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「――しっかりしろ!」
荒れ狂う川の流れから、スイ子は引き上げられた。
「スイ子、起きろ! スイ子」
朦朧とした意識の中、スイ子は呼びかけに応じるかのように、飲み込んでいた水を吐き出す。かすかに漏らした声に安心したのか、彼はほっと安堵の息をついた。
何度も名前を呼ばれて、スイ子の頭が次第にはっきりとしてくる。降りしきる雨にうたれ、川に流され冷えた身体を、彼は抱きしめてあたためてくれた。
「……シンちゃん?」
もやがかかったように定まらない視界の中。スイ子は自分を助けてくれた少年に、ふるえる手を伸ばした。
あちこち傷だらけで、擦り傷が痛々しいスイ子の手を、彼――シンはやさしく握り返してくれる。水かさの増した川の流れが、どうどうと耳に響いてまるで地響きのようだった。
「動けるか? ここも早く離れないと、危ないんだ」
ふらつく身体を起こしながら、シンはスイ子に言う。彼もスイ子と変わらず十ほどの齢であるはずなのに、話し方や立ち居振る舞いは凛として隙がなかった。
黒い瞳がすこし青みがかっていて、涼しげな目じりが小生意気な印象を与える。ずぶ濡れで髪が顔に張り付いた姿は、水が嫌いで身を縮める猫にすこし似ていた。
「この山はもう長くない。早く降りよう」
「うん……」
手を引かれ立ち上がるも、スイ子は身体に力がはいらなかった。シンに手を引かれればまだしっかり歩けるけど、この状況の中、いつまでも仲良く手をつないでいられるわけがない。
スイ子が両の足で立てることを確認したシンは、赤い手ぬぐいを取り出し、それで互いの手首をしっかりと結んだ。
「おれから絶対離れるなよ」
「うん」
緊張した面持ちでこくりとうなずいたスイ子に、彼は気を紛らわせるように微笑みかける。それもふと視線をそらせば、唇を引き締めた警戒心の強い表情へと戻っていた。
シンに引かれるまま、スイ子は雨にうたれながら、山を下りだした。
山が今にも崩れようとしていた。
山の神が倒れようとしていた。
●
スイ子の住む村は、木々が深く生い茂る山の中にあった。
山のふもとまで流れる大きな川で生活を潤す、小さいながらも豊かな村だった。山の神に作物の豊作を願い、村人の健康を願い、みなで助け合って暮らす生活を昔から続けてきた、長く歴史のある村だった、
その村や山が、数年ほど前からすこしずつおかしくなり始めていた。
作物の不作に始まり、地震や地割れが相次ぐようになった。長雨が続き、獣の数が減った。病に倒れる村人の数も増えた。
山の神の様子がおかしいのだと、人々はすぐに気づいた。
そこで村を去った者もいれば、いずれ良くなると留まる者もいた。スイ子は親が留まるからそれに従っただけ。シンも含め、子供たちはみんな家族と一緒に住んでいるのだから、共に残るのは当然のことだった。
「すこし、休むか?」
「ううん、大丈夫」
スイ子がぬかるんだ道に足をとられると、シンが気遣うように振り向いた。
「時間がないんだ。早くしないと、鉄砲水が来る」
「……うん」
長雨のせいで川は増水し、今にも決壊しそうになっていた。流れの強いあの川から生きてあがれたことが、いまさらながら幸運だとスイ子は思う。
歩くたびに足が濡れ、自分が水たまりの上を歩いているのか、それとも川を渡っているのかですらよくわからなくなる。それでもシンのすすむ道を信じて、スイ子は歩き続けていた。
この山を下るには、大人の足でもかなりの時間がかかる。子供がどんなに急いだところで、時間はたいして変わらない。それをわかっていてもなお、シンは歩みを止めようとしなかった。
山を下る林道があるのは、スイ子も知っていた。舗装がされ、その道を使えば足取りもだいぶ楽になる。けれどシンはその道を使わず、獣道ばかりを選んでいた。