにならない大きさの破壊音が廊下に響いた。

 当然、その音源はキキの部屋の扉である。そこからたった今飛び出してきたダチョウは、開きっぱなしの嘴の隙間から涎を撒き散らしながら、直線上にいるキキの元へ一目散に突貫していく。

 それの対処方法など、キキは知らない。怒り狂ったダチョウの突撃を回避する方法を知っている人間がいるならば、金貨数十枚を消費してでも、その人間をすぐさまこの場に呼び寄せたいぐらいだった。

 しかし、そんなことができるはずもない。


「プゴォォ!」

「やっぱりか」


 色の境界線など知ったことか。そう言わんばかりに突っ込んでくる巨体を、少年は舌打ちしながら睨みつける。

 キキの予想通り、お得意の色の魔術は狂った生き物には通用していなかった。奥の手もないわけではないが、色の魔術の派生系である以上、それが通用するという予測は、流石の二つ名持ちの魔術師でも立てづらかった。


「最っ悪だ!」


 奇声を上げながら突っ込んできたダチョウを紙一重で回避し、体勢を無理矢理立て直す。

 壁が砕け、近くの部屋にいるらしい生徒の悲鳴がキキの耳に入ってきた。

 そんな阿鼻叫喚の人間の現状などお構いなしに、ダチョウは発達した首と脚部を誇示するかのように暴れ回っている。

 その背に向け、キキは周囲に散らばっていた木片を放り投げた。なるべく高く、放物線を描くように放り投げ、全速力でその場を離脱した。


「今日は厄日だな、サクラのこともそうだけど、寝る前にこれって……」


 曲がり角に身を隠し、ほんの一瞬、息を整える。

 状況を確認する為に頭を半分ほど壁から出すと、そこでは木片のせいでキキという目標を見失ったダチョウが、子供のモノとは比べるのも烏滸がましいぐらいの地団駄を踏んで暴れていた。近くには怯えて動けなくなっている寮生もいるというのに、それには見向きもせずキキがいたはずの場所へ蹴りを叩き込んでいる。


「どうする、キール・キリレンコ。勝たなくても良い、勝てる人間を探せ」


 顔の前で手を合わせ、目を瞑る。

 暗闇に浮かび上がってきたのは、赤毛の少年と金の髪をウマの尾のように縛った少女。勝てなくはないかもしれないが、ピノが近くにいないのが致命的だった。

 ピノ一人ならばまだ良かったが、ティナ一人に狂ったダチョウを相手取らせるという選択肢は、キキの脳内には存在していない。

そうなると、彼が頼れる人間はほぼゼロに近い。ハミルトン魔術学校の教員であれば、まだ可能性はあるかもしれない。だが、学校まではそれなりの距離がある上、教員は既に学校から帰っている可能性が高い。

 そんな状況で一縷の望みに掛け、ほぼ確実に追いつかれるであろう距離を走り抜ける自信がキキにはなかった。


「他、他には」


 ふと、少年の頭の中に勇者という言葉が浮かんだ。

 それは御伽話の存在だが、彼は一人だけその称号を名乗っている人間に心当たりがあった。


「サクラが?」


 食べかけの大福が落下するのを防ぐ為に全力で動き回る姿は、キキの知っている勇者とは大きく離れた存在だ。

 罷り間違って本当に勇者だったとしても、その少女は現在診療所で寝ている真っ只中。もし目覚めていたとしても、寮までの道を知らない桜がキキの住んでいる寮までやって来れるはずもない。


「仕方ないか」


 誰にも聞こえないぐらいの声量で呟き、キキは再び暴れているダチョウの視界に姿を現した。片手には短杖、もう片方の手には騒動によってそこら中に飛び散っている木片。

 逃げ出しても誰も文句は言わない状況下で、キキは向き合うことを選択した。あまり人前で目立ちたくないという考えが一朝一夕で変わるはずもなく、彼は今でもその考えと思ったことは基本的に口に出す姿勢を貫いている。


 そんな彼が敢えて目立つ選択をしたのは、何も英雄願望があるからではない。単純にこれ以上人に迷惑を掛けて、余計に目立ちたくないという、相変わらずの思考回路が導き出した最善策だったからだ。


「僕は勇者じゃない。それに約束もあるから、君を楽にすることはできない」


 キキを見失って暴れているダチョウへ向けて木片を放り投げ、それが当たるのを緑色の瞳で見届ける。

 空気による抵抗で大した衝撃も起こせなかったが、別に木片で致命傷を負わせようとは考えていない。それで致命傷を負わせられるのであれば、キキはここまで苦労していない。


「やっぱり、黙らせるにはこれが一番だ」


 短杖を指先でクルクルと回転させ、キキはスッとそれを正面に構えた。

 その先にいるのは、たった今木片がぶつかったことでキキの姿を再認識した、見るからに狂ってしまった哀れなダチョウ。


「プギィ!」

「こんな命懸けの作戦、したくないんだけどな」


 キキにとって幸運なのは、ダチョウが蹴りをしてくる気配がないことだろう。その代わりとでも言うべきか、巨体による突進が行われようとしている。

 しかしながら、やはり突進の方が蹴りよりもマシだとキキは考えていた。

 それは単純な脚力に加えて、それなりに鋭利な爪。その二つだけで、体のどこかに一発入れば致命傷となり得る。その上、そのまま力任せに蹴り飛ばされた場合、余計に酷い怪我を負うのは目に見えている。

 それに対して突進はどうだろうか。かなりの筋肉がついた巨体が突っ込んでくるのは間違いないが、その体の大半は羽毛に包まれている。衝突した瞬間の衝撃は大分緩和されるのではないだろうか。

 実際にどうかはともかくとして、キキはそう考えた。


 だから彼は人一人を軽く殺せそうな脚部で、木製の床板がささくれだらけになるほど引っ掻いているダチョウの正面に立ち、杖を構えることができたのである。


「ほら、来なよ」


 本来の知性が多少ある状態のダチョウならともかく、今現在キキの前にいるのは野獣よりも酷い状態のダチョウだ。実際に彼の言葉を理解したかどうかは不明だが、十中八九理解はできていなかっただろう。

 しかし、示し合わせたかのように。ダチョウは首が取れそうな勢いで、キキを容赦なく叩き潰そうと突貫した。


「上手くいけよ……」


 願うような呟きと共に、構えられていた杖の先端が光を放つ。

 それが放たれる直前に目を瞑っていたキキには特に被害はなかったが、彼の直線上にいた猛獣は、血走っていたはずの両目を隠すように瞼を下ろし、その巨大な足で床を何度も何度も踏みつけていた。


「何とか、なってないか」


 一時的な無力化自体はできたが、いつまでそれが上手くいくかは使い慣れているキキですら分からない。

 相手が人間ならば、まだ軽く予測できたかもしれないが、相手はダチョウである。本来は温厚であり、使う機会もない魔術を利用したのだから、その効力がどれぐらいになるかは、術者本人も全くもって予想がつかなかった。


 そもそも、ダチョウは依然として元気良く暴れている。キキには目の前の巨鳥の目が機能不全を起こしているように見えるが、目が見えなくなったとて危険性は大して変わらない。

 それなりの大きさであるダチョウは、その場で体をジタバタさせるだけでもかなりの被害を生むことができる。

 羽を撒き散らしながら、その体を左右の壁にぶつける姿は非常に痛ましいのだが、それを直接どうにかする手段をキキは持ち合わせていない。

 喉を木片で突き刺して息の根を止めようにも、近寄れば一瞬で肉片にされることは目に見えているのだから、態々それをしようとも思えなかった。


「プゴォォ!!」


 明らかに怒気が強くなっているダチョウ。そしてその周りを杖を片手にクルクルと歩き回るキキ。

 その二つの奇妙な存在を遠目で見守る、ハミルトン魔術学校の寮生達。


「キリレンコ、もう大丈夫なのか?」

「分からないから、部屋に戻っとくことを勧めるよ」

「分かった」


 顔に見覚えはあるが、名前の分からない大柄な少年と言葉を交わし、キキは腕を組む。

 できることなら、寮生達にダチョウの後処理を頼みたいところではあったが、自分ができないからと言って他人に任せるのはどうかというのもあったし、原因も分からないままダチョウを殺すのもどうかというのもあった。

 だが、キキが目の前のダチョウを調べたところで原因が解明できるわけでもない。そうなると、第一にやるべきことは現在も暴れる巨鳥の拘束だ。自分はその手段を持ち合わせていないが、どこかの部屋に鎖や紐ぐらいあるだろう。

 そんなことを考えながら、先ほどの少年を探そうと視線をダチョウから外した瞬間。


  キキの体が宙を舞った。


 巨鳥の誇る豪脚で背中を蹴りつけられ、その勢いのまま顔から壁に激突する。鼻血やら何やらで酷いことになっているが、そんなことを気にする余裕がキキにはなかった。

 動かすだけでも激痛の走る体に鞭を打ち、震える膝でどうにか立ち上がるも、既に突き匙のような形の足が、彼の眼前に迫ってきていた。


「まずっ」


 自身の失策を嘆こうとして口を開くも、キキがそれを最後まで声に出すことはできない。

 首の骨が折れるのではないかという勢いで再度壁に叩きつけられ、呼吸すら困難な状態に追い込まれた。しかし、抵抗する手段はない。魔術師の卵は都合良く刃物など持ち合わせていないし、爆発物を常に懐に忍ばせているわけでもない。

 これが昼間ならまだしも、最悪なことに寝るかどうかという時間帯。加えて急襲されたということもあり、杖以外の得物など手に取る暇もなかった。


「……殺したくは、ないんだけどな」


 壁と足に挟まれながら、少年はボソリと口を動かした。

 手もろくに動かせないが、握り締めていた杖だけは手放していない。大鋸屑や血に塗れた足の裏で覆われていた視界に、光が一瞬だけ戻ってくるも、それは本当に一瞬だけ。しかも視界を取り戻したにも関わらず、負傷していることもあって、それはいつもの半分程度しかなかった。

 すぐにもう一度、勢い良く脚部が飛んでくるのをどうにか視認し、キキは反射的に手の中の杖に魔力を流し込んだ。

 先ほどの光とは比にならないぐらいの、異常なまでの魔力を杖に注ぎ込み、それと同時に僅かばかりの望みに命を賭けて頭を思い切り下げる。


「これから嫌いなモノを聞かれたら、ダチョウって答えることにするよ」


 小さく言い終わるや否や、杖の先から閃光が走り出した。

 それは落雷のような音もなく、既に潰れかけていたダチョウの目を完全に潰す。


「ギィィィ!」


 何が起こったのか分からず、再び狂わされた世界の中で原因となったであろう少年を蹴り飛ばそうとするものの、もう二度とその視界が彼を映すことはない。

 故に、ダチョウは我武者羅に足を振るった。その豪脚は見事に前方にあった壁を砕いたものの、残念ながら意識を失って転がっているキキには届かない。加えて、巨体がなりふり構わず暴れ回ったことと壁という支えが壊されたことで、寮の一角が崩壊を始めた。


 同じ寮生であるキキをどうにかして助けようと、何人かが魔術を行使したり、手を差し伸べたりしようとしたものの、時既に遅し。誰かが手を取ることも、意識のないキキの方が誰かの手を取ることもできず、一人と一羽は大量の瓦礫と共に落ちていくのだった。

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