不穏で不安
結局、桜は信用されなかった。
正確には、信用できなかった。そう表現するべきだろう。手書きとは誰も思わないぐらい、綺麗な文字が綺麗に並んだ本。キキ達の知らない謎の技術と、謎の部品で作られた板。魔術学校の制服とは明らかに異なる構造の制服に、嘘か本当か分からない知識の数々。
キキとティナがそれらを他国からの盗品であるとか、単なる嘘だと決めつけたわけではなく、単純にそれらだけで勇者だと判断ができなかったというだけだ。つまり、そもそも信用する基準がなかったのにそういう話を始めてしまったということ。残念ながら、それまでの全てが時間の浪費ということになる。
二人の知る勇者は、まだ人間が文明を生み出す前。森人や海人のような区別などがないぐらい、人間が人間であったかどうかも怪しいぐらい、遥か昔に現れた存在だ。
当時の人類を脅かしていた魔王を討伐し、キキ達が当たり前だと考えている文化の礎を築いたのも、その勇者だと言われている。それらの非常に大きな功績を打ち立てたこともあり、現在では子供が寝る前に聞く御伽噺の定番となった存在。
その御伽噺に登場し、現在でも残っているモノの代表例が、キキと桜が出会ったクマノミ遺跡だ。語る人や文献によって内部で起こったことは異なるが、何故か絶対に登場する場所。そのおかげとでも言うべきか、中には何もないのに、勇者に関する研究を行う人々からは神聖視されている。
だからこそ、キキは怯えた。壊してしまったかもしれない。新発見をしてしまったかもしれない。どちらも目立ちたくないキキとしては、かなりの痛手だったからだ。
とにもかくにも、勇者とは御伽噺の世界の英雄を指す単語なのである。
そんな称号を真面目に騙るのが、ごっこ遊びをする年齢の子供でもなく、精神に何らかの問題を抱えているわけでもなさそうな少女。
色々とおかしいと思いながらも、勇者を勇者と断定するモノもないのだから、二人としては決断を先延ばしにするしかなかったのだ。
「嘘じゃないのに……」
肩を落とした少女は、土産に買った大福を片手にそんなことを呟いていた。
周囲が暗くなり始めたこともあり、喫茶店からは既に出ているのだが、未だに桜は宿を探していない。
宿は深夜でもない限りは見つかるという理由もあるのだが、それ以前に二人の信用が得られるまで離れたくないという理由が大きいようで、ずっと似たようなことを譫言のように繰り返していた。
嘘ではない、『すてーたす』なるモノには全て書いてある等々、桜もどうにかこうにか証明しようとしているのだが、一向に進展する気配はない。
「信用してあげたいのは山々なんだけどね……僕はそもそも君を信用してあげたいのかな?」
「キリレンコ君、酷くない?」
「別にキキは酷くないわよ。酷いのはどっちかっていうとサクラの虚言」
「虚言じゃないもん!ウチ、ちゃんと勇者だから!」
店を出る前から繰り返されている、変わり映えのない問答に飽き飽きしながら、キキはため息を吐く。
「でも証明はできないんだよね」
「うん……」
一瞬だけ戻っていた調子も再び下がり、少女はどんよりとした雰囲気のまま大福を齧る。それで少しばかり頰が上がるも、すぐに落ちてしまう。
「どうしたら信用してくれるの?」
「勇者らしく、魔王を倒してみるとか。後は……何がある?」
「そこでアタシに振らないでくれる?」
「じゃあ、とりあえず魔王を倒してみよう」
キキがピンと指を立てるも、すぐに桜はその指を掴んで折り畳む。
その様子を見てティナが目元をピクリと動かしたが、特に何か行動を起こすことはなかった。
「絶対とりあえずじゃないよね、それ」
「でも勇者が成し遂げたことってなると、それぐらいなんだよ」
その他にも沢山あるが、基本的にはその全てが文化の礎を築き上げたという言葉で纏められてしまうのだ。
やはり一番手っ取り早い勇者の証明となると、魔王討伐になってしまう。それはキキだけでなく、ティナも似たようなことになっているらしい。少しばかり首を捻っているものの、代案はないようである。
「ウチ、ハードル上げやがった昔の勇者を殴りたい」
ギリと音が出るほど拳を握り締め、桜は呟いた。
「勇者と偽勇者の殴り合いは少し見てみたいね」
「偽じゃない!」
しかし、その拳が振るわれた先は当然過去の勇者ではなく、目の前に立っていたキキ。そもそも直撃させるつもりもなかったようではあったが、万が一に備えて大袈裟にそれを避けたキキは、これまた大袈裟に両手を上げた。
「はいはい、その拳は本物に違いない」
「絶対信用してないじゃん、それ」
その一部始終を隣で見ていた一人の少女が、眉間に皺を寄せ、割と本気で殴りかかりそうになっていたのを片手間に静止しつつ、少年は上げていた手の片方を顎に当てる。
「というかウチ、まだレベル……じゃなかった。日本語で何て言うんだろ、これ。とにかく、全然成長してないから魔王とか無理だよ」
また良く分からないことを言っている桜は完全に放置し、キキの思考は翌日以降の予定へと移っていた。
そもそも今日という日も、彼の予定では誰かに費やすはずではなかった。ティナやピノが困っているなら助けていたかもしれないが、見ず知らずの少女に時間を割く予定など、彼の頭の中には一片たりとも存在していなかったのだ。
事前に立てていた予定通りにことが進めば、今頃キキは課題の最初の方に手をつけていただろう。
にも関わらず、少年は二人の少女と一緒に喫茶店へ行き、勇者をどのように証明するのかを考えさせられることになった。羨ましがられる要素が幾つかあるかもしれないが、キキからしてみれば最悪の一言だ。
そして結局はその問題も解決できず、課題も予定通りには進んでいないのだから、最悪を通り越した何かと化している。
「とりあえず、明日……は無理かな。いや、どうせ書くこと大してないし明日でも」
課せられた宿題が進んでいないのは本当なのだが、クマノミ遺跡で起こったことを馬鹿正直に書くこともできず、かといって桜以外のことを書こうにも、書くことが全くと言っていいほどないのも事実である。
遺跡の中でやり過ごす為に考えていた方法を、今こそ実践すべきなのではないだろうか。そんな思考に入り込んだ瞬間、キキの横合いから咎めるような声が割り込む。
「キキ?」
名前を呼ばれただけだった。
別にそれ以上のことは何もされなかったのに、キキは身体を僅かに震わせた。彼が視線を声の方へズラせば、ジトっとした目で見つめる少女が一人。
一年以上の付き合いであるが故に、お互いの考えていることは言葉にせずとも半分程度は理解できる。少しだけ目を合わせた後、先に逸らしたのは緑の瞳、つまりキキが折れた。
「分かったよ」
「よろしい」
満足げに頷くティナから完全に視線を外し、キキは顔の横で人差し指を立てる。
「明後日の放課後かな!うん、そうしよう」
そのままキキが再び視線だけを戻すと、そこには満足げに頷く顔が一つ。
安堵のため息を漏らしつつ、少年は額を袖で拭った。そこに汗は一滴もなかったのだが、それだけの威圧感があったらしい。
「放課後なら、ピノも連れてくる?」
「別に連れてくるのは良いけど、事情の説明がかなり面倒……」
唐突に出された提案に対し、かなり苦い顔をするキキの前に、ズイと指が突き出された。
思わずのけ反った彼を追うように、真っ白な稚魚のような指が更に迫る。
「仕方ないじゃない。アンタが拾ってきたんでしょ」
「そんな捨てネコみたいに」
自分の口で門番の二人に言ったことを忘れているのか、キキはガクリと肩を落とす。
実際のところ、責任が誰にあるかと問われれば、最もその割合が大きいのは自分であるのは間違いないので、少年はそれ以上何も言えなかった。
「それにアイツ、下の方だけど貴族でしょ?アタシ達の知らないことも知ってるかもしれないし」
納得できる提案ではある。
それは間違いないのだが、キキはそれを根本的な部分から否定した。
「ピノは勇者の話知ってるかどうかも怪しいよ」
「それは……否定しきれないけど」
彼の友人であるピノは控えめに言っても、かなり頭が悪い。座学が全くできないというわけではないが、試験の成績はいつ見ても下から数えた方が早い人間だ。
今日この日までは、勇者の物語など常識の範疇だと考えてきたキキでも、隣で大福を齧っている非常識人を見てからでは、少し疑いの心が芽生えてしまっていた。
「ならまあ、とりあえずの予定をまとめよう」
口の端に食べカスをつけて、聞いているのかいないのか分からない様子の桜。それほどの大きさではない大福をちびちびと齧っているその姿は、齧歯類か何かのように見える。
「こら」
諭すような声色で言いながら、ティナはそんな少女の眼前で両手を打ち鳴らす。
ボーッとしている状態でそんなことをされれば、大抵の人間は驚く。それは勇者を名乗る不審者も例外ではなく、目の前で弾けた音に目を白黒させることになっていた。
「な、なんでしょうか!?」
それに反応して桜が声を上げると同時に、白と黒の半球が跳ねた。
放物線を描きながら自分の手から放たれたそれを、彼女は熱された芋でも触るような動きで更に遠くへ弾き飛ばす。
「あっ」
キキが間抜けな声を出すや否や、桜は足を踏み出す。
その瞬間、地面が爆ぜた。そう表現する他ない程の音と共に、彼女の体が地面とほぼ水平になった。それだけの音が出たのだから、当然速度も段違いだ。人体から繰り出すのが可能なのか疑わしいぐらいの速度。ポーンと二本目の放物線を描き始めた大福の着地点に向け、桜は両手を椀のような形にして突き出した。ただ、その状態でまともな受け身が取れるはずもない。当然、頭から滑り込むことになった。
「だ、大丈夫なの?」
「さぁ……原因はティナだからね?」
「分かってるけど」
路上で顔から倒れ込む黒髪の少女と、それを呆然と眺める金髪の男女。
倒れている少女は、まるで天にでも捧げるような姿勢で大福を持っているのだから、通りかかった人間が状況をキチンと理解することはほぼ確実に不可能だろう。
実際、何人かの通行人はチラチラと三人の方を見て、何とも言えない表情を浮かべながら通り過ぎている。心配でも嘲笑でもない、何か恐ろしいモノでも目の当たりにしたような顔である。
「生きてるかい?」
キキはいつも通り懐から杖を取り出し、少し距離を取って桜を突いた。
それに反応したのかどうかは定かではないが、突かれた方は瞬時に顔を地面から離し、何ごともなかったかのように平然と立ち上がる。
そして手の中にある大福を上下左右からジロジロと見た後、片手の親指をグイと立てて二人の方へ突き出した。
「ウチ、ナイスキャッチ!」
「な、ないすきゃっち?」
「そう、ナイスキャッチ!」
聞きなれない単語に首を傾げるティナだったが、自信満々に復唱されて何も言えなくなっている。
顔には傷一つなかったこともあり、二人して心配の声を掛けることも忘れてしまっていた。齧りかけの大福に頬擦りをしそうな勢いの桜と、その姿に再び呆然とする二人組。キキはともかく、ティナの頭の中では色々とやるべきことが衝突を繰り返していた。
驚かせたことに対する謝罪、本当に傷がないかどうかの確認、度々キキに見せる個人的に許せない振る舞いについての詰問等々、挙げればかなりのことが出てくるものの、どれから話すべきか決めかねていた。
そんな少女の迷いなど知らない自称勇者は、自分のせいで滞っていた話を何気なく切り出す。
「それで、何の話だっけ」
突然のことで口をポカンと開いたキキは、視線を僅かに上へ向けて記憶を少し前まで遡らせた。
何を話そうとしていたか。脳内でその部分をさっさと引きずり出し、少年は開けていた口をキュッと結ぶ。そしてやや顔をキリリと格好つけて見せながら、今度は喋る為に口を開いた。
「まず集合は明後日の放課後。サクラは学校に通ってないから、宿まで僕らが行くよ。だから、早く泊まる場所を決めてほしい」
「分かった」
元気良く頷きはするものの、本当に桜がキキの言ったことを分かっているのかは、相変わらず怪しかった。
まず、視線が未だに手の中の半球に向いているのが問題である。
「それから貴族の息子が多分来るけど、そんなに畏まらなくて良いよ。ピノ本人が礼節とか嫌いな人種だから」
それを見て見ぬふりをしつつ、キキは続けようとした。その矢先、桜の口から飛び出してきたのは、かなり頓珍漢な質問。
「え、二人って貴族なの?」
案の定話半分にしか聞いていなかったらしく、少女は首を傾げている。
自分が何か間違ったことを言っただろうか。そんなことを言外に伝えるような仕草に、キキはため息を吐く。
「どう聞いたら、僕らも貴族になるんだい」
自分の言葉を脳内で何度か復唱した後に、キキはそう言った。三回ほど自身の正気を確かめるように瞬きをし、四度目は眉間に皺を寄せるようにギュッと瞼を閉じる。
酸っぱいモノでも口にしたような顔だが、実際に侵されているのは目と耳だ。そもそも酸っぱいモノでもなく、話を聞いていない少女による口撃である。
「いや、貴族の友達なら貴族なのかなーって」
「僕は肉屋の息子。完全な庶民」
世界を探せば貴族の肉屋もいくつかは存在するかもしれないが、少なくともキリレンコ精肉店はそのような高貴な肉屋でもないし、高価な肉を売る店でもない。
そこらで駆け回るウサギやら、家畜として飼われている豚や牛を主に取り扱っている。多少高価になるのは、時折人里に現れるクマの肉ぐらいで、それも珍味であるというよりは、単に珍しいという理由だ。
「でも、ティナは貴族かもね。族長の娘だし」
キキがグッと立てた親指でティナの方を指せば、指された少女は口をへの字に曲げる。
「確かにそうだけど、間違っても貴族なんかじゃない。引っ叩くわよ」
「君に殴られたら、首が捩じ切れちゃうよ」
「なら鳩尾と脇腹、どっちが良いかしら」
「どっちも遠慮しとこうかな」
そう言って距離を取ろうとしたものの、キキは結局餌食になった。殴られはしていないが、右の脇腹を外套越しにギュウと音が出そうなほど抓られている。
抓まれているせいで逃げようにも逃げられず、そのまま暫く情けない悲鳴を上げながら、百面相を披露する羽目になっていた。
「そういう時は普通に触れるんだ」
「……何よ」
「なんでもなーい」
桜からのジトっとした視線と共に浴びた言葉のせいで、ティナは若干バツが悪そうに目を逸らした。
「何かこう、違うじゃない」
そしてボソリと呟いた後、静かに指を離す。そのまま離した指の先をジッと見つめ、寂しげにため息を漏らした。
たった今行ったようなじゃれあいの時と、好意を持って何か行動を起こす時。後者はどうしても異性という存在を意識してしまっているようで、前者のようにすんなりとは行えないのだ。
ティナ自身、それぐらいの分析は大して深く考えずにできるが、決して説明はしない。朴念仁の目の前でそれを行う度胸がないというのが一番の理由ではあるのだが、キキと仲良さげに話す桜が少し気に食わないというの少し、ほんの少しだけあった。
「いたた……」
そんなティナの思考など知らない被害者は、軽い暴行に対して怒っている様子も見せず、苦笑いを浮かべながら右脇腹を摩っていた。
外套を着ていなければ、おそらく摩る程度では済まなかっただろう。
「それで、何の話だったっけ」
「二人が貴族とかの話」
「それだ」
少年は脇腹から手を離し、指をパチンと弾けさせた。
「ピノは貴族の中でも下の方の騎士だし、しかもそこの六男だから、情報には大して期待しないでほしいけどね」
「ダメじゃん」
「僕らにできる最善の手段なんだよ」
それ以外に存在するキキの伝手など、高が知れている。
通っている学校の教師陣と、魔術師協会の知り合いが少し。『色彩』の名を使えばもう少しあるかもしれないが、それは本当の本当に最終手段である。キキとしては、あまり使いたくはなかった。
「ハミルトンの人間に、これ以上は求めないでほしいかな」
「そうね」
頷き始めた二人組の前で、一人状況を上手く飲み込めていない桜が首を傾げた。
「ハミルトン?」
「ハミルトン魔術学校。学費は安い、生徒の質は低い、よって人気はない」
桜の耳には学費が安いということしか、良い部分がないように聞こえた。
キキの言ったことを頭の中で復唱するも、やはり良いところはそれしかない。生徒の質が低いというのは、どのような質を指しているのか桜には分からなかった。しかしながら、それが何を指しているにしても、良い印象は得られない。
「それ、大丈夫なの?リーゼントとか金属バットとか多そうだけど」
結局、桜が言語化したモノはキキ達には何一つ伝わらなかった。
今度は二人の方が首を傾げるものの、もはや桜はこういうモノだと割り切り始めた二人は、特に疑問符を浮かべることなく、平然と話を進める。
「言っていることは分からないけど、大して問題はないよ。良いとこが特にないのに、何故か存続してる」
「何故かじゃなくて、単純に理事長の手腕でしょ」
「ま、そうだね」
肩を竦めて、キキは締めの言葉を口にした。
「とにかく、僕達はそこの生徒」
「へー」
興味があるのか曖昧な相槌を打ち、桜は削れた大福の残りを口に放り込む。それをモゴモゴとやっている最中、彼女にとっては初めて聞く声が少し離れた位置から飛んできた。
別の人間に話しかけているわけではなく、明確に三人の方を捉えている声は、どこか嫌味な雰囲気を孕んでおり、キキとティナに至っては先ほどとは打って変わって酷い顔をしている。
どちらも持って生まれた端正な顔立ちを歪めており、その声の主が知り合いか何かであることを如実に示していた。
「おやおや、騒がしいと思ったら三馬鹿じゃないか」
ズンズンと音が付きそうな足取りで現れたのは、煌びやかな着物を身に纏った小太りの少年。茶色っぽい髪をキノコのような形にしており、顔には可愛げが欠片も存在していない。
すぐ後ろにはヒョロヒョロとした取り巻きを二人従え、どことなく偉そうな雰囲気を醸し出している。王都であるということもあり、大抵の人間はそれだけで貴族か何かの子息だということを理解できるだろう。
しかしながら、キキの隣にはその程度のことも予測できない人間がいた。
「え、ウチも?」
黒い食べかすを口の端につけた桜である。
三馬鹿と言われて馬鹿正直に振り向き、丁度目が合った小太りの少年と目を合わせ、小首を傾げていた。
「……おい、キリレンコ。ノラレスはどうした」
「ピノなら今日はいないよ。君の言う三馬鹿のうち、二馬鹿しかいない」
嫌そうな顔は見せているキキだが、臨戦態勢には入っていない。
面倒な事態に陥った時には大抵懐から杖を取り出しているにも関わらず、今回は懐を触れる素振りすら見せていない。
それを見た桜も危険はないと判断したものの、相手に若干の嫌悪感を抱いてしまった為、少しだけ後ろに下がっているティナの隣へスススと足を滑らせた。
「ティナちゃん、何あの……太い人」
「アルベルト・コンリー。コンリー子爵の息子。出来が悪すぎてハミルトンに来た奴」
つまるところ、仲が良くない同級生。
桜も似たような関係の人間がいなかったわけではないので、すぐに飲み込むことができた。
「おいフレッチャー、聞こえてるぞ!」
あまりにも不名誉な言い方に腹を立てたのか、肉で若干細くなっている目を見開きながら、半ば怒鳴るような声を上げるアルベルト。
「何よ、もっと包み隠さず言ってあげても良いのよ!」
しかし、より恐ろしい剣幕で怒鳴り返したティナによって、取り巻き共々短い悲鳴を上げさせられることになっていた。
あまりにも情けない様子に毒気を抜かれ、桜は自分と同じような状態になっているキキの背中をツンと指先で突く。
「突然過ぎて何も分かんないんだけど」
「端的に言うと、彼とティナの仲は最悪。それに付随して僕とピノとも仲が悪いのさ」
ティナがいなくても仲良くできるとは思ってなかったけど。
小声でそんなことを付け加えて、キキは視線を二人の方へ向けた。
「何かしたの?アイツ」
桜がアイツと言ったのは、当然アルベルトの方である。
いつの間にかキキとティナは立ち位置が入れ替わり、貴族と女性とは思えない口論を繰り広げている。もし同姓同士ならば、既に取っ組み合いに発展しているだろう。
「僕らが何かしたとは言わないあたり、少しは学習したみたいで何よりだよ」
ジトっとした目と弧を描く唇。
そんな若干不気味にも思える、揶揄うような表情を向けられた桜は、お返しにムスッと頬を僅かに膨らませる。
「ウチ、一応学生だったので」
そう言われると、キキは謝罪交じりに笑い声を上げた。
「一言で言っちゃえば、まあ逆恨みってとこかな。入学してすぐティナに声掛けて、無碍にされて怒って突っかかった挙句、普通に返り討ちにされた。それからずっと、僕らを見かけては絡んできてる」
それがキキの知る限りの、アルベルト・コンリーの持つ行動原理。
それ以上のことは知らないし、全くもって興味がなかった。個人的に好きな人間でないというのが大きいが、何より友人に喧嘩を売る人間に対して興味関心を抱けというのが無理な話だった。
何か明確な悪意を持った行動ならばともかく、やることは悪党にも満たない程度。まだ路地裏の住人の方が悪役には適している。
その程度の悪行しかできない人間に、キキは必要以上の注意を向けようとは思えなかった。
「見た目通りに格好悪いんだ」
「サクラ、君は耳が悪いのかい?相手は腐ってるし太ってるけど、子爵の息子だよ」
歯に衣着せぬ物言いをし始めた桜の頭頂部に手刀を振り下ろし、少年はいつもより少しだけ鋭い目で見つめる。背丈は大して変わらないが、その様子だけ見ると親子のようにも見える。
そんな喜劇のようなやり取りをしている方へ、再び不快な声が届いた。今にも殴りかかりそうな勢いの少女に恐れ慄き、矛先を弱そうな方へ向けることにしたらしい。
「キリレンコ、お前首を刎ねられたいのか?」
「そんなわけないだろう」
穏便な反応を見せたキキだったが、残念なことに彼の友人はあまりにも血気盛んだった。
喫茶店にいた時と別人とまでは言わないが、見るからに怒っていると言わんばかりの様子。もし自身の得物が近くにあれば、既に手の中で仕事を成していたかもしれない。
「そんなことしたら、アンタの一族郎党皆殺しにしてあげるわ」
その上でこの発言である。
友人であるキキからしても、かなり恐ろしいことに間違いはなかった。単純に殺すだけならともかく、一族郎党皆殺しというのは、あまりにも過激な言動だ。
「君、僕のことになったら時々異様に暴力的になるよね」
「……知らないわね。アタシはいつだってお淑やかよ」
「明らかな嘘はやめようか」
怒りの矛先が今度はキキに向きそうになるも、それを遮るように桜が口を開いた。
「そんなに偉いの、このデブ」
少年は間髪入れず、手刀をもう一度振り下ろした。
多少口が悪いだけならともかく、もはや罵詈雑言である。森人の族長の娘であるティナや、二つ名を持つキキのように後ろ盾がある人間なら多少は許される節があるが、桜は現状単なる不審者だ。少しぐらいは守る気概を見せようと思わなくもないが、それも限度がある。
そんな現状をあまり理解できていないらしい桜の唇に、キキは立てた人差し指を寄せる。
「あまり人を馬鹿にするようなこと言ってると、流石に擁護しきれなくなる」
「わ、分りまひた」
突然向けられた真面目な様子のキキの顔に、桜は頰を僅かに赤らめた。
元々の整った顔立ちが、生真面目に説教をするような顔をしているおかげで余計に整っているのが、桜の琴線に触れてしまっていた。
しかし、そんな顔はすぐに崩れてしまう。ため息を交えた呆れ顔。まだ知り合って一日と経っていない桜も、もう見慣れ始めている顔だ。
「でもまあ、子爵本人じゃないから大したことはないんだけどさ」
「二つ名持ちのキキよりは下なんだから、別に何言っても良いわよ」
「良くないよ。さっき言ったよね、擁護しきれないって」
再度行われる寸劇を側から眺めているのは、桜だけではない。
取り残され気味になってしまっているアルベルトと、その取り巻き二人組もいる。流石にその扱いは貴族としての面子が許さなかったらしく、態とらしく肉で若干太くなっている指をポキポキと鳴らしながら、ゆっくりと三人に近寄り始めた。
「どうやら、そこの黒髪には教育が必要らしいな」
最終的な標的は、桜に移った。
だが、それを許す二人ではない。特に拾い主は少しばかり責任感が強かった。
「初対面の女の子に馬鹿って言った方が問題だと思うよ」
即ち、今度はキキの番である。
一応相手が貴族であるのは間違いないが、キキ達にも予定がある。まず第一に桜の宿を探す必要があるのだ。にも関わらず、死ぬほどどうでも良い貴族の息子一人に時間を割いている暇はない。
故に初手は粗探し。追い返す為には、攻め立てなければならない。
「確かに三馬鹿とは言ったが」
「ここには君と取り巻き、そして僕とこの二人。君が普段から三馬鹿って呼んでる三人中二人がいるんだから、こっちに向けて言ったのは間違いないと思うんだけど」
ぐうの音も出ていない。取り巻きは既に戦意がなく、アルベルトの後ろで手遊びを始めていた。アルベルトの視界に入ってないのを良いことに、やりたい放題である。
彼らにとってはお約束なのだから、当然の行動でもある。キキ一行とアルベルトの口論は何も今に始まったことではない。顔を合わせる度に行なっているし、その結果は大体同じだ。
「い、いや……そうだ、空を今カラスが三羽飛んでいて」
「それで三羽カラスって言ったと?」
苦しい言い訳をする小太りの少年と、それに詰め寄るキキ。
その二人を近くで眺めながら、ティナは腕を組んで呆れたように呟いた。
「キキに口喧嘩で勝てるわけないじゃない」
「そんなに強いの?」
賢そうな人間だが、それが口喧嘩の強さには繋がることはない。
ティナのように烈火の如く捲し立てるのも、一応は口論の強さに分類されるだろう。それが論理的に詰める類かどうかは別として、相手が口を開く猶予を与えないというのも、かなり強い。
しかし、桜の見る限りではキキがそういう種類には見えなかった。どちらかと言えば、論理的に詰めていく類にも見えるが、賢そうな顔だからと言って、本当にそうだとも限らない。
「魔術学校対抗討論大会で個人の部二位の実績よ」
まるで自分のことのように自慢げに言うティナだったが、事情を良く知らない桜にピンと来るはずがない。
少女は頭の中に大量の疑問符を浮かべながら、コテンと可愛らしく首を傾げた。
「……凄いのかな?」
「僕が決勝でコテンパンにされた話はやめとこうか」
二人の方を一瞥した後、少年はすぐにアルベルトの方へ向き直る。
「ちなみにアイツ」
既に言葉だけで潰され始めている小太りの少年を指差して、ティナが意地の悪そうな笑みを桜に向けた。
「それの予選でキキに負けてるわよ」
笑い声自体は可愛らしいが、その中身は嘲笑の類である。
美人は何をしても様になるという感想は心の奥底へしまいつつ、桜は頭に浮かんだ言葉を口にしようとした。
「つまりあれじゃん。噛ませ……噛ませ何とかってやつじゃん」
だが、結局キチンとした言葉にはならなかった。自分自身に半ば呆れてながらも、桜は脳内でどうにか言葉を絞り出そうとした。
と言っても、できることは少ない。首を右へ左へ捻ったところで、進捗が生まれるはずもなかった。そんな少女へ助け舟を出したのは、依然としてアルベルトの前に立つキリレンコ少年だった。
「噛ませ犬」
「そう!犬!」
明らかに大声で言うべきではない。
貴族という存在がどれほど恐ろしいか、普通の親ならば口を酸っぱくして躾けているはずである。キキの家庭もそうだった。
未だに三人の首が繋がっているのは、キキの知名度とアルベルト個人を相手にしているという二つの要素が、上手く噛み合っているだけである。
「ぼ、僕を犬と愚弄する気か!」
「いや、犬の方が賢い」
「犬の方が強いわよ」
「犬の方が可愛いじゃん」
威嚇のように叫ぶが、三人組の声の方が攻撃力は高い。一人が声を出すごとに、既に凹んでいるアルベルトが胸を押さえて呻き声を上げた。
「満場一致で、君は犬より下扱いらしい」
最後にキキがそう締めれば、子爵家の少年は殴られたように大袈裟によろめいた。流石にそれは危ないと判断したらしく、取り巻き二人が慌ててその背に手を添える。
側から見ているだけの桜としても、アルベルトはあまり好意的に見ることはできなかったが、あまりにも一方的な状況は少し可哀想にも思えた。
「やっぱりお前ら嫌いだ!」
そんな風に哀れまれているとも知らない少年は、顔を真っ赤にして声を張り上げた。突然の怒声に、通りにいた人間が一部驚くものの、彼らは王都に住む一般人。それなりの喧騒には慣れていることもあって、すぐに視線の集中は解かれた。
「覚えてろよ!キール・キリレンコ!」
「どうせ明後日には学校で会うだろう?」
「黙れ!様子も確認したことだし、今日はこの辺で帰ってやる!」
一体全体何をしにやってきたのか。
単純に絡みに来ただけとしか思えない、非常に小さな衝撃を一同に残し、小太りの少年とその一味は踵を返し、姿を小さくしていく。
「とりあえず面倒なのはどっか行ったわね」
「そうだね。サクラ、早く宿を……サクラ?」
既知の仲である二人が、揃って顳顬に指を当てている。
その様子を視界に収めていると、桜の体を浮遊感が襲った。実際にそうなっているわけもないのに、視界がグルグルと回っているような、自分では抗いようのない感覚。
助けを呼ぼうにも、先ほど飲み込んだ大福が逆流しそうで口を開くことも叶わない。
「うぅん?」
結局、小さく呻きながら頭を石畳に近づけていく。それにいち早く気づいたティナが抱き抱えるものの、既に少女の意識はない。
呼吸も安定しており、苦しんでいる様子もない。しかし、意識が戻ってくる気配もない。
「……医者でも探そうか」
「そうね」
キキが倒れた少女を背負い、二人は慎重かつ迅速に通りを駆け抜ける。
世話になったことが少ない為、正確な場所は把握していないものの、何となくは記憶の中に存在している。問題は営業時間内かどうかという点ぐらいだった。
その問題を回避する為にも、二人は必死で足を動かすのだった。知り合ったばかりではあっても、多少仲良くなった人間を見捨てられるような人間ではなかった。