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苦悶の日々

「桓武天皇は勘解由使、で反対に検非違使は嵯峨天皇っと……」

 夢野との夢のような出会いを果たし、これから話す口実までもゲットしてしまった俺は、次の日からダレ始めていた勉強に喝を入れ直し暗記に力を注いでいた。戦いの場となる模試まではあと2ヶ月。正直数学は今までの貯金があるからさほど問題はないだろう。問題なのは社会系の日本史、倫理、文系の理科である生物基礎と化学基礎、そして点数の浮き沈みが激しい国語だ。正直に言おう、ほぼ全ての科目が問題である。

 夢野との賭けにおいては。

 夢野はセンター試験で91%の得点率をたたき出す化物であるから、涼しい顔をして今日も授業に望んでいる姿が俺の視界に入った。いつも前の方の席で一人熱心に机に向かっている様子は、教室後ろで休憩時間に携帯をいじってぺちゃくちゃ喋っている連中にも話題になっていた。

「お前、声かけてみろよ」

「え、俺? あんな可愛い子に声かけたことないし……」

「じゃ、お前いけよ」

「俺なんか視界にも入らんだろうさ」

 では、そんな君たちを代表して、この俺が声を掛けに行ってあげよう!

 そう心の中で一大決心を掲げた俺は、夢野の座っている席目指して、まるでずかずかと音が聞こえるかのようなストライドで彼女の元へと向かった。今は3限目を終えた昼休みであり、ほとんどの予備校生は独り身のため、大きい教室内は後ろの一部を除いて意外と静かだった。

 皆の視線が、いや死線が集まっているような気がした。

「何?」

 席に向かうと俺が何を言うまでもなく、夢野の方が自ら声をあげた。もう5月に入って中盤ということもあり、夢野は薄いワンピースにカーディガンといういかにもお嬢様といったフェミニンな服装をしていた。

「いや……別に何ってほどのことじゃ……」

 あはは、と笑いながら右手で後頭部をさすった俺を夢野は溜息混じりに見ると、

「賭けのこと忘れてないわよね?」

 と確認するかのように言った。

「あ、うん。もちろん」

「早く模試にならないかしら」

「いや、まだ5ヶ月は来なくていいよ」

 苦笑いで俺がそうはぐらかすと、夢野は少し口角をあげてにやっと笑った。いつもは真面目な顔だけれどジョークはわりと好きなのかもしれない。

「私が勝ったら、そうね……」

 俺が勝ったら夢野と一緒にどこかに出かけるのも良い。そう思っていた。普通に生きているだけじゃこんな美少女とお出かけするなんてことにはならないからな。少し高望みしてもいいということもあろう。

「私、海と自然が好きだから、貝塚君の奢りで……どこか避暑地で尽くしてもらおうかしら」

 もう、模試は休んでもいいと思った。


「いやいや、でも待てよ……。ほとんど面識のない俺に夢野があんなことをいうはずがない」

 4限目となる自習時間、俺は昼休みに夢野に言われた一言を頭の中で反芻しながら、その言葉の意味を巡って一人悶々としていた。隣では同じCクラスだが話したことのない眼鏡の男が日本史の教科書を熱心に見つめている。文系は4時間目は自習時間であり、指定された教室の中で自由な席に着き、各々の自習勉強に取り組むことになっていた。外の景色が見えない造りになっているガラス製の窓からは、明るい日差しがさしている。

 さっきのは、夢野が動揺する俺を見て楽しみたいがために仕掛けた罠だ。そう思わなければ目の前の英語の長文に集中出来なかった。でも、夢野の水着姿……可愛いんだろうなぁ。いやいや、今は問題に集中。It is suggested that mosquito sounds are ~。うーん、やっぱり行くなら近場の白浜か……。俺の馬鹿、文章に集中しろ。

 周りでは、先程グダグダとだべっていた連中も静かに自習を……って、ウォークマンを耳にはめて目を瞑っていた。……これはダメだ早く何とかしないと。

 自習の時間は、昼休みを入れると最大で90分ほどにまで増えるので、かなりやりたい勉強に取り組めた。センターを解くのはまだ早く、そこまで前回の受験の傷も癒えていなかったこともあり、俺は比較的手軽に取り組める月曜日のウィークリーテストの勉強につとめた。ウィークリーテストは月曜日にクラスごとで行われる国数英の基礎テストのことだ。国語は漢字や古典文法、数学は簡単な公式を使った計算と記述問題、英語は単語と短い読解。センター試験900点分の600点を占めるだけに、この三科目の基礎を鍛えるためのウィークリーテストは疎かにしてはいけないという予備校側の姿勢の一貫でもあった。

 周りでは次の授業の予習をする人や、二次試験の問題を解いている人も少し見られた。

 ……5月中旬で二次試験問題って、ちょっと意識高すぎませんかね。

 俺は心の中でそっとそんなことを思いつつ、自分の勉強に精を出した。


 キーンコーンカーンコーン。

 ここの予備校も高校と一緒でチャイムが鳴る。チャイムが鳴った途端それまで熱心に勉強を続けていた周りの皆が一斉にペンを置き、寝ていた輩は眠そうに伸びを繰り返しながら起きた。それまで矛盾していた両者の方向が同じベクトルに向くこの瞬間が、俺は見ていておかしかった。休み時間は移動教室だからである。

 予備校の時間割によると、国公立大学を目指す文系のCクラスは、午前が国数英の授業、そして午後が歴史と理科基礎の授業だった。

 夢野に続いて俺も黒のカバンを肩にかけ教室をあとにする。予備校の階段の手すりは所々塗装がはがれており、年季を感じた。この大阪(辺鄙な所だが)だけに学校を持つ町川予備校はかなりの歴史があるのだろう。

 10分しか休み時間がなかったため、俺は早く次の教室に移動して席を確保しようと夢野の後を急ぎ足で歩き出した。ちょうどその時である。

「あ、あの……次の日本史の授業ってどこでしたっけ」

 眠そうな垂れた目で薄いパーカーを来た男は俺を視線に据えながらそういった。手には簡易さを徹底的に追及したような軽そうな筆箱と日本史Bの前半の教材と問題集テキストを持っている。

「あ、日本史だったら……僕と同じですね」

 悲しいかな予備校内で言葉を発すること自体が稀であった俺は、一瞬日本語を忘れたかと思うくらい返事がしどろもどろになってしまった。

 ま、それも仕方がない。この予備校で、夢野と教員以外の人間に話しかけられたことが初めてだったからである。ちなみに、教室移動や休み時間に俺が何をしているかというと、アニソンを聴いたり、トイレに行ったり、Twitterを眺めたり、つまりは一人で完結できる行動ばかりを取っていた。しかし、とはいうものの、これは俺だけに当てはまることではない。予備校生の半分以上がそうであった。高校もばらばら、もしかすると県外から来ている人もいるかもしれない。そんな空間で受験戦争に負けたという傷を負っている者同士、また次こそはと虎視眈々と受験勉強に挑む者に友が必要あろうものか。なんて、俺はこの予備校での約2カ月を振り返って思うのだった。他の予備校のことは知りません!

「船見先生ですよね」

「はい」

「107じゃなかったかなぁ」

 結局、俺はその眠そうパーカー少年である湊新太と一緒に次の日本史の教室へと向かった。

 自習室に指定されていた教室から1階分下り、本館との連絡通路を渡って本館2階の教室へと到着する。教室に着くと、まだ授業が終わっていないのか一緒に日本史の授業を受けている(と俺が覚えている)顔の面々が、予備校の緑色の壁にもたれながら携帯をいじりながら、教科書を眺めながら無音の静寂の中で待っていた。無言の中、俺たち2人は会話を続ける。最初は敬語だったが気付けばお互いため口で会話するようになっていた。

「ありがとう、まだ教室全部覚えてなくて」

「別に全然」

「2階なのに107ってこれはハメにきてるでしょ」

 湊がそう言うのも納得できた。俺自身予備校で授業が始まったころは、この表示のせいで、いる教室を間違えていたという黒歴史がある。いやぁ、あの時は化学の授業が急に始まってびっくりしたなぁ。黙ってベンゼン書いている先生に見つめられるままフェードアウトしたもん。

 しばらくすると教室の白い扉が開いた。予備校の扉は、ガラガラと引きずって開ける様式のものが全教室で使われていた。教室に入ると、前の授業の残滓ともいうべき籠った熱気が肌を襲う。いつも言っているが、予備校の教室には外が見えないようになっているガラス窓が主流で、窓を開けているということが授業中も一切無かった。今いる本館の窓は普通に外が見えるガラス窓とはいえ、ブラインドが吊るされているため同じく外の景色が見えることはない。

 二人の目的が同じ教室だったため、「じゃあこれでありがとう」と別れることは出来ず、俺と湊はその流れのまま隣同士の席に着いた。弁明しておくが俺は別に人といるのが嫌いなのではない、ただ1人でいる方が落ち着くというだけだ。これまた予備校で誰かと隣同士で授業を受けるというのは俺にとって初めてのことだった。

 チャイムが鳴り日本史の船見先生が楽しそうに教室へと入ってくる。サングラスをかけたらヒップホップのPVに出てきそうな、日焼けした肌とファンシーな服装が船見先生の特徴だった。

 日本史の授業は簡単である。座って授業を聞いて、帰って問題テキストで復習する。これだけ。

 船見先生は授業中に生徒を当てることがなく、それでいて授業の仕方が上手なだけに、予備校でもトップの人気を誇っていた。

 今日は俺も知らない「井真成」という遣唐使について語っていた。

 熱意の籠った教師の授業はそれだけでやる気になる。俺の密かな楽しみとして日本史の授業は週に2回、行われていた。


「で、貝塚は最近あの御方とよく話しているけど、なに友達?」

 授業が終わり片付けを始めた俺の横で湊が嬉々として訊ねてきた。

「夢野さんのことか。友達ではない……まだ? うーん、どういったらいいかなぁ」

「言えない仲とか」

「湊が想像しているのとは違うと思うぞ。多分在原業平がプレイボーイ気質をやめる確率くらいに」

「なんだそれ」

 湊は笑いながら、俺にむかってお疲れーと言うと、そそくさと教室を後にしていった。

 これは、もう友達でもいいよね?

 俺はそう思いながら、授業の後の第2ラウンドとなる自習室へと足を運んだ。

 模試まであと2ヶ月。

 苦闘の日々はまだまだゴングを鳴らし始めたばかりだった。

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