春の小路はセンチメンタル
繁華街の大通りを抜けるよりも人の少ない小路を抜けるのが好きだ。好きなのはもちろん理由がある。僕のように小路を好んで通り抜ける人がいる。理由は明白、そこを通り抜ける人と同じ時間を共有したいからだ。
彼女を初めて見かけたのは、桜前線がニュース映像に流れた日の翌日だった。冬終わりの小雨が降りしきる中、小雨程度では傘を差さない僕は、いつものように小路をゆっくりと歩いていた。
誰もが傘を差し、足元を気にしながら歩く大通りと違って、小路をわざわざ選んで歩くもの好きは多くない。僕はすれ違う人に神経を使う心配も無いまま小雨の中を悠々自適に歩行していた。
そんな時のことだ。滅多に人とすれ違うことの無い小路に、髪の長い女性の姿が向こう側から歩いて来たのだ。思わず声を出さずにはいられなかった。僕と同様に彼女もまた、小雨程度では傘を差していない。
「何で……」
人通りが少なく、誰かとすれ違う機会の無い小路では、その狭さもあって好き好んで通る人はいない。すれ違いざまには必ず会釈、あるいは体を横向きに変えて譲り合わなければ、通り抜けることが出来ない。
「あっ」
語彙の乏しさとはまさに僕のことだ。一文にすら表わす事の出来ない声だけが、むなしく発せられた。向こう側から向かってくるということは、この道の常連、もしくは初めて通ったのかと勘繰りが過ぎるばかりだ。
彼女は下を向いたままで僕に気づいていない。何かあったのかと要らぬ心配で、体を横向きに変えようとすると、人がいたということにようやく気付いたのか、顔を上げ苦笑混じりで軽く会釈をしてくれた。
「え、あ……」
つくづく勇気が無い。いや、見知らぬ人間から声をかけたら通報されかねない。だとしても、まともな声かけすら出来ない自分に腹が立った。なぜこんなにも悔しさが滲んでいるかというと、小雨で濡れた髪と俯いていた彼女の顔が上がった瞬間、とても脈打ちが早まったからだ。
「あぁ……綺麗な人だったな……」
誰もいない小路で呟いても、上空からの滴が両側の屋根に当たった音であっさりとかき消された。たまたまなのだろうけど、この小路を通らなくてはならなかった彼女の俯きの正体が知りたくなってしまった。
「ただいま帰りました」
「お帰り、傘も差さずにどうしました? その割には嬉しそうに見えるけれど」
「な、何でもないです。僕は小雨程度では差さないんです。あ、でも、部屋に戻ったら一所懸命に拭きますよ」
「風邪をひかないようにしてください。あなたには期待しておりますので」
「はい。春にはまた新規のレッスン生がやって来ますから、僕ももっと実力をつけないとですね」
芝居の養成所に通って早4年目になる。僕はずっと何かを演じて来た人間だ。実力は未だ、事務所の先輩には程遠く、かろうじて事務所付属の養成所預かりで寮に住まわせてもらっているだけで、特別なことでもない。
この世界は人の入れ替わりが激しい。たとえ人気を博し、休む間もなく仕事をこなしていても画面から消えるのはあっという間だ。僕はまだ端役の出番を多くこなしているだけだ。実力なんてあるはずもない。
この寮は事務所のビルの中にあり、ここから出て行くだけで出待ちのファンたちに羨望の眼差しを注がれることが多いけど、僕は彼女たちの視界には映っていないのが現実だった。
そんな悲しい現実を目の当たりにした直後の小路エンカウンターは、僕の中で春を感じずにはいられなかった。偶然のすれ違いによるもの……それでももう一度、あの瞬間が生まれるなら声をかけてみたい。
春が来ると僕は5年目の養成所生活を迎える。すっかりとベテラン風を吹かせてしまいそうになるけど、実力が無いのでそれはあり得ない。あり得ないけど、養成所でレッスン生の出欠確認を取っている時、僕の中にその風の流れが勝手に訪れてしまった。
「準所属の彼女も少しだけここでレッスンを受けることになります。ですが、あなたの方がベテランですので、ルール等を厳しく教えてあげてください」
「あ、はい」
事態の急転。小路ですれ違った彼女に声をかける機会が訪れようとは、予期せぬことだった。考えてみれば、養成所に抜ける小路の向こう側から彼女は歩いて来ていた。小路の利用者は、養成所の人間しか知らない場所だったことを、どうしてもっと早く気付くことが出来なかったのだろう。
「あの、僕は4年目……もうすぐ5年目所属でも偉くは無いのですが、レッスン場のルールは細かいのでその辺をお教えします。よろしいですか?」
「……はい、お願いします」
「準所属ということは、女優デビューが近いのですか?」
「それは分からないですけど、そうだといいですね」
何とも事務的な会話が終始に渡って続いてしまった。ベテランだからなんだというのか。彼女は緊張した面持ちで、カリキュラム通りのレッスンを一通りこなしていた。男と女性では演じの違いがあるとはいえ、彼女には有無も言わせぬ雰囲気が備わっていたように思えた。
そうして桜の蕾が開き始めた頃、一時的にレッスンを受けていた彼女が、正式にデビューすることを聞かされた。5年もいながら台本の項番に名を連ねたことの無い僕よりも、彼女は先に名を連ねることになった。
養成所と大通りを繋ぐ小路は、別れと船出を交差する路でもあった。レッスンを受けている間、僕と彼女は何度か話をする機会があったものの、仲が深まるといった展開にはならなかった。だからこそ、いつも通り抜ける小路は、何とも言えない気持ちになる。
「これからレッスンですか?」
「そ、そうです。君はスタジオに?」
「はい。あの、少しの間だけでしたけど、レッスンで一緒になって嬉しかったし楽しかったです。あなたもデビュー出来るように頑張ってくださいね。それじゃ……」
「あ、ありがとう。テ、テレビ見ますから! 君も元気で!」
養成所へ抜ける小路は僕の中ではセンチメンタルロード。デビューが決まり、養成所から表舞台に抜けていく彼女と、いつまでも養成所に戻り続ける僕がすれ違う感傷的な小路となった。
一目見た時から好きになって、声をかけたくて……それでもあくまで養成所の先輩風を吹かせて――先にデビューされたことへの悔しさではなく、もっと声をかければ良かっただけの話なのに。
たとえ、デビューが決まっていてももっと優しく教えてあげれば良かった。ただ抜けるだけだった小路が、僕が彼女に初めての想いを募らせる路になるだなんて。
僕は抜け道の小路を使わなくなった。小路を通るだけで感傷的になるからだ。そしてまた、諦めきれない夢への小路を通って、春がやって来る。