ノラレス家にて
ノラレス家というのは、シラカバ王国建国以来代々続いている由緒正しき騎士の家系などではなく、ピノにとっての曽祖父の代で武勲を立てて認められた家だ。
成立して百年ほどの新参貴族というのが彼らの立ち位置であり、まだまだ功績を上げる必要がある状況だ。当然、周囲の貴族からの評価もそれほど良いモノではない。
腕の立つ、少し育ちの良い庶民。面と向かってそのようなことを言う人間は少ないが、端的に言ってしまうとそうなる。そしてノラレス家の面々もそれが事実なので、特に否定することはない。
そんなノラレス家の長男が、今現在キキの前で緑茶を啜っているアルバート・ノラレスである。
「なるほど、明らかに様子のおかしいダチョウが二羽。しかも君達を明確に狙っていた、と」
自ら筆を走らせた書類に赤い目を走らせながら、件の人物は呟いた。それに合わせて首を縦に振るのは、被害者であるキール・キリレンコ。ティナと桜、そして六男のピノもいるにはいるのだが、妙に畏まった雰囲気の中では座りが悪いらしく、キキに軒並み押し付けて部屋の隅に三人で固まってしまっていた。
「心当たりは?」
「全く」
「だよねえ」
畏まったとはいうが、ノラレス家の長兄であるアルバートの雰囲気は非常に和やかである。準貴族ではあるが、一応の区分としては貴族。それ故に多少傲慢であってもおかしくないのだが、彼にそのような態度は一切表に出てきておらず、今も長椅子に両肘を引っ掛けて気怠げにしている真っ最中である。
「特定の人物を襲うように調教したんですかね」
「調教できたとして、君達を狙う理由は?」
キキだけならともかく、唐突に桜を狙い始めた理由。いくらキキが自分の頭の中に存在する欠片をかき集めても、答えに辿り着けそうにはなかった。
「『色彩』としての僕の首……っていうのが無難なところだと思います」
「俺もそう思ったけど、君を殺して得なんてあるかい?」
キキは二つ名を持っているという点を除けば、単なる肉屋の息子である。別に他国からの工作員でもなければ、ハミルトン魔術学校を内部から破壊しようとしている学校間での間者でもない。
「……ないかと」
「だろう?得がないのに殺人なんてしないよ。頭がおかしい奴ならやりかねないけど、動物を使ってる時点で知能犯なのは間違いないからね」
向かい合う二人の結論は、結局それに行き着いた。特に目立った利益など生まれないにも関わらず、かなりの被害を発生させてまで殺すというのは、どう捉えても愚行でしかない。
「それにさ、二つ名持ちの魔術師をダチョウ二羽で仕留めれるかい?」
ケラケラと笑いながら、アルバートが言った。
そんなことがあり得るはずがない。そう言わんばかりの調子で笑うものだから、キキとしては非常に言い出しづらい状況になってしまっていた。顔に死に物狂いの蹴りを叩き込まれ、意識不明の重体に陥っていたのは他でもないキキである。
「いや、一回死にかけました」
途端に笑い声が止み、口を開けたまま静止したアルバートと、至極真面目な顔つきのキキの視線が交差した。
「冗談だろう?」
キキが首を横に振ったのを確認し、彼は事情を知っているであろうティナの方へ目を向ける。しかし、彼女も同様の反応を示した為、アルバートは目を瞑った。そして口元を左手で押さえながら、ゆっくりと口を開く。
「あの『色彩』が?凶暴化したダチョウに?」
「悪いですか」
珍しく不機嫌そうな顔をした少年が、湯呑みを手に取って態とらしく音を立てて緑茶を啜り始める。そのまま顔を天井に向けて中身を一気に飲み干すと、これまた態とらしく音を立てて湯呑みを机の上に置いた。そして上唇についた緑色を一舐め。
「ああ、そうだった。君のやり方を忘れてたよ」
流石にそこまで露骨にされてしまえば、アルバートも笑みを浮かべるわけにはいかない。ほんの少しだけ口元は隠していたものの、すぐにそれは取り払い、先ほどまで見せていた不快感のない柔和な笑みを見せた。
「僕のやり方が甘いのは知ってますけど、曲げれませんから」
「そうだね。そこは君の良いところだ」
そんなやり取りを繰り広げている二人の後方で、視線を二人の方へ向けたまま、桜がティナの耳元に顔を寄せた。
「ねえ、ティナちゃん。『色彩』とか二つ名持ちって何なの?」
それに一つ問題があるとすれば、ティナに対する耳打ちが下手だということだろう。森人特有の少し横に長い耳を扱うにしては、やや手の位置がズレてしまっていた。
「ひゃっ」
案の定指が先端を掠めてしまい、一人の少女が裏返った声を出すことになった。ついでに体全体も僅かに弾ませ、最終的に部屋の中にいた三人の異性の視線が全て集まってしまったのだから、ティナの羞恥心は限界である。
「すみません」
にっこりと笑ってはいたが、その右手は既に下手人の頬を摘んでいる。それだけで席に着いている二人は何となく察したらしく、再び向き合って事件について語り始めた。
そして二人が向き直ったのを確認し、引っ張る。声に出していないだけで見るからに痛そうな表情をする黒い方と、注目されたことで耳まで赤くしている金色の方。
「気をつけなさいよ」
「ごめんなひゃい」
場所が場所なので小声で注意するだけに留め、ティナは一つ咳払いをする。それと同時に桜の頬を摘んでいる指を離し、今度はその指で両の顳顬を抑えた。
「……そういえば、二つ名も知らないのね」
ティナは顔を顰めた。頭痛に襲われているように見えるが、そういうわけではない。似たようなモノではあるが、彼女の体に不調はどこにもなかった。無知な人間に分かり易く常識を伝えるというのは、何となく難易度が高いように思えてしまう。
ティナとて、桜をバカにしているつもりはない。知識がないだけで理解力は人並みにあるのだから、ある程度説明すればどうにかなるのは分かっている。ただ、そのある程度が思い浮かばないのだ。
「二つ名持ちってのは、魔術師協会の中で二番目に偉い奴らだよ。会長が一番偉くて、その下に今は四人いるんだっけか?」
少女が悩んでいるところに助け舟を出したのは、同じようにキキとアルバートの会話に加われていないピノだった。
しかし、彼はまだ桜のことを全く知らない。
「四天王みたいな?」
何言ってるんだ、この子。知らないわよ。
もし言葉にするならば、おそらくその程度だろう。二人は一瞬だけ顔を合わせた。赤毛の少年が首を傾げ、金髪の少女が首を振っただけ。それだけではあったが、二人の間ではそれで十分だった。
「何言ってんのか分かんねえけど、多分そんな感じ。で、二つ名は魔術関係で何かしらの功績を上げた奴が手に入れる……称号みたいなもんだ」
その説明で思い当たる節があったのらしく、桜は音は立てずに手を叩く。しかし、次に出てきた言葉はピノの知っている単語ではなかった。
「ノーベル賞みたいなヤツ?」
「あー、多分そんな感じ」
度々飛び出してくる未知の言語を理解することを半ば諦め、ピノは続ける。
「魔術齧ってみりゃ分かるよ。アイツは根底にある思想も含めて若干ズレてる。一般人ならまだしも、他の魔術師と比べたら余計に異質だ」
「異質?」
「今度聞いてみろよ。普通に話してくれる」
「うん、分かった」
本当に分かっているのかどうか怪しいぐらいに軽い返事ではあったが、別にそれ以上続ける話でもない為、ピノは小さく咳払いを一つ挟んだ。そして脇道に逸れ始めていた話を元の道に戻し、再度口を開く。
「で、二つ名持ちの特権が何個かある」
「特権?」
流石に特権の意味は理解しているらしいことに安堵しつつ、少年はピンと指を立てる。
「その中の一つが、子爵と同等の扱いを受けられること」
「……凄いの?」
桜の周りに立っていた二人だけでなく、しれっと後方の会話にも耳を向けていた二人も、思わず椅子から転げ落ちそうになった。凄い凄くないという段階の話ではないのだから、当然である。
「凄いに決まってんだろ。平民が騎士爵も男爵もすっ飛ばして子爵扱いだぞ?」
その二つの単語が何を示しているのかも良く分かっていないらしく、少女は一瞬惚けた顔をした。しかし、流石にこれ以上の醜態を見せられないと判断したのか、すぐにキリリとした表情を作り、格好つけるように右手の人差し指と親指の間で直角を形成する。そしてそれを顎に当て、一言。
「要するに凄く偉いってことね」
もはや何一つ理解できていないのではないか。そう言わずにはいられないぐらい、桜の知識は酷い有様だった。
「……お前、大丈夫か?」
頭という単語を入れなかっただけ、ピノは気遣いができる男である。もしキキならば、確実にその余計な一語が入っていた。そしてもし入っていたとすれば、桜はどちらが相手であっても、涙目で彼を一発か二発殴るか、そのまま泣き喚いただろう。
その気遣いが優しさなのか、それとも哀れみなのかはさておき、もう一組の話し合いも佳境に突入していた。そもそもが単なる事情聴取的なモノであったとはいえ、二人はオーデマリでも有数の魔術師と、一応は貴族の長男である。そんな面子の対談なのだから、もし畏まった場であれば傍聴人の一人や二人いてもおかしくない。
「他に何か推測はあるかい?」
「特にはないですね。アルベルトがやらかしたのかと思いましたけど、流石にこんなバカなことはしないでしょうし」
「アルベルト?」
聞き返し、首を傾げる。しかし、すぐにその名が誰のモノであるか分かったらしく、アルバートはあからさまに嫌そうな顔をした。
「……ああ、アルベルト・コンリーか。何で俺と似た名前をつけやがったかな、あの子爵」
柔和な笑みは一体どこへ行ってしまったのか。苦虫を噛み潰したような表情で、舌打ち混じりにそんなことを言った。家族として見慣れているピノは特に反応を示すこともなかったが、桜とティナはギョッとした様子で彼に視線を注いでいる。
キキも内心驚いてはいたが、そもそも貴族なんてそんなモノだという偏見もあった為、特に顔に出すことはなかった。
「息子の頭が悪いとは聞いているけど、流石にそれはしないだろうね」
「でしょう?」
歯に衣を着せない辛辣な物言いだが、事実なのでキキも特に否定を挟むことはない。悪く言われている当人もいないので、誰からも否定されることはなかった。結局、頭の悪いアルベルトという評価のまま、話は進んでいく。
「それに愚弟から時々聞くけど、やっても嫌がらせぐらいだろう?そんな大々的な悪さができるとは思わないよ」
「まぁ、そうですね」
件の人物の普段の行動を知っているキキからしてみれば、それは正当な評価である。昼頃に遭遇した際も、声を掛けてきて何か言おうとしただけ。最終的にはキキに変な部分で言い負かされてしまい、そのまま撤退したぐらいの人間だ。
そんな無計画な行動を取る人間なのだから、計画的にやるべき犯罪行為を巧みにできるわけがない。普段から道化を演じている可能性もなくはないが、常日頃から嫌々ながらも彼の姿を見させられているキキとしては、その可能性も限りなくゼロに近いだろうとしか思えなかった。
「だから俺の主観にはなるが、アルベ……言いたくないな。コンリーの息子は白だと思う」
「僕もそうだと思います。となると、やっぱり『誰が』と『何の為に』の部分に戻ってきちゃいますけど」
堂々巡りである。何の為にキキ達を襲ったのか、それさえ分かれば対処のしようがあったが、それの手掛かりすら掴めていない状況というのは、かなり先行きが不透明だ。
いつまでもノラレス邸に留まっておくわけにもいかず、かと言って安全な場所もそれほどない。
「ここで話して決着がつけば良かったけど、流石に楽観的過ぎたね」
そもそも下手人が人ではなくダチョウである以上、拷問をしたところで絶対に有益な情報は出ない。一羽に至っては既に死んでいるし、二羽目に関してもキキ達が寮を後にした時点で半殺しだったのだから、そちらも死んでいる可能性の方が高い。故に拷問以前の問題ではある。
「アルバートさんっていう可能性は?」
明らかな冗談ではあった。アルバートもそれを真面目に受け取ったわけではない。だが、彼は心底意地の悪そうな笑みを見せた。そこらの悪党など歯牙にも掛けないであろう、悪辣さが表皮から滲み出ているような邪悪な顔である。
「もし僕が君に嫌がらせをするなら、君が自分自身で君のやり方を捻じ曲げるように仕向けるさ」
つまり、少なくとも今回は関与していないという話になる。キキはそう解釈し、明らかに演技でやっているであろう極悪人をジトッとした目で見据えた。
「性格悪いですね」
その一言が吐き出されるや否や、アルバートの表情が切り替わった。極悪人のような笑顔は完全に消え去り、ずっと見せてきた柔らかい笑みが戻ってくる。
「貴族なんてこんなもんだろう?」
そう言う男の視線は、キキの方には向いていなかった。それはキキの更に後方、黒髪の少女の方へ向いていた。
世間一般における常識すら欠落している少女がいる場所で、貴族関連の悪い冗談を言う。信じるか信じないかは桜の勝手にはなってしまうが、貴族は全員が全員良い人間じゃないということは伝わるだろう。
「そうかもしれませんね」
実際、キキは貴族がそんなモノだと知っている。知っているが、アルバートの行動の意図を何となく理解した上で彼が選んだのは、否定も肯定もせず曖昧に終わらせることだった。
それに対して満足げな表情を一瞬だけ見せたと思えば、すぐさま男は首を横に振る。
「君からこれ以上容疑者が出てこないなら、もう無理そうだね。俺の手柄にはできそうにない」
六男の友人であっても、夜間の急な訪問であるのに変わりはない。何となく対談が終わる雰囲気を感じ取ったキキは、話をそれ以上に発展させるのを止める為、アルバートに話の流れを完全に譲り渡すことにした。
「すみません」
それだけ口にして頭を下げ、態とらしく欠伸を噛み殺す。その様子を見てニヤリと笑い、男の方も態とらしい身振り手振りを交え始めた。
「謝らないでくれ。君を保護したっていうだけでも、かなり良い顔できるんだから」
「なら良かった」
この二人は何をやっているんだ。そう言わんばかりの三人の視線を浴びて、対面している貴族階級二人組は漸く大袈裟な動きを止めた。
「まあ、大体の事情は分かったから、今日は全員休んでくれ。部屋も布団も人数分用意してある」
言い終わったアルバートが手を叩くと同時に、扉がギィと音を立てた。そこからゾロゾロと現れたのは、似たような顔をした三人の侍女達。いつの間に集まっていたのか、そのまま部屋の中に入ってきたかと思えば、困惑したままのティナと桜をかなり強引に引っ張っていった。
「お召し物を変えましょう。湯浴みもした方がよろしいでしょう」
三人が似たような顔でお揃いの白黒の衣服を見に纏った上、三人全員が同じようなことを言いながら少女二人を連れ去る光景は、側から見ればかなり狂気を感じさせられるモノである。慣れている男子二人と、連れ去られているティナはもはや諦めていた。三人とも口を噤み、目の前で進展していくのを眺めるのみである。
「本物のメイドさんだ!」
一方で、桜は騒いでいた。しかし、それは侍女達に囲まれているからではない。特に暴れたりするわけでもなく、何に感動しているのか手をパチパチと鳴らしている。
そのまま女子二人が拉致されるのを傍観し、部屋の扉がガチャリと音を立てたのを確認すると、アルバートは再び口を開いた。
「兵士達には俺が連絡しておこう。君達の所在もね」
「ありがとうございます」
別に二人して記憶が飛んだわけではない。風が吹いたとか、犬が鳴いたとか。目の前で起こったことをその程度の事象だと捉え、無かったことにしただけである。
そんな二人を横目に、アルバートを小さくしたような少年もスススと部屋を出て行った。再び扉の閉まる音が静かな部屋に響くと同時に、キキの右肩にゴツゴツとした手が置かれる。
「貸し一つだよ?」
ニヤニヤと笑うその姿は、悪戯好きな子供のよう。しかし、その悪戯で一体何をされるのか分からず、少年は仕方なく戯けることにした。
「銀貨一枚ぐらいで良いですかね」
そう言いながらゴツゴツとした手を掴み、グイと持ち上げる。大して力も込められていない様子ではあったが、元が非力なキキの腕では、かなり鍛えてあるアルバートの腕はそれなりの負荷になる。
結局持ち上げるだけ持ち上げて、あるべき位置に戻すことはできず、彼は逆に自分が動くという選択肢を選んだ。
「君の力は金貨が何十枚あっても足りないと思ってるんだけどな」
腕の拘束から抜け出したキキに視線を向けながら、男は笑う。キキのことをかなり高く買っている彼からしてみれば、今回の貸し借りはそれほどに価値のあるモノらしかった。
「買い被り過ぎですよ」
しかし『色彩』としては、貸し借りが生まれてしまった時点で迷惑極まりないのだ。できれば非常に小さなことで返したいところではあったが、それは叶わないだろうと内心諦め、扉の取っ手に手を掛ける。
「僕も風呂、使わせてもらって良いですか?」
「良いとも。俺と君の仲じゃないか」
背中に視線を感じながら、キキは一人を残して部屋を後にした。
・
風呂上がり、後は寝るだけという状態。普段は中々来ることのできないノラレス邸の中にいるだけでなく、時刻は既に深夜。大人と子供の境のような年頃の人間であれば、ワクワクする要素しかない状況だ。
それは当然キキも例外ではない。親友である赤毛の少年に悪戯でも仕掛けてやろうと、自身の得物である短杖を片手に彼の部屋を目指していた。びしょ濡れの明るい金色の髪が水滴を垂らしているのも気にせず、トットッと韻を踏むように足音を鳴らす。
「アイツの赤毛を青毛にでもしてやろう」
朝起きてボーッとしている状態。瞳の端にどうしてか見慣れない青いモノが映る。段々と意識が覚醒していき、事態に気づいて騒ぎ立てるピエール・ノラレス。
キキが頭の中に思い浮かべるのは、そんな喜劇の一節のような親友の姿。そうやって廊下の真ん中で小さく笑い声を漏らしていると、それを聞きつけたらしい少女が声を響かせた。
「あ、いた!」
振り返った瞬間にまず目に入ったのは、夜の闇のような黒色。そしてそれに対を成すような白色。それは濡れたことで金属のような光沢を得た髪と、ノラレス家の家紋が刷られた白絹の寝巻きだった。
「ちょっと話そ?」
別に急ぐ用事でもない為、特に考えることもせずキキは立ち止まる。近くに座る場所もないので、とりあえず壁に背中を預ければ、少女も同じように彼の隣にもたれかかった。
「何だい。後ろで話してたことで何か疑問でもあったかい?」
疑問を抱いてそうな箇所が複数あったこともあり、キキには彼女の話したいことが見当もつかない。多少は頭の回転が早くとも、他人が話したい内容を事前に把握するような異常さは、流石のキキも持ち合わせていないのである。
「キリレンコ君が異常だーってピエール君が言ってたんだけど、どゆこと?」
かなり語弊がある言い方ではあるが、話自体は聞こえていたこともあり、キキも桜が言いたいことは十分に理解できた。もしキキが後ろでの会話を聞いていなければ、男二人で取っ組み合いになっていたかもしれない。
「ああ、それか」
少年はそう言って唇を尖らせ、不機嫌そうとも不快そうとも取りづらい、何とも言えない表情を浮かべる。
「単純に思想の話だよ」
「哲学的な?」
「いや、魔術の利用方法についてさ」
未だにピンと来ていないらしい桜の為に、キキが思い返したのはハミルトン魔術学校に入学してすぐに配布された教材だった。魔術の基礎基本から、魔術に関する一般的な歴史。それらの記されている教材のことを思い出しながら話せば、自身が異端であると語るには十分だと彼は考えた。
「今、魔術師っていうのは大まかに分けて二種類いるんだ」
まず右手で握り拳を作り、人差し指と中指を立てる。その行為で桜の視線が手元にやって来たのを確認し、キキはもう一方の手で立てた状態の人差し指を掴んだ。
「一つが兵士。魔術を使って、敵を一掃する役」
そのまま折り畳み、続いて中指を掴む。
「もう一つが学者。魔術のより深い部分を追求する人達」
キキは分類的には後者である。しかし、そのどちらにも属したくないという心が彼の中には存在していた。
「別に否定はしないけど、僕は魔術を兵器として扱いのは個人的に好きじゃない。それに学者が追求しているのも、結局は個々人の興味を深掘りしてるだけ。こっちも嫌いじゃないし好きでもない」
それらの在り方を否定するつもりはない。それも魔術の在り方の一つであることは、彼自身重々承知している。それで生活している人間もいるのだから、その在り方を否定すればその人達も否定することになってしまう。別にキキにそういうつもりはない。
「魔術は兵器としても使えるけど、それは技術の発展の過程において、そういう使い方ができるっていうのが分かっただけ」
「そうなの?」
「卵が先か、みたいな話さ。僕がそう思ってるってだけ」
ただ、やはり好きにはなれない。魔術を兵器として扱っているうちに技術が発展したのか、技術が発展することで軍事に転用されたのか。どちらが先なのか、そんな話を深掘りしたところで堂々巡りでしかない。
結局のところ、キキの考えも捉え方の問題でしかなかった。キキという少年はそう考えている。それだけのことでしかない。
「僕はそう思ってる。そもそも魔術っていうのは、人が幸福を追求する手段だと思ってるんだよ」
それが彼の思う魔術。『色彩』の名を冠する魔術師の考える、現存している魔術の理想形。
「だから、僕は魔術で人や動物を傷つけたくないんだ。それで僕が死んだら元も子もないから、最低限の自衛はさせてもらうけどね?ああ、それと注目浴び過ぎた時とかも、多少は強い魔術を使うよ?」
やろうと思えば、彼だって魔術で人を殺すこともできる。しかし、それをしてしまうと、キキの望む魔術ではなくなってしまう。
路地裏で桜を襲おうとした二人と交戦した時も、寮の廊下でダチョウを相手取った時も。彼が率先して行ったのは目潰しだけである。後者に関しては手痛い反撃を喰らってしまったこともあり、最終的には本当の目潰しを行なってしまったわけだが、それでも殺しに手を染めることはなかった。
「魔術で人が死ぬことなんてなくて、何の罪もない子供が何の代償もなしに魔術で笑える。僕が見たいのは、そんな世界」
そしてその理想の魔術の最奥に位置するのが、ソレだった。
それ以上特に語ることもなかったので、キキは隣の少女へと目を向ける。そこには真っ黒い瞳があった。まるで最初から見られると分かっていたかのように、その瞳は自身に向けられている緑色の瞳を真っ直ぐに捉えていた。
反応に困ったキキが頬を掻きながら見つめ返すも、やはり特に反応はない。暫くの間そのまま見つめ合い、何か反応はないのかとキキが首を傾げれば、漸く少女が肩をビクリと跳ねさせた。
それと同時に両頬を赤く染めたかと思えば、首が取れそうな勢いでキキの顔から視線を外し、そのままの勢いで頭をブンブンと振るう。当然、濡れている黒髪についたままの水滴は飛び散ることになった。それでキキが迷惑そうな顔をしていることも知らない少女は、顔を背けたまま口を開く。
「科学みたいな感じ」
その口が紡いだのは、またもやキキの知らない単語だった。
「かがく?」
「そう、科学」
そこでやっとキキに話が通じていないことに気づいたらしく、桜はキキの方へ顔を向け直した。しかし少年の顔を視界に収めるとまた頬を赤くし、今度は目を瞑って考え込み始める。
「えっとねぇ」
腕を組んでウンウンと唸るその姿は、桜にしては珍しく頭を使って発言しようとしているようにも見える。だが、キキが抱いてしまったそんな期待は、次の瞬間に平然と打ち砕かれることになった。
「ウチの世界でも、なんかそういうのある!」
自分の今まで語ってきた信念や理想、そして科学という未知の単語をたった五文字に統合され、少年は肩を落とした。桜がそういう人間だという認識は既に形成されている為、大して衝撃的ではなかった。しかしながら、その反応が示す通りキチンと心には届いていた。予期していたから大した衝撃でないというだけで、衝撃自体は存在しているのだから。
「……君は何というか、良いことを言えそうな雰囲気をぶち壊す才能があるかもしれないね」
「えー、そんな才能いらないよ」
「僕も欲しくはないかな」
もしそんな才能を欲しがる人間がいるとすれば、かなりの変人、もしくは狂人である。変人と揶揄されることのあるキキも欲しがっていないのだから、割合としては後者の方が高いかもしれない。
「でも、なんか思ってたより格好良い!」
「格好良い?」
唐突に告げられた少女からの評価に、少年は戸惑った。
「そういう信念とか、曲げれない想いみたいなの、格好良いと思うよ」
「……共感されたことはあったけど、そういうのは初めてだな」
「え?」
格好良いという言葉自体を言われ慣れていないわけではない。むしろ、キキは言われ慣れている方だろう。生まれてから何度も言われたことがある。それは魔術の才能に関してだったり、その綺麗に整った顔立ちに対してだったり。
対象はその時々によって様々だったが、少なくともキキの記憶の中では、桜に語ったことを格好良いと言う人間は今の今まで存在していなかった。
「ティナちゃん達は?」
「二人とも賛同はしてくれたよ?ただ、第一声は二人して『変わってる』だったけど」
「ああ……」
二人のキキに対する遠慮のなさを思い出したらしく、桜は苦笑いを浮かべながら天井を見上げる。そうやって暫くの間何もない虚空を見つめた後、桜は唐突に手を叩いた。
「そういえば、何しようとしてたの?」
「あー……」
ピノの髪を真っ青に染めてやろうとしていた。別にそんな奇天烈な事実を告げても良かったのだが、キキは口を噤んだ。
何となく、彼の心の中から悪戯をする気はなくなっていたから。
「忘れたから、もう良いや」
「何それ」
クスクスと笑う異国の少女を横目に見ながら、キキも声を微かに漏らしながら微笑んだ。




