クマノミ遺跡にて
食堂で取っ組み合いの喧嘩を披露してしまった翌日のこと。
キキは一人で王都近郊にある遺跡にやってきていた。街で借りてきた足代わりのダチョウ以外、彼の近くにお供はいない。
昨日の喧嘩が原因というわけではなく、単純に友人が二人とも忙しいという理由だ。ピノは実家に呼ばれており、ティナは長弓の新調。
キキ自身、元々一人で行くつもりだった為、そこまで落胆してはいない。それでも話し相手がダチョウ一羽というのは、少しばかり寂しいのである。
「ぷぎぃ」
「鳥とは思えない鳴き方だよね、君」
制服の上に黒い外套を纏った、何とも地味な服装のキキに対し、彼の跨る鳥はあまりにも奇抜な姿をしていた。
若葉のような緑、南国産の果実のような黄色、空のような鮮やかな青。全身をその三色の羽毛で覆っている、首の長い巨大な鳥。何を由来としたのかは定かではないが、それはダチョウという名前で多くの人々に親しまれている。
「よいしょ、と」
流石に怪我をする高さではないが、注意をするに越したことはない。ダチョウの背中に手を掛けながら、キキはゆっくりと草の上に足を下ろした。
そのまま視線を上に向ければ、ギョロリとした瞳と目が合った。背丈はキキの倍ぐらいだろうか。
怪鳥と呼んだとしても、それは過言ではない。しかし、より奇怪なのは大きさではなく、その脚部だ。ダチョウという生き物は、鳥と同じ形状をしているにも関わらず、翼を使わずに足で移動する。その結果として、どの個体もバケモノ染みた脚力を有しており、そのせいで年に数人の死傷者が出ている。だが、その点を除いてしまえば、基本的に恐れる要素のない存在だ。
人間の移動の為に飼育され始めて数百年経っていることもあり、最近では小型化も進んで、一部では愛玩用にもなっている。
「ぷぎ」
「何さ。食べ物なら、そこらの葉っぱを食べといてくれると助かるんだけど。流石に僕の昼ご飯を分ける気はないよ」
無愛想な鳥に背を向け、キキは少しずり落ちかけていた背嚢を肩に掛け直す。中に入っているのは、雑記帳と水筒、そして弁当。雑記帳と水筒は少年の自前だが、弁当は違う。何故か出発前に訪ねてきた長い耳の友人が、顔を赤くしながら持ってきた物だ。
女性らしくと言うべきか否か。育ち盛りの十五歳男子が持つにはやや小さめだったが、現地で適当に木の実でも採ろうと思っていたところには、渡りに船。当然キキが断ることなどなく、大喜びで受け取って鞄に詰めてきた。
「ぷごぉ」
気前の悪い主人だ。
魔術師の卵とはいえ、流石に鳥の言葉は分からない。だが、声に反応して振り返ったキキには目には、ダチョウがそう言っているように見えた。
「じゃあ僕は行ってくるから、ここで待ってるんだよ。分かったかい」
特に返事などはなく、ダチョウは長い首を地面に垂らし、草をむしる。そして嘴で器用に緑の部分だけを刈り取り、頭を天に向けて嚥下する。仮初ではあるが、一応の主人であるキキには目もくれず、一連の作業を繰り返し始めた。
「ま、勝手に戻られても多分平気だけどさ」
王都近郊ということもあり、遺跡の周囲は比較的整備されている。街道には定期的に見回りが訪れる為、肉食獣も少なく、夜でも割と安全に帰れるのだ。ただ、もしダチョウが逃げてしまった場合、キキはかなりの距離を歩かなければならない。それが少しばかりの問題だった。
「さて」
取り出した短杖の先端に光を灯し、遺跡の入り口を照らす。看板などもない為、初見では単なる洞窟と見間違えることだろう。
キキの目の前にある洞穴。その正確な名称はクマノミ遺跡。御伽話で有名な遺跡の一つだ。
かつての勇者が足を踏み入れ、狼に襲われたということでも有名な遺跡である。しかし、それまでの過程というのは、あまり正確には伝わっていない。そもそも襲われた相手が狼かどうかも定かではない。
試練として遺跡の奥底に放り込まれ、狼達と激闘を繰り広げたというのが定説ではあるが、遺跡の奥底で誕生したのではないかという、荒唐無稽な説も存在している。
キキ個人としては、単純に迷い込んだら動物に襲われたという説を推している。歴史学者ではない上、最終的な目標も魔術師である彼からしてみれば、至極どうでも良い話ではあるが。
「適当に選んだは良いけど、ここって壁画とかあったっけ」
人類史と共に成長を遂げてきた魔術。人類史の遺物である遺跡であれば、ほぼ確実にその痕跡は見受けられる。
それは壁画であったり、未だに奥底で機能し続けている魔術道具であったり。他にも様々な魔術の痕跡があるが、一番はやはり壁画だ。自己解釈をすればするだけ、勝手に魔術と紐づけることができる。
それがあったかどうか。遺跡の探索など真面目にしたことのないキキには、薄く記憶に残っているだけだ。その記憶もまだ二桁になってない頃のモノで、本当にクマノミ遺跡のモノだったのかどうかすら怪しい。
「ま、良いか。最悪の場合、関連性はなかったって締めれば良いでしょ」
彼の担任であるトンプソンが聞けば、おそらく頭を抱えるだろう。
そんなことを一人で喋りながら、カツカツと石造りの床を進んでいく。変わり映えのしない景色と、時々紛れる野生動物の鳴き声。
注意することがあるとすれば、勇者も襲われたという狼と、棲みついている動物のフンぐらいである。
「あ」
そして後者の方が、暗がりの中では分かりにくいのだ。
・
暫く歩いた後、キキはボケッと何もない天井を見上げていた。
杖の先端は光を放ち続けている為、視界に問題はない。ほぼ一本道である為、道にも迷うはずがない。
「どうしよう」
にも関わらず、少年は困った顔をしていた。途方に暮れたような、迷子になったような。
そのまま顎に、剣か何かを持つような形にした手を当て、首を傾げる。
「書くことも無いし、適当にでっち上げようかな」
結論として、遺跡には特に何もなかった。元々何かあったか記憶に怪しいぐらいなのだから、当然と言えば当然の結果だ。
そしてこれも当然のことだが、新発見があるはずもない。もう既に初めて調査されてから百年以上経っている遺跡なのだから、今更素人が散策した程度で新しいものが見つかるはずもない。
それでも、今度こそキチンと書かなければならないという一心で彼は突き進んだ。懸命に進んだのだが、何も目ぼしいモノがないのだ。最奥というわけではない。そこまでは到達していないが、道中にも何もないのだ。見つかったのは獣の骸ぐらいである。それに限って言うならば、指で数えられないぐらい発見できた。
そしてそれ以外に特に見当たらないのだから、もうどうしようもない。
「帰るか、それとももう少し進むか」
そう呟きながら、キキは顎に当てていた左手を、今度は壁に置いた。
何の変哲もない土壁に手を突き、そして沈み込む。
「ちょっ!?」
今まで出したことのない類の声を上げ、飛び退こうとするが時既に遅し。
手を中心に四角形に沈み込んだ壁の一部は、まるで幼児向けの嵌め絵のように奥へ落下した。
「……僕、死ぬ?」
呆然としたまま、キキは呟く。
半ば洞穴のような形とはいえ、一応は歴史的建造物である。その上、勇者に関連しているということで、かなり神聖視されている場所だ。
破壊したことが知られれば、何らかの処罰が下される可能性もあるだろう。最悪の場合は打首、火炙り。どれを選ばれたにしても、一般人かそれ以下の耐久力であるキキには死刑と同義だ。
しかし、そんな少年の絶望など、知ったことかと言わんばかりに事態は進行していく。それが悪化なのか良化なのかは不明だが、明らかに異常事態なのは確実である。
「世紀の大発見だとしても、かなりの厄介ごとでしょ、これ」
四角に空いた穴を裂くように一筋の線が走ったかと思えば、今度はそれを起点として壁が押戸のように開き始めた。
キキがその先に向けて杖を向けると、埃っぽいがやけに綺麗に整備された通路が、その姿を露わにする。彼が今まで歩いてきた道も石造りではあったが、照らされている通路は更に豪華だった。
暗闇のせいで分かりづらいものの、奇妙な模様が不規則に走っている石灰岩が壁と床に敷き詰められており、天井も同様。そして蝋燭のない燭台が幾つか直立している。
どうやら、遺跡を破壊したわけではなさそうだった。しかし、破壊よりも厄介なことが起きてしまっている。ただでさえ、キキは面倒な立場の人間である。そこに更に余計な経歴など欲しくはない、というのが彼の本音だ。
「どうしよう」
足を進めようにも、流石に未知の領域へ一人で行くのは憚られる。キキも多少は腕に覚えのある魔術師の卵だが、あくまで魔術師だ。
ピノにタチが悪いと評された魔術を使えば、大抵の相手は追い返せるだろう。それはキキも自覚しているが、それを使えば確実に勝利を掴めるというわけでもない。
「……知らないフリして帰ろう。そうしよう」
幸いなことに、キキの周囲には人もいない。現状を放置して帰ったところで、すぐさま露呈することはないだろう。
彼の嘆いていた通り、クマノミ遺跡には特に何かあるわけではない。かつて勇者が来たというだけの、単なる洞穴擬き。
つまり、遺跡を探索するような趣味の持ち主や、勇者に関する考古学を専攻している人間でもない限り、余程の用事がなければ来ないのだ。
「うん、そうだ。課題にはクマノミ遺跡には何もなかったって書いて、再提出になったら別の遺跡に行く。最高の引き伸ばし作戦じゃないか」
名案だとでも言うように、少年は首を何度も縦に振る。厄介ごとには関わるべからず。
面倒なことに巻き込まれて、ハミルトン魔術学校で何気なく過ごす日常が破壊されるというのは、彼にとっては非常に回避したいことなのだ。
「よし」
そう言って帰ろうとした矢先、杖の照らす道の先から、一つの声が飛んできた。
「あ、何か光ってる!」
洞穴の奥。封印のようなモノを解いてしまい、妙な女の声が聞こえてくる。
怪談の舞台となる状況としては非常に良く整っているが、流石に完璧過ぎる。きっと勘違いだろう。そう思ったキキはそのまま静止し、杖に流す魔力の量を増やした。端的に言えば、杖から放たれている光量を増やした。
「おーい!おーい!」
どうやら、聞き間違いではなかったらしい。だが、その声は恐怖を感じる声色ではなく、普通の可愛らしい類の声。
それから暫くして少年の目に映ったのは、赤い布と白い布。やはり怪談の類かとキキが身構えると、続けて黒い布と長い黒髪が浮き上がってくる。やがて完全に光に晒されたのは、黒髪黒目の少女だった。
「いやー、助かった。ありがとう」
照れ臭そうに笑いながら、後頭部に手を当てるその姿は到底幽霊には見えない。死体が動いているにしても、血色が良過ぎる。
「神様に世界救ってこいって言われて放り出されたんだけど、目が覚めたら真っ暗闇で。スマホがあったから良かったけど、流石に何時間もライト使ってたら充電もなくなっちゃってさ」
そのまま人懐っこい笑みを浮かべて寄ってきた少女は、何とも言えない表情を浮かべるキキのことなど気にもせず、一人でペラペラとよく分からない単語混じりで話し始めた。
どうやら異国の少女らしい。近づかれたことで、キキもそれは理解することができた。まず顔立ちがかなり違う。凹凸が少ないとでも言うべきか、どことなく薄いと言うべきか。
それに加えて、服装も変わっている。ティナを筆頭に女性がよく着用している袴に似ているが、袴とは異なる衣服らしい。そもそも上半身を覆っている衣服も良く分からない。白い半袖は良しとしても、他は一体全体何なのか。胸元に垂れている赤い布が飾りなのは理解できても、その上に重なっている黒い布は何なのか。流行に興味がないキキだが、街に出掛けるぐらいはする。
その時に良く見る服装が今の流行だと判断するのだが、目の前で未だに何かを喋っている少女は、キキが今まで見たことのない系統の服に身を包んでいる。
色々と立て続けに起こったせいで、パッと言葉選びこそできないが、確実に自分とは違う国の出身だ。そうキキは判断した。
ついでに言うならば、どこがとは言わないが体の一部も薄い。キキの友人である長い耳の少女も起伏に富んでいるわけではないが、それでも女性らしい身体つきはしている。直接的な表現をすると、彼の目の前にある黒髪黒目の少女は、キキと大差ない背丈の割に子供のような体型なのだ。
「あ、スマホとか言われても分かんないよね」
「そ、そうだね」
気圧されているキキの方へ向けられたのは、派手な赤色の革のような物体に覆われた、手のひらに乗るぐらいの大きさの黒い何か。白い四角の中に赤い棒のようなものがある奇妙な絵が映っているが、それが何なのかは少年には皆目見当がつかない。
そもそも未だにグイグイと来ている少女が、一体全体何を目的として遺跡の隠し通路から現れたのかもハッキリと分かっていないのだ。
神様だとか、世界だとか。黒髪の少女は出会い頭に大層なことを口に出してはいたが、十中八九狂言だとキキは考えている。
「そうだ、自己紹介しようよ。ここで会ったのも何かの縁、ね?」
「キール・キリレンコ」
「それだけ?」
「いや、他に何があるのさ」
見た目だけなら狂人になど見えない少女なのだが、その調子は気が狂っているとしか思えない。暗闇に長時間閉じ込められておかしくなったのかもしれないが、それにしては疲労の色が一切見えない。
「どこ出身とか、好きな食べ物とか」
「シラカバ王国の端っこにある、チュロスっていう宿場町の出身。好きな食べ物は母さんの作った煮物」
「何そのシラカバ帝国って」
少女は冗談のように言っているが、キキからしてみれば王国と帝国は大違いである。当然、彼はすぐさまそれを否定した。
「帝国じゃない。王国だ」
「ウチ世界史取ってないからさ。アメリカとか韓国ぐらいなら分かるんだけど」
言葉の響きだけで考えるならば、世界の歴史を略称した単語である。
それを取る取らないというのが少年には理解できない部分だったが、目の前で笑う少女の意味不明な言葉に片っ端から突っ込んでいては、ほぼほぼ確実に日が暮れてしまうのも事実である。
「で、本当は?」
「本当も何も、ここはシラカバ王国のクマノミ遺跡だよ」
キキからしてみれば、それ以外の何物でもないのだが、自己紹介をしようと言って自分は何一つ情報を明かさない少女からすると、かなり意味の分からないことだったようだ。
キキが眉一つ動かさずに疑わしい視線を向ける先で、首を左右に倒して疑問符を浮かべていた。
「そういえば、ウチ普通に外国語喋ってる。いや、そっちが日本語喋ってんの?これどっち?」
「君も僕も喋ってるのは大陸の共通語だよ。何、トチ狂ったの」
「大陸ってユーラシア?でもユーラシアってさ、中国語とか韓国語とかあるじゃん」
「君が言ってることの大半が意味不明だし、ユーラシアなんて大陸はないよ。海の向こうの更に向こうとかなら、可能性あるかもだけど」
薪を斧で真っ二つにするように。本当に何気なく、彼にとっては常識的なことを言っただけなのだが、やはり少女にとっては衝撃的な事実を並べられているらしい。
再度首を傾げた状態で顔を青くしたかと思えば、右の人差し指を宙に突き出して、ボソリと呟いた。
「……ステータス。え、マジで出てくるじゃん」
「すてぇたす?」
そのまま宙に文字でも書くように人差し指を動かす少女を眺めつつ、キキは一歩ずつ後ろへ下がり始める。やはり頭がおかしいようには見えないが、実はかなりの厄介ごとであることが露呈し始めた人間に、これ以上関わろうとは思えなかったからだ。
そもそも遺跡の隠し通路から現れた時点で、全速力で逃げるべきだったのかもしれない。遺跡探索を翌日に回せばこんなことにならなかったのでは。
もしもの話が色々と頭を過りながらも、キキが更に一歩後ろへ足を動かそうとした瞬間、黒い頭がバッと彼の眼前まで寄ってきた。よく見れば端正な顔立ちだが、流石のキキも明らかにおかしな少女相手には口を噤むしかない。
「……日本って知らない?あ、ジャパンの方が聞き覚えある?」
「知らないよ」
またもや奇妙なことを言い始めた変人をどう処理しようかと思案しつつ、キキは杖を握り締める。タチの悪い魔術を利用して逃げ出すのも一つの手だが、それはあくまで最終手段だ。
普通に話がつくなら、それに越したことはない。ダチョウが逃げている可能性も考慮に入れると、なるべく安全に別れた方が良いのは確実なのだから。
「嘘でしょ?寿司とか、東京とか知らないの?」
「ニホンもジャパンもその後の言葉も知らない。大陸の主要な国は全部覚えてるけど、そんな場所は聞いたことない。君がいた村か何かの名前?」
キキの言葉にカチンときてしまったのか、少女が牙を剥いた。牙を剥くと言っても、別に猛獣のような凶暴性は見受けられない。
背丈に差が無いということもあり、狼や熊のような獣よりは猫の類を想像してしまう程度の恐ろしさである。
「違う!日本は国の名前!そもそもウチがいたのは住宅街!まあ、そりゃちょっと田舎だけどさ?歩いて三分のとこにコンビニはあったから」
「何言ってんのさ」
再度飛び出してきた未知の単語にどう答えれば良いのか困りつつ、少年は後頭部をガシガシと掻いた。
単なる狂人だとしても、将又単なる迷子だとしても、彼の目の前で泣きそうになり始めた少女は完全に厄介ごとだ。見捨てるのも良心が痛むが、見捨てなければ十中八九面倒ごとに巻き込まれてしまう。
「僕は帰るから。君もさっさと出なよ」
「もうライト……明かりがないの」
暗がりに女の子を一人残す。
友人達にバレてしまった場合、殴られることが確定する案件である。悩んだ末、キキは譲歩した。
「なら、外までは連れてってあげるから、さっさと帰りなよ」
「……帰れない、多分」
俯いた少女の口から漏れた声には、泣き声が混ざっている。表情が確認できない以上、嘘泣きである可能性も捨てきれなかったが、この程度のことで嘘泣きを披露するのか、という疑問もあった。
「多分って何さ」
とりあえずの質問。
金銭的な問題なのだとすれば、時間が解決できる。働けば良いだけの話だ。距離的な問題なのだとすれば、金で馬でもダチョウでも買えば良い。海を渡る必要があるなら、船に乗れば良い。
結局、大抵のことは金で解決できるのだから、帰らないということはないはずなのだ。帰りたくないならともかく、多分帰れないというのは、キキには意味が分からなかった。
「ウチが夢だと思ってたの、本当かもしれないんだもん」
返ってきた答えは、やはり要領を得ないモノ。
夢が現実だったという話なのだとしても、少女の事情が一切合切何も分からないキキには予想すらできない。
ただ、段々と泣き声が酷くなり始め、へたり込んでしまった少女の姿はどうにも嘘には思えなかった。キキが単なるお人好しであるとか、少女が名演技を披露しているとか、可能性を考え始めればキリがない。
故に彼はため息を吐く。どうやら、少しだけ面倒を見なければならないらしい。
「……よし、分かった。王都までは案内する。そこからは自分でどうにかして」
「うん……」
鼻を鳴らしながら、少女は手で目元を擦っていた。
もし彼女が王都で国家転覆を企てている犯罪者だとすれば、キキはそれを手引きした共犯者扱いである。
あるのだが、明らかにそんな人間ではない。頭のおかしいフリをするならば、もっとおかしいフリをすれば良い。彼女の場合、意味不明な単語を時折混ぜ込んでくる程度で、狂人度合いとしては大したことがないのだ。他国の人間であるのに、言葉がやけに流暢であるせいでそれが余計に気持ち悪くなっているだけである。
迷子のフリをするならば、もう少しマシな背景を作り込んでくるのが普通だ。キキが偶然出会ったのか、それとも人が来たら開くような仕掛けだったのかはともかく、クマノミ遺跡の奥地で出会うという時点で意味が分からない。出入り口が一つしかない、ほぼ一本道の遺跡の奥で迷子というのは、世界最高峰の方向音痴でも厳しい事態だ。そこで出会った人間に、王都に連れて行ってほしいと願う。
どう考えても、そこらの旅人のフリをして入り込んだ方が証拠も残りづらい。それ以前に、キキの目の前で今も泣いている少女は王都に行きたいとも言っていない。まず、自分がいる大凡の位置がどこなのかも、全く把握していない。
何れにせよ、何かことを起こそうとしている犯罪者にしては、それこそ狂っているとしか思えないぐらい、杜撰で意味の分からないことをしている。
現れた経緯が面倒というだけで、基本的にはそこまで問題がなさそうな迷子。それがキキの少女に対する評価だ。
「ほら、立って」
キキが手を差し伸べると、少女は漸く顔を上げた。泣いていたこともあり、キキがもう片方の手に握っている明かりのせいで、凹凸の少ない顔がピカピカと光っている。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
手を繋いで歩き出した二人の後ろで、開いたままの扉がギイと音を立てた。そのまま独りでに閉まっていったかと思えば、淡い光が一面を覆う。
光が収まると、そこには何の痕跡も残っていなかった。キキが押し出してしまった四角柱も、そこを中心に走っていたはずの一筋の線も。
何一つとして、少女が出てきた道の痕跡がなくなっていた。