第一回喫茶店談義
「ありがとう、とまずは言うべきよね」
喫茶店での夢野との会話は夢野のこんな一声から始まった。
「いや、別に気にしなくていいよ。全然」
コーヒーとオレンジジュースをオーダーした後、俺の渡した筆箱の中身を確認しながら夢野はほっと一息ついた。別に中はいじっていねえよ!
ところで、まず、なぜ今まで面識の一切無かった俺と夢野がこうしてこんなお洒落な喫茶店で2人でお茶をしているかと言うと、筆箱を見つけた次の日に俺は早速夢野に声を掛けたのだが、その筆箱はそれはもう夢野にとっては大切なものらしく、涙を流してまで感謝された。それで、そのお礼を兼ねて俺が夢野を誘った所、彼女はあっさりとOKを出してくれたという経緯である。なぜ、そのどこにでもありそうな、まして百均にでも売っていそうなピンクのシンプルな筆箱が夢野にとってそこまで大事なものなのか、それは俺の知る所ではない。
「でも、これは本当に大切な物だったの」
おばあちゃんの形見だから、と夢野は俯きながら、そして前に座る俺だけにしか聞こえないような声で言った。夢野の声は見た目に違わず清楚感のある落ち着いた声で、例えるなら、そう、マリアの声優さんの声に似ていた。マリアは有名な深夜アニメ「高潔のシトラス」のヒロインキャラだ。
まぁそんなどうでもいい事はともかく、夢野は今自身が手に持つ筆箱をおばあちゃんの形見と言った。使い込んであるように感じた筆箱だが、実はとてつもない過去をその筆箱は抱えているのだろうか。
俺も紳士である。触れられたくないことも多いだろうとその場は夢野のプライバシーを守るためそれ以上言及はしなかった。
「大事なものだったなら、拾って届けた甲斐があったよ」
「えぇ。ありがとう。ところで」
運ばれて来たオレンジジュースをつっーっとストローで啜りながら、夢野は訊いた。
「なぜ私の筆箱だって分かったの?」
「……ん!? あぁ、ええっと、なんでだろうね……」
どうしよう。予感はしてたけどまさか聞いてくるなんて思ってもいなかった。いつも気になっていて夢野を見つめていたなんて、ミジンコメンタルの自分には口が裂けても言えない。
「? まぁいいわ」
そう言って整った微笑顔を傾けた夢野は俺の瞳を見据えてこう続けた。
「そういえば、貝塚君、よね。あなたいつも私の事を見つめているでしょう?」
「……ぶッ!」
落ち着いてコーヒーを啜っていた俺はまさかの不意打ちに危うくそれをカップの中でぶちまけかけそうになってしまった。俺が夢野のことを見つめている?
シュガーのように固まってしまった俺を見て、夢野は少しSっ気のある笑みを浮かべながら追い打ちを仕掛ける。
「すれ違い様もさりげなーく私のことを見てるし、授業中も後ろからビンビンと視線を感じるもの」
女子はそういうのって何となくなのだけれど感覚で分かるからね、といって夢野は俺のメンタルをへし折りに掛かった。
相手から片思いを見破られるってどんな拷問よりも恥ずかしいのではないだろうか。
それほど今の俺は酸素を求める魚の如く口をぱくぱくとしたまま何も言えなかったらしい。
「ご、ごめん」
夢野の口調が落ち着きすぎていて、怒っているのか俺をイジメて楽しんでいるのか全く真意が分からなかったが、俺はとりあえず謝罪した。昨日あれだけ脳内でシュミレーションを重ねた会話のフローチャートはどこえやら。かなりの脳内お花畑状態だったようだ。
俺が謝罪をして、幾分かの沈黙のあと。
「でも」と夢野がそのおしとやかな顔を少し朱に染めながら言った。
「この筆箱を大切に返してくれた恩もあるし、せっかくだから私と賭けをしない?」
そう言う夢野の顔は、さっき俺をイジメていたままの怜美な笑みだった。
「賭け?」
「えぇ。今から2ヶ月後にある7月の全国マーク模試、そこで全科目900点でお互いの総得点を勝負しましょう。勝ったら何でも言う事を聞いてあげるわ。私が勝ったらあなたにもその逆の義務が発生するけれど」
夢野の思っていたイメージとは違う、意外な申し出だった。
「何でもってことは、何でも?」
「そうよ。何でも1つね」
「……例えばもし俺が付き合ってくれ、って言っても?」
「えぇ。何でも」
一概に考えると、夢野には何の得もない申し出である。夢野が勝ってもそもそも俺が夢野に出来ることなんてたかが知れているはずだ。
夢野に興味があった俺にとっては一見すぐに飛びついてしまいそうな申し出だったが、俺はすぐに首肯することをためらった。夢野の実力は確実にこの国公立文系コースで1番だったからである。
「うーん……俺が夢野に勝てる未来が全く見えないんだけど」
「それはやってみないと分からないわ。ちなみに今年のセンターは?」
この流れで点数を隠すことにためらいも感じなかったので素直に答えた。
「64%です…… 夢野は?」
「91%だったわ。まぁ色々とあって」
それはどっちの色々なんだー!!
あっけにとられてしまった俺は、賭けを断ろうかと考えた。圧倒的得点差を2ヶ月で埋めるなんてことは到底不可能に近い。勉強は突然成果が見えるものではなく、少しずつ知らない間についてくるものだからだ。
「なるほど。で、どうする? やるかやらないか」
決断に迫られる俺。でもこんな機会……。
「やる。やります!」
即答だった。
「じゃあ賭け成立ね。これからよろしくね、貝塚君」
落ち着き続けている夢野の口調と共に俺たちは握手といざの時の連絡用にLINEを交換した。
なぜ俺があの時悩んだにもかかわらず即答できたか、その答えはここで述べるまでもない。
「こんなに燃える受験勉強なんかない!」そう言い切れるからであった。