顛末
内側からこじ開けられるように、やけにゆっくりと開かれた男の口から出てきたのは、明らかにそこから出てくるべき物ではなかった。舌や歯のような、普段から口腔内に存在する物でもなければ、血反吐でも吐瀉物でもない。
「……何だ?」
「さぁ」
コツンと音を立てて地面に転がり落ちたのは、真っ黒な細長い何か。男の近くにいた三人が目を凝らしても、その正体は不明。動物の糞に見えなくもないが、そんな物が口から出てくることはあり得ない話である。
それをキキが短杖の先端でおっかなびっくりに突いていると、残された二人の元に、長耳の少女がヨタヨタと歩み寄ってきた。見るからに酷いのは腕の怪我だが、やはり足の状態も良くないらしい。
「良いとこだけ持ってったわね」
「仕方ねえだろ」
「突っ込んだバカは誰だったかしら?」
ぐうの音も出せず、ピノが項垂れた。誰かが行かなければならない状況だったのは間違いないが、先陣を切って無策に突っ込んだのも事実だ。もしそれで解決していたならば、ティナも文句は言わなかっただろう。しかし、ピノが一人放り投げられて気絶した結果、もう少し楽だったはずの戦闘が一気に崩壊し、ティナもキキも傷だらけという状態。文句の一つや二つ口に出されても、仕方のない部分はある。
「え、何?どうして二人とも落ち着いてるの?さっきの見てないの?見たよね?ウチだけ?」
そんな中で一人、取り残されている少女がいた。周りは一件落着といった様子で和気藹々と話し始めている中で、たった一人だけキキの起こした何らかの現象についていけず、ただ周囲をキョロキョロと見ている。
だが、見回したところで彼女が先ほど目にしたはずの、男が肉片にされてしまった痕跡はどこにもない。床に散らばっているのは血痕ぐらいで、男は白目を剥いたまま倒れ込んでいる。片腕はなくなっているし、片足には剣の突き刺さっていた痕はあるものの、やはり酷く刻まれたような形跡はない。
「もう慣れたわ」
「だな」
「慣れたって何!?」
諦めたように言う二人のおかげで、自分が幻覚を見ていたわけではないと安心したのも束の間、桜はその言葉の異常さに気づいてしまった。
「いや、言葉通りよ。直視したのは四回目」
「よ、四回も見たの?」
死体を見るだけでも胃の中身をぶち撒けていた少女からしてみれば、信じられないことである。一回だけでも精神的にかなり参っているのに、それを目の前に立つティナは四回も見たと言うのだ。
「嘘じゃん」
想像するだけで気が遠くなる。そんな表現を思い浮かべてフラフラとし始めた桜の頭に、白い肌の手刀が軽く振り下ろされた。ティナ自身酷い怪我である為、大した力は入っているモノではない。しかし、それでも少女の正気を取り戻すには十分な衝撃だった。
「しっかりしなさい。慣れるべきじゃないけど、慣れなきゃコイツの近くじゃやってけないわよ」
ピッと振り払われた勢いで手刀が示したのは、杖でやや乱暴に黒い何かを叩いている少年の姿。目の前の謎の物体に夢中になっているらしく、キキは特に反応を示さない。その背中をジトっとした目で見た後、長耳の少女はもう一度手刀を作った。対象は言わずもがな。何も予告することなく、それは容赦なく後頭部に落とされた。
「もしかして、コイツって僕のことかい?」
衝突時の鈍い音だけ聞くと、明らかに桜の時よりも力が込められている。それが音だけだったのか、それともキキが慣れてしまっているのか。何れにしても、少年はそれで漸く気づいたらしい。彼は頭を摩りながら振り向くと、杖を握っていない方の手で自分を指差して、そんな間の抜けたことを口にした。
「アンタ以外誰がいるのよ」
「……確かに」
考え込む素振りと共にくしゃみを一つ鳴らす。それが切っ掛けになったのか、少年は思い出したように手を叩いた。
「でも、ティナも初めて見た時は泣いてたよね」
「泣いてないわよ!ほんのちょっと涙が出てたかもしれないけど、別に泣いてなんて」
「はいはい」
「何なのよ!」
自分から話を振っておいて、途中で乗るのをやめる。かなり雑な扱いである。そんな扱いに納得するはずがない彼女は、当然のように吊るしてない方の手を握り締め、割と本気でそれを振るっていた。どちらも怪我人であるというのに、あまりにも元気に喧嘩をしている。
「痛いってば」
「アタシだって身体中痛いわよ!」
ならやめるべきではないだろうか。ピノも桜も似たようなことを口に出そうとしたが、戯れに口を出すのは何となく憚られた為、とりあえず二人とも無言で見守ることにした。
じゃれあいが繰り広げられたのは、ほんの少しだけ。金髪二人組もそれなりに元気ではあるが、流石に一連の戦闘を経た後だと体力はなかったらしい。二人して仲良く息切れしながら、一人は盛大なくしゃみを何回か挟みつつ、桜の方へ向き直った。
「とりあえず安心して。今は精神的にかなりキツいと思うけど、ティナと同じ要領で治すから」
「う、うん?治す?トラウマ的な?」
「……まあ、そんな感じだよ」
ピノが僅かに首を傾げるだけで、もはや二人は気にしてもいない。黒髪の少女が不定期に口に出す、意味の良く分からない単語。それらを一々気にしていては、自分達が疲れるだけなのをキチンと理解しているからだ。
「で、キキ。それ何だったんだ?」
「さぁ。でもコイツの言葉が確かなら」
そこまで口にした時、彼らの後ろで何かが跳ねた。鳴ったのは微かな音のみ。しかしながら、身体で嫌な予感を感じ取った二人は、各々の得物を手にして勢い良く振り向いていた。
「騒音、不快。依代、機能停……停止してない、何故」
そこにいたのは、先ほどまでキキが叩いていた物体に酷似した物。非常に良く似てはいたが、確実に違う点が一つだけあった。それは物体のあちこちから生えている、本体と同様に黒い触手のような物。黒く細長い本体から、更に黒く細長い触手を四本生やし、それはウネウネと気味悪く自重を支えながら地面に立っていた。
その本体が向いているのは、白目を剥いて動かなくなっている男の方。もはや胸はろくに上下しておらず、倒れたまま指一本動いていない。息絶えるのも時間の問題のように思える状態だが、確かにまだ生きていた。
「虫……じゃないよね」
「気持ち悪いわね」
「何だコイツ。喋ったのか?」
「機能停止なんて、させるわけないだろう?」
三者三様ならぬ、四者四様。戦えないティナは自分の身を守れるように下がり、桜は置きっぱなしにしていた大剣を引っ掴んで男子二人の隣に並び立った。神々しい剣を携える姿は頼もしくあるものの、顔色からして調子は若干悪そうである。
「不可解」
そんな並び立つ三人の中で、黒い物体がその小さな体を向けたのはキキだった。目のような器官は見当たらず、顔を形成する部品も何一つない。だが、それは倒れた男の声を出しながら、確実にキキの姿を捉えていた。
「だろうね。教えても良いけど、まずは君の目的から話してもらおうか」
そんな気味の悪い物体に一歩も引くことなく、少年は杖に光を灯す。パッと僅かに灯らせただけだったが、それだけでも先ほどの光景を思い出させるには十分である。黒い何かだけでなく、桜も少しばかり後退ることにはなったが、気合と根性とでも呼ぶべきモノで少女は堪えていた。
「依代、不可欠。適切な個体、不在」
そしてソレは怯えていた。そんな感情があるのかは定かではないが、少なくとも文字通りに右往左往して、どうすべきか困り果てている様子ではあった。
しかし、困り果てるのはその物体だけではない。その物体を相手にしている彼らも同様だ。誰かソレを相手取った経験があるならともかく、全員にとって未知の存在が相手なのだから、戸惑うのも当然である。つい先ほどピノが考えなしに突っ込んでやられてしまったこともあり、迂闊に手を出すこともできない状況。一種の膠着状態が出来上がってしまっていた。
「標的、変更。目標、下方修正」
そんな状態を先に崩したのは、謎の物体の方だった。取った行動はあまりにも奇怪。黒い触手をビュンと伸ばし、その反動を使ってキキの顔に向けて突貫。
「まさかの僕か」
その大きさに見合った俊敏な動きに対し、即座に反応できる人間はいなかった。ただ、半拍遅れる程度であれば、ピエール・ノラレスにも十分に反応できた。
「させるかよ」
一閃。銀色が宙を走った瞬間、飛来してくるはずだった物体は真っ二つに裂かれ、赤い斑ら模様の地面に落ちていた。
一歩踏み出してキキの盾になりつつ、正確に斬り伏せる。ほんの一瞬のうちにそれだけのことをやり遂げ、彼は剣を鞘に納めた。十二分に仕事は果たしている。倒れていたことを考えれば、もう少し何かすべきなのかもしれないが、少年の窮地を救ったのは非常に大きな功績だ。それは間違いないのだが、一つだけ問題が増えていた。
「……ねえ、アレって重要だったんじゃないの?」
ティナの指差す先で、黒い塵と化したソレ。魔王の残骸を名乗って活動しており、勇者という存在を理解する為にも有益な情報源。男の姿で口に出していた幾つかの言葉も、色々な価値を持っていたかもしれない。
もし本来の危険性を加味せず、人語を介する謎の物体という評価だけを下されたとしても、研究対象としては非常に有用だっただろう。
「俺が悪いのか!?」
そんな存在を斬り伏せた。決して悪いわけではない。もしキキと接触していれば、何が起こったか分からないのだから。最悪の事態に発展していた可能性を考えれば、非常に良い働きをしたのは間違いないのだ。得られたかもしれない情報に目を瞑れば。
「ピノ君が悪いというか……」
誰も悪くない。それが最終的な答えである。全員が顔を見合わせ、静かに頷いた。
「とりあえず、解決って感じかな」
大事な証拠になりそうだった物が消し飛んでしまったものの、後先を考えないのであれば、一件落着という状態。ピノもため息を吐いて安堵を示していた。
それと同時に緊張の糸が切れたのか、またフラフラとし始めた桜の後方。そこにはいつの間にやら、甲冑を纏った兵士が数人。そしてその内の一人、最前列にいた赤毛に赤い目のピノに良く似た青年によって、少女は抱き抱えられた。
「そうだね。解決ではないけど、一段落ってところかな」
「あ、アル……アルベ」
咄嗟に名前を思い出すことができず、再びフラフラとした足取りで男から離れた桜が、必死で絞り出そうとしたのは喫茶店を出た後に絡まれた少年の名前。
「アルバートだ。絶対に例の息子と間違えないように」
眉間に皺を寄せ、アルバートはそれを最後まで口に出させることをしなかった。相当不快らしく、舌打ちまで漏らしている。
「さて、キリレンコ君。一体全体、ここで何が起こったのかな?」
「いやぁ……」
状況は最悪というほどではない。キール・キリレンコという魔術師の社会的信用度と、ティナ・フレッチャーとピエール・ノラレスの身分。それらを使ってしまえば、話の捏造はそれなりにできるのだ。
しかしながら、一人だけ身分も何も証明できない少女がいる。根角桜という名前で、黒髪黒目の特異な容姿に、昨日まで持っていなかった大剣を携えた少女。それだけならまだしも、勇者の可能性が非常に高い存在。
「この子に異常な執着を見せてる男がいまして」
「……ふむ」
キキはそれらを隠すことにした。嘘偽りで覆い隠すのではなく、敢えて言わない方法で。
「それが強いの何の。ピノはやられるし、ティナも大怪我。僕もこの有様で大変だったんですよ、本当に」
ハッハッハッと態とらしい笑い声を上げながら、少年は傷だらけの身体を見せつけた。腫れている顔やら、血だらけの腕やら。ティナも彼の意図を汲み取って、吊り下げた状態の腕をグイと前に突き出した。ただ一人、ピノだけがバツが悪そうな顔をして、隠れるように一歩後ろへ移動する。
「本当かい?」
「本当です」
嘘ではない。何一つ嘘は語っていないが、一部語っていないことがあるというだけだ。
「僕の大技披露したので、表の通りで目撃者とかいますよ、多分」
「確かにいたよ。その子も見られてる」
顎で桜のことを差し示し、アルバートは腕を組んだ。何やら納得のいかない様子で、若干不機嫌そうな顔でキキを見ている。それだけでまだ何かあるのは分かったが、少年は特に反応を見せずに微笑んだ。
「でしょ?」
「俺が聞きたいのは、もっと深いところだよ」
腕を組んだまま、青年は籠手で覆われた右手の人差し指をピンと立てた。
「ですよね……」
「君が追いかけてたダチョウの一件と、今回の路地裏の件がどう絡んでくるんだい?」
当然の疑問である。ダチョウ二羽によるハミルトン魔術学校男子寮襲撃事件と、路地裏での殺人事件。どこでどう繋がった結果として、彼らが路地裏で二つの死体と同じ現場に立っているのか。断片的に彼らの行動を知っているならともかく、何も知らなければどういうことなのかサッパリ分からないだろう。
「アルバートさんは、アレが何を原因にして起こったか分かってます?」
「部下から聞いてはいるよ。突発的な病気の可能性と、興奮剤のような薬を盛られた可能性。後者の方が大きいだろうって話だった」
キキが聞いていた話とほとんど一緒である。彼も得た情報から後者の可能性に絞った結果、路地裏にやって来たのだから。
そしてそう言った直後、アルバートは腕組みを解いて、指をクイクイと路地を出る方角へ動かした。どうやら移動するという合図らしい。兵士達はすぐにガシャガシャと金属音を鳴らし、規則正しく動き始めた。
「だから、医者のところに行ったんです」
「医者?」
キキがそのままアルバートの隣に並び、その後ろを三人がついていく。ノラレス邸で行われていたような、キキに全てを押しつける構成である。彼がそれで納得しているので許されているが、貴族と並んで歩くという圧力を一身に受けるというのは、かなりの労力が必要になるだろう。
「薬師に知り合いなんていないので」
「俺に言ってくれれば良かったのに」
嘘偽りない本心からの言葉だったのかもしれないが、それに横槍を入れる弟がいた。
「兄貴にそんな知り合いいねえだろ」
「キリレンコ君に頼まれれば、火の中に飛び込んでも探し出すさ」
やや誇張した表現なのは間違いない。しかしながら、彼の今までの対応を見れば、本当に力を入れて探してくれるぐらいはしそうである。それでも弟としては口を閉ざさないらしく、またもや赤毛の少年は余計な一言を口にした。
「思ってもないくせに」
「久々に剣の鍛錬でもするか?」
そう言われると同時に、両手を上に上げて顔を下に向けるピノ。アルバートはそんな弟の姿を一瞥し、すぐに前方へ向き直った。別段兄弟仲が悪いということもなく、人前で格好つけている兄にちょっかいを掛けているぐらいの感覚のようだ。
「……それで路地裏はどうかって話になったんです」
続きをどうぞ。無言で顔を向けて訴えかけてきた青年に苦笑いを向けつつ、キキはそう締め括った。それ以上特に言うこともない為、そのまま黙って歩くこと暫く。アルバートは顎に当てていた手を外し、一人で勝手に頷いた。
「なるほど。確かに危険な薬ってなると表には出てこないな」
「そういうわけです」
「へぇ」
ニヤリと笑い、キキの顔を覗き込む。相変わらずの妙な圧力に気圧されながら、少年も負けじと笑みを作って首を傾げた。
「何か隠してないかい?」
「あれ、お腹空いてるのバレました?」
表情で探られないように、ズキズキと痛む顔を優しげに歪ませる。その状態のまま、両者睨み合いならぬ微笑み合いを続けることになった。そんな状況で進めるはずもなく、ズンズンと先に進む兵士達に取り残され、五人はもう表の道がすぐそこというところで、どうしてか立ち止まることに。
「……そういうことにしといてあげよう」
「それはどうも」
結局、先に折れたのはアルバートの方だった。しかし、折れるにしては異様に短い時間。赤毛を靡かせてさっさと前に進む青年を、キキは怪訝そうな顔で見ながら追いかけた。
漸く帰ってきた表の通りは、路地裏の惨状とは打って変わっての日常。露店から漂ってくる煙には焦げたタレの匂いやら、新鮮な果実の匂いやらが混じっていた。青年へ言った通り、若干空腹を感じていた少年は何か買おうかと頭を悩ませ始める。候補自体はそれなりにあるが、治療を受ける必要がある為、手短かに済ませられる物の方が良い。
そう考えた結果、彼が進もうとしたのは良くある串焼き屋。ミツメウサギモドキの肉を使った、極めて普通の露店。それに目掛けて足を進めようとした矢先、彼はアルバートの不安を煽る言葉を耳にした。
「だって、君にはもう一人お客さんがいるからね」
ガラガラと音を立て、キキと露店の間に巨大な物が割り込んできた。それは二頭立ての馬車。その前方にいるのは栗毛の馬と白馬が一頭ずつ。移動するならばダチョウで十分であるにも関わらず、態々豪勢な馬車で移動する存在。
キキの頭の中には何人かの候補がいたが、その中から聞こえてくる女の声で、すぐさまそれは一つに絞られた。急いで逃げようとしても、もう手遅れ。いつの間にか背後に回っていたアルバートによって、キキの傷だらけの両腕は痛まないぐらいの強さで掴まれていた。
「キール・キリレンコ。またやらかしたそうですね」
響いてきた声の正体を知る少年は、露骨に顔を引き攣らせる。
「ああ、やっぱり」
ギィと扉が小さく音を立てた。そこから現れたのは、馬車の豪華さとは合わない、喪服のような格好をした縦にも横にも大きい女性。比較的小柄なティナと比べると、パッと見ると倍ぐらいの差はありそうな姿形である。
「お、お久しぶりです、理事長先生」
座学中心で鍛えていないキキと、兵士と共に度々訓練に励んでいるアルバート。どちらの力が強いかなど、火を見るより明らかだ。どうにかして逃げようとする二つ名持ちの魔術師だったが、前にも後ろにも動けない。それでも諦めずにピョンピョンとカエルのように飛び跳ねるも、やはり青年による拘束は解けなかった。
「あの太っ、じゃない。ふくよか……だっけ?あの人って誰?知り合い?」
「アタシ達の学校の理事長」
「ミランダ・ハミルトン。キキの天敵だよ」
そう言っている間にも、ミランダはズンズンとキキの元へ歩み寄っている。側から見れば、少年を喰らおうとする魔女に見えなくもない。
「ヘンゼルとグレーテルってこんな感じだったのかな」
そんな桜の懐かしそうな呟きは、間髪入れずに放たれた少年のこれまでにないぐらいの悲鳴によって、すぐさま掻き消されることになった。
「理事長、少し待ってください。確かに勝手に行動はしましたけど、キチンと収拾はつけましたよ?」
「私は何度も注意したはずです。大抵のことは見逃しましたし、前回の実験室爆破の件も反省文で済ませました」
完全に丸め込まれている。アルベルトは舌戦で一方的に退散させ、戦闘中もペラペラと軽口を叩いていた少年とは思えないほど、一方的にやられていた。彼が一つ口に出すごとに、十も二十も小言が女の口から飛び出しているのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが、あまりにも酷かった。
「その節はどうも」
「ええ、その時にキチンと言っていたはずです。もう一度面倒な事件に関与すれば、貴方の諸々の処理で溜まってしまった書類、主に魔術師協会へ提出する報告書の製作を手伝ってもらうと」
いつもの調子で戯けようとしても、それすら許されない。魔術師としての階級など関係なく、そこにあったのは完全に生徒と先生という上下関係のみ。ミランダが元々大柄であることも相まって、五尺五寸はあるキキが非常に小さく見える。
「あの、協会から受け取ってる支援金の半分くらい渡すので、どうにか許してもらえません?」
「貴方の支援金、実家への仕送りやら何やらでほとんど残ってないのを知らないとでも?出せても銀貨数枚でしょう?私の時給はその程度だと言いたいのですか?」
もはや虫の息である。元々外見上はボロボロだったが、今までは特に痛みを感じさせない振る舞いをしていた。しかし今現在の彼は、心身共に酷い状態である。別に心に消えない傷を負わされたというわけではないが、正論に正論を重ねられて項垂れている。
ミランダはそんな状態のキキの首根っこを掴み、子猫でも持ち上げるように軽々と肩に乗せた。悪質な魔女による人攫いにしか見えないが、誰一人として手はおろか口も出せない。
「二つ名持ちの手を借りれるなんて、私は幸せ者です。さあ、キリレンコ。さっさと学校に帰りますよ」
「ちょっと!ティナ、ピノ!サクラ!誰でも良いから!」
桜以外はハミルトン魔術学校の生徒である。キキのように魔術師としての位が高いならともかく、家の名前を取ってしまえば単なる一生徒でしかない彼らが、理事長であるミランダに何か言えるわけがない。
桜も最初こそ何か言おうと思っていたが、キキを連れ去ろうとしている大女が言っていることが間違っているとも思えなかった為、結局何も言えなくなっていた。つまるところ、彼に救いの手は差し伸べられない。
「お腹空いてるのは本当なんですって!さっきから露店の串焼きの匂いがぁぁ」
肩に担ぎ上げられたまま、少年は馬車の中へ消えていった。魔術師として魔術でやり合った結果ではなく、単純な力の差による拉致。キキがあまりにも貧弱過ぎるのか、ミランダがあまりにも怪力なのか。前者の可能性も捨て切れないが、後者の可能性の方が大きいのは間違いない。少なくとも、根角桜はそう思っていた。
「……まあ、仕方ないわね」
「そうだな」
今回の件だけでなく、キキのこれまでの事情を多少なりとも知っている二人からしてみれば、当然の処遇。むしろ学校の施設を一つ破壊しておきながら、書類の作成程度で許してもらえるのは優しいぐらいである。
「さて」
再びガラガラと音を立てつつ、少年の絶叫を残して去っていく馬車。ティナがそれを聞いて何とも言えない表情を浮かべている最中、キール・キリレンコ誘拐事件の片棒を担いだ貴族が、場の空気を切り替える為に手を叩いた。
「俺の本題、実は別にあるんだよ」
「何?まだ何かある……んですか?」
ティナが発した、取ってつけたような敬語。確かにいつもの彼女の調子ならば、貴族を相手にする態度ではない。そんな彼女の様子を見るのが珍しかったピノは、一瞬だけ笑い声を漏らした。それをティナの地獄耳が逃すはずもなく、ダンという音と共に少女の右足が少年の左足を思い切り踏みつける。
「君さ、身元不明のサクラちゃん」
「は、はい!え?どうしてバレてるんですか?」
突如襲ってきた強烈な痛みにピノが飛び跳ねている最中、アルバートの顔は二人の方ではなく桜の方へ向いていた。人当たりの良さそうな笑みだが、その口から出てきた不穏そのもの。もう何度目になるか分からないが、桜はまた顔を青くしてしまっていた。
「昨日の門番だった二人が全部話してくれたよ。目立つ容姿とキリレンコ君。その二つがあって覚えてないはずがないからね」
彼女もその二人は覚えている。やや粗暴な感じのする甲冑と、落ち着いた雰囲気のある甲冑。その二人に色々と身分証になりそうな物を提示したが、最終的にはキキが身元保証人のような扱いになって、彼女はオーデマリに入ってきたのである。
「生憎、俺は単なる騎士の家の長男だ。この国の身分証は用意できなくもないが、手間が掛かる」
何らかの罰を与えられるかもしれない。そんなことを考えていた桜だったが、話の方向性が若干違うことに気づいた。目の前の赤毛の青年がそれほど怖くないのは知っていても、貴族であることや兵士を連れ歩いている姿を見て、少しばかり怖気付いていたのだ。
「そこで一つ提案があるんだ」
「な、何でしょうか」
にんまりと笑うアルバートの姿は、その長身も相まって中々の迫力である。ピノも同じような容姿ではあるが、元々若干ガラが悪そうなことで差し引かれ、キキと同じぐらいの身長しかないことで更に緩和される為、そういった迫力は若干少ない。
「君達みたいなのは一緒にまとめておいた方が管理し易い。それが上からの意向でね。君達もそう思わないかい?」
何のことか良く分からないまま、桜達は三人揃って首を傾げるのだった。




