勇者(仮)、頑張る
診療所で目覚める少し前、少女は告げられた。
「魔神の手先の……更に手先が現れたから、それの退治をしてきなさい」
何とも曖昧な指示だったが、それには妙な強制力があった。桜が勇者であるとか、お世話になった少女の危機であるということも関係していたのかもしれない。
何にせよ、まさか異世界と思われる場所にやって来て一日目にして、ゲームで良くある戦闘をしなければならないなど、根角桜は思ってもみなかったのである。
相手が普通の人間ならばまだ良かったのだが、残念ながらそんなチュートリアルのようなことはない。彼女の初陣の相手に選ばれたのは、モンスターと呼んでも全く問題なさそうな鳥だった。しかも、同一個体ではないにしても、一度はその背に乗せてもらった異世界のダチョウ。
最初は友人であるティナのピンチだと思って飛び込んだが、いざ目の前で相対してみると、その血走った目やら強靭な脚部やらのせいで体が竦んでしまっていた。
桜は内心泣きそうになりながら、両手をグッと握り締めて見様見真似のファイティングポーズを形作る。それは若干不恰好であることに加え、明らかにダチョウと戦うには合っていない。
徒手空拳で怪物に挑むなど、もし勝ってしまえば、もはやどちらが怪物か分からない。
「ちょっと、足震えてるけど大丈夫なの?」
「だ、だいじょぶ!」
「絶対大丈夫じゃないわよね、それ」
そうは言っても、ティナに前衛をさせるわけにはいかない。
自分がどうにかして前衛をして、ティナには後方から矢を放ってもらう。
きっとそれが一番無難な戦術なのだと、ゲームやサブカルチャーに疎い彼女でも、何となく理解できた。
「ウ、ウチがやらなきゃ、誰がやるんだって話だし!」
両手で顔をパチンと叩くものの、ただ痛いだけ。勇気が出るわけでも、後ろで倒れたままの少年が目覚めるわけでもない。
後ろに心強い存在がいることで、恐怖に感情が支配されるなどという事態には陥っていないが、恐怖心は少なからず存在していた。
「プギィッギィッ!」
日常を過ごしていく中で、現代日本人の多くは、自分達よりも大きな動物に凄まれることなどない。そもそも大きな動物と出会う機会というのも、動物園に行って柵越しか硝子越しに見るぐらいだ。
それは桜という現代日本で女子高生をやっていた少女も例外ではなく、明確な敵意を持った動物と対峙した経験など、幼少期に近所の犬に吠えられたことぐらいしかない。
「やんのか!この……鳥め!」
自分の語彙力のなさに呆れながら、桜は拳を前に突き出した。
所謂シャドーボクシングの真似をしてみているのだが、如何せん彼女はド素人。中学時代にバスケットボールを多少していたぐらいで、武道に関しては柔道を少し齧った程度。
腰も入っていない上、ティナと比べても細い腕でそんなことをされたところで、狂気に支配されてしまっているダチョウが怯えるはずもない。
「ギィィィ!」
「な、何だよぉ」
普通のダチョウの鳴き声に毛が生えたぐらいの、大したことのない声量だったにも関わらず、桜は声を震わせてしまっていた。
「エセ勇者」
「え、エセじゃないやい!」
残念ながら、その言葉に信憑性はない。
先ほど得たはずの信用は失っていないが、ティナの視線には疑惑の念がかなり込められている。
「こら、ちゃんと敵のこと見なさい」
そう言われて正面へ目を向ければ、ほら行くぞと言わんばかりに足で地面を引っ掻いているダチョウの姿があった。明確に鳥の姿ではあるのだが、その体格差のせいもあって、自動車がエンジンを噴かしているように見える。
桜の頭の中にある、地球での最後の記憶。それは普通に下校していた最中に横合いから突っ込んできた、何の変哲もない乗用車。
死に至った瞬間の記憶はあまりのショックで消し飛んでいるものの、それが起こる直前の恐怖は明確に覚えている。
「ダメ、ダメ。ウチは勇者なんだから」
それでも彼女は勇者であるという、課せられた使命で震える足を固定した。たったそれだけの為に命を張れるという歪さを、彼女自身も含めて、この場においては誰一人として理解していない。
していなかったが、それに関して思考するほどの余裕はなかった。
武器は拳のみ。蹴りも攻撃に含めたとしても、頼りないことに変わりはない。ローファーで蹴られればかなり痛いのは間違いないが、ダチョウにどこまで通じるかは分からないのだから。
ダチョウを視界の中心に収めながら、桜はステータス画面を開く。自身の情報の載っている右下、アイテムボックスと書かれた欄をタッチし、少女は顔を顰めた。
「相変わらず灰色だし」
彼女が触っても、全く反応しない箇所がそこにはあった。
キキと出会う直前まで歩き回っていた暗闇の中でも、街に入る前にチラと見た時も、路地裏でキキの助けになれないかと確認した時も。
彼女がこの世界にやってきてから、ずっとその箇所だけが灰色のままなのだ。そこには大層な名前の武具があるのに、それらを装備することができないのである。
棒切れを拾い上げて、それを装備することはできる。アイテムボックスから、教科書やら何やらを取り出すことはできる。本当にそれを取り出すことだけができないのだ。
「諦めるしかないかなぁ」
そうボソリと呟いた後、最後の悪足掻きでもう一度確認するも、やはり変化はない。
仕方なく、彼女は手首と足首をグネグネと回し始めた。中学生の頃、バスケ部の練習や試合前にしていた単なる柔軟運動である。ルーティンワークというわけでもないが、しないよりマシだろうというぐらいの思考が、少女にそうさせていた。
「よし」
何も良くはないのだが、桜はどうにか表情を作り直し、未だ鳥とは思えない雄叫びを上げているダチョウをキッと睨みつける。
そんな後ろ姿を呆れた顔で見ながら、長弓に矢を番えるティナ。その後ろには横たわったまま、目を覚ます気配のないキキ。
戦闘員は二人。戦闘経験があるかないかという話になれば、実質一人。援軍は未定。事情を知っている男子生徒か、騒ぎを聞きつけた女子生徒が来るかどうか。ティナが怒鳴ったおかげで一部の男子は動き出していたが、本当に来るかは不明。
結局のところ、今暫くは二人で持ち堪えなければならないのだ。
「こっちに突っ込ませないように避けて。それだけしてくれれば、アタシがどうにかするわ」
ティナは桜には期待していなかった。どちらかと言えば、キキが目覚めて状況を打破してくれる方に期待していた。それは桜を軽視しているわけではなく、客観的な事実を精査してそう考えただけだ。
「……うん、分かった」
そしてそこまで詳しくは分かっていなかったが、あまり期待されていないということは、桜も何となく理解していた。
実際、桜は剣を握ったこともない。殴り合いの喧嘩もろくにしたことがない。そんな自分が、モンスターのような鳥と戦えるとも思っていなかった。
故に若干悲しげな顔はしたものの、何も文句は言わずに首を縦に振った。
「ほら、来るわよ」
後ろから掛けられた声に反応し、少女は目を力を入れる。
最初こそ不意打ちが成功したから良かったが、二度と綺麗に膝蹴りが決まるとは思っていない。映画の俳優や武道の達人がしているような、相手の攻撃を逸らしながら、カウンターを叩き込むようなこともできない。
そんなことができるなら、不意打ちの段階でダチョウの息の根を止めることができていただろう。
「大丈夫、大丈夫……」
言い聞かせるように何度も呟きながら、桜は視線の先の生き物の動きに集中する。
首や足を度々動かし、フェイントのようなことをしてくるダチョウに苛立ちながらも、決して集中は切らさない。怪鳥の一挙手一投足から目を逸らさず、ティナの言っていた通りに動けるように腰を屈めるのみ。
「プゴォォ!」
そしてそんな彼女の動きに合わせるように、ダチョウは地面を蹴った。単純な脚力のみで、男子寮の壁やら扉やらを平気で破壊した怪物。別個体ではあっても、そこにあるのは小さな差でしかない。
突進の為に走るだけで土が抉れ、その勢いのまま土塊が後方へ弾き飛ばされる。それを注視してしまっていたせいで、桜はダチョウをティナの方へ突っ込ませないようにするという、最低限のことすらできなくなった。
「あ、無理だ」
彼女の足を縛りつけていたのは、純粋な恐怖。それ以外の何でもなかった。
動いていないダチョウならまだ大丈夫だったが、土が抉れるほどの速度で突き進んでくる巨大な鳥。その姿は暴走する自動車と遜色ない。
元の世界での死を体験してから、体感では二十四時間も経っていない桜にとって、何かに轢き殺されそうになるという状況は、死の間際をフラッシュバックさせるのに十分過ぎたのだ。
「やば」
死の間際に言うことなど心に決めているわけもなく、桜は何にでも使える便利な言葉を口にした。その一言の中には沢山の想いが詰め込まれていたが、何よりも多かったのはやはり後悔だった。
もう一度死ぬのか。二度目も呆気なかったな。
何か考えようにも、そんな後悔の念しか思い浮かばない。最悪の場合、桜諸共ティナも弾き飛ばされ、その後方で眠っているキキも踏み殺される。
どうにかしたかったが、足は動かない。異世界ダチョウの目が痛くなるような羽毛が迫ってきているのを、ただ目で捉えているのみ。
そんな彼女の体を、唐突に浮遊感が襲った。
「なっ!?」
「だと思ったわ」
ティナの声の発生源は、何故か右下。
桜が咄嗟に振り向いたのは、何もおかしい話ではない。痛みも何もない上に、本来いたはずの場所とは異なる場所から声が聞こえているのだから。
ただ、それは振り向いたのではなく、見下げたの方が正しい。
何故なら、そこは空中なのだから。
「え、えぇ!?」
地上では呆れた顔をしたティナが、丁度ダチョウの退化した翼に矢を突き刺している最中だった。
何が起こったのか桜には全く分からなかったが、一つだけ確かなのは着地ができなさそうということである。漫画であれば着地した瞬間、地面に大の字の穴が開くであろう体勢で、少女は滑空し始めた。
「何変な顔してんの。アンタがちゃんと避けないから、アタシが投げなきゃならなくなったのよ。分かってんの?」
ダチョウの悲鳴に勝るとも劣らない声量で、長耳の少女は桜の行動に文句をつけた。下手をしたら二人、もしくは三人とも死んでいたのだから、これでも彼女にしてはかなり優しい物言いである。
もし出会った一日も経っていない桜ではなく、気心知れたピノやキキ、あるいは死ぬほど嫌いなアルベルトが相手だったなら、倍以上の声量で責め立てていただろう。
「ギィッ!」
そんなティナの文句を掻き消すように、ダチョウは再度吠えた。今度のは悲鳴ではなく、怒声や威嚇とでも呼ぶべき雄叫び。それと同時に豪脚を振り上げ、近くにいる少女を蹴り殺すことを試みた。
本来の獲物に逃げられた挙句、突然翼に激痛が走ったのだから、怪鳥が暴れ出すのも当然だ。
「流石に慣れたわ、それ」
だが、ティナは頭蓋を軽く砕く一撃をヒョイと避け、そのまま後ろの方へヒョコヒョコと軽く飛び跳ねることで距離を取る。
まるで自分の定位置だと主張するように、そのまま平然とキキの隣に立っていた。
「ちょっ、着地できないんだけど!」
自分が悪いのは百も承知の上で、桜は自分を投げた張本人に向けて怒鳴った。予告も何もなしに投げ飛ばされるだけならともかく、アフターケアが一切ないのは、あらゆることにおいて素人同然の桜にはかなり厳しいモノがあった。
「知らないわよ。勇者なんでしょ」
勇者だからって何でもできるわけではない。
そう言いたかったが、そんなことを言っている暇はなかった。もはや地面は目と鼻の先。
思春期の女子としては顔を守るべきなのかもしれないが、腕や足を怪我するのも後々大変だろう。もし地面に何か刺さるような物が落ちていたら危ないから、腹も守らなければならない。
色々と考えた結果、彼女は土下座したまま腕で顔を隠すような姿勢で着地することにした。手足を犠牲にすることで、顔と臓器は守ろうという魂胆である。
しかし、それは意味を為さなかった。防御を貫通するほどの攻撃を加えられたわけではなく、再び彼女の体を浮遊感が襲ったからだ。
「アタシがそんなに薄情に見えた?」
いつまで経ってもやって来ない衝撃に、桜は顔を覆い隠していた腕を取っ払った。若干間抜け面になっている顔を露わにしつつ、不思議そうに首を傾げた後、少女は周囲をクルクルと見渡す。
良く見れば桜の体は、ほんの僅かに地面から浮いている状態だった。
「……ちょっとだけ」
それをどうやってしているのかは分からない。
多分魔術と呼ばれる技術なのだとは推測できたが、魔術がそもそもどういうモノなのかも良く分かっていない桜には、それ以上のことは何も分からなかった。彼女にとっては、魔術も手品も大した差はない。
神様に自分が魔力酔いで倒れてしまったという話はしてもらったが、それ以上のことは知らないと匙を投げられてしまった為、本当に知識の供給源がなかったのである。
「友達を落下死させるわけないでしょ」
フンと鼻を鳴らし、ティナは矢を杖のように振るう。それと同時に桜の体は半転させられ、仰向けの状態にされた後に地面に落とされた。
「いったぁ……」
「我慢しなさい。本当ならもっと痛かったんだから」
「それはそうだけど」
ダチョウに突撃されれば確実に大怪我を負っていたし、そのまま落下させられていても似たような怪我を負っていたのは確実。
それ以前に放り投げるという扱いに思うところがなかったわけではないが、助けてくれたという事実に変わりはないので、桜は素直に頭を下げた。
「とりあえずアンタがピノの代わりにならないのは分かったから、とにかく走り回りなさい」
「え」
そして一瞬で顔を青くする。先ほど動けなかった人間に任せるべき仕事ではないのは、火を見るより明らかである。
「じゃあ、アンタが使う?」
そう言うや否や、桜の耳に風を切る音が聞こえた。そして続いたのは、もう聞き慣れてしまったダチョウの絶叫。ティナが何をしたのかは言うまでもない。
それを理解してしまったから、桜は首をブンブンと横に振る。元々弓矢など使えるわけがなかったが、圧倒的な実力差を見せられてしまえば、もう何も文句など言えなくなってしまっていた。
「そう、残念」
言葉とは裏腹に残念そうな様子など微塵も見せず、ティナは差し出していた弓を引っ込めた。そのまま雑にクルリと指先で回転させ、矢をいつでも番えられる形へ戻す。
「アンタに攻撃が当たりそうになったら、アタシが射つわ。あれぐらいの速度なら、普通に当てれるから安心しなさい」
残念ながら桜の知り合いに弓道部やアーチェリー部の人間はいない為、それがどれほどの難易度なのかは分からない。だが、中々に難易度の高いことを平然と言っていることは、弓術に関して無知でも理解できた。
「ウチはとにかく走り回れば良いんだよね」
「ダチョウの方は見ちゃダメ。多分アンタ、足が竦んで今度こそ死ぬわよ」
「分かった」
そう言っている間にも矢が更に飛んでいき、鳥とは思えない鳴き声が響き渡る。
「ウチ、必要?」
「アイツ、アンタにご執心らしいのよ。さっきから攻撃してるアタシには見向きもしてない」
「そうなの?」
矢の飛んでいった方を見てみれば、確かにダチョウは桜の方を見据えていた。血走って焦点の合っていない、完全に狂ってしまっている瞳ではあるのだが、何となく桜にはそう感じられた。
「なんで?」
「知らない。そもそもアタシは頭脳労働得意じゃないし、多分キキでも手掛かりが少な過ぎて何も思いつかないわよ」
「まあ、そうだよね」
軽く笑い、桜は一歩踏み出した。
「準備できたよ!」
「本当にそれで逃げれるわけ?」
「知らない!」
半ばヤケである。陸上選手のやっているようなクラウチングスタートの正しい姿勢など知らないので、徒競走をする時ぐらいの軽い気持ちで構え、いつでも走り出せるようにしただけだ。
それで本当にダチョウ相手に逃げ回れるかは分からない。大福を救った時のように、体に妙な力が入れば可能性はあるかもしれないが、桜にそれを自由に出し入れする技術は今のところなかった。
「……来るわよ」
「了解!」
そう言って駆け出そうとした瞬間、ドカドカと鈍い音がダチョウの方から聞こえ始めた。
突然のことに二人してそちらを向くと、そこでは怪鳥がその極彩色の羽を大量の泥で汚されている真っ只中だった。
「お前ら!女子に全部任せんな!俺らだって部屋壊されてんだぞ!」
少し離れた位置から声を上げているのは、大柄な少年。その後ろで何人かの男子達が、長かったり短かったりする杖を各々振るい、土塊や水流をダチョウに向けて浴びせていた。
「アイツら、動いてたのね」
逃げてるかと思ったわ。そうポツリと呟きつつ、ティナもそれに乗じて矢を放つ。
桜もとりあえず足元の石ころを拾い上げ、ポスポスと申し訳程度の投石を披露し、ダチョウは完全にいじめられっ子のような状況に陥ってしまっていた。
「ギッ、ギィィ!」
いくら強靭な肉体を持つダチョウでも、多勢に無勢である。土塊が砕けて土だらけになった羽毛に、容赦なく掛けられる水流。
ただでさえ動きづらい状態に、不定期にやってくる矢。そんなに時間を掛けなくとも、死に至るのは明白だった。
「うるせぇ!俺の教科書どうするんだお前!」
「俺の部屋も棚倒れたんだぞ!どうしてくれんだ!」
女子生徒を助けようという意図よりも、どちらかと言えば私怨が表に出始めていたが、何れにせよ援軍であることに変わりない。
泥塗れになるだけならば、ダチョウも歯牙にも掛けないで桜を狙っていたかもしれないが、男子達の攻撃によって怪物の足元は完全に泥濘になっていた。九割九分の移動を足で行うダチョウにとって、それは致命的な隙になる。
「縄取ってきた!」
「よし、二人で端掴んで回れ!」
それに加えて、動きを封じる為の縄。
男子二人が両端を握り締め、泥沼の中のダチョウを中心にグルグルと駆け回る。もはや怪鳥が身動きなど取れるはずもなく、ただ長い首を振り回して悲鳴にも似た雄叫びを上げるのみ。
「強いね、男子」
「キキの方が強いわよ」
一体何を張り合ってるのか。どこか怒った様子のティナ相手にそれを言うべきか迷っていると、聞き覚えのある男子の声が小さく響いた。
「僕の方が弱っちいよ。特にあんな理性のないヤツ相手だとね」
再び二人揃って振り返れば、そこには上半身だけ起こして怠そうに肩をグルグルと回しているキキがいた。それを視認した桜も行動を起こそうとしたが、今回ばかりはティナの方が数倍早い。
彼女が首を回して足を踏み出そうとした時には、既にティナは血だらけの服にしがみついており、少年はそれを困った顔をしながら撫でていた。
「キキ、大丈夫なの?」
桜の方からはどんな顔なのかは分からなかったが、十中八九涙を流しているのだと分かる声だった。二人の関係性がどのぐらいなのかも彼女は知らないが、感動の再会のような場面で口を挟むほど空気が読めない女ではない。
だから、全てを察したように後方で腕を組んで頷くだけに留めることにした。
「大丈夫だけど、ちょっと怠いから離れてくれるかい?」
「ご、ごめん」
謎の腕組み少女と化してしまった桜を視界に収めながら、キキはティナの肩を掴んでグイと引き離す。鼻水が橋を掛けてしまっているのは見なかったことにし、寝巻きの袖で少女の顔を優しく拭った。
寝る間際の状態で急襲された少年は、手拭いの類など持っていないのである。
「でも、ありがとう。ティナが守ってくれたんだろう?サクラも……多分何かしてくれたんだろうし」
「ウチの扱い、相変わらず雑じゃない?」
キキが悪いのか、それとも自分が悪いのか。そもそもなぜティナが守ってくれていたと断定しているのか。
未だに引っついている二人組に色々言いたいことはあったが、桜はそれらをグッと飲み込んだ。
「ティナのことは知ってるけど、サクラは本当に何してたか知らないんだよね……」
それも束の間、やはり吐き出してしまおうと口を開いた。確かに大して何もしていないかもしれないが、ダチョウの側頭部に膝蹴りをクリーンヒットさせたのは間違いなく桜だ。それ以上に大活躍したのは、キキの治療だろう。彼女がいなければ、おそらくキキは今も目覚めていなかった。
正確には桜のおかげではなく、桜の持っている摩訶不思議な治療薬のおかげなのだが、それは秘密である。
「傷!傷治し」
「プゴォォ!」
「何だよぉ!ウチにも手柄説明させてよ!」
だが、それを邪魔するようにダチョウが叫んだ。後は死を待つのみという状態であるにも関わらず、その目は未だに桜の方を睨んでいる。
大して体重の乗っていない蹴りよりも、矢を何本も射られる方が絶対に痛いのに、なぜ自分ばかり狙っているのだろう。口に出すことはなかったが、桜は狙われている恐怖よりも、そんな困惑が大きくなっていた。
「あれ、僕を狙ってたんじゃなかったのか」
ダチョウの視線に気づいたらしく、桜同様にキキも疑問符を浮かべていた。他の生徒には目もくれずに一人を集中して狙うというのは、彼が意識を飛ばす前から変わっていないものの、何故か標的が自分から桜にずれているのだから、そう思うのも当然である。
「狙ってたわよ。一羽目は」
「え?じゃああれ二羽目なの?」
「ほら、あそこ」
そう言われてティナの指差す方へ目を向ければ、確かに眉間に矢の刺さったダチョウが倒れ伏している。
「あれも桜を狙ってたのかい?」
「知らない。来た時には死んでたし」
「二羽目も最初はキキの方に来てたわよ。いや、アタシの方だったのかしら」
事件の根幹に関わっていないにしても、色々と考える必要がありそうな情報が出始めたが、流石に寝床も半壊して周りも瓦礫だらけという状態で冷静に考えられるわけがない。
「これ、キキのでしょ」
「ありがとう」
差し出された自分の得物を受け取り、キキは器用に指先でそれをクルクルと回す。
「とりあえず、この状況をどうにかしようか」
「巻き戻すの?」
「巻き戻すって何だい?」
「確かに、巻くって何だろう」
寝ても覚めても良く分からないことを言っている桜は一旦放置し、少年はそれを口に咥えた。そして外套についていた土を払い、ティナに被せる。
ティナ本人はあまり自覚がなかったが、近くに来られたキキには良く分かる。裾を破いたせいで、ティナはかなり扇情的な格好になってしまっているのだ。
まだ理解できていないらしいティナが殴ってこないうちに、少年はさっさと話を切り替えることにした。
「誰が狙われてるか分からないし、とりあえず三人で歩こうか」
「どこ行くつもりよ、こんな時間に」
幸いなことに、彼らの知り合いには貴族且つ武勇に優れた国の防人……の子息がいる。
「どこって、ピノの家。近いでしょ?泊まれるし」
あっけらかんと言ってのけたキキに対し、ティナは手刀を容赦なく額に振り下ろす。ただ一人、状況が良く分かっていない桜だけ首を傾げていた。




