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路地裏、再び

 

 治安が悪い場所に女子を連れて行くべきか否か。

 これについて、男子の間では特に意見が割れることはなかった。理由は言わずもがな、ティナ達にもしものことがあってからでは遅いからだ。路地裏の表層とでも呼ぶべき、入ってすぐの場所ならともかく、より奥に行くというのだから、女子を連れて行くのが憚られるのは当然である。

 なので二人には比較的安全な診療所、もしくは喫茶店かどこかで時間を潰してもらおう。そんな案を男子二人は提示するに至ったのだが、女子二人、特に金髪の少女からは猛反対されることになった。


「昨日あんな目に遭ったのに、もう忘れたわけ!?」

「そうじゃないけどさ」


 キキとて、ティナの心境が理解できないほどのバカではない。大怪我をしていたという話は聞いている。桜の薬がなければ、今も酷い傷を負っていたままだったかもしれないということも、あまり信じられていないが、一応知っている。

 それ故にティナが怒鳴りつけてきている理由も、十二分に理解できた。二人の立場を置き換えて考えれば、ティナの気持ちは痛いほど良く分かるのだから。しかし、彼は分かった上で、二人を置いていくという選択肢を取ろうとしているのである。


「……ここまで言うなら、もう別に良いんじゃねえの?」

「ほら。ピノも言ってるじゃない」

「ほらじゃないよ」


 言い争いに疲れたらしい赤毛の少年の適当な発言に、これ幸いとばかりにティナも便乗したが、少年はすぐにその悪い流れを断ち切った。その隣では、不満そうに頬を僅かに膨らませる黒髪の少女が一人。


「最初は連れてってくれたじゃん」

「僕達が入ったのは少しじゃないか」


 確かに彼らは路地裏には入った。だが、彼はそこからすぐに出るつもりだった。そもそも入ったのは間違いないが、すぐに出れるぐらいの場所である。そこから桜が勝手に突き進んだせいで、二人して若干の厄介ごとに巻き込まれたのだ。

 

「とにかく僕は君達を連れて行きたくない。別行動でも二人ずつならどうにかなるし、何か問題があったらすぐ戻る。集合場所はあの診療所。それでどうだい」

「二人とも戻れないかもしれないでしょ」


 ウマの尻尾のような髪を左右に揺らしながら、少女は怒りを露わにする。ただ単に怒っているだけならば、多少扱い易かっただろう。喉元過ぎれば熱さを忘れるのだから、落ち着くまでの少しの時間を確保すればそれで基本的には解決するのだ。

 しかしながら、今回はその作戦は通らない。まず怒りの根底が違う。彼女の脳裏にあるのは、昨晩のボロボロの少年の姿。つまるところ、キキが心配だからだ。色々な感情がひしめき合って口には出さないが、ティナがキキの案に猛反対している理由の大半はそこにある。


「そもそも普段の実習と何が違うのよ!別に良いじゃない!」

「模擬戦は相手が加減をしてくれるし、動物相手の時も僕らが襲う側だ。襲われる側に慣れてない僕らが、そういう場所で一番に狙われる女子二人……しかも、一人はほぼ戦えないんだよ?二人とも守り切れるとは限らないじゃないか」

「ならアタシは良いでしょ!自分でどうにかするわよ!」


 胸ぐらを掴まれそうな距離に詰め寄られ、少年は思わず目を逸らした。そして逸らした先には、どうすれば良いのか分からずに情けない顔をしてオロオロしている桜。


「サクラを一人にするわけにはいかないんだよ」


 狙われていたのはキキか桜のどちらか。桜の言葉が真実であると仮定すれば、犯人は魔神の手先の手先という末端である。末端ではあるが、魔王と関連のありそうな魔神という存在が出てきている以上、女神のお墨つき且つ自分で勇者を名乗っている桜が狙われている可能性は高い。

 しかしながら、自称勇者というところ以外はティナもピノも知らない。キキがもし夢の中の自称女神のことを話しても、二人は半信半疑で話は聞いてくれるだろう。聞いてくれた上で取る行動としては、第一に桜の排除になると少年は考えているのだ。

 元々少し変わっているところがあるとはいえ、基本的には人畜無害なキール・キリレンコ。そんな少年が突然、夢の中で桜を勇者だと言う女神に会ったなどと言えば、一体どうなるだろうか。

 十中八九、桜が何かを吹き込んだと考えるはずだ。もし彼女に原因がないと考えたとしても、キキ自身が何かの拍子にイカれてしまったと思われるだろう。そのどちらに至ったとしても、少年としては最悪の一言に尽きる。


「どうしてよ!サクラだけ特別扱いってわけ!?」


 そもそもの話、桜は弱い。体はそれなりに動かせるが、あくまでそれなりだ。鍛えているピノの腕っ節には遠く及ばないし、弓を手にして駆け回れるティナのような俊敏性もない。攻撃性は抜きにして、キキのような国でも指折りの魔術の腕もないのだ。

 それに加えて、キキも大したことは期待できない。路地裏で飛び出してくるのは大抵人間である為、彼の思想がある以上あまり動けないのである。そう考えると、組み分けは正しいとも言える。多少動ける自称勇者と男顔負けの戦闘力を持つ弓兵。腕は良いが殺傷は好まない魔術師の卵と、剣を用いた近接戦が可能な騎士の卵。

 ろくに戦えないキキと桜という組み合わせは論外。金髪二人組でも問題自体はないが、同性であり交流も多いティナと一緒にいた方が精神的に楽だろうというのはキキの勝手な判断である。

 だが、それは決して間違っていない。精神面はさておき、もし戦闘になった場合の連携力という点では、桜とピノという組み合わせは桜とティナよりは劣るのだ。そういう視点で捉えても、昨夜の戦闘は無駄ではなかったと言える。


「違うってば」


 どうしたものかとキキが天を仰げば、赤い頭をガシガシと掻きながら話に割り込んできた。


「落ち着けよ二人とも」


 鞘に納まったままの剣を二人の間に突っ込み、半ば無理矢理距離を取らせる。若干危ない行動だったが、それぐらいしないと人でも殺しそうな勢いのティナを抑えられないと、ピノは判断したらしい。

 その予想通り、渋々ではあるものの少女は少年から離れた。そしてそんな彼女の方へ、納められたままの切先が向けられる。


「ティナは頭に血上り過ぎだ。一旦深呼吸しろ」


 自覚はあったようで、少女はそれに対して特に文句を口に出すことはなかった。ただ若干気に入らないという風に顔を逸らし、小さく舌打ちをするのみ。

 そんな不良少女のようなティナの姿に僅かな怯えを見せながらも、桜はそろりそろりと歩み寄り、怒りの原因である少年を視界に入れさせないように、少女の前に立った。


「そ、そうだよ。ほら、ひっひっふーって」

「……それ、深呼吸の掛け声じゃないでしょ」

「あれ、そうだっけ?」


 桜がいつもの調子で抜けたことを言ったおかげで、ティナも多少は落ち着いたらしい。呆れたような顔はしているが、息を大きく吐き出してどうにか平静を取り戻していた。


「で、キキ。問題はお前だよ」


 次に赤い瞳が向けられたのは、当然少女の怒りの元凶である。元凶とは言っても、彼に悪気がないのはピノも理解している。


「お前が色々と考えてんのは知ってる。俺もティナも、それは分かってる」


 それは理解していても、理解できないことが一つだけあった。それは普段の少年からは想像ができないこと。思ったことやら言いたいことやら、何か口に出したいと思ったら基本的には口に出す彼にしては、あまりにも良く分からない行動だった。


「ただ、お前サクラに関しては口数少な過ぎだろ。いつものお前ならもっとペラペラ喋ってるだろ?」

「うっ、まあ、そう……だね」


 桜に関してキキが隠していることは多い。それは彼にとって不都合であるという理由もないわけではないが、桜が面倒な事態に陥る可能性も考慮しての行動である。

 特筆すべきは、クマノミ遺跡の妙な場所から現れたということだろう。どう考えても普通ではない。遺跡で迷っていたのではなく、明らかに遺跡から出てきているのだから、弁解の余地はゼロだ。


「ティナちゃんとピノ君が交代したら?」

「キキもそこまでバカじゃねえよ。戦えるかどうかで分けるなら、俺もコイツと同じ分け方にする」

「ウチがバカみたいに言わなくても良いじゃん……」

「そういうつもりじゃなかったんだが」


 もしティナが落ち着いていれば、ピノと同様の意見を口に出すことはできたはずである。キキと一年以上の付き合いがあることも、それなりの場数を踏んでいることもあるのだから、思考の過程は彼と大差はない。キキの考えることぐらいならば、多少考えれば辿り着けるはずだった。

 そこに昨晩の彼の惨状という余計なことが混ざったせいで、少女は少年の思考に到達できなかっただけである。


「ならジャンケン!代表者二人がジャンケンして決めよ!」

「何だそれ。ジャケンじゃねえのか?」

「ジャケン?」


 三対一。両側が聞き慣れない単語に首を傾げ始めたものだから、キキがため息を一つ漏らして一歩前に出た。もはや恒例行事になり始めている節さえある。


「三竦みって分かるかい?」

「ウチのことバカだと思ってる?」


 三人全員が顔を逸らした。言葉は不要である。


「思ってんじゃん!」

「アンタの行動と言動振り返りなさいよ」


 ティナの言葉で暫し静止した結果、少女の口からはぐうの音も出なかった。自覚があるらしいのは良いことなのか、それとも悪いことなのか。どちらにせよ、空気が若干澱んでしまっていた。男子二人が容赦ない指摘を浴びせた少女の方へ目を向けると、逆に睨み返されて二人して顔を逸らすことになった。特にキキへの視線は未だに怒り一色。一旦収めたというだけで、依然としてその感情は燻っているようだった。


「……これがヘビ」


 とにかく空気を入れ替える目的で、少年は人差し指で何かを差し示すような形を作る。何かを引っ掛ける鈎のような形に見えなくもない。むしろそちらの方がしっくり来るだろうか。


「あ、そのジャなんだ」

「これがカエル。ヘビに負ける」


 人差し指を折り畳み、親指だけを立てる。ヘビはともかく、親指一本でカエルと言い張るのはかなり強引である。桜も当然疑問自体は抱いたが、そんなことを言い始めたら手遊びの大半は何故の連続である為、一旦口を閉じることにした。


「これがナメクジ。カエルに負けるけど、ヘビには勝てる」


 再び握り拳に戻したかと思えば、今度は小指だけがピンと立てられた。それに対して桜は、珍しく怪訝そうな顔を見せた。

 カエルよりはマシだが、その三竦みである必要性はあまりない。指一本で成立するならば、数字に強弱をつけても大差ないだろうというのはキキの意見である。国民のほとんどに浸透してしまっているものである為、もはや新しいジャケンを布教しようという考えこそ生まれないものの、分かりにくいのは彼も理解できる。

 しかしながら、桜の顔の理由は別に分かりにくさによるものではなかったらしい。


「ナメクジ……」


 少女の表情が歪んだ。もし相手がティナや他の女子だったなら、キキもすぐにその理由に思い当たったのかもしれないが、彼の前に今立っているのは桜である。故に少年の頭の中では即座に勘違いが発生した。


「カタツムリの殻がないやつだよ。カタツムリって分かる?」

「どっちも分かるから!」


 流石の桜も我慢ならなかったようで、少年は軽く胸元を殴られる。当然の結果である。痛くも痒くもなかったが、彼は態とらしく殴られた箇所を摩りながら、続けて桜に教えを請うことにした。


「で、ジャンケンって何だい?ジャケンが訛っただけとか?」

「三竦みなのは一緒だけど、中身は結構違うよ」


 そう言うと、少女は両手を突き出した。片方は普通の握り拳。もう片方はハサミのように人差し指と中指を立てている状態。


「こっちがグーで、こっちがチョキ。そして……」


 両手が引っ込められ、即座に飛び出してきたのは広げられた手。つまるところ、普通の手のひら。


「これがパー」


 言葉通りである。カエルのように分かりにくいということもない。用いられているのは、あくまでも擬音。それが若干子供っぽいという点を除けば、非常に分かり易い優秀な遊びである。


「グーがチョキに強くて、チョキがパーに強いの」

「変だな」

「変ね」

「小さい子にはジャケンより分かり易いかもね」


 残念なことにティナとピノからは不評。見慣れないというのも大きいのかもしれない。キキも似たような感情自体は抱いたものの、カエルとヘビとナメクジという、何とも分かりにくい三竦みよりは良いという考えの方が大きかった。


「なら、それで決めようか」

「じゃあサクラ、アンタがやりなさい」

「え、ウチなの?」


 唐突な指名に驚きを隠せない様子だったが、それよりも託されたことが嬉しかったらしい。桜はフンスと気合を入れる素振りを見せると、何故か妙な体操をすると共に手首と足首をグルグルと回し始めた。

 明らかに必要ない動きなのだが、暗黙の了解が存在しており、殴り合いが発生する可能性がなきにしも非ず。そういう理由でキキも代理を立てることにした。


「じゃあ僕もピノにやってもらおうかな」

「俺かよ。別に良いけどよ」


 そう言って確認するように先ほどの三つの手の形を三巡ほど繰り返した後、二人は相対する。決闘のような緊張感が僅かばかりに漂っているが、場所はどこにでもある路地の入り口な上、やることはジャンケンなる異国のジャケンである。


「何か規則あったりすんのか」

「規則……は特にないけど、リズムじゃなくて……掛け声に合わせなきゃダメ」

「まあ、そうだろうね」


 好き勝手に手を出すのならば、絶対に後から手を出した方が有利である。それはジャケンでもジャンケンでも変わらない。先手必勝という単語が確実に機能していないことを挙げろと言われれば、この二つが真っ先に挙げられてもおかしくないぐらいだ。


「最初はグーで、まずグーを出すの」

「おう」

「それで、ジャンケンポンのポンでグーチョキパーのどれかを出す。分かった?」

「必要なのか?」

「重要な儀式なの!」

「絶対嘘だろ」


 確実に儀式ではない。仮に儀式だったとしても、重要ではないだろう。もし背けば何らかの祟りに襲われるというのであれば、もはやジャンケンは人を呪う為の禁術である。騙して無理矢理参加させたぐらいで人を呪うことができるのであれば、あまりにも手軽に扱える呪術として、国が真っ先に人々の記憶から消さなければならない。


「じゃあ行くよ。最初はグー!ジャン、ケン」


 唐突に始められて一拍遅れてしまったピノだったが、持ち前の反射神経ですぐさま桜の動きに追いつき、続く単語を同時に口に出した。


「「ポン!」」


 少年が出したのはグー。少女が出したのはパー。

 女子二人が抱き合ってキャッキャと喜んでいる後ろで、若干不満そうな顔をしたキキによって、ピノの赤い髪の毛が一本引き抜かれることになった。







 先ほどの空気とは一転して、路地裏の空気はあまりにも重苦しかった。普段からそこに入り浸っているわけではない四人にとって、そこは異国と大差ないと言っても過言ではない。

 そこらで横たわっているボロボロの衣服を纏ったまだ若そうな髭面の男も、どこで入手したのかも分からない麦餅を齧っている小汚い青年も。全員が侵入者に対して剣呑な眼差しで見てくるのだから、気分が滅入るのも必然である。

 ティナが弓を片手に後ろを守り、ピノがいつでも抜剣できるように構えながら前方を警戒。そして比較的非戦闘員寄りの二人は、その二人に挟み込まれる形で進行していた。


「スラム街ってこんな感じなのかな」

「サクラの国にもあったのかい?」


 故に二人は若干緊張感が薄れていた。警戒していないわけではないが、それでも他二人と比べるとかなり軽い雰囲気を漂わせている。


「日本は……あったのかも。分かんないや」

「平和そうな国だね。行ってみたいよ」


 艶やかな黒髪に上等な服。見える肌に傷一つなく、常識が欠落しているというだけで、箸をキチンと使えるぐらいの礼儀作法は弁えている。そして路地裏のような、どこの国でもありそうな風景が存在するのか分からないという回答。

 しかし、桜自身は貴族令嬢ではないということも言っていた。それはキキも良く覚えている。だからこそ、分からない。単なる貴族ではなく王族であるという理由で否定したならともかく、そのような高貴な振る舞いをしていないのだ。

 一番初めに思い浮かぶ予想としては豪商の娘。それならば礼儀作法を身につけていながら、振る舞いがそこらの町娘と変わらないことも理解できる。だがそれならば、路地裏のような国の闇があるのか知らないというのが、キキ個人としてどうにも納得できなかった。相当な箱入りだったとしても、普通は分からないという言葉は出てこない。

 

「うん、平和だよ。外国と比べたら犯罪が少ないとか言われてた気がするし。今度はウチが案内するから、来れるなら来てほしいな」


 それとも桜の言う通り、本当に平和という言葉を体現したような国であるのか。だとすればそれは、キキの望んでいる魔術が発展したような世界なのではないか。

 色々と考えたいことはあったものの、場所が場所であるだけに思考の海には沈めない。少年はとりあえず重苦しい空気を多少緩和する為、明るい声と共に戯けてみせた。

 

「案内なんてできるのかい?」


 ケラケラと笑うその姿は、巫山戯ているのが丸分かりである。


「で、できるし!観光地とかは特にないけど、お祭りぐらいなら……」

「ああ、田舎なんだっけ」

「違うから!コンビニ近くにあるから!」


 否定の仕方が事実を言われた時のティナと似ていることから、キキは何となく察した。だが、特にそれに言及することはない。ただ優しげに笑うだけに留めることにした。


「ちょっ、バカにしてるでしょ!」


 それは別にバカにしているからではない。そういう意図を持って、少年は人差し指を自身の唇に当てる。その行動で理解した桜は、咄嗟に両手で自分の口を塞いだ。


「ティナ、音は」

「今のところ大丈夫よ」


 既に少女の手の中には矢が一本、いつでも使えるように握り締められている。前方の少年も同様、剣が鞘から抜き放たれていた。

 二人が見つめているのは路地の奥。正確にはその地面。一応は舗装されているが、あちこち罅割れてボロボロである。しかし、問題はそんな当たり前のことではない。


「なあキキ、巫山戯て魔術使ったわけじゃねえよな」

「僕でもここまで悪趣味なことはしないよ」


 それはドス黒い赤。罅割れた地面に紋様のように広がっているそれは、どう考えても自然に発生するものではない。見たことのある色であっても、普通の人間が決して見慣れるはずのない色である。

 いつの間にやら、ちらほらと見えていた住民達の姿は消え去っており、明らかに雰囲気が一段階酷くなっていた。流石のキキもそのような状況でいつもの調子を維持できるはずもなく、他の二人と同じように自身の得物を手に取った。


「キ、キリレンコ君。あれ、あれ」


 桜のような平和なところで生まれた人間が、それを見慣れているはずもない。彼女の語彙力が元々あまりないのはキキも知っているが、それとこれとは話が別である。どう考えても原因は元々の能力ではなく、目の前に大量に残されている赤が原因なのだから。


「うん、血だね」

「さ、さつ、殺人とか?」

「可能性は高いだろうね」


 少年は臆せず現場に歩み寄り、しゃがみ込んだ。路地裏では太陽光の恩恵もあまりないが、それでも簡単に分かるぐらいには大量の血が、その場には残されている。

 あまりにも大量である為、生きているにしても近くで倒れている可能性が高い。そう考えて見える範囲に目を向けるも、少なくともキキの目の届く範囲にはそれらしき人物はいない。

 少年は近くに落ちていた棒切れを拾い上げ、ツンツンと地面にこびりつき始めている液体を突いた。それはまだ僅かに流動体ではあるものの、今以上に周りを汚すことはない。突いた部分に赤色が付着しただけだった。


「どうだ?」

「もうほとんど固まってるから、それなりに前だとは思う。でも昨日一昨日って感じではないから、今日のだって考えて良さそう」


 ダチョウ達の事件に関係があるかどうかと問われれば、分からないという回答しか現時点では生み出せない。危険な薬が関わっているのであれば、人が死ぬという可能性も十分ある。

 

「一旦戻ろうか」

「そうね」


 キキの言葉にティナが同意し、ピノも静かに頷いた。すっかり怯えてしまっている桜も、まるで鶏か何かのようにブンブンと首を縦に振り、満場一致で表に戻るという結果に。

 それに待ったを掛けたのは、どこかで聞いたような男の声だった。


「ま、待ってくれ!お前、昨日のボンボンだろ!」


 そんな言葉と共に横道から飛び出してきたのは、低身痩躯の小汚い男。どこで会ったのかと考え込むまでもなく、キキは即座にその姿と声を一致させることに成功した。


「何の用だい」


 少年は声色を変え、桜をその背に隠す。そんなキキを庇うようにピノが剣を構えて正面に立ち、ティナも構えこそしないものの、矢を番えていつでも放てるように後方で姿勢を整えた。

 瞬時に完成した臨戦態勢に小男が膝をガクガクと震わせるが、なぜか引き下がらない。普通であれば悲鳴を一つ上げて逃げ出しているところだが、どうしてか引く様子を一切見せないのだ。


「た、頼みがあるんだ」


 そう言って男は膝と手のひらを地面につけ、頭を勢い良く振り下ろした。下手をすれば額から出血しそうな動きだったが、流石に寸前で止めたらしく音も鮮血も出てくることはなかった。


「兄貴が朝からおかしいんだよ。お前、魔術師なんだろ?俺よりもずっと頭良いし、何とかしてくれよ、頼むからさ」

「僕は確かに魔術師だけど、そんな万能じゃない。体調が悪そうなら医者にでも行きなよ」


 あまりにも無慈悲な発言だが、仕方のないことだ。キキの言う通り、魔術師は決して万能ではない。各々の得意分野が存在している上、身体強化以外で生命に関わる魔術は数えるほどしか存在していないのだから、病気ならば魔術師よりも医者を頼るべきなのだ。


「違うんだよ。何て言えば良いんだ?中身が変わったみてえな、兄貴が兄貴じゃなくなったみてえな」

「……薬でも飲んだのかい?」


 可能性はある。ダチョウの豹変の仕方を考えれば、薬を投与されたか自分自身で飲んだか、何れにしても人が変わったように見えるのも当たり前だ。


「薬なんて買う金ねえよ。俺達は確かにここに住んでるが、あんなもんに金使うぐらいなら飯買うって決めてんだ」

「なら他に何か変わったことは?」

「知らねえ。そもそも昨日の晩にどっか行っちまってよ。さっきここらで姿見たって奴がいたから、急いで来てみたんだけど」


 瞬間、小男に向けて切先と矢尻が向けられた。


「……何企んでるんだい、君」


 朝から様子がおかしい。昨日の晩にどこかへ行った。

 小男は一瞬の間にそんな矛盾を生み出したのだ。疑われるのは当然である。


「い、いや。た、企んでなんか」

「お前、嘘、下手」


 小男が飛び出してきた道から、ブォンと何かの飛ぶ音が響いた。それは白く細長い何か。キキはギリギリ視認できたが、道に背を向けている小男がそれに気づけるはずもなく、飛来してきた白い何かは彼の背に直撃した。


「あ、え?」


 グチャ。そんな生々しい音が鳴った。男の背に直撃したはずの白い何かは、男の胸元から生えている。彼が自分の身に起こったことを理解するよりも先に、続けてもう一つ。咄嗟にピノが剣で男の前に立って弾いたものの、既に男の目から光は消えていた。


「え、嘘だよね」


 目の前で唐突に起こった惨劇に脳の処理が追いついていないのか、顔を青くした桜が口元を手で隠しながら呟く。そのまま青ければ良かったが、やはり耐え切ることは難しいらしい。すぐさま更に顔色を酷くさせると、道の端の方へ駆けて行き、水音と苦しげな声を響かせ始めた。


「臭い。勇者臭い。来た、昨日の女」


 現れたのは長身痩躯の男。昨日の昼にキキと桜が出会った、隣で事切れた小男の相方のような存在。口元にはベッタリと赤黒い液体をつけており、右手には白い棒のような物が飛び出した肉の塊を握っている。ついでに言うならば、顔つきがその時とは明らかに変わっていた。

 鬼の形相とでも言うべきか、それとも激怒していると言うべきか。人としての形は保っているが、纏っている雰囲気は完全に人ではない。


「ほら、四人で来て良かったじゃない」


 それ見たことか。そう言わんばかりの視線を向けられても、目の前の男の気味悪さのせいで、キキはそれにどう返すべきか分からなくなっていた。


「……そうだね」


 とりあえずそれだけ返し、少年は短杖を離さないように握り締める。他の二人も同じように得物を握り直し、キッと男を睨みつけるも、男はキキの方を僅かに見ただけだった。

 男の興味はほとんど桜に割かれてしまっているらしく、未だに地面に蹲って苦しそうに咳き込んでいる少女へ、一歩一歩足を進めていく。


「どこ見てやがんだ、テメエ!」


 そう言うや否やピノが尋常ではない速度で駆け出し、雄叫びを上げながら剣を振り上げた。完全に背後を取っている。確実に叩き込める。誰もがそう思った瞬間、剣が静止した。


「うるさい」


 その切先は肩越しに伸ばされた男の手に掴まれており、ピクリとも動かない。相手はかなり無理な体勢且つ、どう見ても非力な痩せている男。鍛えているピノが、どこからどう見ても有利な姿勢から繰り出した一撃を受け止める。

 それがどんな異常事態であるかなど、誰でも理解できるだろう。赤毛の少年のことを良く知っている二人からすれば、余計に簡単に理解できる。


「ピノ、剣を離せ!」


 キキが咄嗟に声を上げるが、もう遅い。声が届いた時、少年の体は既に宙を舞っていた。


「なっ!?」

「邪魔」


 バケモノのような膂力で剣ごと投げ飛ばされ、ピノは壁に激突した。そのままズルズルと地面までずり落ち、倒れ込む。胸は上下しているが、動き出す気配はない。

 死んでいるわけではなくとも、戦線離脱したということに変わりはなかった。残された二人は顔を見合わせる。


「もっといた方が良かったかも」

「そうね」


 動けそうにない桜が狙われている以上、決して争いは避けられない。あまりにも最悪な状況の中、戦いの火蓋が切られた。

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