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「……今から戻ったんじゃ、おれたちだって逃げられなくなるかもしれないだろ」
「でも、あたしたちだけ逃げるなんて……山が崩れるかだって、本当に決まったわけじゃないんでしょ? 山神様が、きっと守ってくれるよ!」
「……山神様?」
スイ子の言葉に、シンは眉根をきつく寄せた。
「山神様はいつも、村を守ってきたんでしょう? 長様が言ってたもん、嵐が来ても雪が深く積もっても、山神様がいつも守ってくれたんだって!」
「スイ子までみんなと同じことを言うな!」
怒鳴られ、スイ子はびくりと身をすくめた。
「そりゃ今まで、山神様が守ってくれたかもしれない! でも、山神様だっていつまでもいてくれるわけじゃないんだ! いつまでも生きられるわけないだろ!」
「……でも、山神様に寿命が来ても、ちゃんと新しい山神様が生まれるんでしょ?」
それは村の誰もが、長から聞かされて育った話だった。
山の神様には寿命があり、長い年月の間に一度、世代交代がある。今の長の爺の爺の爺の爺の爺の代にあったのが、一番新しい世代交代だといわれている。そのときも今のように山が荒れ村が危なくなったけれど、新しい神様がちゃんと山と村とを元に戻してくれたのだった。
だから、今回も大丈夫だ。長はそう言っていた。山神の交代は昔から何度も繰り返され、そのたびに山は生まれ変わり、村も繁栄を続けていた。村のみんなはそれを信じ、スイ子の親もそれを信じ、山を降りたのはごくわずかな者だけだった。
「村は山神様の加護があるんだよ? 下手に動いたあたしたちのほうが危ないかもしれないよ? シンちゃん、戻ろうよ」
「……だめだ」
「じゃあ、あたしだけ戻るから。この手ほどいてよ」
固く締められた結び目は、スイ子の力ではとうていほどけそうになかった。怒鳴られた恐怖に目に涙を浮かべながらも、スイ子はシンの瞳を見上げた。
「シンちゃんだけ、降りてよ」
「戻ったら、死ぬかもしれないんだぞ?」
「……あたし、お母さんたちとはなれることのほうがこわいよ」
髪を伝う雨が、頬を流れる。それにスイ子の涙が加わった。
「こわいよ。あたし、村から出たことなんてないもん。なにがあるかわからないもん」
「……スイ子」
泣き出したスイ子に、シンの瞳が揺れる。結びつないだ手を力なく下げ、声を荒げてしまいそうになるのをのどの奥でぐっとこらえていた。
「村が、好きか?」
「……うん」
うなずくと、シンは「そうか」と呟いた。
スイ子は村で生まれて、一度も外に出たことがなかった。狭くて小さな村だけど、家族も友達もいる、あたたかい村だった。
森ではたくさんの甘い果物がとれて、父がよく狩りに行っていた。母が畑を耕すのを手伝った。近所の兄友達たちと、川で魚を釣りに行った。
豊かな山があるからこそ、豊かな村があった。そんな村を離れることなど、スイ子にはできない。
村には親がいる。友達がいる。長がいる。そして、シンが……
「戻っても、受け入れてなんてもらえないよ」
思いの渦巻くスイ子の頭が、シンの落ち着いた声に呼び戻された。
スイ子の頬についた泥をぬぐいながら、シンはぽつりぽつりと呟く。少女のように細い声は、叩きつける雨の中でも不思議とよく聞こえた。
「降りるしかないんだよ。村には戻れない」
足元を流れてゆく水は、はたして雨のものなのか、それとも山を飲み込もうとしている川のものなのか。小刻みに揺れる大地に、スイ子は山の叫びを聞いたような気がした。
山の神が、倒れる。
見たこともない。会ったこともない。ただ空を見上げ、川に供え物を流していただけの空想の神を。悲しくも最期のときを迎える今、すこしだけ感じた気がした。
「行こう、スイ子」
つながれた手を引かれ、スイ子は抵抗もなく、だまって後に続いた。
「戻っても、おれたちのいる場所は残されてないんだ」
「シンちゃん……」