奥の手
勇者になったばかりの少女と、かつての魔王の残骸。それだけ聞けば、後者の方が優勢にも思える。しかしながら、キキ達の目の前で繰り広げられている戦いからは、あまり優勢劣勢というのが見て取れなかった。
「あ!ピノなら当ててたわよ、さっきの!」
その原因は主に二つ。まず第一に挙げるべきは、獣のような体勢の男が妙に桜、正確に言うならば桜の持つ剣を異様なまでに警戒していること。キキがある言葉を口にするまでほとんど動いていなかった表情が、その剣が振るわれる度に目を見開いて飛び退くのだ。見ている人間からしてみれば、ソレに何かあるとしか思えなかった。
「だってウチ、剣握ったの初めてなんだよ!」
照れ隠しのように笑う少女の言葉通り、もう一つの要因は彼女の経験の少なさである。剣術を齧ったこともないような人間が、身体能力が多少上昇したところで、身の丈以上の大剣を自由自在に操れるはずがないのだ。
「僕より酷いんじゃないかな」
剣を振り回すというよりも、剣に振り回されている状態。男が大袈裟に避けるおかげでどうにかなっているが、もし相手がある程度の技術を持ち合わせた剣士であれば、既に少女は切り刻まれていただろう。
しかし、それでもキキよりは動けている。彼が振るっていた場合、剣が壁にめり込んで動けなくなるのは確定事項。剣の重みに耐え切れず、身体のありとあらゆる関節に異常をきたす可能性すらある。
「それはないでしょ」
「酷くない?」
王都の片隅で唐突に始まった、勇者愛好家からしてみれば堪らないであろう一戦。それを特等席で観戦しているにも関わらず、二人がいつものように呑気な会話に勤しんでいられるのも、桜と男がほぼ互角の戦いを繰り広げているからなのだ。
「じゃあ持ってみる?あのバスケのゴールクルクル回すヤツより重いよ?」
「また出たよ、サクラ語。それから持たない。手首が千切れる」
桜なりの精一杯の表現だったが、誰一人として伝わる人間はこの場にいない。キキも半ば諦めて理解しようとしていないせいで、そもそも聞こうとしている人間もいない。そんなフワフワとした雰囲気であることを抜きにしても、不思議と彼女の精神には妙な余裕が生まれていた。
それは決して、油断ではない。手足を使って俊敏に移動する、目の前の獣のような男相手に油断などできるはずもない。では何なのか。
「でも、やれそう!」
強そうな武器を手に入れたことで調子に乗っていたり、何となく魔力を使う要領を掴んだことで意気がったりしているわけではない。根拠のない自信だとか、虚勢を張っているだとか、そういう類のモノでもない。
「あ、惜しい」
「避けてんじゃないわよ!さっきまで避けてなかったでしょアンタ!」
守りたい人達が後ろにいるから、いつも以上に頑張れている。それだけのことなのだ。その普通以上に発生している力の余剰が、心の余裕に置換されていた。
それが勇者としての責務とは違う、桜の一個人としての感情なのは間違いない。しかし、今の彼女が持っているのは確実に勇気だった。だからこそ、少女は剣を振るえているのだ。勢いのまま飛び出した昨晩の彼女が持っていたのは、向こう見ずな特攻兵のような蛮勇。それは決して悪ではないが、一分一秒でも長く恐怖と対峙する必要のある、守る為の勇気とは大きく異なっている。
「その剣、不快」
「ウチも思ってた。そっちの動きも不快だよ」
トカゲのような姿勢で地を這いずり、礫のように突貫してくる男へ向け、桜はその細腕で薙ぎ払うように大剣を振るう。位置としては非常に的確。そのまま突っ込んでいれば、男は十中八九致命傷を負っていたはずだった。
「ああもう!」
「落ち着いて、まだ狙えるから」
だが、男は曲芸のようにそれを避けた。空中で体勢を大きく変え、落下時の受け身など知ったことかと気味の悪い姿勢のまま、酷い音と共に地面に着地。そのまま呻き声の一つも上げずに、二転三転と地面を転がっていく。
「ゾンビの映画にこんなの出てきたなぁ」
その状態で動かなくなれば、一体どれほど良かったか。男はどこかの虫のように仰向けのまま大きく跳ねると、再び空中で大きく体勢を変え、先ほどのトカゲのような姿勢に戻った。
「元々バケモノみたいだったけど、余計バケモノ染みてきたね」
赤子の行うようなハイハイであれば、男がしていてもまだ見れただろう。正直、見るに耐えないのは間違いないが、それでも完全に四足歩行のようになっている今の姿よりはマシだったはずだ。
どう考えても動きにくいはずの、両手両足を横に開いて直角に曲げた状態。そんなトカゲのような姿勢を取ったまま、イヌやネコに勝るとも劣らない速度で地面を駆け回っている。壁を這い回っていないだけ良いかもしれないが、何にしても気持ち悪いのには変わりない。
「殺す、勇者」
「殺させるわけないじゃないか」
しかし、壁を這い回らないというだけで、壁を使った立体的な動きは度々行なっている。桜はそれにもどうにか対応しようとするものの、慣れない剣で上から襲い掛かってくる長身の男を上手く捌けるかと言われたら、不可能とは言わないが相当な難易度である。
そういった理由もあってキキが前に飛び出すのだが、彼も接近戦は得意ではない。ではどういう対処法を取るのか。答えは至極単純。
「そこそこ硬いんだよ、これ」
それは杖での殴打。短杖を両手で握り締め、棍棒でも扱うかのように男の顔面に向けて全力で腰を入れて振るう。未だに当たってはいないが、当たれば意識を刈り取れるぐらいの一撃である。
魔術が使えなくなったとか、魔術を使うのが面倒になったとかではない。キキも最初は使い慣れている魔術で対処しようとしたのだが、彼の魔術は男にあまり通用しない状態なのだ。既に色の魔術は無効化を繰り返され、光の魔術も乱発したせいで効果がかなり薄れてしまっている。それ以外の魔術も使えないことはないが、実戦で扱えるほどの練度ではない。
「それするならピノの剣でやりなさいよ」
至極真っ当な意見ではあったが、少年は敢えて無視を選んだ。ムッとしている少女が視界の端に映らなかったわけではないが、ピノの剣を持ったとしても手首を痛めるのは目に見えている。少女もそれを理解しているからか、それ以上のことは言わなかった。
「ほら、サクラ」
再度飛び退こうとする男を指差し、少年は勇者を特攻させる。残念ながら一拍遅れてしまい、またしても剣は地面を軽く裂いてしまう結果となった。仲良さげに振る舞っているが、彼らは知り合ってからまだ二日と経っていない。それなりの連携速度は見せているが、それなり止まりだ。
指示される前に先読みして動くようなことは当然できないし、指示された後の動き出しもあまり速くない。それ以前の問題として、戦闘経験が少な過ぎて詰めと引きの判断も曖昧だ。詰めても良い場面で一歩引いてみたり、深追いしないで良い時に一歩踏み込んでみたり。
「もう少しなんだけどね」
そんな少女の後ろ姿を、キキは杖を手の中でクルクルと回しながら眺めていた。別に文句はない。戦ったこともない人間が剣を手にして戦場へ戻ってくることが、どれほど勇気のいることか。キキにそんな経験はないが、それがどれだけ大変なことかは十二分に理解できるからだ。
それでも一手足りないのは間違いない。もしティナが弓を構えることができたら。もしピノが普段の半分でも動くことができれば。そんなもしもの話は多く浮かんできても、自分の手の中にある駒でどうにかできる光景が、彼にはどうやっても一種類しか見えなかった。
「キリレンコ君は良いから、ティナちゃんと一緒に休んでてよ」
そんな少年の心の内など、桜は何も知らない。ただボロボロのキキの姿を見るのが辛かった。そんな理由で言ったのだが、彼は目を細めて桜の姿をジッと見つめるのみ。
「え、ウチ何か悪いことした?」
「してないよ」
そんな会話を挟みつつ、もう何度目か分からない男の特攻をどうにか捌く。男の姿をした魔王の残骸も、学習能力は一応あるらしい。四足歩行になってから単調だった突撃も、回数を経るごとに段々と種類が増えてきており、二人も多少は対応を考えなければならなくなってきている。上下左右からの攻撃に加えて、攻撃するフリを交えて惑わせるような戦術。まだ命の危険を感じるほどではなくとも、そこそこ厄介な存在になり始めていた。
「何?」
ジッと見つめられて何も感じないほど、桜は図太くない。特に何か起こりそうもないならともかく、それなりに緊張感を持たなければならない状況下で、隣から視線を浴びせられたら集中も保たないかもしれない。そんな考えの下、彼女は催促した。
「言ってよ」
「言いづらいんだよ。言ったら自覚しそうだしさ」
「言って」
それでも尚言い淀むキキの脇腹に向け、少女は遠慮なく肘を入れる。勢いも威力も大してない肘打ちだったが、体のあちこちを痛めている彼にとってはかなりの衝撃だったらしく、すぐさま桜と距離を取って百面相し始めた。
「サ、サクラ……ティナは見習っちゃダメだと思うんだ」
「何か言った!?」
「言ってないです!」
声だけ聞いたら、どちらが重症か分からない。とても腕をへし折られた少女とは思えない怒声だった。身体が自由に動いていれば、きっとキキは容赦も加減もない肘打ちを受けることになっていただろう。
「その……意気揚々と戦ってくれてるところ悪いんだけどさ」
申し訳なさそうな顔をした少年が、右手に握った杖で突っ込んでくる男を差した。
「倒せそう?」
「ちょっ待っ!」
空気を読まずに突然突っ込んできた男に対し、桜は大剣を叩きつける。斬る為に振り下ろしたのではなく、剣の腹で殴るように振り下ろしたのだ。
「乱暴だなぁ」
長身ではあっても肉付きが良いわけではない。鉄の塊をその身で直に受け止めたせいで、男は衝撃に抗う術なく吹き飛ばされた。桜が参戦してから漸くまともな一撃が入った瞬間だった。
「仕方ないじゃん!」
しかし、彼女がそれに一喜一憂することはない。それは主に男の行動のせいだった。鈍い音を身体から出し、奇声を喉から絞り出す。同じ人間の姿ではあるものの、もはや中身は完全に別物である。
「で、何って?倒す?」
「そう、倒す」
再び杖で差し示された男は、依然として打ち上げられた魚のようにジタバタと暴れている。元々細い身体とその奇怪な動きのせいで、死に絶える前に足掻いている虫のようにも見えた。
「殺さなくても良いんだけどさ」
キキはそんな状態の男から目を逸らし、とある方向へ目を向ける。桜もそれを追いかけて視線をズラすと、そこにあったのは小男の死骸。
「動けなくなるまで痛めつけなきゃ、多分永遠に君を襲い続けるよ」
彼女が顔色を真っ青にし、更にそれを通り越して青白くなって吐瀉物を撒き散らす羽目になった原因の一つである。それを乱戦の中で供養できるはずもなく、胸元からは何かの骨が飛び出したまま、目を見開いて絶命した状態で放置されていた。
「あんな風に」
彼らが先ほどから交戦している男を無力化するというのは、つまるところそういうことである。何も考えずに殺すというのが最も手っ取り早い方法ではあるが、他にも何種類かやり方はある。手足を切り落として身動きを取れないようにしたり、身体中の関節という関節を破壊して何一つ行動できないようにしたり。
どんな方法を取るにしても、キキにはそれが桜にできるとは思えなかった。バカにしているわけではなく、それが彼から彼女への率直な評価だ。キキ自身が躊躇いなくそれをできるわけではないが、殺すという作業は実家で何度も行っている。ティナも狩りで生まれた頃からしているし、ピノも人を斬るという行為に慣れているとまでは言わないが、それなりの経験はある人間だ。
「自分の手で、人をあんな風にできるかい?」
それに対して桜は素人。人や生き物を斬ることに素人も何もあったものではないのかもしれないが、死というモノは一度直面したぐらいで慣れるほど生温くはない。
根角桜という少女が貴族であろうとなかろうと、彼女が死体を見たことで急に吐いてしまったことを考えれば、そんなことができるとは到底思えなかったのだ。
「む、無理かも」
そして今現在の桜の顔色は真っ青。吐きはしなかった。そもそも吐く物もないのかもしれないが、何れにしても彼女がどうにか持ち帰ってきたのは、たった一つだけ。守るべき人の前に立ち、恐怖と少しでも長く向き合うことだけだった。
それだけでも十分過ぎる収穫なのは間違いなかったが、トドメを刺すのに必要なのは盾ではなく剣である。盾でも使い方によってはできなくはないが、少女の持つ盾でそれをするのはかなりの無茶らしいことは、人心把握術など持っていないキキでも難なく理解できた。
「……よし、分かった」
短杖を手の中でクルリと一回転させ、そのままギュッと握り込む。自身の魔力がまだ十分に残っていることを確認し、キキは唇で弧を描いた。
「な、何が?」
そんな少年の態度が読み取れるのは、何かしらの考えがあるということだけ。そして自分がまだ甘かったということを再認識させられた桜は、顔を青くしながらも剣はしっかりと握り締めていた。
「僕の奥の手を使うから、少しだけ持ち堪えてくれるかい?」
奥の手。何かしらの大技か、もしくは良く聞く必殺技。そんなところだろうと推測を立てた桜だったが、すぐにその違和感に気づかされた。
「殺しちゃうの!?」
その反応が意味するのは、男を殺すことに対する軽蔑などではない。そういう場所なのは彼女も重々承知しているし、少なくとも一人の人間を殺している以上、何らかの処罰はされなければならないのは理解している。
彼女が驚いたのは、キキの思想を知っているからだ。それに基づいて考えれば、殺すというのはあまりにもおかしい。殴殺や絞殺ならともかく、魔術で人を殺したくないというのが彼の方針である。そして彼は二つ名を持つ魔術師。そんな彼の奥の手となると、魔術を使った奥の手としか考えられない。
「違う違う。殺しはしないさ」
何となく桜の頭の中で繰り広げられた勘違いを察し、少年は笑いながら手をパタパタと振って否定した。顔半分だけ見れば非常に優しそうだが、顔のもう半分と他の部分、それから先の発言のせいで中々に恐ろしいことになっている。喧嘩をした相手に報復を仕掛けようとしていると言われても、それほど違和感のない状態である。
「ちょっとだけ壊れるかもしれないけどね。サクラも目瞑っといた方が良いかも」
「壊れる?」
キキの妙な言い方に首を傾げた桜だったが、すぐにその背中をトンと押されて剣を握り直した。微妙に格好良くない構えと、謎の神々しい雰囲気を纏った剣。不均衡にも思える組み合わせだったが、妙に様になっている。
「じゃ、よろしく」
トットッと軽快な足音を立てて後方へ去っていく少年と、自分に明確な敵意を向ける男を結ぶ直線上に体を滑り込ませ、桜はその切先を男へと向けた。
「勇者、殺す」
相変わらずの物騒な物言いだったが、流石に何度も繰り返し言われると彼女も慣れてしまったらしい。顔色は先ほどの問答のせいで若干悪いままだが、特に不快そうな表情は見せることなく、男の方へ顔を向けながら首を捻っていた。
「多分これ、チャート……じゃないな、チュー、チュートリアだっけ」
一人でブツブツと呟きつつ、ああでもないこうでもないと首を左右に倒す。最終的に自問の正答は出てこなかったらしく、明らかに諦めた表情でため息を漏らした。
「スマホ使えたらすぐ分かるんだけどなぁ」
顳顬のあたりを掻きながら嘆いても、相手をしてくれる面々は彼女の近くにはいない。正面に立っているのも仲の良い三人組ではなく、敵意剥き出しの男である。少女の独り言に付き合えるはずもなく、空気が読めるはずもない。
「うるさい、死ね」
「人に死ねって言うな!」
子供のような口喧嘩と共に、両者同時に地面を蹴った。獣のような体勢で駆ける男と、大剣に体を持っていかれないようにやや慎重に足を動かす桜。どちらが速いかは明白である。
「殺す」
比較的遅い少女の視界から外れるように地面を蹴り飛ばし、その勢いのまま壁も蹴り飛ばし、男は少女の頭上に迫った。
「なわけ!」
相手が神経を尖らせていなければ、男の言う通り殺せていただろう。だが、桜も素人とはいえ戦場にいるという自覚はある。目の前の男の動きはキチンと捉えていたし、どのように対処すべきかは多少なりとも考えて行動していた。
そして問題は、それを追えていたのが目と脳だけだったということだ。男がもうすぐそこまで飛来しているというのに、少女は剣を握っていた両手を上に向けることはできず、足を真上に上げることもできていなかった。
「あっぶな」
それでも咄嗟に拳が真上に突き出せたのは、彼女の持ち前の反射神経に身体強化の恩恵が上乗せされていたからだ。
非情にも飛び掛かってきていた男の顔面に直撃した拳は、何かを潰すような感触を残して、ソレを壁へ弾き飛ばすという成果を挙げた。
「え?」
それに驚いたのは他の誰でもない桜自身。大して鍛えてもいない細腕から放たれたのが、細身とはいえ大人の男を吹き飛ばすような一撃であれば、誰だって驚くだろう。桜も例外ではなかったというだけである。
「……よし、やれる!ウチ、やれるよ!」
少女は嬉しさのあまり、後ろの金髪二人組に向けて剣を持ったまま両手をブンブンと振った。やっていることだけならば無邪気な子供だが、持っている物が物騒極まりない。
「サクラ、後ろ見なさい!後ろ!」
それに対して反応したのは金髪の少女のみ。キキはその横で瞑想でもするかのようにジッとしていた。そしてティナが反応したのも正確には桜の行動ではなく、彼女の後方だった。少女はまだ痛むであろう左腕を激しく振って、勇者の後ろを指し示す。
「ごろず、ごろず」
振り返った彼女の目に映ったのは、鼻がひしゃげた男の姿。ダラダラと止めどなく鼻血が流れており、酷い有様である。ついでに口も切っているらしく、唇の間からも赤い雫が溢れてきていた。獣のような格好を崩していないせいで、バケモノのような風貌に拍車が掛かっている。
「ちょっ、流石にキモ過ぎるかも」
男が余計に酷いことになった原因は桜の拳なのだが、そんなことは知らないとばかりに彼女は包み隠さず嫌悪感を示した。それでもキキに役目を押しつけてしまった罪悪感と、場を任されたことの責任感でその感情を抑えつけ、少女は絡繰りのような大剣を構える。
「ごろじてやる、勇者」
今度はどこかの黒い虫のような、異様なまでに俊敏な動きで地面を駆けてくる男。ただでさえ気持ち悪いのに、そんな虫のような動きをされて気味悪がらない人間がいるだろうか。いや、いない。
「やっぱ無理!」
悲鳴のように絞り出した言葉と同時に、少女は剣を振り下ろした。罪悪感と責任感が消え去ったわけではない。ただ男に対する嫌悪感が勝っただけである。
そしてその瞬間、彼女の耳に聞いたことのない音が飛び込んできた。肉を潰すような、何かを叩き斬るような。不快でもなければ、清々しい音でもない。そんな何とも奇妙な音が鳴ると共に、少女の眼前でポーンと何かが跳ねた。何度も飛び跳ねていた男にしてはあまりにも小さく、剣が地面を砕いた破片にしてはあまりにも大きい。
「へ?」
「サクラ、最高だよ!」
ベチャリと音を立てて少女の前に落ちてきたのは、ガリガリに痩せ細った腕。しっかりと指も五本生えており、所々擦り傷があるぐらいで、何の文句のつけようもないキチンとした腕である。
「う、うう、う、う!」
相変わらず斬られても特に反応を示さない男とは正反対に、斬った方は人の言語を忘れてしまっていた。まともに剣を振るったのが初めての人間が、偶然にも腕を切り飛ばしてしまったのだから、当たり前ではある。
「キ、キキ、キリレンコ君。腕、腕!」
斬られた方は、ただジッと落とされた腕を見つめていた。右の上腕から夥しいぐらいの血が流れ落ちているのも気にせず、ただひたすらに。
「分かったから、落ち着いて。桜は良くやってくれたよ」
キキは狼狽する少女の肩をポンポンと叩き、男の方へと斬り落とされた右腕を蹴り飛ばす。それは緩やかな放物線を描くと、男が作っていた血溜まりに落下した。赤黒い液体の中に浮かぶ、白い細腕。悪趣味な人殺しが作った汁物と言えば、大多数の人間が信じそうな景色が出来上がっていた。
「でも最高はないでしょ」
腕を吊るした少女に冷静に突っ込まれ、少年は照れ臭そうに頬を掻く。桜がどういう人間なのかを考えれば、キキの言葉選びは適切ではなかった。しかしながら、彼女が大手柄を挙げたことで年相応に若干興奮してしまったのである。
「だって、時間を稼ぐって意味ではさ、これ以上なかっただろう?」
「そうだけど……まぁ良いわ。やっちゃいなさい」
少女は半ば諦めたように前髪を掻き上げると、そのまま左手でビシリと男の方を指差した。
「うん、任された」
ティナに向け微笑みを返し、少年はツカツカと一連の事件の元凶と思われる存在へ歩み寄る。人間にとってかなり重要な器官である片腕を失っても、依然として桜への敵意を失っていない男を内心で若干恐れつつも、外面には怯えを一切出さず、キキは態と偉そうに振る舞うことにした。
「さて、魔王の残骸」
右手に握られているのは、彼が愛用している短杖。男を殴りつけたにも関わらず、どこか壊れている様子はない。むしろ普段より一段と輝いているように見えた。
「怪我はなさそうなピノはともかく、嫁入り前のティナにあんな傷を負わせたのは大問題だよ?」
機動力は大きく減退したとはいえ、危険なのは変わりない。少年は数歩先で歯を剥き出しにしているバケモノと距離を保ちつつ、杖を魔力を流し込み始めた。
「アンタも大概でしょ」
「別に僕は良いんだよ」
不満そうな顔をするティナにどう対処したものかと苦笑しつつ、キキはもう一度男に向き直った。
「君が嫌ってる桜の剣の魔力を真似てみた。どうだい?」
ポワッと杖の先端が光を放つ。キキが度々浮かべている笑みのような、優しげな光。桜が一度出ていった後に路地裏を染め上げた、ドス黒い血のような赤を作り上げた魔力と原料が同じとは思えないほど、優しい光だった。
「不快、不快。聖剣の魔力、不快」
しかし、それは魔王の残骸にとっては酷く不快らしい。桜の殴打によって顔中を流れていた血と一緒に唾を吐き捨て、残った三肢を踏み鳴らしている。不満を表す時のウサギと似たような行動ではあるが、そんな可愛らしいモノではない。その可愛らしさが男に少しでもあったならば、きっと腕を斬り飛ばされずに済んでいただろう。
「人間っぽい反応だね、どうもありがとう」
そんなバケモノの姿を意地の悪い笑みを浮かべながら見つめ、キキは杖を握る力を強めた。
「僕としても最高傑作でね。食らってみてほしいんだよ」
トドメに三日月のように口を裂き、悪魔のような笑い声を小さく響かせる。
「我が光の魔術の集大成」
杖の先端から飛び出したのは、空まで届きそうな光の柱。もし彼のいる場所が薄暗い路地裏でなく、太陽が燦々と輝く表の道だったとしても、その莫大な光量が目立っていたことは間違いない。
「是は極光にして、虚光の剣」
どこまでも伸びていきそうだった光が、短く小さく纏まり始める。それが持つ光量が減少したわけではなく、一箇所に集中していた。それでも最初があまりにも巨大だったというだけで、今もかなりの大きさである。縦にも横にも、桜が握っている大剣の倍はあるだろうか。
短杖の先端を起点とし、光が形作っていくのは剣身。そう断言はできなくとも、そう表現するしかなかった。桜の持っている大剣のような絡繰り調の見た目ではなく、無骨で無難などこにでもある形状。異常な光を放っていることと、やけに巨大であることを除けば、普通の剣に見えなくもない形をしているのだから。
「闇に覆われた空を裂き、血に染まった大地を拓こう」
妙に芝居掛かった痛々しい口調に、何故か異様なまでに整った構え。キキも桜と同様、剣術など知らない人間である。しかしながら、一つだけ彼女と異なる点がある。
それは彼の交友関係だ。剣術の専門家が知り合いにいるという、降って湧いたような要素はない。その代わり、剣術に幼少期から慣れ親しんでいる人間と一年以上の付き合いがある。そしてそんな人間と一緒に、彼は何度も実戦形式の授業を受けてきた。故に動きはともかくとして、見様見真似でも構えぐらいは人並み以上にできるのだ。
「我が剣の名はジョワユーズ」
少年が一歩踏み込み、光が形成した剣を掲げる。そのまま振り下ろせば、確実に男に直撃する経路なのは間違いない。だが、それは男も当然把握している。桜の持つ剣以外に避ける素振りを見せなかった男も、腕を一本持っていかれた挙句にその命まで落としたくはないのだろう。身体の均衡を保てなくなっているにも関わらず、ヨタヨタとした足取りでどうにか避けようと三肢で駆け出そうとしていた。
「逃すわけねえだろ、なぁ?」
そんな状態の男の真横。赤い髪に赤い目をした少年が、飾り気のない剣を片手に落ちてきた。それに気づいて飛び退こうとするものの、機動力を大きく削がれた身体では、やりたいこととできることの差は大きい。
「キキのやり方なら、死にはしねえよ」
額に青筋を浮かべながら、真っ赤な影は剣の切先を男の左足に向けた。やられた怒りは忘れていなくとも、友人の思想をキチンと優先しているのである。
「その身で存分に味わうが良い、我が剣の輝きを!」
赤毛の少年の剣が突き刺さるのと、金髪の少年の剣が振り下ろされるのはほぼ同時だった。だが僅かに前者の方が速く、男は地面に磔にされる。そして間髪入れず、キキの持つ光の剣が男の身体を真っ二つに裂いていく。桜はキキの忠告も忘れ、それを見てしまった。
「相変わらず凄いわね」
当然、裂かれた部分からは夥しい量の血が吹き出し、臓物が飛び出してくる。断面からは砕けた骨が露出し、処理されていない肉が脳の残した指示に従って僅かに震えていた。
「うっ」
あまりにも残虐。一切の手加減なく裂かれた男の姿を見た桜は、大剣を壁に立てかけ、少年少女の目の届かない所へ駆けていった。しかしながら、もう吐く物も残っていないらしい。僅かな水音だけ響かせた後、少女はいつかのように酷い顔をして、清々しい顔をした少年二人の元へ戻ってきた。
「どう?格好良かっただろう、僕の奥の手」
格好良いか格好悪いかで言えば、格好良い方に分類しても良いだろう。もし若干痛々しい前口上がなければ、それを強調しても良かった。しかしながら、キール・キリレンコの奥の手が格好が良かろうが悪かろうが、怪物と化してしまっていた男が惨殺されたことに変わりはない。
それを行った張本人は、あまりにも晴れやかな笑顔を浮かべていた。相手がもはやバケモノだったのは否定のしようがないが、それでも元々は一人の人間。少年の思想には明らかに反した行動である。
「確かに格好良かったけど、え?」
少女がそんなキキの姿にどこか恐怖を覚えていると、無意識に視線を逸らしていた方からドサリと音が鳴った。目を向けるべきではないのは理解していたのかもしれないが、もはや条件反射である。
「安心してよ。殺さないって言ったじゃないか」
しかし、そこに転がっていたのは肉塊ではなかった。未だに呼吸をしているものの、白目を剥いている長身痩躯の男。どうしてそこにいるのか。肉片と化したのではないか。色々な疑問と訳の分からない感情が少女の中でせめぎ合っている最中、倒れ込んだ男の口がゆっくりと開いた。




