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「――スイ子!」
赤い布で結ばれた手を、シンが力強くつかんだ。
流れの力にいつもぎ取られてしまうかわからない命綱に、彼は両の手をかけて引き寄せる。力の抜けた体をしっかりと抱きかかえ、スイ子にかろうじて意識があることを確認すると、彼は力強く水をかいた。
川の流れに翻弄されるわけでもなく、濁流の中でかっと見開かれた瞳は、そんなに青が強かっただろうか。
「スイ子! あと少しだ!」
水の中だというのに、シンの声が良く響く。 その声は、耳というより、頭に直接届くような不思議な声だった。
山のすべてをも飲み込もうとする川の流れは容赦なく襲い掛かってくるけれど、シンはそれをもろともせず、水面に顔を出した。
言葉にもならない咆哮をあげながら、彼は川岸へと戻る。スイ子を川岸へと押し上げ、続いて自分も川から這い上がった。
「スイ子、しっかりしろ! スイ子!」
「……うっ」
四つんばいになり水を吐くスイ子に、彼はほっとしながら背をさすってくれた。顔にはりついた濡れ髪をかきあげ、自らも荒くなった息を整えている。
「スイ子、大丈夫か……?」
やさしく気遣う声に、スイ子の頭が次第にはっきりとしてくる。
思い出した。どうして自分が、川で流されていたのかを。
シンが助けてくれる前のことを。
「……あたし」
ようやく、彼の言っていた意味がわかった。
「あたし……」
自分にはもう、戻れる場所がない。
人柱として神にささげられたのに、生きている。神にささげられたはずの身で、生きて村に戻ることは、決して、できない。
「スイ子……」
怪我はないかとあちこちうかがってくるシンに、スイ子はこくりとうなずく。大丈夫、もうすべて、思い出した。
「……シンちゃん」
「なんだ?」
「シンちゃんは、だれ……?」
シンという少年は、村にはいない。
自分の身を危険にさらしてまで、人柱を助けようとする子供なんて、村にはいない。
シンちゃんと、なぜ自分は呼んでいたのだろう。思い出す前はとても身近な人だったはずなのに。今、スイ子には、彼が誰なのかまったくわからなかった。
「……そこまで、思い出しちゃったか」
眠りの狭間にいるかのような、ぼんやりとしたスイ子の表情に、シンは笑ってみせる。けれどその瞳は切なげにかげり、川の中で見たような青い輝きは消えていた。
「スイ子――」
彼が口を開いたとき。ひときわ大きな地響きが、横たわる身体を貫いた。
驚き身体を起こすと、ふらついた肩をシンが抱いてくれる。そして二人で空を――山の頂を見上げ、嘆いた。
「山が……」
「山神が倒れたんだ」
山頂から、黒煙がふきだしていた。
「行こう、スイ子。ここも危なくなる」
きのこのように空を覆ってゆく煙と、赤く燃えあがる山の最期の命を見て、スイ子は立ち上がるシンに続いた。
今から村に戻っても間に合わない。父と母と、もう二度と会えないと悟った。
「川に流されて、もうふもとまできてたんだ。もう少しで近くの村に行ける。がんばれ」
「……うん」
シンは、スイ子の流す涙を見ないでくれた。
自分を守ろうとしてくれる人と、つながれた手。その赤い布に導かれるまま、スイ子は歩みだした。
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ふもとの村の形が見えてくるようになると、やはりそこでも、山の噴火で騒ぎになっているであろうことが、遠目でもわかった。
つないだ手をシンにひかれるまま、スイ子は歩き続けていた。村と家族を失った絶望感と、度重なる疲労で頭が虚ろとしていた。シンがいなかったら、スイ子は山の中でとうに倒れてしまっていただろう。
いや、シンがいなければ、スイ子は人柱としてささげられたときに、すでに命を落としたはずだった。スイ子は彼に、二度も三度も命を救われていた。
「……大丈夫だ、スイ子。山から逃げてきたって言ったら、みんな助けてくれるから」
スイ子の不安をまぎらわせようと、シンは微笑んでみせる。緩んだ頬のあどけなさは、いつの間にか消えてしまっていた。ちらりと見上げると、その瞳は再び、青く輝こうとしている。