三人寄れば何とやら
自身を助けてくれたキール・キリレンコの友人、ティナによって連れてこられた喫茶店。喫茶店という言葉から桜がイメージしていたのは、お小遣いに余裕がある時に友人達と行っていた、全国チェーンのコーヒーショップ。しかし、彼女が目にしたのは、そういうキラキラした種類のモノではなかった。
外観だけで語るならば、質素。唯一の飾りは、扉の上側に付いている鈴ぐらい。つまるところ、桜のあまり行ったことのない種類のカフェ。再放送のドラマで見たことのあるような、古き良きとでも言うべき喫茶店だった。
「すご、本物じゃん……」
「本物って何よ」
思わず感嘆の声を少女が漏らすと、すかさず若干機嫌の悪そうな声が飛んでいく。
桜より小柄だが、気の強そうな少女。それに対して気が弱そうに見えるのに、ホームレスと不良を混ぜたような二人組を追い返した、金髪の少年。二人の後ろ姿を眺めながら、桜は袖で顔を拭った。涙はもう止まっているが、目元の赤みはまだ残っている。
彼女個人の意見としては、喫茶店に入る前にどこかで顔を洗いたいところだったのだが、ズンズン進む二人の後ろでは言い出すこともできず、結局目的地に着いてしまったのである。
「三人。いつもので」
「はい」
妙に日本風な扉を押し開け、交わした文言はたったそれだけ。
ティナが指を立てながら言って、カウンターの向こう側にいる白髪の男性が穏やかに返事をする。たったそれだけの会話の後に、桜にとっての恩人達はさっさとカウンター席に着いた。
彼らの他には、一人たりとも座っている人間はいない為、キキは遠慮なく隣の椅子に自身の背嚢を置いている。
「何だっけ。ガンコ鳥?」
思いついた言い回しを口に出そうにも、やはり知識が追いついていなかった。キリレンコ君に聞けば分かるかな、と思った途端、思い出したのは化け物のような姿の鳥。
少し触れ合えば愛着も湧いたが、初めて見た時は気を失いかけたのも事実である。桜の中のダチョウとは大違いな、異世界のダチョウ。その例を適用するのであれば、桜の言いたい鳥も二メートルを超える人喰い鳥になっている可能性がある。
また非常識と言われる未来を予測し、桜は開きかけていた口をギュッと結んだ。
「何してんの?さっさと座りなさいよ」
「ティナ、言い方キツくない?」
「こんなもんでしょ」
普段の様子を知らない桜には、その違いは分からない。
分からなくとも、ティナの感情は何となく理解できた。歩いている最中の視線や行動を見れば、どういう感情が彼女の内側で渦巻いているのかは分かる。桜とて、日本では華の女子高生をしていたのだから、それぐらいの経験はあるのだ。
「ごめんね?」
「……謝られると調子狂うんだけど」
そっぽを向いたティナの左隣の椅子を引き、桜は腰掛けた。
流石に威嚇に近いことをされている状態で、人のお気に入りに近づこうとは思えなかったからだ。できれば安心感のあるキキの方が良かったものの、見る限りではティナの方が引っ張っているように思えた。グループの中心人物が更に不機嫌になれば、ただでさえ単なる非常識人だと思われている自分の立場が危うくなる。
最悪の場合、一人で右も左も分からない異世界を歩き回る羽目になってしまう。それだけは確実に避けたい、根角桜なのであった。
「お待たせしました」
コトリと三度音を立てて、それぞれの前に置かれたのは、桜の想像していたコーヒーカップではなかった。
正式名称などは知らないが、親や祖父母の扱っていた呼称を真似するのなら、湯呑み。桜も見たことや使ったことはあるが、どちらかと言えばカップと呼ばれる物の方が馴染み深い。
そして、おかしいのはそれだけではない。中に入っている飲み物もおかしいように思えた。
「ここって日本じゃないんだよね?」
「違うよ」
それは緑色をしている。桜の見慣れている飲み物ではないが、彼女のいた国では比較的有名な種類の茶である。
茶の種類を五つ挙げろと言われれば、大抵の場合はその中に入り込むぐらいの知名度を誇る、苦いやつ。
「これ、緑茶じゃん」
「そうだね」
「おかしくない!?」
机を叩きそうになり、手が音を弾けさせる直前で自重した。
机から数センチだけ浮いた手を移動させ、自分の前にも置かれた湯呑みを手に取る。中を覗き込めば、やはり緑色をしていた。見るからに苦そうな、濃い緑色。
茶道部ならともかく、生粋の帰宅部だった桜には、やはり馴染み深くない飲み物だ。
「緑茶なんて、どこにでもあるじゃない」
「いや、ないから!というか、ティナちゃんの格好も凄い違和感あるしさ!ウチ、どこいんの?」
「シラカバ王国」
キキの至極真っ当な解答にどう反応すれば良いのか分からず、桜は暗い色をした木製の天を仰ぎ、そのまま手のひらで目を覆い隠した。
彼女の趣味は世界地図を開くことではないし、勉強も大して得意ではない。当然、勉学の一種である地理で八十点以上を取ったことなど、一回たりともない。中学時代ならともかく、高校に入学してからは得意教科で何とか八十点台に乗るかどうかという具合だ。
九十点をアベレージで出すような秀才及び天才の類は、彼女にとっては天上の人々である。
「単なる袴じゃないの?ちゃんと似合ってるけど」
「確かに似合ってるけど、違和感っていうのは、何と言うかその、そういう意味じゃないから」
それ故、確信は持てない。絶対にないとは言い切れない。
しかしながら、女性が袴を履いているような国はないと彼女は考えた。アジア圏ならともかく、遭遇する人は軒並みヨーロッパとかアメリカとかそういう系統の人間である。
そんな人々が全員日本かぶれ。可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近いだろう。京都で見る機会の多かった着物ならまだ理解できるが、袴である。どこをどう間違ったらそうなるのか、桜には想像ができなかった。
「サクラのは、袴?袴じゃないわね。分かれてないし」
「スカート!制服のスカート!」
「良く分かんないけど、中とか見えるでしょ、それ」
「体操服履いてるから!ほら!」
先ほどまでの泣き顔が嘘のように、百面相を店内で披露する日本の女子高生。
挙げ句の果てにはスカートをたくし上げ、中身を見せてしまっている。彼女の二つ隣にいたキキが、口に含んでいた緑茶を吹き出してしまう大惨事を引き起こしてしまうのは、必然とも言えるだろう。
しかしながら、女二人はお構いなし。一人足りなくとも、十分に姦しかった。
「たいそうふくって何かと思ったら、穿袴のことだったのね」
「なんでそう、全体的に和風なの?」
「わふう?」
「いや、あの……まあ良いか」
京都か奈良にでも来てしまったのか。
もし桜が心の内を語ったところで、通じる人間はこの場にはいない。
「違和感とか、ないの?」
「違和感?」
ティナに聞き返され、少女は彼女の頭の先から足の先までを見直す。
やはりどう見ても、コンクリートジャングルが当たり前になってしまった日本出身の少女からしてみれば、かなりの違和感があった。
「だって、Tシャツに袴だよ?」
「……何言ってんのか知らないけど、アタシ達はこれが普通なのよ」
そう言って、長い耳の少女はズズズと音を立てる。
桜もそれに倣って中身を口に含むが、やはり苦い。市販の緑茶とはまた違う、深い苦味が口内を支配していた。
「カフェオレの気分で来るんじゃなかった」
せめてケーキのような甘い物でもあれば良かったのだが、未だにそのような甘味が姿を見せる気配はなかった。
いつもの。そう表現していた物は、実は緑茶だけなのかもしれない。
色々と落胆しながら苦味を飲み下す桜と、平気な顔をして茶を啜るティナ。比較的平和な女性陣の隣では、少年が一人で死にそうになっていた。
咳き込むキキは口を布で拭っており、涙をポロポロと落としている。
「キキ、いつまで咽せてんのよ」
バカにするような笑みを浮かべているが、ティナの手は自然に少年の背中へ伸びていた。
しかし、途中で止まる。グッと握り込まれたかと思えば、意を決するように振りかぶられ、引っ付く直前で再び停止。そのまま手のひらの開閉が三回ほど繰り返された後、スススと元の位置に戻り始める。
「ティナちゃん、頑張ろ」
一部始終を眺めていた桜の一言で、戻ろうとしていた腕が三度目の停止状態に陥った。
腕の主は声の主の方へ、ゆっくりと首を回す。蝶番の錆びた扉のように徐々に回り、シラカバ王国においては珍しい黒い瞳と、それなりにいる青い瞳が向き合った。
生暖かい視線を送る桜から視線を外し、馬の尻尾のような髪を僅かに揺らす。一拍置いて、ボソリと一言。
「うっさいわね」
先ほどまで余裕な態度を取っていた少女は、一体全体どこへ消えてしまったのか。少しばかり頰を赤く染めたティナは、深く息を吸い込んで少年の背中へと手を当て、摩り始める。
たったそれだけの行動で、ややバツの悪そうだった顔が、ニマニマと若干気持ちの悪い笑みに変わってしまっていた。
「珍しいね、ティナがこういうことするの」
「アタシだって優しさぐらいはあるわよ」
それは優しさ百パーセントなのか。そんなことを聞けば、拳かそれに類する何かが飛んでくるのは、少しだけ頭の悪い桜でも十二分に理解できる。
敢えて何も言わず、少女は緑茶を口に含む。相変わらず苦味が強いが、二口目になると慣れてしまったらしく、やや物足りないようにも感じた。
その一方で、やはりスイーツの類が欲しくなったのも事実である。しかし、桜がキョロキョロと周囲に視線を巡らせても、メニューのような物は見当たらない。流石の異世界基準非常識人であっても、ラミネート加工されているメニューがあるとは思っていないが、壁にも天井にも、もちろん床にも文字は書かれていない。
「ねえ、ここって緑茶しかないの?せめて大福とか、お餅とかさ」
「あるわよ」
「あるんだ!?」
恐るべし和風異世界に驚くのは、今回で何度目だろう。
そう考えるのも馬鹿らしくなるぐらい、桜は入店してからツッコミを入れている。周りがボケを披露しているわけではない為、正確にはツッコミとも呼べないのかもしれないが、桜の中ではツッコミである。
「緑茶一本でやってける店があるなら、そこはきっと天才が経営してるわね」
「ティナ、ここの店長に失礼だからね?」
「いえ、商才は確かにないので……」
ショックを受けた雰囲気の店主と、それを慰めるキキ。
「だって、アタシ達以外に客いないじゃない」
「あ、これいつもなんだ」
そしてティナが突き立てた刃物を無自覚に押し込み、白髪の店長の傷口を広げる桜。最終的に商才の薄い男は横になってしまった。胸を抑えているが、決して持病というわけではない。
これは別に男性陣の方が立場が弱い世界だとか、女尊男卑が罷り通っている世界だという意味ではない。事実は時に人を深く傷つけるという、それだけのことなのだ。
「じゃあさ、もっと色々としてみたら?」
「色々って何よ」
聞き返され、少女は首を捻る。
パッと思いついたのは商品開発。バイトもしたことのない女子高校生ではあるが、桜の頭の中には多少の知識がある。あまりにも和風な異世界には存在していない、多くの地球産の知識がある。
「ほら、クレープ作ってみるとか」
「くれえぷ?」
「美味しいやつ!」
桜の乏しい語彙に呆れるように、キキは頬杖を突く。
未知の美食と聞いてワクワクしているのはティナと、閑古鳥を鳴かせている店長の二人だけ。何となく、キキには展開が予測できていた。
オーデマリに到達するまでに何度もあったのだから、もはやお約束に近い。
「どうやって作るのよ」
「え?それは、ほら、生地……生地ってどう作るんだっけ。まあ良いや、それ焼いてクリームを……クリームってどう作るの?」
卵や牛乳、砂糖ぐらいは思いついても、原材料全てを暗唱することはできない。大抵の人間は、菓子を作るより食べる方が多い。桜もその大多数の一人である。
案の定、自身の予想通りになってしまい、キキはため息を一つ漏らした。
「知らないよ」
「甘いんだよ?」
「甘い食べ物ってだけで特定できるほど、僕は食に詳しくない」
「肉ならともかくって感じよね」
無言で頷き、少年は湯呑みに口をつけた。
寡黙な店主も興味を失いつつあるのか、いつの間にかその体を起こし、店の奥に引っ込みそうになっている。
「なら、サンドイッチとか」
それらを視界に収めた結果、桜は自分でもどうにかなりそうな物を口に出し、汚名返上を図ることにした。
まずサンドイッチ。カフェにある物の定番といっても、差し支えのない一品のはずである。それを提案した矢先、既に聞き慣れてしまった少年の声が飛んでくる。
「頼むから、僕達にも分かる言葉に変換してくれないかな」
「あ、そっか。どう言うんだろ……パンに具材挟んで、齧るやつ」
「パン?」
桜なりに思いついたことを言語化するも、上手く伝わらない。そもそもパンを日本語でどう言うのか、大抵の人間は知らないのだ。桜も例外ではない。
もはや完全に興味を失ってしまったらしく、店主の姿は消えていた。服装やら何やらで、他国の貴族令嬢の戯言のようなモノだと判断されていてもおかしくない為、仕方ないとも言える。虚言を聞いている暇があれば、食器の一つでも磨いていた方が有意義なのは、間違いないのだから。
「小麦焼いたやつ……だと思う。イースト?ウエストだっけ。そういう菌もいるって聞いたことあるけど」
桜にとって馴染み深いパンは、基本的に既製品ばかりだ。焼きたてのパンが売っている店にも行ったことはあるが、焼いている段階など見たことはない。
学校の調理実習や部活動での経験があれば、まだもう少しはキチンとした説明ができていたのかもしれないが、生憎ながら桜は元バスケ部の現帰宅部である。
「ヤバい、ウチって何も知らないじゃん」
頭を抱えて唸ってみても、天から知恵を授けられるわけではない。
ケーキという案を出そうにも、作り方を大まかに知っているだけ。詳細な部分など知らないのだから、これ以上墓穴を掘りたくない桜としては中々口を開けない。
「……ねえキキ、この子大丈夫なの?」
若干名残惜しそうに手を開閉しながら、ティナが言う。しかし、その言葉には反応がない。
ティナがどうしたのかと顔をキキの方に向けてみれば、妙に難しそうな顔をして首を傾げている。桜のように唸ってはいないが、そうしていてもおかしくない様子ではある。
「ウチだって頑張って説明してるんだけど……」
尻すぼみな反論が終わるや否や、キキが傾いていた首を元に戻し、口を開く。
「小麦を焼いたってなると、麦餅のこと?」
「ああ、そういうことね」
金髪コンビの会話に、今度は桜が首を傾げる羽目になった。
ムギモチ。単純に響きを分解して判断するならば、麦で作った餅である。普段食べているパンの感触を考えれば、それが明確に間違いとは桜も思わないが、オーソドックスな餅らしくないのも事実だ。
「麦餅?」
「麦餅を知らないって、どんな辺境の村で生活してきたのよ」
「村じゃないもん」
言語はほぼ完璧に通じているのに、常識が通じない状況。
桜としては、やはり現実だと思うのは難しかった。キキが不可思議な手品のようなことをした直前、路地裏で人とぶつかって心底恐ろしい気持ちを味わっていなければ、今でも現実だとは認識していなかっただろう。
「仕方ないよ。サクラは……こう、モノを知らないんだ」
「限度があるでしょ」
「人を可哀想な奴みたいに言いやがって……」
実際問題、金髪の美少女美少年から見た非常識人は桜である。
ここに喫茶店の店主が加わったところで、この場における人数不利は変わらない。現代日本出身の桜が、絶対的なマイノリティであることに変わりはないのだから、もはや言えることは特になかった。
唯一できることは、ボソリと文句を溢すのみ。それもすぐキキの言葉に掻き消されてしまった。
「シラカバ王国の主食は丸芋か麦餅だよ。丸芋ばっかり食べてたら病気になるから、最近は麦餅が多いけどね」
「丸芋?ジャガ芋じゃなくて?サツマ芋とかでもないの?」
黒い頭でパッと思いついた芋の種類は、口に出した二つだけ。
少女の知る中でも最も有名な芋の種類を口に出したはずなのだが、やはりキキ達には通じていないようだった。
それも当然である。日本語を話す世界ではあるが、ジャガ芋は海外由来の名称であり、サツマ芋も薩摩という日本古来の土地に由来する名称なのだから、通じなくてもおかしくはない。
それでも必死に絞り出した日本語すら通じなかった桜は、やや涙目になってしまっていた。下唇を僅かに噛み、鼻をスンと鳴らす姿は決壊数秒前にも見える。
その様子を見たキキは慌てて手を叩き、脱線していた話を戻すことにした。
「よし、分かった。とりあえず食べ物の話はやめよう」
そもそも三人が喫茶店にやってきたのは、泣いていた桜の状況が一切分からなかったからだ。
しかし、当の本人がごく普通の喫茶店で過剰な反応を示し、食べ物の話でまたもや意味不明な単語を並べ始めた挙句、キキの前では三度目になる涙を流し始めそうなのだから、彼としては止めるしかない。
日に三度も同一人物の涙を見て、それを全て慰めるのは誰であっても荷が重い。
「この子、大丈夫?」
「多分?」
「多分って何よ」
「僕だって成り行きで拾ったんだから、知るわけないだろう?」
二人の良く聞こえる内緒話のせいで、桜の涙腺は余計に酷いことになっていた。
しかし、それは結果として当初の目的を達成することになる。決して二人が意図して行ったわけではなく、単純にティナがキキに対する若干の嫌がらせで行っただけである。
「雑に扱わないでよ!一応、ウチ勇者なんですけど!」
下手をすれば真っ二つになりそうな勢いで、少女は机を叩いた。
隣で起こったが故に、耳に入るのはかなりの音量。金髪二人組は肩を跳ねさせた。ついでに店の奥からも皿が割れるような音が響くが、それは三人とも聞かなかったことにした。
そして咳払いを一つ挟み、キキが口を開く。
「……気でも狂ったかい?」
開口一番の酷い物言いに、とうとうダムが決壊した。
桜は事実を口に出しているだけなのだから、当然である。ティナはキキの方を眺めて、少しばかり意地の悪そうな笑みを浮かべた。その笑みを見せられた側は、やってしまったとばかりに瞳を手で隠す。
思ったことを口に出すという癖が、完全に悪い面を露出してしまっていた。
「神様に言われたんだもん」
「神様って誰さ」
「知らない」
「知らないって……」
キキの落胆したような声色を聞き、少女は頭を回転させ始めた。これまでもそれなりに考えていたが、完全に嘘吐き扱いされそうな雰囲気が出始めたのだから、流石にあまり考えなしでは発言ができなくなったのだ。
桜自身、街中で勇者を名乗る不審者が現れれば、すぐに逃げ出すのは間違いないのだから、どうにかして信用を得なければならない。
幸いなことに、桜の今いる場所はどことなくファンタジー感が溢れる世界だ。アスファルトの地面の上で電波が飛び交う現代日本なら望みは薄いが、多少は信用される余地もあるはず。
それならば、自分がキキと出会うまでの経緯を事細かに説明しよう。
そんな考えから、桜は人生でも稀に見るレベルで思考を巡らせた。そして第一声。
「まず車、じゃなくて。こう、鉄の塊にぶつかられてさ」
明らかにダメだった。鉄の塊が飛んでくる、あるいは迫ってくるような状況があり得なさそうな世界で、そんなことが信用されるはずもない。
「鉄の塊がまともにぶつかったら、君みたいな女の子なんか、ぐちゃぐちゃの挽肉になるんじゃないの」
「いや、ウチも良く分かんなくてさ。死んでたけど、そもそも死なされたというか、勇者にする為に殺したとか、色々言われて……」
虚言妄言、もしくは戯言。
そのどれもが当てはまりそうな文言が並んでいる。実際、既にティナの目は死んでしまっていた。美しい顔立ちが、半目になっているせいでどこかの動物のようになってしまっている。それでも十分愛らしいのだが、桜の内心は穏やかではない。
墓穴を掘っているつもりなど毛頭ないのに、明らかに信用される気配がないのだから。
「キキ、この子本当に大丈夫なの?」
「単なる変わり者の異国人かと思ってたんだけどな」
ついでにキキからの信頼も失いかけていた。元々遺跡の中でも似たようなことを言っていたので、ティナよりはマシな状態ではある。
ではあるが、大差ない。桜のこれからの発言でどう転んでもおかしくない状態とも言える。
「本当なんだって!証拠とか、いっぱいあるし!」
「証拠ねえ」
長耳の少女からの疑いの眼差しにやや怯えながら、桜は目の前で右手の人差し指を突き出した。
視界の中で浮かび上がってきたのは、ロールプレイングゲームで見るようなステータス画面に近いモノ。それをスマホのように指で操作していき、持ち物欄を漁る。
隣の二人はその光景を同じような目で眺めていた。形容するならば、死んだ魚のような目である。
彼女が何をしているのかが見えていないのだから、当たり前である。体で隠れて見えていないとか、丁度陰になっていて暗さで見えないとかではなく、本当に何も見えていないのだ。
桜が目の前の空間に向けて、指を上下左右に動かしているようにしか見えていない。何らかの魔術を行使しているのか、それとも手品の類か。
彼らの解釈としては、その二つぐらいだった。
「何してんの、アレ」
「さあね。時々やってるみたいだけど、詳細は不明。魔術っぽくはないけどね」
暫く経ち、吟味が終わったらしい桜の手には一冊の本があった。
「これ!この教科書とか知らないこと多いんじゃない?」
大きく生物基礎と書かれた、緑色の本。
つまるところ、教科書である。ただでさえ暗記量の多かった理科という科目。それが更に分裂した生物分野の基礎基本。大まかに言えば、それが生物基礎。
正直なところ、桜としてはあまり見たくもない代物だった。しかし、信頼を得る為ならば、一番手っ取り早い手段だと考えた結果の一品である。
「教科書?」
「こっちにはないの?」
「あるけど」
差し出されたそれをキキは受け取り、パラパラと中身に目を通す。それにティナが横から顔を突っ込み、桜の体感としては大体二分程度。
「知らないというか、まず字が僕らの使ってるやつと少し違うから読みにくい」
「少し?」
返ってきたのは、桜の予想外の言葉だった。
「うん、少し。内容はそうなってるんだ、凄いなって感じ。僕らは生物の内部構造なんて勉強しないから、知らなくても当たり前なんだよ」
「医者なら、まあ知ってると思うわよ?ここまで詳しいかは分かんないけど」
あまりにも寛容。そもそも驚かれている様子がなかった。
自分達の知らない分野の知識を披露されただけ。単にそれを感心しながら見ているのだ。
「森の植生もこんな感じなの?」
「アタシが生まれた時には、もう完成してたから分かんないわよ。でもそうなんじゃない?想像できるから」
「森の民の常識みたいな?」
「そんな感じ」
二人は桜のまだ習っていない範囲を眺めながら、そんな話をしている。
森の植物がどのように移り変わるのか。その程度の話でも、教科書やら勉強と聞けば嫌悪感が先に湧き出てしまう桜には、あまりにも想像しにくい光景が目の前で広がっていた。
「そういうの、好きなの?」
もう自ら進んで触れることのないであろう教科書を指し示しながら、桜は問い掛けた。
「知識っていうのは、取り入れておいて損はないよ。新しい魔術の切っ掛けにもなるし」
「ああ、アタシは別に勉強は好きじゃないわよ?キキが変なだけ。頭の構造とか、魔術に関する才能とかはアタシ達の比じゃないのよ」
「変ってのは心外だね」
それを聞いて、少女はホッと息を漏らす。
勉強が好きな人間に苦手意識があるわけではない。ただ、もしそうならば、接し方を多少変える必要があると考えただけである。
絶対曲げられない主義主張、現在桜が話そうとしている身の上話等々、必ず通さなければいけない話ならともかく、物事の好き嫌い程度で争うのは馬鹿らしい。
少なくとも、桜はそう考えている。
「その年で二つ名持ってる奴なんて、変でしょ」
「欲しかったわけじゃないよ。成り行きだ」
「二つ名?」
桜が聞き返すと、間を置かずに低い声が少年の口から漏れ出す。
「僕の称号みたいなモノだよ。あまり好きじゃないから、この話はしなくて良いかい?」
やや不穏な空気を感じ取り、桜は即座に手を叩いた。
それで霧散させることは叶わずとも、注意を引くことはできる。そして間髪入れずに再度疑問を提示し、話の方向を自分の方へと向けた。
「じゃ、じゃあさ。ここの文字ってどんなの?」
「ここだけのっていうのはないよ。基本的には大陸の共通語かな」
元の明るい雰囲気に戻ったキキは、そう言って懐から杖を取り出す。
ペンか何かを取り出すのかと思っていた少女は一瞬キョトンとし、すぐに理解する。
「とりあえず、こんなもんかな」
瞬く間に机の上を埋めていたのは、白で書かれた五十音。
幼稚園だか小学校だかで桜も目を通したことのある、あの表に近しい図が完成していた。
「え、何これ」
「だから、大陸の共通語だって」
「そうね、この大陸だったらこれで大体通じるはずよ」
桜の持つ知識では、それをキチンと読むことはできない。
社会の教科書や、古文の資料などで見たことがあることに加え、見覚えのある文字が適切な箇所に置かれていることで何とか読み解くことができるだけで、ポンと一字だけ示されれば、桜は瞬時に疑問符を浮かべる自信があった。
「昔の日本語じゃん!」
「……君、やっぱり自分の村を国だと勘違いしてないかい?」
「ちーがーうー!」
そう、日本語なのだ。
桜の記憶にある平仮名ではないが、それに通じる箇所のある旧字の並び。
それがキキの書いた五十音表だった。
「何ここ!日本なの!?ティナちゃんの服もそうだし、このお茶も紅茶とかじゃなくて緑茶だし!カタカナ大体通じないし!いつの時代なの!?」
「シラカバ王国だけど」
「知ってる!分かってる!そこまでバカじゃないから!」
突如張り上げられた声のせいか、再び店の奥からガシャンという悲しい音が響いた。
しかし、今度は桜も止まらない。あまりにも日本な異世界。そこでやけに疎外されている日本出身少女は、怒りにも似た感情をぶちまけながら、空中に指を走らせる。
「とにかく、ウチは勇者なんだって!ほら、ステータスにも書いてあ……そうだった、これ人に見せれないじゃん」
「キキ、お人好しなのも大概にしない?」
「変な拾い物をしたって言いたいのかな?」
冷静なのか呑気なのか。そもそも話を聞いていないのか。
何れにせよ、邪険に扱われている側としては堪ったものではない。
「ウチは元JKの勇者なんだってばぁ!」
ヤケクソ気味に叫ばれた言葉が、文字通りに受け入れられる日はまだ遠い。