対話
服が破れてほとんど見えてしまっている上半身に、腫れている顔の左半分。擦り傷だらけの両腕からは、動く度に数滴の赤い雫が溢れている。昨晩ダチョウに顔面を蹴り飛ばされた時よりは、現在のキキの姿の方が幾分かマシではあるが、あくまでもそれと比べれば軽症というだけで、一般的に見ればかなり悲惨な状態だ。
「勇者、出せ」
「だから勇者なんて知らないってば」
それは別段、不思議なことではない。キール・キリレンコという少年の性質上、遠慮なく殴り掛かってくるようなバケモノを相手にすれば、一方的に嬲られるのは当たり前のことなのだ。むしろ研究職に近い魔術師が、目に見える箇所がほとんど傷だらけとはいえ、ここまで生き延びていることを褒めるべきだろう。
「これはキツイなぁ」
最初こそ善戦しているように見えた。光で男の視界が潰されている間に、石を手に持ったまま殴り掛かってみたり、ティナが戦闘で使っていた矢を拾い上げて強引に突き刺してみたり。
しかし、一方的だったのはそこまで。そもそもの話、キキは膂力があまりにも足りていない。同じ行動をピノがやっていれば、多少は男も痛がったのかもしれないが、残念ながら剣ではなく杖を振る少年では、あまり効果がなかったのである。
「どけ」
「嫌だよ。君にはちょっと難しいかもしれないけど、僕はここを通したくないんだ」
どうにか致命的なモノは避け続けていた為、まだ気力で体を動かすことはできるものの、体力は尽きたも同然。軽口を叩く頻度も明らかに減っており、余裕があるのは持ち前の魔力のみ。ただ、魔力だけあっても大した意味はない。
「もうお前、終わり」
「そうかもしれないけど、まだ分からないだろう?」
近寄ってくる男に対して、まともに行使できる魔術はない。支援する相手もいない。相手に直接ぶつけようにも、目潰し用の魔術は掻き消され、光の魔術も何度か使ったことで効果は薄まっている。奥の手も存在はしているが、使うから待ってくれと言ったところで、律儀に待ってくれる相手でもない。
「ミツメウサギモドキの美味しい調理法とか興味ない?」
「ない」
「即答で即否定か」
もはや戦闘にはなっていない。かと言って蹂躙というわけではなく、完全な引き伸ばし作業に突入していた。キキもバカではない。勝ち目が非常に少ないことはとうの昔に理解している為、桜の呼んでくるであろう援軍が来てくれるまで、とにかく持ち堪えるという方向に切り替えているのだ。
「キキに手出すより先に、アタシに手ぇ出しなさいよ!もしかしてそっちの趣味なの?確かにキキぐらい美形ならそういう趣味の相手になるかもしれないけど、見せられる方の気持ちになってみなさいよ!どう考えても、アンタよりもピノが相手の方がマシでしょうが!」
それを理解しているのか怪しいぐらいの、一歩間違えれば殺されかねない言動。男色趣味を否定しているわけではなく、醜男はキキに近づくなという遠回しな警告である。引き合いに出されるピノも可哀想ではあったが、幸いなことと言うべきか否か、彼は未だに目を閉じたままである。
「うるさい」
「ティナ、煽らないで!」
男の血走った目が、身動きの取れないティナを捉えた。しかし、それは怒りの矛先が向いたというより、単純に注意がそちらに向いただけ。歩いている最中にイヌが鳴いたので、そちらに顔を向けた。それと大した差はない。事実、男はすぐに興味を失ったのらしく、再び視線はキキの方へ戻ってきた。
キキは男の行動に内心安堵しつつも、最悪の事態を想像せずにはいられなかった。意味がないと分かりつつも、牽制も兼ねて色の魔術を行使する。目潰しも兼ねた黒色だったが、案の定男に到達する前に掻き消されてしまった。
「アンタのこと心配してんでしょうが!」
「君の方が酷い怪我してるんだから、やめてくれないかな」
どっちもどっちである。本来なら一番の重傷を負う役割なのは、前衛であるピノだ。そんな赤毛の少年は開幕早々、意識を飛ばしてしまって眠っている最中。彼が離脱していなければ、無益な言い合いなど起こっていなかっただろう。
「うるさい。勇者、出せ」
「出さないってば。そんなにさっきの子が気になるなら、恋文でも出したらどうだい?」
「そいつに手紙なんて書けるわけないでしょ。平仮名すら怪しいじゃない」
「こら」
ティナのせいと言うべきか、それともおかげと言うべきか。軽口の戻ってきたキキに便乗し、少女も口撃を開始する。元々低いであろう知力はともかく、知性も若干失っていそうな男にどこまで効くのかはさておき、それなりの自尊心が存在しているならば、いつ怒り出してもおかしくない発言である。
「……コイツ、お前らより下。妬みしかなかった。もう戻らない」
そんな発言を受けても、男は眉一つ動かさない。トントンと指で自分の胸を突くのみ。血走った目と表情のせいで怒り狂っているように見えるが、恐ろしいことにそれは一切動いていないのだ。
口が動いているだけで、本来動くべき顔の筋肉はろくに動いていない。怒ったまま凍りついてしまったような、何とも薄気味悪い表情である。
「何言ってんの、アンタ」
「戻らない?」
男の様子が昨日と異なっていることは、キキと桜しか知らないことだ。それがキキ達の本来の目的であった薬の影響なのか、人格の一側面が露出しているのか、将又そもそも人格が切り替わっているのか。何種類かの推測はキキも立てていたが、戻らないというのはどういう意味なのか。
一番適当なのは、人格が切り替わっているという推測だろう。しかしながら、発言の内容はあまりにも他人事。自分の身に起こっているというより、無関心な傍観者のような発言である。
「同じ身体を使ってるんじゃないのかい?」
二つ以上の人格を持っている。目の前の男にそんな仮定をして、少年は問い掛けた。曖昧な表現だったが、彼もどう表現すべきか悩んだ末にそう絞り出したのだ。それでも分かりづらいのは百も承知。男が理解できなかったらできなかったで、別の話題に切り替えようとも思っていた。
「同じ身体?」
そんな少年の言葉に対し、ティナが痛みで歪む顔を僅かに傾ける。キキが抱いていた心配は、質問には全く関係ない人物の頭の上で、無意味に疑問符を生成してしまっていた。
しかし、投げ掛けられた本人はそれを理解できたらしい。首をゆっくりと横に振ったかと思えば、続けて返ってきたのは想定外な言葉だった。
「違う。もう奪った」
何気なく。朝食は何を食べたか聞かれ、麦餅を食べたと答える。それぐらいの気軽さで、男はあっけらかんと言ってのけた。狂言を演じているとは思えなかった。もし演じているのであれば、昨日まで兄弟のように扱っていた存在を殺す必要はないのだから。
「奪った……?人格同士の仲が悪い?あり得……なくはないのか。同じ身体の中にいるってだけで、別人が二人いると考えたら、そんなことが起こってもおかしくない……のか?」
キキはそれなりに本を読む。それ故に知識も人一倍多いが、その知識の中で実体験したモノはそんなに多くない。今彼が思い浮かべている、人格を複数持つ人間もそうだ。実際にそういう人間がいるのだという風聞を記した物や、創作物でそういうモノがあるのを知っているだけ。それらの影響で知識自体はあっても、そういう人間と相対した経験はないのだ。当然、それがどういう仕組みなのかも知らないし、何がどうなって発生するのかも知らない。
それでも、奪うというのが悪辣なのは分かる。二人の人間が一つのモノを共有する時、大抵の人間は分け合うだろう。時間にしろ回数にしろ、適当な基準を決めて交代したり、一つのモノを分割したりするのが普通だ。
「もういない。コイツ、弱過ぎた」
そして男はその大前提を崩し始めた。もう既に一人なのだと、そう言い始めたのである。完全に奪い取って、支配下に置く。それがどれだけの大罪なのか。
「……君は、何だ?」
到底人の心があるとは思えなかった。それはキキだけが抱いた感想ではない。当初は話を理解していなかったティナも、何となく理解してしまったせいで、そこまで到達していた。
もし自分が殺され、その肉体を何者かに乗っ取られた挙げ句、好き放題されるとしたら。実感は湧かなくとも、想像するだけでも十二分に恐ろしいことだ。
「何を考えてたら、そんなことができるんだ?」
そんなことを行えるとすれば、時折存在する極悪非道な人格ぐらいだろう。人を人とも思っていないような、残虐な精神の持ち主。つまるところ、人非人。
可能性としてはもう一つ存在していた。それは文字通りの人でなし。人外に該当する何か。鬼である可能性もあれば、蛇が出てくる可能性もある。そして更にその上もある。勇者である桜を狙っていることと、彼女が診療所でキキにだけ話した夢の内容。その二つを照らし合わせることで、浮かび上がってくる最悪の存在。
「俺、魔王の残骸」
その名を男は口に出した。何か妙な単語も付随していたが、重要なのは後半ではなく前半である。後半に何がついていたとしてと、前半のあまりにも不穏な修飾が大問題だろう。
「聞き間違いじゃないわよね」
「ああ、僕も聞こえた」
かつて存在したという、勇者の宿敵。根角桜が勇者を名乗っている以上、存在していてもおかしくはない。おかしくはないが、大量の疑問が生まれる。
二日前までの彼らならば、狂っていると一蹴していただろう。しかしながら、一人の少女が現れたことと昨晩の異変があった以上、狂人だと切り捨てることもできなかった。
「勇者、殺したい。それだけ。コイツじゃなくても、良かった」
人を殺す為に何を使うか。ある人間は包丁を使い、ある人間は礫を使う。要するに目的を達成するのであれば、手段はどうでも良かったという話である。依代となっている男からしてみれば、通り魔と大差ない。何とも酷い話である。
「酷いな」
「アタシの怪我、どうってことないわね」
ティナの腕も明らかに大怪我ではあるが、人格の消失と比べれば大抵の怪我は擦り傷のようなモノになるだろう。
「で、どうやってその男に辿り着いたんだい?ここに自然発生したんじゃなければ、どこかから寄生する先を探してやって来たんだろう?良ければ後学の為にも、ご教授願いたいんだけど」
魔王の残骸。そう名乗っている男の中身が、自然発生する類の寄生虫のような存在であれば、生まれた場所にいた男を依代に選んだという話も理解できる。
「どうせどっちかはここで死ぬんだ。教えてくれても良いだろう?不法入国の手段とかさ」
キキがやりたいことは現状二つ。一つは持ち堪えること。援軍がいつ来るか分からない以上、変に逃げるわけにもいかない。桜を狙っていることは明確にはなっていたが、目の前のバケモノを野に放てば危険であるのは、少し離れたところに横たわる小さな男の骸が証明している。桜を狙うとは言っているが、ティナとピノを戯れで殺さないとも限らない。
そしてもう一つ。それは魔王の残骸という言葉を理解することだ。残骸を名乗る存在が、キキの眼前に存在する一個体だけなのか。それとも残骸である以上、他にも大量に存在しているのか。もし大量に存在しているのであれば、相手のやり方を理解しておかなければならない。
目立ちたくないという個人の性格と、世界崩壊の原因になりかねない情報を国に伝えること。その二つを天秤に掛ければ、後者に傾くのは当たり前である。
「予兆あった。待ってた。始まりの場所」
「クマノミのことかい?」
勇者の物語における始まりの場所と、魔王の考える始まりの場所が同じだとは限らない。そう考えて少年は聞き返したのだが、男は相変わらず凝り固まった憤怒の形相のまま、首を傾けることもなかった。それでも今まで通り、男は律儀にそれに答える。
「名前、知らない。勇者の生まれる場所」
「……多分クマノミだな」
初代勇者が現れたという場所であり、キキと桜の遭遇した場所。二人の勇者にとって、始まりという言葉が最も適切な場所となると選択肢は一つしかない。キキは一人で勝手に納得しながら、頭の上に冷水を発生させた。自然法則に則って水は落下し、少年を頭から水浸しにする。
「何してんのよ」
「顔が痛くてさ。冷やそうかと思って」
「布でも使……ってほぼ残ってないわね」
僅かに談笑を挟み、彼は再び男を見据えた。
「ならどうしてソイツなんだい。あそこなら、もっといただろう?」
クマノミ遺跡で待っていたと言うのであれば、近くを通った人間はそれなりにいるはずだ。いつから待っていたのかは分からないが、度々訪れる観光客や物好きな連中、それに加えて研究者なども不定期に来訪するのがクマノミ遺跡である。
「最初、お前狙った」
「僕を?」
二つ名持ちの魔術師。それだけ考えれば、キキを狙う判断は妥当である。それは間違いないのだが、見るからに人間社会の常識に桜よりも疎そうなバケモノが、そんなことを知っているとは思えなかった。一体何を基準にしたのかと首を傾げる少年を気にも留めず、男は続ける。
「踏まれた時、入ろうとした」
男の表現に、キキは身体を震わせた。体表から正体が全く分からない何かが、皮膚を食い破るなり何なりして体内に侵入してくる。そんな想像をしてしまったからだ。単純に体内に潜り込まれるだけなら、百歩譲って許したとしても、そのまま自我を消失してしまうことを考えると、大抵の人間は気分を悪くするだろう。人より若干想像力が豊かなのも相まって、キキは少しばかりの吐き気を感じていた。
「けど、無理だった。お前、俺には無理。お前なら、良かった」
「……僕は心底選ばれなくて良かったと思ってるよ」
顔を顰めながら、自分自身を抱き締めるように両腕を回す。もし選ばれていたとすれば、何も知らずに近寄ってきた友人達を殺めていたかもしれないのだから、想像して恐怖するのも仕方のないことである。
「だから、ついてきた」
「来るんじゃないわよ」
口には出さなかったが、少年はその言葉に内心同意していた。厄災の名を冠しているだけならまだ良い。しかし、殺人まで起こしてしまっているのだから、放っておけば厄災に変わり果てていた可能性も十分にある。
「まあ、ついてきたのは分かった。それで?ソイツじゃなくても良かっただろう?他にも何人かすれ違ったし、あのダチョウ……大きな鳥とか、門番達じゃダメだったのかい?」
「コイツ、一番楽だった。手駒もいた」
なるほど、とはならなかった。単純な戦闘能力という点では、多少は鍛えられている門番達の方が良い。昨晩その身をもって体験したキキとしては、ダチョウの戦闘力も捨てるには惜しいようにも感じる。
「お前らの鳥、人間愛してる。兵士も、愛がある」
「アイ?」
男の口からは到底出そうもない言葉である。思わず少年はその言葉を繰り返し、同じようにキョトンとしているティナの方を見遣り、再び男に視線を戻し、最終的にいつものように首を傾げた。
「愛、無駄。前の俺と鳥達、負けた原因」
「愛なら、ソイツにだって」
もう動かない小男を視界に捉えるも、キキはそれ以上口にすることはなかった。義理なのか血縁なのかは分からないが、兄弟愛のようなモノぐらいはあったのではないか。そう考えたものの、そこにあった感情は当人達にしか分からない。その二人も既にこの世から消え去っている為、本当のところは闇の中である。物悲しくなりながら、少年は手の中の杖をクルリと回す。可哀想に思うことはできても、魔術師にそれ以上のことはできないのだ。
そんな少年の様子など気にせず、男は淡々と口を動かし続ける。
「嫉妬と敵意、選んだ。けど、間違えた」
壊れた語り部は聞き手のことなど考えない。そもそも勇者以外に対して興味が薄いのだから、キキの質問も実際には聞いておらず、偶然一人語りが噛み合っているだけなのかもしれない。そう思ってしまうぐらいには、一人で喋り続けていた。
「コイツ、弱過ぎた」
そう言って、漸く男は口を結んだ。元より路地裏の住人は称賛されることなどない。基本的には薄汚い人以下の何かとして扱われ、少し見た目が良ければ奴隷にされる。人としての権利などないも同然。そんな存在であるが故に、死して尚罵倒されることも多い。冬場に道端で凍死したとしても、特に供養されることもなく育った場所に投げ込まれ、虫の苗床になるのが普通の扱いである。
そんな存在であるのは分かっていても、目の前で罵倒を聞かされるのはあまり気分が良くない。キキは無意識のうちに顔を顰めていた。そしてそのまま僅かに考え込み、とりあえず追加で情報を得ることにした。
「……仲間はいないのかい?残骸って言葉が本当なら、他にも残骸はいるだろう?」
砕けた湯呑みの残骸。そう表現した場合、その破片が大きさに関わらず、基本的には残骸と呼べる。魔王という存在がどういう風に散ったのかはキキにも分からないが、残骸と表現している以上、別個体が現れてもおかしくない。そう考えた上での発言だったのだが、それは男の妙な部分を刺激することになってしまった。
「仲間?」
その言葉を繰り返した瞬間、男の動きが完全に止まった。元々動かない表情はもちろんのこと、呼吸すら止まったかのように僅かな動作すら起こさない。良く見れば胸が少し動いているのが分かるぐらいで、指先すらピクリとも動かず、瞬きすら行わないのだ。
「仲間、勇者様」
ポツリポツリと呟き始め、血走った目の焦点がズレ始める。どこを見ているのか、何を見ているのか。キキの方を向いてはいるものの、実際に目に映っているのは、決して金髪の少年ではないだろう。
「俺は、魔王?」
何かの切れる音がした。本当にしたのかどうかは分からないが、少なくともキキにはそれが聞こえた。血管か、堪忍袋の緒か。それとも理性か。
「あ、ああ、ああ!」
頭を抱えて叫び始めた男の表情は、先ほどまでのような怒り一色ではなくなっていた。それは明らかな悲哀。鬼の形相の印象が強いせいで、その悲しみは余計に際立つモノになっている。嘆くような絶叫と共に涙腺から絞り出される水滴は、血と埃で薄汚れている地面を少しずつ濡らしていく。
「何したのよ!」
「何もしてないよ!」
問い掛けただけで、激昂させるようなことは何もしていないのだから、どう対処すれば良いのかも分からない。雰囲気としては明らかに逃げるべきなのは分かっていても、立ち上がるのにも四苦八苦しているティナと、結局目覚めそうにないピノの二人を置いていくわけにもいかず、キキは短杖を両手で握り締める。
一か八か。奥の手を切るしかない。そんな思考の下、その両手にひたすらに力を入れる。腕の擦り傷からポタポタと血の雫が垂れているが、そんなことは気にも留めない。全身の魔力を一点に注ぎ込む為、男を睨みつけるように見据えながら、剣でも構えるように杖を突き出す。
「皆に」
その瞬間、横合いから黒髪の少女が飛び込んできた。ティナにとってはどこかで見たような構図だったが、違う点が三つほどある。一つ目はティナの代わりにキキがいること。二つ目は怒り狂ったダチョウではなく、怒り狂った長身痩躯の男であること。
「手を」
そして三つ目。見たこともない大剣を少女が握っていること。無骨さは少なく、むしろ見掛けだけならば絡繰りのように見えないこともない。それだけではなく、妙な神々しさもあった。神々しい絡繰りと言うと異様に胡散臭く感じてしまうが、現在進行形で少年少女が目にしているのはそうとしか表現できない代物なのだ。
「出すなぁ!」
少女の身の丈の二倍はありそうな大跳躍。そして振りかぶられた大剣。援軍として頼もしいかどうかはともかく、非常に頼もしそうには見えた。
しかしながら、そう思えたのも束の間。やはり桜は桜だった。
「あれ」
ガキン。そんな音を響かせて、彼女は剣をめり込ませていたのである。もう少しズレていれば男に致命傷を負わせることができていたかもしれないが、それは完全に過去の仮定。どう足掻いても覆すことができない話だ。
「勇者!」
当然、桜を付け狙っている男が、降って湧いた絶好の機会を見逃すはずがない。一撃で重傷を負わせることのできる拳を、これ見よがしに振りかぶった。
「桜、伏せて!」
だが、少年はその一瞬を見逃さない。使おうとしていた魔術を切り替え、瞬時に杖に込めていた魔力を変換して、膨大な量の光を爆発させた。乱用したせいで効果は薄まっているものの、ゼロになってしまったわけではない。それは彼の狙い通りに男に目を一時的に灼き、追加の猶予を生み出した。
「ほら、離れろ!」
そして、その隙をついてかなり強引に二人の間に割り込みつつ、勢いを保ったまま突進する。原始的な攻撃ではあるが、非力な少年が状況を打開するには最も手っ取り早い方法だった。
そのまま男を意識不明にまで追い込めれば良かったが、現実はそうもいかない。砲弾のように突っ込んだおかげで距離を作ることはできたが、本当にそれだけ。男は壁に激突したものの、特に何か大打撃を負った様子もない。
「勇者、勇者……」
当然、その程度で男の執念を途切れさせることはできない。魔王の残骸という名乗りが真実であるならば、その妄執は十や百では届かない歳月になっているのだから。
そのままゆらりと幽鬼のように立ち上がったかと思えば、勇者を名乗る少女を鬼の形相で睨みつける。
「そんな怒らなくても良いと思うんだけどな」
「うるさい。勇者、寄越せ」
自分のことがもはや眼中にないことを確認し、キキは諦め混じりに首を振った。桜が戻ってきた以上、援軍が来ることはほぼ確定事項。後はどうにかして持ち堪えれば良いのだから、大丈夫だろう。
彼の頭の中は楽観的に物事を捉えてしまっていた。どう考えても桜が戻ってくるまでの時間が早過ぎたのに、過度な期待を抱いてしまっていたのだ。
「桜、援軍は」
「ウチ」
自分の耳がおかしくなってしまったのかと思い、少年は顔の両側を軽く叩いた。その衝撃で腫れている部分が激しく痛むのは当然のこと。涙目になりながら、彼はギュッと口を結んでのたうち回りたいのを耐え忍び、ゆっくりと右手の人差し指を立てる。
「だから、ウチだってば。信用できないのは分かるけどさ」
「ちょっ、アンタ!キキが言ったこと忘れたわけ!?」
援軍を呼ぶ。それが桜に託された使命だった。二人からすれば、それをすっぽかして戻ってきたとしか思えない状況である。確かに表情は一段とキラキラしており、地面にめり込ませている剣も立派な物ではあるが、それとこれとは話が別である。
キキも怒りはしていないが、何が起こったのか理解できない顔でパチパチと何度も瞬きを繰り返している。ティナの方は見るからに怒っていた。もし動けたなら、一発や二発拳が飛んでいてもおかしくなかっただろう。
「ウチがやる。大丈夫、任せてよ」
「あのね、昨日のこと覚えてないわけじゃ……」
そんな状態のまま喋っていた少女が、急激に声量を落としていく。怪我をしている箇所が急に痛んだのかと少年が目を向けるも、別にそういうわけではないらしい。痛みで顔を青くしているわけでも、怒りで顔を真っ赤にしているわけでもない。
「忘れてない。ティナちゃんに助けてもらったんだもん。忘れるわけないじゃん」
両手でグイグイと引っ張り、絡繰りのような見た目の大剣を引き抜く。そして桜はそのまま男に体と切先を向け、臨戦態勢を取った。あまり様にはなっていないが、剣の持つ妙な神々しさで差し引きゼロといったところか。
「ピノ君とももっと仲良くなりたいし」
譫言のように勇者という単語を連呼する男から、少女は無用心にも視線を外した。それが向かった先は隣に立つ少年。依然としてまだ困惑しているようだったが、何にしても戦わなければならないからと、半ばヤケになって杖を握り締めている。
桜はそんなキキの姿に、若干の申し訳なさを感じていた。どうして彼がそんな表情をしているのかなど、考えなくとも分かったから。自分がキチンと言うことを聞いていれば、そんな表情をさせずに済んだことは理解していた。
「勇者の責務っていうのもあるけどさ」
魔力というのが何なのか。桜はそれを未だに理解できていないものの、何となく身体強化のやり方は掴めてきていた。その成果が先の大跳躍であり、見るからに足りていない大剣を振るう為の筋力の補填である。
剣の柄から右手を離し、左手に力を込める。そして自由になった右手で男を睨むキキの体を、チョンチョンと軽く突いた。それに無視することなくキチンと反応してくれた少年に向け、桜は花のように笑う。
「キリレンコ君が頑張ってくれたのに、ウチが頑張らないわけにはいかないでしょ」
その言葉を皮切りに、男が獣のような姿勢で地面を蹴った。少し遅れて少女も飛び出す。
「……僕もやれることやるかな」
そんな二人が激突するのを確認しつつ、少年はもう一度頭上に冷水を発生させた。そのまま再び濡れ鼠になり、くしゃみを一つ挟む。援軍が来ない以上、やるべきことは確定した。自称勇者と自称魔王の残骸、そして魔術師が一人。
王都の路地裏という何とも言えない埃臭い場所で、小さな英雄譚が始まろうとしていた。




