夜間飛行
時刻は夜の9時。
煌々と光る満月が夜空にかかっている。
異常に明るい。
天文台からの無線を傍受したら、月と地球の引力の均衡が危ういとかなんとか。
俺は慌てて高台の公園まで自転車で走った。
♪〜
歌声?
女の声。
ジャングルジムのてっぺんに座って歌っている。
「おおい!」
「!」
俺の存在に気づくと降りてくる。
「やんなっちゃうわ!子どもの頃にはジャングルジムの中に入って遊べたのに、大人になると体がでっかくなりすぎて中で身動きできないの!」
「そりゃ、しょうがないだろう」
ふくれっつらになる女。フワリと風上にいる彼女から香水の香りが漂ってきて鼻孔をくすぐった。
「あんまり一人で夜うろつくと危ないぞ」
「うん。わかってる。…でも今日は特別なんだぁ」
「何が?」
「失恋したの」
「…で?」
「で?って、何か言うことないの?」
「ご愁傷様」
「ひどいな…」
「だって、他人だぞ?なんでいちいち気にかけなきゃいけないんだ?」
「……。今夜の月はルナティック」
「?」
「狂ってるの。それをどうにかできるのはあなた次第」
「俺?」
ごごごごご。
なんだこれ?
地面と宙空が入り交じる。
くすくすくす。
女の笑い声が響く。
「この香水、『夜間飛行』っていうのよ」
頭がくらくらして、上下感覚が無くなる。
空を…飛んでる!
満月と相対して、「このお、落っこちて来んなよ!」と叫ぶと、月がわずかに明滅した。
女は自由気ままに空を泳ぐ。
「おい!あんたも協力してくれよ」
「どーしよっかなー」
「軽いなー。本当に失恋なんてしたのか?」
「失恋の痛手を忘れるには新しい恋をすること!」
「だから?」
「だから今度はあなたに恋しようかな」
「ばっかぢゃないのか?」
「あなた莫迦なの?」
「うるさいやい!」
「気が短いのね」
女は、メタリックグリーンのアトマイザーをバッグから取り出すと、香水を月に向かって噴霧した。
ごうんごうん。
天空が無重力状態。どうなっちゃうんだ!
「気がついた?」
月!は、西の空に傾いていた。もうすぐ朝が来る。
俺はがんがんする頭を女の膝枕から起こした。
「結局、どうなったんだ?」
「また次の機会までお預け」
「次の機会?」
「知らないの?世界は無常で変わり続けてる。同じことなんて二度とない。次に条件が揃ったとき、月が地球に落ちるかもしれないわね」
俺は身震いした。
「さよなら。会えて良かったわ」
女は朝焼けの中、微笑んだ。
夜間飛行の香りがいつまでも余韻を残していた。