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今頼るべきは、シンしかいない。
これからの道を歩むには、この赤い布を決して離してはいけない。
結び合わせた手をつなごうと、スイ子が指先を動かしたとき。大地が激しく揺れた。
「なに……?」
地震かとも思ったけど、違う。山を獣の群れが駆け下りてくるような、そんな地響きと轟音が迫ってきている。
「――川が!」
川が決壊した。遠い木々が濁流に飲み込まれるのを見て、シンがスイ子を抱き上げた。
ぬかるんだ土を踏みしめて走るけれど、迫る川にはとても逃げられそうにない。林道はすでに飲み込まれてしまっているだろう。山の奥へと逃げたシンの判断は正しかった。
「シンちゃん……!」
シンの濡れた肩越しに、スイ子は迫りくる濁流を目にする。木々を飲み込み、岩にぶつかっては身を散り散りにし、それでもなお追ってくる。まるで川が生きているようだった。
「スイ子は生きるんだ!」
かすれた声で、シンは叫んだ。
「生きて、もう一度――!」
吐く息が尽きた。
叫びは濁流もろとも、神の化身であるはずの川に飲み込まれていった。
●●
渦を巻くかのようにいくつもの流れが交差する川の中で、スイ子は身体がばらばらになるのではないかと思った。
自分が川の底に向かっているのか、それとも水面に上がろうとしているのか。土砂でにごった川では、視界も何もあったものではない。まるで鞠を転がすかのように、スイ子の身体は川の中でころげまわっていた。
息ができるわけもなく、苦しさに目がかすんでゆく。その中で、手首にまいた赤い布だけが、はっきりと見えていた。
結び目は依然、固いままだ。シンはこの手の先にいる。安堵している場合ではない。一緒に流されているシンの身も危ない。
手首にきつく食い込む赤い布。
荒れ狂う川の流れ。
これをスイ子は、前にも見たことがある。
両手両足をきつくしばられて、身動きが取れないまま、川の流れに翻弄されて――
『――スイ子』
長の声に、スイ子は顔をあげた。
『これは、流れ子の定めだと思いなさい』
やむことのない雨は、スイ子の涙をも流し、流れ子の衣を色濃く変えていた。直立不動で動かないスイ子の肩に、長はそのしわだらけで節くれだった手を乗せた。
『山の神を鎮めることができるのは、流れ子だけなんだ。他の誰にも、同じことはできない』
スイ子は長の胸で泣きたかった。けれど身体が動かなかった。赤い布できつく、手と足を縛られていたからだった。
『山神様を鎮めなさい、スイ子――』
背を押され、スイ子は泣き叫ぶ母の声を聞いた気がした。
身動きも取れぬまま、ごうごうを渦を巻く川へと吸い込まれてゆく。抵抗することもできず、山神に身をささげた。
流れ子の定めだった。
過去、山神に異変がおき、山の気候が乱れたとき。ひどい干ばつや嵐がおそったとき。代々流れ子の身は、人柱として山神にささげられた。もとはそのために、流れ子という娘がもうけられていたのだった。
山神の交代のとき。すこしでも早く山の安泰を取り戻すために、人柱が使われるのは当然のことだった。
上も下も、自分がどんな姿をしているのかもわからないほど川の流れに翻弄され、スイ子は苦しみもだえていた。
手足を縛るのは、自力で泳いで岸にたどり着かないようにするためだ。川の中で落とした命は、山神にささげられる。自分の命が村を救うのだとわかっていても、スイ子に死は恐怖でしかなかった。
肺の息はとうに川に吸いだされ、流れのいたずらなのか、手首の緊縛はほどけかけていた。どうにか手の戒めから逃れ、スイ子はがむしゃらに手を伸ばした。
『――スイ子!』
その手に、誰かが触れた。
赤く漂う布の先で、誰かがスイ子の手をつかんだ。川の水に溶け込み、冷たくなった身体に、その手のひらはとても熱かった。
スイ子を手繰り寄せ、しかと顔を見つめたその瞳は、青く光っていた。
『今、助ける』
川の流れの狭間から、少年があらわれた。