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「……だめだ。もっと奥に行こう」
林道に近づき、そこでスイ子たちと同様逃げる村人を見れば、姿を隠すために山の奥へと道を変える。たしかに道は川の近くにあり、決壊したときに危険であるから、遠ざかるべきではあった。
「その足、痛いだろ」
「……うん」
長く歩き続けているため、足にはいくつもまめができ、つぶれていた。川の水と雨とでずぶぬれになった服は、重くはりついてうまく動けない。
空のように淡い水色だったはずの着物は、泥水と血とで鼠色にも似た薄汚れた色に変わってしまっていた。あごの高さにそろえて切った髪からは雨水が滴り、小枝や枯葉が引っかかったままだ。
ふと見れば、シンもスイ子と似たような色の服を着ていた。傷が少ないぶんまだ綺麗な空色をしているけど、なぜその服を持っているのか、スイ子は疑問に思う。
「おぶるか?」
「いい」
枝にひっかけてできた傷は、シンも同じだった。スイ子と違って、手首足首にすり傷はない。息もさほど切れていないようで、生い茂る木々を掻き分け道を作っていた。
「あたし、村に戻りたい」
「だめだ」
「だって、お父さんとお母さんが!」
両親はきっと、村に残っているに違いない。川が決壊したら、村は間違いなく飲み込まれてしまうだろう。
「今戻れば、スイ子も危ないんだ!」
つないだ手首を引っ張るスイ子に、シンは声を荒げた。
「もしかしたら、スイ子の家族も山をおりはじめているかもしれない。運がよければふもとで会える。村に戻る時間はないんだ……と、大丈夫か」
足をからませ転んだスイ子を、シンが抱きとめた。
「休むか」
苦しげに肩で息をつくスイ子に、シンは問うた。けれど決して、手ぬぐいをほどこうとはしない。
互いの命をつなぐ赤い布が、まるで手かせのようにも思える。スイ子は唇を噛みながらも、頭をふり、山を降りると足を踏み出した。
「……ごめんな」
無言で山を降りるスイ子の目に、涙がたまっている。それに気づいたシンが、ややためらうそぶりを見せながらも、呟いた。
「村に戻りたいっていう、スイ子の気持ちはわかるんだ。でもおれ、スイ子には生きて山を降りてほしいんだよ」
「あたしが、『流れ子』だから?」
「……別に、それだけじゃ」
言いよどみながらも、シンは肯定した。
流れ子。それはスイ子たちの村で代々受け継がれている少女のことだった。
村を流れる大きな川は、山の神の化身であるといわれていた。豊作を願う祭りや、年末年始の儀式など、神を祀る祭典はかならず川のそばで行われた。そして川に供え物をささげたり、祝詞とともに舞を踊るのが流れ子の役目とされていた。
流れ子とは、ほかの子となんら変わりない、普通の童女だった。先代の流れ子が初潮をむかえたとき、次の年の一番初めに生まれた女の子が次の流れ子になると定められている。祭りのときに祝詞をうたうのは長とされていて、付き人もたくさんいる。祭事のとき以外は流れ子も、ただの村の子供として育てられる。
スイ子はその流れ子だった。身にまとう空色の水干は、流れ子だけが着ることを許される受け継がれた衣だった。
流れ子に選ばれるのは名誉なことだった。代々流れ子になった娘たちは、大人になればたくさんの子供を産み、村の繁栄をも産むと喜ばれる存在だったからだ。
「流れ子じゃなかったら、助けなかった?」
「まさか! おれは誰が溺れてても助けたさ!」
「じゃあどうして、村のみんなを助けに戻らないの!?」
突然あがったスイ子の金切り声に、シンが驚き足を止めた。
「今から村に戻って、みんなに知らせようよ! 危ないから逃げようって、言いに行こうよ!」
村のみんなを置き去りにしたという罪の意識が、スイ子の頭の中でどす黒く渦巻いていた。
半ば睨むように見上げられ、さほど背丈の変わらないシンは、ひるんだように後ずさる。赤くつながれた手の先で、彼は言葉に迷うように瞳を泳がせた。




