英語系教育動画にハマり始めた男
午後9時半。暑さが増して来ているがまだ冷房の入っていない電車の中は多くの人の匂いがこもっていることもあり、若干の刺激的な匂いが鼻を襲う。ふとした拍子にスマホでSNSを見てみると「飲み会わず」(←wasをわずとかいって「~してた」を表す謎のスラング)や「あの般教出席取らないから余裕w」みたいな書き込みが並んでおり、大学生になった同じ高校のクラスメイトはどんな生活をしているのだろうかと気になった。大学は出会いが広まる場、自分の可能性が広がる場と高校の時の先生がよく豪語しているが、活気に溢れる友人のSNS投稿を眺めていると本当にそうなのかもしれないと思う。基本勉強だけで、後はアニメをちらほら見たり、気まぐれでゲームセンターに寄ったりしている俺には分からない世界の話だ。
自習室で勉強する日々がすっかり肌になじんだこともあり、最近の帰りは夜の10時前後になることが多くなっていた。電車を降りると、疲れきった風のまばらな人影が月灯りに照らされて長く伸びている。駐輪場に止めてある自転車は、管理人のおじさんによってもう既に外に並べられており俺は何も考えず淡々と自分の自転車を見つけ鍵を差し込んだ。いつものルーティン、変わらない日常。
それゆえに退屈な面がないといえば嘘になる。
「たっだいま帰りましたー」
溜息混じりにリビングの扉を開けると、そこにはラフな格好で頭にタオルを巻いたままの結菜がソファに座っていた。どうやら風呂上りらしい。つやつやな肌を見せつけるように振り返った結菜は「お兄ちゃん、おかえり~」と手をぶらぶらと振った。
「あれ、母さんと父さんは」
「いつもの学会に行った」
なるほど。そういえば思い出した。
俺の両親はこんな子でも一応世界史界隈で名の通る研究者である。母はヨーロッパにおける魔女狩りと現代に続くジェンダー論を、父は確か…あまり会話することがなかったが食の文化史についてが研究テーマであったはずだ。まぁそれはともかく、俺の両親は片方か、双方が、出張で家を開けることが少なくなかった。いつもぼやぁっとソファに腰掛けて手団扇で顔を仰ぎながら朝のニュースを眺めているような親だが、実は意外とすごい頭の持ち主なのである。
「はい、これお兄ちゃん用の鍵ね」
そう言って結菜はパンダのキーホルダーが付いた鍵を俺に向かって投げた。
「今回はどこに行ったのか知ってるか」
「ドイツって言ってたよ」
「ドイツ……」
世界史の弱い俺にとってはドイツのイメージはサッカーとかの世界大戦の歴史くらいしか情報がない。夢野に言ったら「あなたそんなことしか知らないのね。猿ね……いや、豚ね」なんてSっ気満々に罵られる姿が容易に想像出来た。
「おみやげなにかな~!」
「結菜はそればっかりだなあ」
俺は半ば呆れつつ笑うと
「お兄ちゃん、ドイツって知ってる? ヨーロッパは元は帝政ローマが大きく支配してたんだけど、国が大きくなりすぎて東西に別れちゃって、東はビザンツって国に、そして西は西ローマ帝国になったんだけど、西のローマ帝国はあまり長く持たなかったんだって。その時ちょうどフン族に追いやられたゲルマン人が大量にヨーロッパに移動してきてその西ローマ帝国の後にフランク王国って名前の国を建てたの。そのフランク帝国も東西に別れちゃってその東側は今のドイツになっていったんだって」
「……」
「お母さんが喋ってたんだけど、世界史って面白いよね! 違う王国同士の王女と王子が恋愛結婚で国が出来て敵の勢力を倒したり。結菜、世界史を選択して正解だったよ~」
「はは……それは良かったな」
結菜がいつの間にか学識を手に入れてるー!!? やはり遺伝子は濃く受け継がれていたというわけか……。お兄ちゃん結菜が遠くに行ってしまったようでさみしいでござるよ。いつものテヘペロ妹から結菜もだんだんと卒業していくと心では分かっているものの、気持ちがまだ追いついて行けなかった。
(ここまで妹バカになっていてはいけないいけない)
リビングの机に小さな鏡を置いて化粧水を顔になじませている結菜に向かって俺は訊いた。
「俺は予備校の自習室にこもっているから遅くなるけど結菜一人でも大丈夫か。なんなら母さん達が帰ってくるまでの間は早く帰ってくるけど」
そう言うと結菜はあははと笑った。透き通る笑い声は、すべてを優しく包み込むように優しく、可愛い。
「お兄ちゃん、結菜が一人なの心配してくれてるの~?」
「え、まぁ、うんそうだな」
「結菜も……お兄ちゃんと一つ家の下、一緒にあんなことやこんなことが出来たら嬉しいなぁ……」
「ん、何か言ったか」
「へ!? いや、何でもないよ! 結菜も吹奏楽部の練習があって遅くなることがあるから別に大丈夫だよ。お金は一応もらってるから晩御飯は買って食べよう」
「おっけい」
リビングの食事をする方の机には結菜が言っていた通り、母のメッセージ付きで封筒が置かれていた。これも我が家ではよくある光景の一つ。白い封筒には2万円が入っており、「2週間ほどで帰ります。お土産をお楽しみに」と綺麗な字で書かれてあった。1週間で1万円も食べないだろ。そこら辺りの金銭感覚の緩さは母さんらしい。
俺が顔を洗って部屋に戻ろうとすると、風呂上りのケアを終えて携帯をいじっていた結菜が声を掛けた。
「お兄ちゃん、最近予備校はどう?」
「あぁ、まぁ順調だよ」
「友達は出来た?」
「友達……かは分からないけど話す人は一応」
言われて思ったが、夢野は本当に友達なのだろうか。いつも離れて授業は受けているし、これといって特に話す機会が多いわけでもない。お互い賭けの途中で関係性はあるものの、俺はこの関係をどう表現すればいいのか分からなかった。
「女の人? だね!」
「うん? さあな」
はぐらかした答え方をすると、結菜はすぐにうぅと嬉々とした唸りをあげた。
「絶対女の人だよ。最近お兄ちゃんどこか楽しそうだもん。浪人生で勉強漬けのはずなのに」
「浪人生にも楽しそうにする権利くらいくれ」
「仲が進展しますように!」
「うるさい」
言って俺は結菜を残したままリビングを後にした。まったく、カンのいい妹には困ったものである。
でも、結菜の発言を考えると現在の俺からは今の状況を楽しんでいるという雰囲気が出ているというわけだ。自分でも知らず知らずの間に。予備校生活が始まってもう2ヶ月が過ぎようとしている。1ヵ月目は予備校内で話す相手もなく、淡々と遠い未来に向けて勉強をこなすだけの日々だった。だがあの筆箱を拾った日、夢野と話した日、俺の予備校人生は大きく変わったと言える。話す相手が出来た。7月に行われる模試であいつに挑むという目標が出来た。つまりは、モチベーションに変化が起きたのである。
部屋に戻って電気を付ける。机に教科書が重なっており、ベッドの上に掛け布団が蹴散らされている無機質なこの空間にも何か生気が宿った感じを俺は受けた。それはきっとこの部屋に変化が起きたわけではない。俺の目に、心に変化が起きた証なのだ。机の棚の埃を払うと、自分の指でなぞったところに綺麗な直線が出来た。
「さて、今日もやりますか」
誰に聞こえているとも知れない声を漏らしつつ俺は椅子に腰掛ける。スマホのバッテリーはまだ残っている。充電する必要はないだろう。やがて、スマホからは女性のささやきボイスが聞こえた。ハァイ、エヴリワン、と。
『今日のレッスンは現在完了形です……そういえば、このかなでEnglishチャンネルもつい最近登録者数が1500人を突破致しましたー。ぱちぱちぱちぱち。これからも、皆さんと英語の世界を深めるため投稿を頑張っていこうと思いますので、よろしくおねがい致します』
顔出しをしないタイプの英語系配信者であるかなでさんは、登録者数1500人を超えるそこそこ人気を誇っている癒し系だ。英語に関する動画を配信するのに何故かささやき(ASMR)ボイスでやるというのが特徴でそこに人気がある。コーヒー片手に半分まどろみながら見るのが俺のいつものかなでチャンネルの楽しみ方になっていた。今日は生放送配信だがすでに324のいいねが付いている。内容より声フェチ勢も案外多いのかもしれない。
『現在完了、この言葉ってなんですかって思う方は多いですよね。ハァ、たしかにこれが日本語でなんだって話です。現在が完了しているって時点でもう意味不明です』
そうだそうだ。現在完了反対!
かわいい声かわいい。
息遣いエロい。
生放送のためリアルタイムに視聴者のコメントがずらずら流れていく。顔だけが映らないように撮影しているため、それが妙に艶めかしく映り、変な感情を抱いてコメントを送っている輩の多いこと多いこと。ちゃんと現在完了の授業を受けましょう!
『経験、完了、継続、結果と4つの用法があると言われますが、ハァ、そんなことは置いておいて、この4つに共通することはなんでしょうか。それは、どれも現在の時間で過去の内容を話しているのです。』
ふむふむ。
あ、なるほど。
『現在の問いにたいして過去のニュアンスを交えてこたえる文法、それが現在完了なのです。』
途中のハァ、っていう吐息かわいい。
そーいうことか。
『なので「お腹が空きましたか。」の返答には「はい、空きました/いいえ、空いていません」以外に「もうご飯食べちゃいました」があるでしょう。それが日本語でいう現在完了ととらえてもいいと思います』
これすごい。
もうお金払っていいレベル。
『というわけでhaveを使うのは、もう現在の話だから現在形のhaveを使うのだと強引にですが考えてみましょう。過去のニュアンスを含むところは過去分詞ですね。「明日の会議に出席する?」には、「I have completely forgotten that!」 (完全に忘れていたよ)でいいと思います。』
これで次のテストいける!
投げ銭します。
『あ、投げ銭ありがとうございます。では、今日はここまで。今日もご視聴ありがとうございました』
そういって彼女は、生放送を切ろうとする。コメント欄には今だいいねやしっくり来ない、このたとえはおかしいといったコメントが溢れていた。おかしいと思うのは勝手だがこれは学校ではあまり教えられない切り口なので俺は悪くないのではと思っていた。
画面が真っ暗になった。コーヒーももうない。
異常なまでに浮き上がる部屋の静寂が嫌になり、俺はいつものベランダに出て星を眺めることにした。
この星空の下に、かなでチャンネルをさっきまで配信していた彼女がいると思うと、どこか不思議に思えてくる。何を、と言われると返す言葉がないが、画面の向こう側の存在が実際に現実にいる。そのことを俺は改めて実感していた。
生放送の中でかなでさんは10代と質問で答えていたので、大学生だろうか、はたまた受験生だろうか。
めぐりめぐる穏やかな思考の中で、俺の意識はいつしかまどろみの世界へとなだらかに落ちていった。