end
「……人柱なんて、無意味だったんだ」
ふいに歩調を緩め、先を歩いていたシンはスイ子に並んだ。
「山神の寿命だったんだ」
ようやく、雨がやんだ。シンのあごからしたたるのは、髪に残った川の水だった。真一文字に引き締められた唇は、口の端がかすかに震えていた。
「人ひとりの命をささげたところで、山神の命が永らえるわけじゃない。今まで日照りや洪水のたびに村の娘の命をささげていたけど、あれだって、ただの無駄死にだったんだ」
村では誉れと言われた人柱の少女たち。彼女たちはスイ子のように川に捨てられ、無残に川の底を転がっていった。
「どんなにあがめても、山の神は村になにもしないんだ。人間は神にたよってばかりで、神ばかりを信じて……」
つながれた彼の手が、強くこぶしを握った。
「山神が死ぬというのに、人の命を捨てるだけで、逃げようともしない……」
「ごめんね、シンちゃん」
「スイ子があやまることじゃない」
空いたほうの手で、シンは乱暴に頭をかきむしった。
「違うんだ。こんなことを言いたいんじゃないんだ。おれは……」
言葉が続かないようで、彼は口を閉ざしてしまう。そして再び足を速め、スイ子の手を引いた。
「山の神は寿命を悟ったとき、次の神を産むんだ。そしてその神が、一人で山を統べられるようになったころに、ひっそりと命を消す。でも今回は、神の子供が間に合わなかった……」
シンの足の早さに、スイ子は置いていかれそうになる。こけつまろびつなんとか足を運び、その背中に何も言えない自分の唇を噛んだ。
シンが立ち止まり、手ぬぐいをほどいたのは、村の入り口に差し掛かってからだった。
「行くんだ、スイ子」
「シンちゃんは?」
「おれは、山に戻らないと」
長く締め付けられていた手首に、血の気が戻る。人柱として流されるときについた傷よりも、ほどいたばかりの手首の痣のほうが赤黒く、食い込みも深かった。
「一緒にいて」
「それはできない」
「シンちゃん」
「おれはシンちゃんじゃない」
言う彼が、ひときわ悲しそうな目をしていた。
「シンなんて子供は、いない」
スイ子を助ける、ほんのひと時の間。シンという名前を語り、少年の姿をした彼は、同じく痣のできた手首をそっと撫でた。
「……なぁ、スイ子」
彼は青い瞳を細め、スイ子を見た。
「大きくなったら、あの山に、戻ってきてくれるか?」
その瞳は空の色のようであり、静かに燃え続ける炎のようでもあった。見たこともないはずの瞳がとても懐かしく感じられて、スイ子の目にまた、涙が浮かんだ。
「戻る、絶対」
「そうか……」
村の繁栄を産む、流れ子。そう生まれてきたのならば、スイ子にはもう一度、村を立て直す力があるに違いない。それが何十年も先の、気が遠くなるほどの話だとしても、スイ子はもう一度山に村を戻したかった。
山の神ばかりをあがめた村だったけれど。人の力ばかりを頼っていた村だったけれど。
山の神が見捨てないのなら、もう一度、あの地に。
それを彼が望むのならば。
「それまでにおれ、山をしっかり、統べるようにする」
「……うん」
スイ子がうなずき、顔をあげると、彼はもう背を向けていた。
これ以上立ち止まっていると、別れがたくなってしまう。スイ子も、彼に背を向けた。
鈍く痛む手首をさすりながら、この痛みが偽物ではないと何度も確かめる。
この息の苦しさ。流れる涙。どんなに力が弱くなり、倒れそうになってもなお、力強く打ち続ける鼓動。
自分は今、生きている。
失うはずだった命を、生かされた。
「……シンちゃん」
振り向いたスイ子の目の先で、新代の神の小さな背中が、溶けるように消えていった。
END