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妹にマウントを取られる浪人生

 不思議な恩師との時間を終えて、家に帰り着いた時にはもう時刻は既に夜の7時に差し掛かろうとしていた。4月に入り、日も夏至に向けだんだんと長くなってきているため、まだ若干の明るさを保っているが、時間は時間である。家に帰って玄関のドアを開けると「あんたどこ行ってたの」という親の一声が廊下まで響いた。俺は本屋に立ち寄って参考書を眺めているうちに遅くなってしまったという言い訳をして(たまに本当にある)、服とカバンを自分の部屋に放り投げ、食卓へと向かう。

 リビングに入るとハンバーグの良い香りが俺の鼻を襲撃した。妹の結菜は高校の制服姿のままテーブルで夕飯を食べている。もう食べ終わりそうだ。

 無言で席に着き、箸を取ってハンバーグに迫ろうとした瞬間、それまで俺の顔すら見向きもせずガツガツとハンバーグとご飯を貪っていた結菜が俺に話しかけてきた。

「お兄ちゃん、食べたら時間ある? 古文の宿題教えて欲しいんだけど」

「そんなの、グーグル先生がいるだろう」

 高校生の心の友、グーグル先生が現代は面倒を見てくれるはずである。(決して浪人生はそんなことはしない)

「えぇー、グーグル先生よりもお兄ちゃんの方があてになるんだけどなぁ」

 浪人生だし!と一言余計な言葉を付け加えて意地悪っぽく笑う結菜は、そう言い残すと立ち上がって食器を片付け早々にリビングをあとにしてしまった。これは後で来いという結菜なりの無言の圧力である。もうかれこれ十何年の長い付き合いなので俺にとってはいつものことであるが、結菜は自分のしてほしいことを敢えて言わずに、自室に去っていく癖があった。……俺としては少し不服なところもあるが。将来彼氏になった男は困るだろうな。いや、あんな可愛い顔で頼まれたら動かない男はいない。俺は結菜のたった一人のお兄ちゃんなのだから!

「……あんた、変な事口走ってないでさっさと食べなさい」

 おっと、妄想が口に出てしまったようだ。これは失敬。

 母に変人を見るようなジロ目に脅かされながら俺はハンバーグとご飯、そして目玉焼きのトリプルコンビをこれでもかというほどに堪能して自室へと戻った。

 自室へと戻ってまずすることは、今日のプリント整理である。予備校の授業は基本予備校が用意した教科書に沿って進められるが、センター数学や日本史などの授業になると、先生が独自に解説プリントや図解プリントを作ってくるため、毎週のようにプリントが増えていくのであった。そしてこれは全てが受験に関わる内容のため、簡単に捨てることは許されない。高校の大学受験時代、綺麗な状態の机のまま受験が過ぎて行った俺にとってはこれはものすごい進歩だった。ホモ・サピエンスが認知革命で虚構を考える力を得て食物連鎖の楔から抜け出したくらいに。つまり、今の俺はすぐにプリントを捨てずにちゃんと教科ごとにファイリングをするようになっていた。ただし、これは俺だけが自分に対して誇れるのであって周りの健全な、受験へ準備万全な高校生諸君は皆がやっていることである。

 日本史はまた始めからやり直しているため、4月半ばの現在はまだ古墳時代に入った所だった。中学、高校で得た、勉強した知識がほぼ残っているため、俺にとってはただ教科書に線を引くだけの時間だが、予備校の日本史の先生のキャラが随分と面白いこともあって割と予備校の授業の中では好みの方である。

 プリントの整理を終えた俺は、古典の辞書と教科書を持ってさっき結菜が言っていた古文の宿題について手伝ってあげるため部屋に行った。ドアを数回ノックをすると部屋の中から「入って」という気の抜けた返事が聞こえてきた。

 結菜の部屋は全体を高さの低い家具で整えられており、非常に片付いていて落ち着きのある印象を受ける。家具は結菜の希望もあってか白を基調としたものが多く、女の子らしいフェミニンな部屋になっていた。それに加えて、部屋はルームフレグランスの良い香りで充満していた。

「これの訳と品詞分解を教えて欲しいんだけど」

「ネットに品詞分解無かったのか?」

 俺がそう言うとすぐさま結菜の顔がぷくーっと膨れた。

「すぐにネットに頼るところはデジタルネイティブ世代のデメリットだよねー」

 便利なものは頼るべき、という俺の持論に真っ向から反対するものである。これは少し言い返してやらないと。

「でも結菜はすぐ俺を頼るじゃん」

「だって高校2年の1学期の教科書だよこれ。浪人生のお兄ちゃんなら、もちろん瞬殺、だよね!」

「……くッ!」

 逆に俺の浪人生という立場を利用してマウントをと取ってきた結菜だが、最近は俺が浪人生であることをいいことにこの問題は出来るよね、とかこんなのも分からないのとか、クイズ番組を一緒に見ていて言うようになってきていた。俺の注意を引きたい結菜なりの照れ隠しなのだろう、とポジティブに錯覚しておくことにしておく。

 そうして今回も同じく、古典の文法書片手に結菜へのミニ講義が幕を上げた。


「ここの「ぬ」は完了、で「ば」が「~ので」と訳す接続助詞、でつきづきしは似つかわしいって意味だから……」

「ふむふむ」

 わざとらしい結菜の相槌を受けつつ、俺は教科書の文章の品詞分解を進めていく。教えていながら思ったのだが、意外と高2でも結構高度な文章を読んでいるようである。うん、センター試験に出てきてもいいレベルだと思うぞこれ。特に古文は助動詞の処理能力、単語の知識量が物を言う科目でもあるので、国語では漢文に並び努力が報われる可能性の高い分野だと言える。そして他人教えるということは自分にも教えるということにほかならない。俺は、結菜への勉強会を通じて自分の復習をも行っていた。

「ありがとう、これで明日は寝れるよ~」

 あくびとともに明日の授業サボり宣言をかました結菜はノートを閉じると、机に置いてあったチョコクッキーを食べ始めた。もう完全にOFFモードである。

「授業中は必死にノートを取る時間だぞ。何がテストに出るか分からないからな」

「うわ、受験生っぽいー」

「受験生だ。あ、名前が変わっただけで去年から受験生だ!」

 最近自虐ネタが俺たち兄妹の間で増えてきている気がするのだが気のせいだろうか。

 使命を果たし終えた俺はOFFモードに入っている結菜を放って自室に戻ろうと立ち上がったが、部屋を出て行くすんでのところで再度結菜に引き止められた。

「そういえば、お兄ちゃん明日って暇?」

「明日は…」

 スマホの電源を入れ曜日を確認すると今日は金曜日だったので明日は土曜日だった。土曜日は予備校の授業がないので特に予定はない。

「いや、それまで文明の機器に頼らなくても…」

「これもデジタルネイティブ世代の弊害、ってか」

「うーん……ま、いいや! で、明日は?」

「暇だけど」

 俺がそう言った瞬間結菜の口角が上がりますます楽しそうな表情になった。俺が暇なのが分かっただけでそんなに嬉しそうにするって、結菜は普段日常を、青春をちゃんと謳歌しているのだろうか。もしかしたらこれは恋の予感

「お、いいねー。じゃ、明日ちょっと買い物に付き合ってよ」

「え、買い物? どこに?」

 恋の予感はただの勘違いで終わってしまったようだ。

「あそこのモールだよ。ちょっと筆箱がもう汚れててさ~」

「そんなの一人で行けばいいじゃん」

 俺は辟易した態度で言った。実際自分は買い物は基本一人でする派なので、人と買い物に行くとどこか自分の時間が取られた感を若干感じてしまい、いつも謎の罪悪感に浸ってしまうのだった。

「こーんなに可愛い妹と土曜日の混雑したモールを歩けるんだから、カップル気分を味わうには絶好の機会なのにー!」

 そういってだだをこねる結菜は高2のくせしてまるで精神年齢はどこかに置き去りになってきたように見える。

「自分で言うな。それにその機会は大学生になった時まで取っておくよ」

「なれるといいけどね、大学生」

「お前なぁ」

 うん、やっぱり自虐ネタ身内ネタは増えているに違いなかった。

「それに今日のお礼にお兄ちゃんにも何か筆箱買ってあげるよ。最近バイト代入ったしね。合格祈願のがいい?」

「まだ4月だぞ? 早すぎないか」

 俺の心配もよそ知らず、結菜の頭の中はもう明日のお出かけのことでいっぱいといったようにスマホで筆箱の検索をしている。これはもう俺が何を言っても聞く耳をもってくれないモードが入ってしまっているみたいである。

「分かった。じゃあ明日昼前くらいに行くか」

「え、いいの!? じゃあ明日よろしく。おやすみ~」

 明日の勉強時間、減ってしまうなぁ。

 と言ってもまだ4月だからそんなにしないんだけど。

 この時の俺は入学前に予備校見学会で見たあの光景を完全に忘れてしまっていた。

 そのことを少し後に後悔することになるとも知らずに。

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