音ゲーと勉強は同じと気づいた話
この気持ちを何と表現するだろう。
古典の和歌集ではたとえそれが何首から構成されていようが歌はちゃんと物事の流れの順に載っている。春夏秋冬の季節はおいておくとして、例えば、恋。百人一首でも万葉集でも恋の最初は初恋だ。初恋、一目惚れを経て恋人同士になり、そして恋はその盛りを迎える。太陽と月のようにお互いいつまでも日々日進月歩、順風満帆な日々が続くとその時は思っている。ずっと見つめ合って離さない。だが、そのように轟々と滾らせた恋仲も何かの拍子にぷつりと切れてしまうことがある。恋の衰退期、飽きの時期だ。些細な事で仲違いを起こし連絡を取らなくなってしまうかもしれない。そうして恋は終わりを迎える。失恋だ。恋は恋悲、果たして誰の言葉だったか。
予備校の授業も二週間を経過し、普段の生活リズムの基礎が出来上がってきた俺の気分は恋というと大げさだが、まさしくそんな恋の始めのような、ワクワクや嬉しさを帯びてくるようになっていた。大学受験が終わって予備校に入る前までは自分の次の身の移し先が決まっていなかったため、外に出て買い物をしている時なんかはまるでどこか自分が社会から浮いているような、不思議な感覚がずっと感じられていたが浪人生としての仮面を被ることが出来た自分は今日もこうして日々社会に地に足付けて生きている。それが自分のアイデンティティを肯定する唯一の構成要素となっていた。あの電話しながら早歩きしているサラリーマン、ポケットに手をつっこみながらふてくされたように歩いている人もきっとどこかで社会とのつながりを持ちながら生きているはずである。次の仮面をしっかり被るためにも今年の受験は絶対に成功させないとな。
普段の生活リズムが定まり勉強の大体のルーティンもある程度決まってきていた俺は、いつもの授業が終わってから毎回のように来ている場所があった。
ちなみにまだ4月の前半なので、自習室には足を運んだことはない。別に受験を見くびっているわけではないが、その……一年間受験勉強した身として今はまだそれなりのストックがあるのだ。見学の時に母親と見かけたあの女の子は今も自習室で勉強しているのだろうか。
そんなことが脳裏によぎるがぶるぶると頭を振り俺は今日もいつもの筐体に100円を入れる。
リズムに合わせて流れてくるマーカーの指示に従ってコマンドを入力していく。単純な操作もあれば同時ラインの長押しもあり、難易度によるが、右手と左手のリズムが変わってくるものもあって難しさは実際にドラムを叩いている感覚だ。
予備校から少し歩いた所にあるショッピングモール内のゲーセン。ここが俺の第二のホーム、日々のストレスからの疎開地であった。
いや、真面目にこれを親が目撃したらどうなるんだろう……もしかしたら発狂してエキスパートもフルコンしてしまうのでは……と危惧されるがそんなことは決してない。うちの親はゲーム嫌いだからだ。
アルバイトはしていないため毎月3000円のおこづかい制の中で生活していた俺は、予備校に通い始めてから週に2回くらいのペースでここを訪れていた。ここのゲーセンの音ゲー民の民度は悪くないため、無駄に騒ぐ輩もいないし、音ゲーの種類も豊富であるためいい気晴らしになる。毎月3000円のひもじいライフのためにプレイは1回来る事に2回くらいであるが。
「よっし、フルコンっと」
ハードくらいはフルコン出来るようになってきたな。よし、満足満足。
ガヤガヤとライブ会場から漏れるリハーサルのようにアニソンが鳴り響くゲームセンター内で、遠くではカップルがUFOキャッチャーで悪戦苦闘している様子が見える。あの男の人にとってはここでこれからのデートの行方が別れる正念場、まさに天王山なのだろう。ここで良い所を見せればこの後の流れは保障付きだ。だが逆にここでずっとミスり続けると二人の雰囲気がしらけてしまう要因にもなりかねない。……ミスれ……ミスをしろぉぉ。
平日の午後、筐体の影に隠れてカップルに邪念を送る俺はさぞかし怪しく見えたのだろう。後ろから誰かが自分のことを呼ぶ声が聞こえてきた。
「貝塚か?」
なぜ俺の名をッ…!と厨二病チックに振り返ることはさすがの自分でも羞恥心が邪魔をして憚られたが、そこには俺がここにいることを知られたくない、羞恥心以上に周りにこのことを周知されたくない人物がいた。
「……木戸先生?」俺が中学から高校時代の4年間を見てもらっていた担任の先生だった。
話は高校時代に遡る。
俺が通っていた高校は中高一貫の私立であり、中学1年生から高校3年生までの6年間を同じ校舎、同じクラスメイトと過ごす。その中で担任もクラス内の関係性構築のために長い間同じ先生が持つことが少なくなかった。木戸先生には俺が中学3年生の頃から担任になり、そのまま高校卒業までずっと4年間面倒を見てもらった。数学の教師である木戸はいつも遅い時間まで学校に残って大学受験勉強に苦戦する俺たちを助けてくれた。受験期の疲労でシワが濃く刻まれた木戸の顔も今はその呪縛から解放されたのか少し若返って見える。……でもその木戸がどうしてここに?
「今日は予備校終わりか? いや、こんなに早い時間にここにいるということは、もしかして貝塚、実は浪人なんかしていなくて大学生やっているんだな」
「俺がそう思いたいですよ。毎週この日は3限までなんで、ここでストレス発散してるんです」
そう言うと木戸は大声を上げながら笑った。(がここはゲーセンなのでそもそも周りがうるさい)
「じゃあ貝塚、ちょっと俺のストレス発散にも付き合ってくれないか」
「え?」
どうしてこんなことになっているのか。
いや、これはどういった縁なのか。
俺は今、中学、高校と担任をみてもらった先生と並んで音ゲーの筐体に向かい合っていた。
木戸は俺がやっとのことでクリアしていたハードの曲のエキスパート難易度をそつなくこなしている。一体いくらやり込んでいるんだろうと思うほど、その手つきは熟練していた。知らない間に周りはギャラリーが。数学教師辞めてもうそっちの道に進んだ方がいいんじゃ……。
「うーん、今日は調子が出ないな。ミスはしていないがグレイトが5ある」
いやそれで調子出ないか! 思わず心の中で突っ込みを入れた。
「先生、かなりやり込んでますね。俺はハードフルコンでやっとですよ」
すると木戸はキメ顔でこういった。
「数学教師の職業柄か何事も完璧を追い求めしまってね」
ごくありきたりな返答だった。
それから何度かお互いにプレイを繰り返した後、木戸が少し休憩しようと言ったので、その提案に乗った俺は木戸と一緒に近くの喫茶店に立ち寄った。俺はコーヒーを注文し、財布からお金を出そうとすると「ここは大人の面目を保たせろ」という木戸の親切により、コーヒーに加えて甘い洋菓子まで付けてもらった。名前が特徴的過ぎて口に入れる頃には忘れてしまったがサクサクのパイ生地の中に口溶けなめらかなカスタードクリームが挟まっていて、とても美味なお菓子だった。必死の形相で筐体と闘う先程の木戸とは違って今は俺もお馴染みの先生モードである。なんだか、先生モードの方が年を取っているように見える。
「貝塚、突然なんだが、sin2乗のαの公式、覚えているか」
急すぎて飲んでいるコーヒーを吹き出しかけた。まさかの数学の公式問題である。これは……もしかして俺は試されている? こんな時間にゲーセンでゲームをしている俺の学力を心配しているのか、それとも……何か上手い回答をしなければならないのか?
ここは喫茶店。周りにあるのは洋風の照明器具、知らない客が飲み終わったティーカップが重なっているカップ置き場、そして近所の噂話を大声でするおばちゃんのグループ。数学的にヒントを得られそうなものは何もない。
「……2sinαcosβですか」
何も思いつかなかった俺は本来の正答をそのまま口にした。
「そうだ」
木戸はコーヒーカップをゆっくり皿につけながら頷いた。良かった、正解らしい。でも、それがなんだというのだろう。俺は疑問に思い訊ねる。
すると、木戸は言った。
「いや、別に貝塚の学力を心配しているんじゃなくてな、急にふと音ゲーと勉強って同じだなぁって思っただけだよ」
「はい?」
「いや、だからだ。貝塚は数学を勉強していて、この公式は三角方程式を解くときに使うだろ。音ゲーでもそれぞれの難易度に応じて求められるスキルってのがある。例えば、エキスパートでは同時押しラインが横にずれながら動く。でもこれは数学の場合も音ゲーの場合も同じ性質を秘めていて実は両者はずっとやらなくなってしまったら、忘れたり感が鈍ってしまうんだ」
こんなことコーヒーと洋菓子を嗜みながらお洒落な喫茶店で恩師と話す会話でないことは確かだが、俺は妙に何だか木戸の熱弁に納得してしまった。その理論には別に込み入った計算も憂慮すべき事情も、ましてその必然性を客観的に照明する必要もない。そこにただ「或る」事実だった。そう、俺たち音ゲーマーにとっては。
「まぁ、だからコツコツと頑張って勉強続けていけよ、ってことだな」
俺が返事を返す間もなく淡々と述べた木戸だったが、どうやら遠回しに俺のことを励ましてくれているらしかった。
「はい、ありがとうございます。頑張って先生に朗報届けに行きますね」
「あぁ」
以後、俺の中で木戸の勉強は音ゲーと本性は同じ理論は受け継がれていくことになる。